All Chapters of 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話

男が料理をする姿など、これまでも見慣れてきた。物心ついた頃から、兄の天野がキッチンに立つ姿を見て育ったのだから。けれど、天野が料理をする一挙手一投足を、うっとりと見惚れるような気持ちで眺めたことなんて、ただの一度もなかった。どうしてこの人は、キッチンに立っているだけでこんなにも優雅なのだろう。自分がキッチンに立つときは、たとえ簡単なサラダを作るだけであっても、ボウルをかき混ぜる自分の姿に見惚れるような要素など微塵もないというのに。涼は何をしていても優雅な人だった。助手席に座って、自分のナビゲーターを務めてくれる時も。キスをする時も、その目元は、目を逸らせなくなるほど上品で──彼の背筋は、すっとまっすぐに伸びている。リビングに設置されたカメラは、ちょうどキッチンの入り口を向いていて、彼の長い脚や九頭身はあろうかという抜群のスタイルを、余すことなくフレームに収めていた。そこへ、瑛優が画面に現れ、涼のそばに寄ると、涼は出来上がった料理を瑛優に手渡す。この食事は瑛優と二人で食べるからだろう、量は少なめなのに、使っているお皿は少し大きめだ。瑛優が料理をテーブルに運ぶのを手伝うと、涼はご飯をよそってキッチンから出てきた。その時、彼が何気なく監視カメラの方向にちらりと目を向けたのを、夕月は見てしまった。その一瞥に、夕月は訳もなく後ろめたい気持ちになる。まるで自分が覗き見をしている盗人のようだ。……まさか涼は、今まさに誰かが監視カメラで自分を見ているなんて、知らないわよね?いや、そもそも自宅に成人男性がいるのだから、監視カメラで涼の一挙手一投足を見張っていたって、何の問題もないはずだ。涼は席について瑛優と一緒に食事を始める。二人のお茶碗に盛られたご飯の量は、ほとんど同じだった。瑛優はお箸を持つと、大きな口で料理を頬張り、実に美味しそうに食べている。近頃の涼の作る料理は、ますます瑛優の口に合うようになってきているようだ。モニター越しに瑛優が食事する様子を見ているだけで、夕月の胃がきゅうっと音を立てて空腹を訴えてくる。何もない胃腸がうねり、小さく反響しているのが自分でもわかった。その時、社長室のドアがノックされ、夕月はデスクのボタンを押してロックを解除した。入ってきたアシスタントが告げる。「社長、ご注文の夕食が届きました」
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第552話

アシスタントはぱあっと顔を輝かせた。「社長と、お兄様ってそんなに仲が良いんですね!素敵、羨ましいです!」夕月はアシスタントに微笑み返しながら、身代わりにされてしまった天野に、少し申し訳ない気持ちになった。「ええ、昔から兄とは仲が良いの。料理が好きで、すごく面倒見がいい人だから」「わあ!そんな素敵なお兄様がいらっしゃるなんて、本当に羨ましいです。では、お食事の邪魔はいたしませんので。ごゆっくりどうぞ」アシスタントが退室すると、夕月はほっと胸をなでおろした。彼女は再び弁当箱を開け、中にぎっしりと詰められた、彩り豊かなおかずを眺める。しかも、その全てが自分の好物ばかりだった。夕月は食事を始め、目の前にはスマホスタンドに立てかけられたスマートフォンが置いてある。画面には、自宅の監視カメラの映像が映し出されていた。そこで彼女は気づいた。食卓に並んでいる料理のいくつかが、自分の弁当に入っているものと同じであることに。涼と瑛優は食べるペースが速い。食事のたびに、夕月は瑛優にゆっくり食べるよう言い聞かせ、時には口に入れたら十回は噛んでから飲み込むように数えてやったこともあった。しかし涼が瑛優の面倒を見るとなると、夕月のようにそこまで細かく気を配ることはできないし、食べるペースに直接口を出すのも憚られるのだろう。夕月が顔を上げると、モニターの中では、瑛優が涼の後片付けを手伝っていた。「今日の食事、ちょっと速すぎたかな」キッチンに入ってから、涼は自分の食べるペースと瑛優の食べるペースが違うことにようやく思い至ったようだ。