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All Chapters of 水鏡の星詠: Chapter 151 - Chapter 160

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誰かのために動く時 ⑤

 アリシアはそっと葉に手を伸ばした。 指先が葉に触れる寸前で止め、その輪郭を空気越しになぞるように滑らせた。 触れてしまうと壊れてしまうのではないか──そんな、ためらいを含んだ仕草だった。「その葉がここに存在するということは、誰かが禁足地に足を踏み入れたことを意味する。許可なくな」 男の口調は穏やかだったが、その言葉の端々には、長い時間を共にした土地への執着が見え隠れしている。 アリシアは男の沈んだ声に耳を傾けながら思った。 誰もが外の者に寛容でありたいとは思っている。だが脅威になるなら話は別だ。それは、この土地だけの話ではない。どこの村や街でも同じはずだ。「通常ならエクレシアには行くことはできないが、グリモア村の村長・グレタなら話は別だろうな」 男はそう言いながら視線を伏せた。 その顔には言葉にしきれない懸念と思案の影が深く差している。静寂の中に土地の名が落ちるたび、空気がわずかに揺れた。 アリシアの視線は小さな葉の中心を捉えたまま動かない。触れることもせず、ただ記憶の形を掬い取るように、そこにある微かな存在を見つめていた。 男はしばらく沈黙を保っていたが、やがて顔を上げるとアリシアに視線を向けた。「一つ聞いていいか? ヴィクターというのは、どういう男だ? アークセリアに入ってからの足取りは、ある程度分かっている。だが、そいつがクローブ村にいた頃のことは、俺の網にはかかっていない」 沈黙の合間に男の目が細められる。「禁足地に足を踏み入れるような人物なら、それ相応の背景があるはずだ。お前は、どこまで知っている?」 男が探るような目でアリシアを見た。 緊張が場を満たしていく。 エクレシアに足を踏み入ることができる人物が、並の者であるはずがない。ヴィクターが本当に、その場所に行ったのなら私の知らない顔を持っていることになる。 アリシアは男の問いに心を巡らせた。 ヴィクターの顔が脳裏に浮かぶ。 いつも少し距離を置いて物事を眺め、誰かの背に隠れるようにして歩く男だった。ずる賢いところは確かにあったが…… それでも、かつてのヴィクターなら、決して禁じられた地に踏み込むような真似はしなかったはずだ。そのヴィクターが道を外れ、あのグレタと手を組むなど考えられない。 そう思っていた…… しかし現に、この葉がここにある。 ヴィクターがあ
last updateLast Updated : 2025-07-06
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誰かのために動く時 ⑥

──ヴィクターの暴走は、どんな手を使ってでも止めなければならない。それはリノアの為でもある。「グレタに関する調査報告書だ」 男はそう言って、アリシアに資料一式を手渡した。紙の角が擦れる音が、静まり返った空間に小さく響く。 アリシアは紙束を受け取ると、そのうちの一枚にそっと指をかけた。ページがめくられる音は小さく、まるで誰にも気づかれたくない秘密をほどくかのようだった。 アリシアの目が文字をなぞる。 筆跡は整っている。だが、気になるのは所々に筆圧の揺らぎ…… それは記録というより、祈り、隠しきれない焦燥、そして届くかも分からない誰かへの報せ。 紙の上に残されたその情熱が、記録以上の意味を持っていることをアリシアは感じ取った。 アリシアは視線を宙に泳がせ、長い睫毛の影に言葉にならない感情を沈めた。そして、ゆっくりと息をつく。 これは、ただの報告ではない。意志の痕跡だ。《禁足地・エクレシア領域外縁にて複数の不審人物を確認》・対象は五名。先頭はグリモア村村長・グレタとみられる人物、ならびに大型の剣を携えた女戦士。・残る三名は黒のマントに全身を包み、詳細な特定は不能。・全員が禁足地領域内部より出現したと推定されるが、侵入時の記録は存在せず。・目的不明、 アリシアは報告書に目を落としたまま、一点を見つめた。これらの文字の先に踏み込まなければならない真実がある。そんな予感が脈のように鼓動を打ち始めていた。 沈黙の中、アリシアは、そこに刻まれたわずかな綻びすら読み取ろうとするかのように、丹念に文面を追った。「五人……それに黒いマント?」 セラが報告書を覗き込み、目をぱちぱちと瞬かせた。「クローブ村の近くで見た人影も同じくらいの人数だったよ。しかも全員、黒いマントを着てた」 その声には驚きとほんの少しの不安が混じっていた。「五人は居たかな。怖くて近寄れなかったから、どんな人たちなのかまでは分かんなかったけど……」 セラの声の調子は軽いが、その目に浮かぶ色は真剣そのものだ。「五人一組で動いているのかもしれないね。組織的なものかも」 アリシアは報告書の文字を追いながら、淡々と推測を述べた。 一つの偶然なら見過ごせる。だが、二度、同じように現れた五人という数字に、偶然という言葉は当てはまりそうにない。 アリシアの視線は紙の上にありながら、
last updateLast Updated : 2025-07-07
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誰かのために動く時 ⑦

