All Chapters of 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない: Chapter 561 - Chapter 563

563 Chapters

第561話

涼は静かに寝室のドアを閉めたが、すぐにはその場を去らなかった。冷たいドアパネルに背を預け、暗闇の中で数秒間、黙って佇む。やがて、どこか苛立たしげにネクタイを緩めた。空気中には、まだ夕月の纏っていた淡い香りが残っているようだった。温かいタオルが生んだ湿った水蒸気と混じり合い、彼の鼻先を静かにくすぐる。涼はくるりと背を向けると、リビングの掃き出し窓へと歩み寄った。窓の外には、きらびやかな街の夜景が広がっている。無数の灯りはまるで散りばめられた星々のようだったが、彼の乱れた心の内を照らすには至らない。ポケットから煙草の箱を探り当て、一本を抜き出し口に咥える。だが、ライターに手をかけたところで、その動きを止めた。閉ざされた寝室のドアを振り返る。結局、火の点いていない煙草を箱に戻すと、それを無造作にローテーブルの上に放り投げた。ここに煙草の匂いを残すわけにはいかない。瑛優が嫌がるだろうし……そうなれば、夕月から嫌われてしまう。涼はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けると、冷たいミネラルウォーターのボトルを取り出した。キャップを捻り、一気に数口、喉へと流し込む。氷のように冷たい液体が喉を滑り落ち、体内に燻る得体の知れない熱を、わずかに鎮めてくれた。流し台に寄りかかると、脳裏に先ほどの光景が勝手に再生される――無防備に彼の腕の中で丸まっていた姿、温かいタオルが頬を撫でた時の満足げな吐息、靴下を脱がせた時に現れた、あの白い足首……涼はぐっと目を閉じ、自嘲するように低く笑った。全く……自業自得だ。この俺、桐嶋涼が、いつからこんなに……臆病で、みっともない姿を晒すようになった?その場でしばらく立ち尽くした後、涼は気を取り直し、リビングに視線を走らせた。先ほどソファに無造作に置いた夕月のパソコンケースと書類を手に取り、きちんと整理し直すと、目につきやすく、それでいて邪魔にならない場所に置く。続いてバスルームへ行き、使ったタオルをきれいに洗い、水気を絞ってタオル掛けに干した。洗面台に飛び散った水滴も、丁寧に拭き取る。それらすべてを終えると、涼は改めて部屋の中を見回した。自分がここにいた痕跡が、何も残っていないことを確認する。そしてようやく、自分のスマートフォンと車のキーを手に取った。部屋を出る前、彼はもう一度、忍び足で寝室のドアに近
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第562話

夕月が振り返ると、クマさんのパジャマを着た瑛優が、眠そうに目をこすりながらキッチンの入り口に立っていた。夕月はグラスを置き、娘に歩み寄ると、その柔らかな髪を優しく撫でつけた。「昨日はよく眠れた?」「うん!」瑛優はこくこくと力強く頷く。「おじちゃんに送ってもらってから、すぐに寝ちゃった!」瑛優は最近、県のスポーツセンターでスケートボードの練習に打ち込んでいる。普段、夕月に時間があるときは彼女が送迎や練習の付き添いをしているのだが、ここ最近は量子科学のプロジェクトが佳境に入り、残業続きだった。そのため、瑛優の送迎は兄の天野に任せていた。県の強化コーチも瑛優の才能に目をつけ、重点的に指導を行っている。その点、スポーツの技術的なポイントに関しては、夕月よりも天野の方がはるかに理解が深い。夕月が付き添っても、それはあくまで「付き添い」であり、娘の精神的な支えになることしかできないのだ。その点、天野は瑛優の技術的な問題点を一目で見抜くことができる。彼は天性の競技センスを持っており、瑛優が滑っている最中に、転倒する瞬間や危険な体勢になるのを予見することさえできた。だからこそ、夕月は安心して瑛優を天野に預けられるのだ。ただ……「ママ!」はっと我に返ると、瑛優がくりくりとした大きな瞳をきらきらさせて、自分の顔をじっと見つめていた。「先生がね、来週、学校で親子イベントがあるんだって。もし、時間があったら……私と一緒にちまき作り、してくれないかなぁ」そう切り出すとき、瑛優は少しだけためらった。ママが最近すごく忙しいことは、よくわかっている。週末に練習がない日は、一緒に過ごす時間を増やそうと、夕月は瑛優を会社に連れて行ってくれる。母娘はいつも一緒にいられるけれど、会社での夕月がどれほど忙しくしているかを、瑛優はこの目で見ていたから。その声には、遠慮がちな期待が滲んでいた。瑛優は母親を見上げ、その黒目がちな瞳に返事を待ち望む光を宿している。夕月の心は、ふわりと柔らかくなった。彼女は娘の前にしゃがみ込むと、その視線の高さに合わせる。「もちろん、時間あるわよ。瑛優と一緒にちまき、作りましょ!」「やったぁ!」瑛優は、飛び上がりそうなほど喜んだ。そして、夕月にこう言った。「先生がね、みんな保護者を二人連れてくるんだって。ママは、おじ
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第563話

夕月は、凌一に電話をかけた。受話器の向こうから、湖の底から響くような、静かで理知的な低い男の声がする。「夕月、どうした」その声は、まるで彼女からの電話をずっと待っていたかのような響きを持っていた。「先生、近頃お時間はありますか?」夕月は幼稚園で開かれる親子イベントについて手短に説明すると、こう続けた。「先生のお時間は貴重ですから、こういった催しはご予定には入らないかもしれません。ただ、私と瑛優が、先生と星来くんにぜひとも来てほしいと願っているんです」電話の向こうで、数秒の沈黙が流れた。夕月は思わず息を殺す。今頃、凌一がわずかに眉を寄せ、スケジュール帳に目を落として検めている姿が目に浮かぶようだった。遠回しに断られるだろう、そう思った矢先、凌一が口を開いた。「わかった。星来を連れて行こう」まさか、承諾してくれるなんて。夕月は意外に感じたが、同時に腑に落ちる部分もあった。星来を普通の生活に戻すため、凌一がこれまで多くの妥協をしてきたことを、彼女は知っていたからだ。「よかった……」その声は、隠しきれない喜びに染まっていた。受話器の向こうから、すぐに夕月と瑛優の話し声が凌一の耳に届く。「大叔父さま、いいって!私たち、大叔父さまと星来くんと一緒にちまき作るのよ」「イェーイっ!!」瑛優の歓声が響く。受話器越しに、凌一は元気いっぱいの女の子の姿を思い浮かべた。知らず知らずのうちに、凌一の口元が綻ぶ。耳元に、再び夕月の声が届いた。「先生、では一旦切りますね」「量子科学のプロジェクトだが、進捗はどうなっている」凌一は、胸に生じた小さな波紋を意図的に無視し、そう問いかけた。夕月は特に何も感じなかった。凌一がその話題を切り出すのは、まるで教師が生徒の宿題の進み具合を尋ねるかのようで、ごく自然なことだったからだ。夕月はすぐさま答える。「はい。新しいデータと成果が出ましたので、先生に分析をお願いしたいんです」二人は改めて会う時間を約束した。やがて通話が切れ、凌一はスマートフォンを置くと、視線を上げる。その傍らには、いつからか星来が静かに座っていた。星来はとても物静かだ。凌一が電話をしている間も、男の子は電子書籍リーダーを抱え、ただ黙々と本を読んでいた。凌一はスマートフォンを置くと、声をかけた。「親子イベントのことなど、聞
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