瑛優が自分と同時に食べ終わったということは、彼女が普段より速く食べたということになる。「だって、涼おじさんのご飯が美味しすぎるんだもん!」瑛優が甘えるように言うと、涼は愛おしそうに目を細めた。「次からは、一口ずつ大事に味わいたくなるような、君だけの特別なお皿を探してあげよう。ママがいない時こそ、ちゃんとゆっくり噛んで食べないとね」瑛優はわざとらしくぷくっと頬を膨らませてみせる。涼が自分のためを思って言ってくれているのはわかっていたが、彼と二人きりの食事だからこそ、こっそり食べるペースを上げてしまったのだ。「だって、涼おじさんのご飯、すっごく美味しいんだもん。ゆっくり食べてたら、お腹が空いて死んじゃいそう
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第553話

すぐに涼から返信がポップアップ表示された。【御意】夕月は唇の端を上げた。その言葉を口にする涼の声が、すぐ耳元で聞こえたような気がした。続けて、涼からもう一通メッセージが届く。【次も、夕食を届けていいだろうか】そこには、伺うような慎重さが滲んでいた。【あなたの料理、とても美味しかったわ】と夕月は褒めた。そして尋ねる。【これからの私の夕食、あなたに任せてもいいかしら】【御意!】涼から返ってきたのは、またしてもその一言だった。夕月:【桐嶋さんは、ロールプレイングがお好きなの?今のあなた、まるで騎士みたいよ】涼からの返信が画面に表示される。【君だけの騎士になろう】夕月の指先が、スマートフォンの画面の上を素早く滑った。【騎士は、主人に不埒な考えを抱いてはいけないものよ】彼女は画面に表示された、自分と涼のやり取りをじっと見つめる。まるで、いちゃついているみたいだ。夕月は口元に何とも言えない表情を浮かべた。自分が無意識のうちに惹きつけられているのを感じる。そこには涼の意図的な誘導があるのかもしれない。けれど、彼の誘導は静かに深く流れる水のように、知らず識らずのうちに染み込んでくるものだった。彼が自分に寄せる想いは、夕月も当然気づいている。それでもこの男は、微塵の攻撃性も感じさせなかった。彼はただ、夕月が今まで一度も見たことも、体験したこともない世界の扉を開けて見せてくれただけ。涼の世界に足を踏み入れるかどうかは、全て夕月の決断に委ねられている。そう、この男は、一度たりとも強引に彼女の世界へ侵入してきたことはなかった。そして今、涼が彼女の世界に存在しているのは、ひとえに彼女自身の黙認と、彼女からの積極的な招き入れによるものなのだ。涼からの返信が、画面に浮かび上がる。【俺はただ、君の意のままに動くだけだ。君のどんな望みにも従う。もし助けが必要なら、どうか一番に俺を思い出してほしい】夕月はその数行の文字の上を、何度も何度も視線でなぞった。心臓の鼓動が速くなっているのに気づき、夕月は咄嗟にスマートフォンを置いた。数回深呼吸をしてから、込み上げてくる衝動を食欲へと転化させ、弁当箱に残っていたご飯を綺麗に平らげた。深夜まで会社で残業は続いた。夕月はオフィスチェアに深くもたれかかり、天井を見上げ
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第554話

スマートフォンを握る夕月の手から、力が抜けていくようだった。彼女は深く息を吸い込み、色香の罠にそう易々と嵌ってはいけない、と自分に言い聞かせる。【あなたが着く頃には、もう必要なくなっているかもしれないわね】涼からのメッセージは、すぐに返ってきた。【会社の前にいる】夕月の手がぴくりと震えた。彼女は無意識にガラス窓の外に目をやったが、もちろん、今いる高さと角度から、階下にいるはずの涼の姿が見えるはずもない。彼女は警戒するように尋ねた。【何しに来たの】脳裏には、すでに答えが浮かんでいた。【「夜のデリバリー」ってわけね!】あまりに積極的すぎる男は、安っぽく見える。そして、安っぽい男には、征服欲も挑戦心も掻き立てられない。