「セラ、その目撃した連中は何をしていたんだ?」 男の声が沈黙の間を縫うようにして室内に響いた。油断のない鋭い目をしている。 セラは少しだけ目を見開いて、首をすくめた。「森の中で何かが光っていた。青白い光……。怪しく不気味で周りの空気まで揺らぐような感じだった……」 セラの顔に不安の影が宿る。「青い光……」 男の眉がわずかに動いた。「おそらく、それは鉱石が発した光だ。最近、あちこちで聞くようになった」 男は虚空に視線を投げて、呟くように言った。発せられた言葉が部屋の空気を重くする。 男は言葉の重さを測るように一拍、間を置いた後、さらに続けた。「街道沿いの崖が崩落したのは、それが原因だろうな。外からの圧力というよりは、内側からの力。地盤そのものが崩れていた。変色した土、硬質化した葉や根──。自然現象という奴もいるが、さすがにそれはない」 重い沈黙がまた一つ、部屋に降りた。 あれは何かを壊すための光…… セラの胸の奥に、あの青白い光がじわじわと蘇る。無意識のうちに、セラの手が膝の上で固く結ばれていた。「それがエクレシアの内部でも起きてるってこと?」 セラの声音は驚きよりも、すでに内側で答えに気づいてしまった者のそれに近かった。「そう考えるのが自然だ。運河を流れる水にも影響が出ているという話だからな。内部で何かが起きていると見て間違いないだろう」 男は頷きもせず、ただ言葉だけを置いた。言葉の先端が空気に沈んでいくような間を挟み、男はさらに続ける。「目撃された五人が資源採掘の為だけにエクレシアに足を踏み入れたとは考えにくい。もっと深い目的があるはずだ」 セラの喉がかすかに動く。 何かが確実に崩れている──そんな直感だけが、胸の奥に輪郭を持ち始めていた。 二人の遣り取りを見守っていたアリシアが口を開く。「リノアが言ってた。森が息をしていないみたいだって」 アリシアのひと言が場に張り詰めた糸を一本、ぴんと弾いた。 言葉を選ぶのではなく、すでに胸の中で何度も反響した想いを、ようやく外に出したという感じだ。肩の力は抜けていて、表情も変わらない。 森が息をしていない── それは比喩ではなく、自然に囲まれて生きる者たちなら直感で察していたことだ。特にリノアや、その兄のシオンは敏感に感じ取っていた。 たしかに兆しはあった。 森の緑は褪
last updateLast Updated : 2025-07-08
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夢と記憶のあわい ③