すると、涼から一枚の写真が送られてきた。彼の手にある弁当箱を写したものだった。【夜食を届けに来たんだ。もう受付に頼んで、そちらに届けてもらうようにしてある】え?これだけで、帰っちゃうの?本当に、ただ夜食を届けに来ただけ?静まり返った湖に、誰かがぽちゃんと石を投げ込んだかのようだった。涼が夜食を受付に預けてもう帰ってしまったのだと思うと、夕月の心に、幾重にも波紋が広がっていく。この時になってようやく、彼女の心は吊り上げられ、その先端を鋭くかき乱された。想像と現実のギャップが、彼女の感情を微かに揺さぶる。はっと我に返った時、夕月は自分の指先が、すでに通話ボタンを押していることに気づいた。スマートフォンの画面に通話接続中の表示が出ているのを見て、夕月はそれを耳に当てる。「てっきり、上がってきて少し休んでいくのかと思ったわ。夜食のためだけに、わざわざ走らせちゃったわね」涼に「ありがとう」と言うのは、どこか他人行儀な気がする。夕月はそう気づいた。彼女は唇をきゅっと結び、二人の関係に距離を作ってしまう「ありがとう」という言葉を飲み込んだ。すると、耳元に、男の色気を含んだ心地よい声が響いた。「だったら、俺にご褒美をくれないか」夕月の胸の内に、また波紋が広がる。彼女は、まるで自ら釣り針に食いつく魚のように尋ねた。「どんなご褒美がいいのかしら」その言葉を口にした直後、社長室のガラス張りのドアの向こうから、呼び鈴の音が聞こえた。受付が夜食を届けに来たのだろうと思い、夕月は顔を上げ
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第555話

涼が持ってきた夜食を食べながら、夕月は思わず感嘆の声を漏らす。「料理の腕、すごく上がったのね」涼は笑った。「天野と比べたらどうだ?」夕月が口を開く前に、涼は自分が何を言ったかに気づき、すぐに言葉を訂正した。「すまない。君のお兄さんと自分を比べるべきではなかった。そもそも、俺と彼とでは比べ物にならないな」彼は自らを卑下するような言葉を口にしながらも、誰かに劣っているという卑屈さは微塵も感じさせなかった。「私の味覚は、兄に育てられたようなものだから」と夕月は言う。「だから、その質問に答えるのは難しいわ。ただ言えるのは、今のあなたの作る料理は、とても私の口に合うということだけ」涼は唇の端をつり上げ、ただ一言、こう告げた。「今夜は行く当てがないんだ。ここにいて、君に付き合わせてもらっても構わないだろうか」夕月は短く答えた。「好きにすれば」夜食を食べ終えた後も、彼女は仕事に戻った。残業が深夜に及んだ頃、夕月がふと顔を上げると、涼がソファに寄りかかって座っていた。いつの間にか、彼の顔にはシートマスクが貼られている。どうやら、そのまま眠ってしまったようだ。パックを貼ったまま眠ってしまうと、長時間肌に密着させることになり、かえって肌を傷めかねない。夕月は彼のそばに歩み寄り、その顔からマスクをそっと剥がしてやった。その気配で涼は目を覚ます。長く濃い睫毛が持ち上がり、現れた瞳は、まるで物語の中でキスによって目覚めた王子様のようだった。夕月は彼をからかった。「いつからそんなにスキンケアに熱心になったの?」涼は自分の頬に触れた。「男の容姿は、女の誇り。この顔も俺の武器の一つだからな。触ってみるか?すべすべだろう?」彼は体を起こし、くん、と子犬のように首を伸ばして、夕月にその顔を差し出した。夕月はまるで魔法にでもかかったかのように、思わず手を伸ばす。温かい指先が男の頬に触れた瞬間、微かな電流が指を伝って心臓まで駆け抜けた。胸の奥に、ちりちりと痺れるような感覚が広がっていく。男の大きな手が、彼女の手の甲を包み込む。そのまま彼女の手を取り、その掌をすっぽりと自分の頬に押し当てた。涼が彼女を見上げる。濃い睫毛が小さな刷毛のように、彼の目の下に深い影を落としていた。彼が仰ぎ見るその顔は、人を殺めてしまえそうなほどに美しい。まるで、煌
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第556話

「カメラがオフになるなんて、あり得ないわ」思わず口をついて出た。涼は肩をすくめると、狐のように細められた瞳に、悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女を見つめた。何かがおかしい……そう感じた夕月は、スマートフォンを取り出した。自ら開発した社内アプリを起動し、アイコンをタップする。すると、ビル全体のまだ施錠されていなかった出口がすべて、一斉にロックダウンされていった。夕月はエレベーターの3階のボタンを押す。監視室があるフロアだ。涼も付き添い中へ入ると、当直の警備員が訝しげな顔で二人を見つめた。警備員は夕月の顔をじっと見つめ、一瞬はっとしたような表情を浮かべた後、ようやく口を開いた。「藤宮社長?まだ会社にいらっしゃったんですね」監視室の警備員たちは、夕月本人に会うのは初めてだったが、入社研修で経営陣の顔は叩き込まれている。夕月は当直の警備員に尋ねた。「何か異常は?」警備員は不思議そうに首を横に振る。「いえ、特に何も」「すべて通常通りです」夕月は監視モニターに一瞥をくれると、警備員の一人に言った。「……少し、そこをどいてくださる?」警備員が席を立つと、夕月は入れ替わるようにその場に座った。彼女は手早く先ほど使った3号機のエレベーターの映像を呼び出し、早送りで確認する。しかし、そこには誰も乗り込む様子は映っていなかった。背後に立っていた涼が、静かに口を開く。「この時間なら、もう俺たちが乗ってるはずだ」だが、記録映像では、3号機に人影は一切ない。警備員が訝しげに二人を見る。「何かあったのでしょうか?藤宮社長、社長が普段お使いになるVIPエレベーターの映像は機密扱いですので、我々には閲覧権限がございません。社長ご自身でなら確認できるかと……」「さっき使ったのは3号機よ。でも、映像には私が乗り込むところが一切映っていない」「そんなはずは!」警備員が思わず叫んだ、その瞬間。夕月のしなやかな指が、すでにキーボードの上を疾走していた。監視モニターの画面が、一瞬でブラックアウトする。彼女はシステムのセーフモードに侵入したのだ。やがて画面に、緑色の英数字の羅列が浮かび上がった。夕月の瞳に、その淡い緑の光が映り込む。彼女は静かに告げた。「何者かが監視システムのバックドアを開けたのよ。3号機のエレベーターのカメラは機能
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第557話

「しらみ潰しに捜索するかい?」涼が尋ねる。夕月は片手でマウスを操作しながら、さらに過去の映像へと遡っていく。「たかがネズミ一匹に、大げさな立ち回りは不要よ。3フロアもの監視システムをハッキングできるなんて、背後には組織的な動きがあるはずよ」傍らに立つ二人の警備員は、まだ状況が飲み込めずに呆然としていた。「藤宮社長、一体何が……?」夕月と涼が交わす会話は、ほとんど理解できなかった。彼らは監視の専門家として、プログラムコードの知識が全くないわけではない。それどころか、二人とも有名大学のコンピューターサイエンス学科卒という経歴を持っていた。正直、量子科学で監視カメラの番人をしているのは、宝の持ち腐れだと感じていた。つい一時間前も、「エリート大学を出て、そこそこの給料をもらっているとはいえ、こんな監視室に縛り付けられるなんて」と、キャリアの先行きに不満を漏らしていたばかりだ。だが、先ほどの夕月のパソコン操作は、まったく理解の範疇を超えていた。彼女がエレベーターの映像差し替えという事実を突き止めて、ようやく自分たちが目の当たりにしているものの凄まじさを理解したのだ。いや、そもそもこの藤宮社長は、数々の優秀な学者を打ち負かし、華々しいコンテストでの受賞歴があるとは聞く。しかし、彼女が量子科学の社長の座に就けたのは、後ろ盾である藤宮テックの存在と、桜都屈指のテック貴公子、橘グループ社長の元妻という肩書きがあったからだ、というのがもっぱらの噂だった。そんなコネがなければ、一代で成り上がって社長になり、バックグラウンドを持たない帰国子女の才女、安井綾子を追い出すことなどできるはずがない、と。