 地面に爪を立て、リノアは叫んだ。 喉が焼けるように熱い! 叫びは言葉にならず、ただ炎の奔流へと呑み込まれていくのみ。 まるで終わりのない悪夢……──父と母は無事なのだろうか。 リノアの胸の奥に焦りの感情が渦巻く。 リノアは焼けるような空気をかき分け、必死にその姿を探した。 しかし、そこにいたはずの父と母の姿が、どこにも見当たらない。幼き日の自分も、父と母の元に向かって行ったはずなのに…… まるで最初から、そこに何も存在しなかったかのように、ただ森だけが燃えている。「一体、どこに……。確かに、そこにいたはずなのに……」 歪んだ空気の中で、リノアの思考が揺らぎ始める。 リノアは周囲を見渡した。 地面の裂け目がぼんやりと揺らぎ、木々の輪郭も霞んでいる。燃え盛る炎の映像と音だけを除いて…… リノアの意識はその曖昧な狭間で波に呑まれるように漂った。 何が真実で、何が幻想なのか、それすらも判然としない。 肌が焦げ付く、あの痛みの感覚も、いつの間にか薄れている。 火の奔流に包まれている最中だというのに、一体、これは……。身体が現実と乖離している…… この世界の端に独り、浮かんでいるような不思議な感覚── リノアはその感覚に抗わず、静かに身を委ねた。すると程なく、炎の中心に奇妙な揺らぎが現れた。   風に抗うようにゆっくりと逆巻く炎── 火の奔流は、一点を起点に風と逆向きの軌跡を描きながら、空間そのものを軋ませるように捻じれていった。 現実がほどけていく始まりかのように。 その先に広がっていたのは記憶とも夢ともつかない、過去が未来を侵食した空間だった。 色はあるのに、名がつけられない。 光は差しているようでいて、照らすものはどこにもない。 時間は粒子のように漂い、触れようとするほどに空間に溶けていった。 そこにあるのは感覚だけだった。確かなものは、ここには何一つ存在しない。 リノアの輪郭もまた、次第に曖昧になっていき、誰かの遠い夢が残した残響として、揺らぎの中を漂っていた。──どこからか音が聴こえる。 意識が空間に溶け出していく中、遠くから聴こえる微かな囁き──これは言葉ではない。 リノアは輪郭を失った意識のまま、その音に導かれるように深く、そして静かに空間の奥へと沈んでいった。──何だろう? この懐かしい声…… 
last updateLast Updated : 2025-07-09
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夢と記憶のあわい ④

 リノアの瞳はまだぼやけていて、意識の端には霧のような余韻が残っていた。 混乱は消えず、胸の奥には、まだ焼け焦げた記憶の残響が渦巻いている。 涙は流れず、身体の感覚もまだ鈍いままだ。だけど、この感覚は何だろう? 胸の奥を締めつけていた重苦しいものが消えている。 リノアは心が軽くなっていることに気付いた。 燃えたのは身体ではなく、記憶? …… もしかしたら私が見たのは、あの時の選択が導いた、もう一つの未来だったのかもしれない。 オークの木の下で待ち続けなかった、その先に広がっていた運命の断片…… 父と母は決して私を捨てたわけではない。 必死に、守ろうとしてくれていたのだ。 リノアは、ようやく気づいた。 あの時、母の言葉を守って待ち続けたという選択は、間違いではなかったということに。 幼い頃のあの日、母は確かにオークの木の下へ私を連れていった。 安全な場所に残して、ひとり静かに立ち去り、戻って来なかった、その理由── あの映像が示していたものが真実だとすれば、答えは明白だ。 母は父と共に何者かに捉えられていたのだ。 幼かった私は、それが見捨てられたことのように感じてしまった。けれど今は違う。 あれは母が私を守るために選んだ、最後の手段だった。あの選択の中に、どれだけの決意と苦悩が込められていたのか。今なら、分かる。 記憶の縁に浮かんでくるのは、両親を捉えたあの者たちの姿── 森を無残に切り裂いていた人影たちとは異なる。 彼らの纏っていた服には見覚えがあった。 くすんだ紋章、生地に刻まれた古びた意匠── それが何を意味するかを、物心ついてから学んだ書物や人々の語りの中で、リノアは知っていた。 それは、戦乱の時代に争った者たちの装束にほかならない。 彼らはかつて、猛威を振るい、多くの民に恐れられていた。 戦いが終わった後、彼らの勢力は拡大の途を遂げ、存続していくものと見られていた。 しかし、火種は外にはなかった──それは内側に潜み、静かに燻っていたのだ。 戦後、彼らの中で始まった激しい権力争いは、組織の骨を砕き、やがて崩壊へと導いていった。 権力争いに敗れて歴史から消えたはずの集団。 今となっては、誰もが彼らは滅びたと信じている。 しかし本当に、そうだろうか? 最近、森の奥に見かけるようになった人影。 ひと目では
last updateLast Updated : 2025-07-10
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誰かのために動く時 ⑧