しかし、そんな憶測も今や吹き飛んでいた。二人はただ、自らの職務怠慢を予感し、この職を失いかねないという冷たい恐怖に支配されるばかりだった。「藤宮社長、警察に通報しますか」警備員の一人がおずおずと口を開いた。すると涼の声が響く。「どこの管轄の警察が、量子科学の監視システムへの不正アクセスなんて事案に対応できるって言うんだ」その声は静かだったが、有無を言わせぬ凄みがあり、警備員たちは息をすることさえ困難に感じた。夕月の登場にただでさえ緊張していた彼らの肺に、氷のように冷たい空気が流れ込む。思わず身震いした後、二人は全身を硬直させ、息を殺すことしか
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第558話

夕月は涼に向かって片眉をくいっと上げた。その目尻が、誘うように上がる。まるで夜に咲き誇る芳しい薔薇のように、鮮烈な色彩を見る者の瞳に焼き付ける。「ごめんなさいね」彼女は笑みを含んで説明した。「手伝いたいと思ってくれているのは分かるわ。でも、これはあくまで量子科学の内部の問題。私のやり方で解決したいの」「ああ、夕月が言う通りだ」涼は応じた。「どうせ俺は、まだ君の『身内』じゃないしな」傍らで待機していた二人の警備員は、いっそ胸の中に顔を埋めてしまいたい衝動に駆られた。この桐嶋さん、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか!?とんでもないことを聞いてしまったのではないか。あの桜都で名高い桐嶋家の御曹司は、まだ自分たちのボスの「身内」ではない……と?この二人の警備員は、入社以来ずっと監視室に詰めているとはいえ、自社の社長に関するゴシップネタは一つも聞き逃していなかった。夕月は軽く涼を睨めつけた。「あなたの身内だ」と肯定されるよりも、「まだ身内じゃない」という言い方のほうが、よほど聞き手の想像を掻き立て、二人の間に漂う空気を曖昧で甘やかなものにする。夕月は持参したノートパソコンをデスクに置いた。二人の警備員は、彼女がパソコンにUSBメモリを差し込むのを目の当たりにする。そのUSBには量子科学のロゴが刻印されていた。アクセス権限を解除するキーなのだろう。量子科学の社長である夕月は、社内ネットワークにおいて最高権限を当然持っている。夕月が内部データの調査を開始すると、またしても涼の声が響いた。「今日のことは……ここで見聞きしたことはすべて、綺麗さっぱり忘れろ」二秒ほど経って、警備員たちはその言葉が自分たちに向けられたものであることにようやく気づいた。「は、はい!」二人は即座に声を揃えた。まだこの職を失いたくはない。「桐嶋さん、藤宮社長、ご安心ください。ご指示がない限り、今夜のことは一言も口外いたしません」それに、自分たちの見落としが原因で生じたこの大騒動を吹聴して回るなど、もってのほかだ。そんなことをすれば、この会社にはもういられない。パソコンのモニターが放つ冷たい光が、夕月の無表情な顔を照らし出す。画面には、英数字の文字列が滝のように流れ続けていた。二人の警備員は夕月の傍らに立ち、ただ
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第559話

夕月は不敵に口の端を上げた。「分析の方向性は合ってるわ」「……ってことは、ど真ん中ってわけじゃなさそうだな」と、涼。「さっき社内ネットワークを分析したの。会社のデータは毎日、楼座グループの本社に流れてる。楼座雅子はずっと量子科学のデータを監視してたってわけ。その一方で、彼女ほど高い権限を持たない誰かが、蟻が餌を運ぶみたいに、少しずつデータを外部に持ち出している」車内の灯りは消えていた。外から差し込むネオンの光が、涼の横顔をまだらに照らし、どこか幻想的な彩りを与えている。やがて前方の信号が赤に変わり、車が停まる。涼は隣に座る夕月に視線を向けた。その横顔には、心配の色はおろか、疲労の影さえ見当たらなかった。涼は口の端を上げて、にやりと笑った。