「すでに動き出した者がいるが、あれは君たちの仲間か? 二人の女がフェルミナ・ア―クに入ったと報告を受けている」 空気の膜を押し破るように男が口を開いた。「ええ、そうよ」 アリシアは声色を変えずに答えた。 アリシアの動きは最小限だった。微細な表情の変化も、言葉を継ぐ間の沈黙も、すべてが意図的に抑えられている。 必要以上に情報を渡すつもりはない。アリシアの態度に、それは現れていた。「その二人はラヴィナに会いに行ったらしいな」 男は少し間を置いて話した。「ラヴィナ?」 その名に聞き覚えはなかった。 予想外の問い返しに、男の表情がごくわずかに変わる。「……何だ、知らないのか」 男はあざけたわけではない。意外そうな表情をしている。 鉱石に関心がない──。きっと、そう受け取ったのだろう。そして、フェルミナ・アークを巡る鉱脈の事情や、アークセリアに広がる自然破壊の問題についても、私がほとんど把握していないことが、男に伝わったはずだ。 アリシアは言葉を返さなかった。 実際にラヴィナの名も、アークセリアの成り立ちやその歴史も、実のところ詳しくは知らない。 思い返せば、ここに来るのは舞踏会の招待に応じる時くらいで、深く関わる機会もなかった。 そんな私の反応を男は意外に思ったのだろう。「ラヴィナってのはフェルミナ・アーク及び、その周辺を統括する管理者だ。この地に眠る希少鉱石の流通や保護について、誰よりも精通している。だから自然破壊には人一倍、敏感だ。今は気が気ではないだろうよ。彼女の判断一つがこの地域の均衡を左右すると言われている。それほどの影響力を持つ人物だ」 男は椅子にもたれたまま、正面に立つアリシアを見上げた。 視線に動きはない。だが言葉の一つ一つが、その眼差しと共に体温を奪うように響いてくる。「一つ聞いてもいいか?」 男の言葉の奥には、興味以上のものが含まれている。「君たちは自然に関心があるわけじゃなさそうだな。だったら、どうしてヴィクターを追うんだ? そいつが、ここで何しようが関係ないはずだが」 その声に感情はない。ただ論理の綻びを指摘するものだった。「関心がないわけではないけど、正直に言って、それが理由ではないわ」 アリシアは短く息を吐き、男の目を真っすぐに見返した。 懐かしさとも痛みともつかぬ感情が、その瞳の奥に宿る。
last updateLast Updated : 2025-07-11
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誰かのために動く時 ⑨

 男はしばらく黙っていたが、短く息を吐いた後、言葉をこぼした。「そうか……すまんな。余計なことを聞いた。俺としても、この地を蹂躙するような連中を心良く思っちゃいない。協力はさせてもらう」 ほんの一拍置いてから、男は続けた。「それで……リノアとエレナってのは、腕は立つのか?」「それなりに戦えるはずよ」 エレナは弓を自在に操る腕前を持ち、遠距離からの精密な射撃で敵を翻弄する。彼女の視線は常に冷静で、狙った獲物を逃すことは滅多にない。恋人のシオンが森の奥深くの危険地域に足を踏み入れる時は必ず帯同していたほどだ。 その一方でリノアの能力は未知数だ。 本人も気づいていない特異な力が備わっているのは確かだが……。 時にリノアは周囲に奇妙な違和感を生じさせ、見る者の認識をかき乱した。 リノアと行動を共にし、それを肌で感じたことが何度かあったのだ。 ある日、風のないはずの森で、木々の葉が急にざわめいたことがあった。 何か、おかしいと思った次の瞬間、足元の土が波のように揺れ、目の前の視界に異様な光景が広がった。 風景の一部が別の層にずれたような錯覚——いや、錯覚と呼ぶにはあまりに確かな異常だった。 液体のように揺らめく空── 突如として数十もの蝶に変わり、空高く舞い上がった一頭の獣── その蝶たちは重力を拒むように空へ広がり、森の色彩さえ塗り替えていった。 あれは一体、何だったのだろう。森そのものが、リノアの存在によって再構成されているかのようだった…… リノアは何事もなかったかのように平然としていたが、あれは紛れもなく現実だった。幼い頃の体験とはいえ、あれが夢であるはずがない。 あの時、確かに私はリノアに何かを見せられた。「さっきも言ったが、ラヴィナはこのアークセリアにとって重要な位置を占めている人物だ。フェルミナ・アークに入ったすべての者が彼女に辿り着けるわけじゃない」 男は身体を椅子に預けたまま言葉を紡いだ。 その声は淡々としているようでいて、どこか警告のようにも聞こえた。「ラヴィナに辿り着くまでには、いくつもの試練が待っている。しかも屋敷に辿り着けたとしても、そう簡単に会えるわけではない。まずは召使いの一人に会って認められること。それがラヴィナと会うための最低条件となっている」 静寂が再びふたりの間に落ちる。 それは、道のりの険
last updateLast Updated : 2025-07-12
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誰かのために動く時 ⑩

「グレタは村を統べる立場の者だ。その人物が禁足地に自ら赴くなど常識ではあり得ない。だがグレタは足を踏み入れた。そこまでして、果たさねばならない目的があったということだ」 男の言葉にアリシアが息を呑む。「肝心のグレタたちの足取りだが、残念ながら途絶えてしまった。グレタたちも足がつかないように様々な手を施しているということなのだろう」 男は少し間を置いた後、声の調子を変えて、再び言葉を発した。「ただヴィクターだけは別だ。こいつはどうも別行動を取っているみたいだな」 アリシアは地図に視線を落としたまま、男の言葉に思考を巡らせた。 グレタたちの足取りが途絶えたという報せは、耳にするだけでも冷たい不安を呼び起こす。だが、ヴィクターだけが別行動を取っている──その情報は、安心とは呼べないまでも、わずかに張りつめた感覚を和らげてくれた。 もしヴィクターが本当に別行動を取っているのなら、グレタの計画から距離を置いている可能性がある。 それだけでも、入り組んだ状況にほんの少し希望の光が差し込んだように感じられた。 危険の中心にいるのは、あくまでグレタ── ヴィクターの行方が明らかになれば、混迷する状況に手を掛ける糸口になるかもしれない。「そうなると、グレタは、またエクレシアに舞い戻ったのかもしれないってことね」 アリシアは誰ともなく言葉を漏らした。 アリシアの問いに、男はしばらく無言のまま思案を巡らせた。椅子に身を預けたまま、視線をどこにも向けず、言葉を選ぶように沈黙が落ちる。 しばらくして、男は何かを確かめるように口を開いた。「……仮に戻ったとしたら、厄介なことになりそうだな。グレタは目的を果たすために、より深部へ踏み込んだのかもしれない。エクレシアで何らかの手がかりでも得たか……」 その声には可能性を慎重に織り込む冷静さと、避けがたい予感が潜んでいる。 男の言葉を受けたアリシアは、胸の奥にじわりと広がる不安を感じた。冷たいものが胸元を這うように広がっていく。「最悪の展開として考えられるのは……グレタがラヴィナとの接触を試みている可能性だ。グレタの目的次第では状況が一変する。あらゆる均衡が一気に崩れ始めるだろう」 男は身じろぎもせず、視線を真っすぐに保ったまま言葉を続けた。その静けさの奥には、差し迫る危機を見据える鋭い緊張が潜んでいる。「既に
last updateLast Updated : 2025-07-13
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密やかなる命の痕跡 ①