「……興奮してるだろ」「その方が面白くない?」夕月は問い返した。「退屈なデータ解析の繰り返しだったから。楼座雅子が難題を仕掛けてくるのは分かってたけど、まさかもう一人、首を突っ込んでくるとは思わなかったわ」「このまま、しばらく様子を見るつもり?」と、涼が尋ねた。夕月は助手席のシートに深くもたれかかり、リラックスした様子で答える。「もちろん、何か仕掛けてゲームを面白くしないとね。明日から、量子科学の全データをあなたの会社のクラウドにバックアップする。この件は前々から話してあったし、楼座雅子も私が新しいクラウドストレージを用意することは知ってる。これでデータのバックアップは二重になる。そして、楼座グループ側に渡すデータの方には……ほんの少しだけ、手を加えてあげるの」それを聞いて、涼は思わず声を上げて笑った。「なるほどな、君が何をしたいか分かったよ。奴らが大人しくしてるなら手を取り合うが、余計な小細工をするなら……自ら墓穴を掘るだけってことだな」続けて、涼はふっと声を低くした。「……考えたことはあるか?いっそのこと、橘グループも潰してしまうって」「橘グループを標的にするつもりは、最初からないわ」夕月は静かに言った。「でも、橘冬真が皆の前で安井綾子たちを引き抜いた。橘グループが自ら坂道を転がり落ちていくのを、私が止めてやる義理はない」「安心しろ」涼の声が響く。「あまり手荒な真似はしないさ」それは、橘グループに手を出すという、彼がかねてから抱いていた考えを、夕月に事前に伝える言葉だった。
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第560話

涼は硬直した姿勢を保ったまま、微動だにしなかった。やがて腕の中の温もりの呼吸が、再び穏やかで深いものになる。先ほどの動きは、ただの寝返りのような無意識の行動だったのだろう。そのことを確かめると、彼はようやく、細心の注意を払いながらゆっくりと腰を伸ばした。そして、足先で静かに車のドアを閉めると、夕月を抱いたままエレベーターへと向かう。なんて軽いんだ。涼は心の中で呟いた。腕の中の彼女は、まるで一枚の落ち葉のようだ。少し力を込めただけで、ぽきりと折れてしまいそうな儚さがある。男の体内で、熱い血が奔流のように逆巻く。彼は、最も原始的な衝動を必死に抑え込んでいた。彼女は明らかに軽い。常日頃から八十キロのバーベルを相手にしている涼にとって、夕月を片腕で抱き上げることさえ造作もないはずだった。それなのに、涼の額にはじっとりと汗が滲んでいた。エレベーターに乗り込む。その明るい照明に、彼女が目を覚ましてしまうのではないかと思った。涼が視線を落とすと、夕月は彼の胸に顔をうずめ、まるで腕の中に丸くなる赤ん坊のようだった。涼の息が詰まる。腕の中で安らかに眠るその顔は、普段の鋭敏で有能な仮面をすっかり脱ぎ捨て、ただ無防備な柔らかさだけを晒していた。彼の喉仏が微かに動く。彼女を抱く腕に、無意識に力がこもった。しかし、その歩みは逆に、ますます慎重に、静かになる。彼女の心地よい夢を、少しでも妨げたくなかった。エレベーターは静かに上昇していく。目的の階に到着し、涼は夕月を抱いたままエレベーターを降り、彼女の住まいの玄関ドアの前まで来た。彼は一瞬ためらい、そして囁くように、探るように呼びかけた。「夕月……?家に着いたぞ」夕月はただ、曖昧に「ん……」と声を漏らしただけだった。目を覚ます気配は微塵もなく、むしろ彼の胸に、さらに深く顔を埋めてくる。涼の目に、どこか諦めたような、それでいて愛おしさが滲む笑みが浮かんだ。彼は片手を器用に使い、流れるような動作で電子錠のパスワードを入力する。カチャリ、と軽い音を立ててロックが解除される。涼は片手でドアを開け、夕月を抱いたまま中へと入った。室内の明かりはつけず、窓から差し込む街の光だけを頼りに、慣れた足取りでリビングを横切り、寝室へと直行する。細心の注意を払いながら、柔らかな大きなベッドの上に彼女をそっと横たえ
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