 リノアはゆっくりと立ち上がり、湿った空気の中に身を滑り込ませるようにして、苔の張りついた小径を進み始めた。 森と水路が織りなす迷路のような禁足地、フェルミナ・アーク。その深部で誰も知らない気配がまた一つ動き出していた。──エレナは一体、どこに行ったのだろう。 リノアは周囲を見渡した。 影に囚われていたはずのエレナが、どこにも見当たらない。 代わりに残されていたのは湿った地面に刻まれた足跡── この禁足地に私とエレナ以外の人間がいるとは考えづらい。これはエレナの足跡と見て良いだろう。──軽やかで、迷いのない足取りをしている。 リノアは残された足跡を見つめながら考えた。 影に囚われていたエレナ── 何らかの方法でその束縛から逃れたのだろうか。あるいは影を倒した後、新たな敵が出現し、追われでもしたか…… リノアは足跡を頼りに慎重に歩を進めた。 苔むした地面に残る微かな乱れ、湿った空気に溶ける人の気配。それらが誰かがここを通ったことを示している。「エレナ……」 リノアは何度も名前を呼んだ。 しかし、どこからも返事はない。声は枝葉の隙間をすり抜け、森の奥へと吸い込まれていくのみ。 残るのは、沈黙だけ…… 影に囚われていたエレナ──その光景が脳裏に焼き付いて離れない。 あの時に見たエレナの穏やかな表情。 安らぎに見えたそれは、実際には違っていた。 苦しみから目を背けさせるために巧妙に織られた幻想。影が見せた偽りの映像だ。 本当の幸せを掴んだわけではない。 エレナはその仮面を纏わされたのだ。 森は沈黙したまま、全てを呑み込んでいる。 エレナの声も、足音も、記憶さえも──そのすべてが、この場所では意味を失っているかのように…… そっと息を吐き、リノアは指先で湿った苔に触れた。 そのひんやりとした感触が、“今ここにいる”という失いかけている感覚を、ゆるやかに呼び戻してくれる。 過去の痛みも、哀しみも、まるで無かったことにするかのような都合の良い世界。 だけど、そこからエレナは抜け出した。 影が織り上げた仮初めの安息を振り払って、自らの足で踏み出したのだ。 それを証明するように、苔に刻まれた足跡が残っている。 迷いのない歩幅、ためらいを感じさせない軌跡。足跡の深さ、その向き、歩幅……そのすべてが物語っている。 誰かに導か
last updateLast Updated : 2025-07-14
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密やかなる命の痕跡 ②

 苔の上を刻むように続いていた足跡は、小道の外れで唐突に途切れていた。 リノアは周囲に目を走らせた。しかし踏み荒らされた痕跡はない。折れた枝も、散乱した葉も、何一つ…… リノアは膝を落として、最後の足跡に手を添えた。 柔らかな苔に沈んだ足跡の深さ、足先の向きと傾き── 間違いない。これはエレナのものだ。 この辺りまでは、足取りには迷いがなく、周囲に警戒した様子はなかった。どうして、この場所で足跡を消す必要が…… 足を滑らせて川に落ちたわけでも、何かに引きずられたわけでもなさそうだ。事故ではなく、自らの意思で足跡を消している。──この場所で、一体何が…… リノアは息を吐いて、冷えた空気に指先をかざした。 風の流れは異様に均一で、場全体が呼吸を忘れているかのように空気が淀んでいる。 リノアは意識を周囲に飛ばし、その違和感を探った。 空間の一角──風が拒まれるように流れが滞り、そこにだけ渦のような歪みが生じている。 あの茂みの奥。 そこに、何かが潜んでいる。 リノアは茂みの奥に目を凝らした。 森が呼吸を忘れたかのように沈黙している。葉擦れすら音を拒むほどの静けさ…… 気配は確かに、そこにある。だが姿はどこにもない。その場に漂うのはエレナ以外の何かの気配だけ……──今まで感じたことがない異質な気配だ。 目に見えない膜のようなものが、辺りを覆い尽くしている。 リノアは意識を伸ばし、その揺らぎにそっと触れた。 その瞬間──気配が動いた。──相手もこちらの存在に気付いている! リノアの背筋にひやりとした緊張が走った。 動物的な察知というよりは、もっと深い領域── それが応えか……。 相手は、こちらの行動に明確な反応を示した。 歓迎している様子はないが、敵意を剝き出しにしているわけでもない。 相手も、こちらを推し量っているのかもしれない。 相手からすれば、こちらが何者かも分からない。当然の反応と言える。 いずれにせよ、ただ者ではないことは確かだ。 その場から動かず、相手の出方を伺っていると、身を潜めていた何かが気配を強めた。 葉の間で空気が揺らぎ、森の静けさが反転する。 騒めき立つ森たち── 姿は見せずとも、その存在感は空気を押し分けるほど鮮やかだ。 もはや相手は存在を消し続ける気はない。 お互いの呼吸が自然と重
last updateLast Updated : 2025-07-16
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