Home / ミステリー / 水鏡の星詠 / Chapter 171 - Chapter 180

All Chapters of 水鏡の星詠: Chapter 171 - Chapter 180

182 Chapters

密やかなる命の痕跡 ⑦

 リノアが泉の水際に刻まれた足跡をじっと見下ろしていた、その時── 風が森を撫でるように吹き抜けた。 霧の幕が裂けていく。「エレナ!」 リノアの声に反応して、エレナが顔を上げた。 エレナの目が霧の裂け目に釘付けになっている。 その視線の先に浮かび上がったのは、小さな影── ひとりの子どもと、その傍らに寄り添う女性の姿だった。 フェルミナ・アークにはいるはずのない二人の姿。けれど、森の縁で揺れるその影は、確かにそこに存在していた。 エレナが言っていた――森の端で見たという、子どもの姿。 その姿が、まるで水の中から浮かび上がるように、霧の上に淡い輪郭を描いている。 だが、その静けさは長くは続かなかった。 森の奥から這い出すように、濁った気配が迫ってくる。 枝が軋み、葉が震える。 空気は異物に触れたように揺らぎ、冷え、そして沈黙した。 何かがいる。 その姿は、はっきりとは見えない。 けれど、リノアの肌感覚が先に察知した。 あれは、敵だ──「あの人たち、追われてる」 リノアの声が静かに漏れた。 確信に満ちたその言葉は霧の中に沈みながらも、エレナに届くように響いた。 歩みには一片の迷いもない。 霧の奥に逃げた二人を、まっすぐに捉えている。 剣を携えたその影たちが放つのは、人のものとは思えぬ、鋭利で冷たい気配。 定まった目的を背負いながら、霧の地を踏みしめている。 危機はもう目の前だ。 胸の鼓動が抗うように高鳴った。音よりも速く、心を震わせる。「逃げて! 早く!」 エレナの叫びに、霧の中の二人が反応した。 子どもの母親が一瞬だけ振り向く。 霧越しにリノアを見た、その瞳がわずかに揺れる。 何かを思い出したように── あるいは、確かめるように── それは忘れようとしても忘れられなかった、あの瞳だった。 まさか…… リノアは、その場に立ち尽くした。 胸の奥が焼けるように疼きながらも、足は動かず、言葉は喉の奥で凍りついたまま。 息をするのも忘れるほど──そのまなざしの余韻が、リノアの思考を支配している。 霧の向こうで揺れて消えていく影を、リノアは見つめることしかできなかった。 古い記憶の扉が静かに開いてゆく……。「リノア、行くよ!」 エレナが叫び、矢筒に手をかけて駆け出す。 その声に背中を押されるよ
last updateLast Updated : 2025-07-24
Read more

密やかなる命の痕跡 ⑧

「行かせるわけにはいかない!」 リノアが水影石を強く握り込む。 淡い光が指先から漏れ、石の表面で水の波紋のように揺らめいた。 その光が近くの泉に届いた瞬間── 水面が突如として激しくざわめき、中心から細い水柱が吹き上がった。 乱反射した光が霧の中に拡散し、周囲の空気を撹乱するように揺らす。 空中に浮かぶ幾つもの影── それは兵とは異なる存在だった。 霧を断つように現れたそれは翼のような輪郭を持ち、藍色の羽をまとった鳥の影とも、尾のある精霊のようにも見えた。 霧の中に藍色の鳥影が舞い、兵の頭上を急降下するように飛び交う。 兵たちは足を止め、目を細めながら周囲を見回した。「そこか……!」 一人の兵が反応し、幻影に向けて剣を振り抜く。 しかし 刃が捉えたのは霧だけ。空を裂く音が虚しく響いた。 続く二人も、幻影を追って斬撃を繰り出すが、どれも実体を捉えることができない。 連携が徐々に崩れていく。 そのとき――泉が再び脈打つように波打ち、中心から水柱が噴き上がったかと思うと、突如として弾け飛んだ。 砕ける水が地面の石と混ざり合い、螺旋状に巻き上がる。 それは小石の弾幕のように周囲へと飛び散り、兵の防御を乱した。 一人が頭をかばい、もう一人が膝をつく。 鳥影は実体のない風紋のように舞い、刃は空を彷徨うばかり。兵の焦りだけが募っていく。 幻影と自然の力が追撃を阻む盾となる中、リノアはその混乱の隙を縫って、霧の奥へと駆けて行った。 リノアの後にエレナが続く。 木々の間を縫うように走る二人。枝が頬をかすめ、湿った土の匂いが鼻をつく。霧が濃く、先を言った二人の姿はもう見えない。──あの人はどこに行ったんだろう…… リノアは周囲を見渡すが、やはりどこにも見当たらなかった。「危ない! リノア、右!」 エレナの声が霧の中から響き、リノアの意識を現実に引き戻す。 リノアは反射的に腰の小刀に手を伸ばし、柄を強く握りしめた。掌に走った冷たい金属の感触が、意識を現実へと引き戻す。 茂みから飛び出した兵が獣のような速さでリノアに迫ってくる。 その刹那、兵の剣が唸りをあげて振り下ろされた。 リノアは身を翻し、咄嗟に小刀を斜めに差して剣を受け流す。 ガキン! 小刀の側面が剣の軌道を掠め、火花が飛び散る。 衝撃が腕に食い込み、重さに耐える
last updateLast Updated : 2025-07-24
Read more

ひと気なき傾斜の先に ⑥

 アリシアは前方を進むヴィクターを呼び止めようとした。しかし、その言葉を喉の奥で飲み込んだ。 セラと目を交わし、二人は言葉を交わすことなくヴィクターの後を追う。 人の波が絶え間なく流れ、笑い声や叫びが入り混じる。 荷物を抱えた誰かがすれ違うたびに、ヴィクターの背が見えなくなりかけた。「あれっ、見失ったかも」 セラが足を止め、視線を巡らせながら小さく呟く。「大丈夫、あそこにいる」 アリシアは指をさした。 目の奥に焼きついているのは、色ではなく雰囲気。 くすんだ色のコートが人混みに紛れ、時に視界から消えかけても、ヴィクターの姿だけは見失わない。 その背中に漂う哀愁、そして、どこか影を引きずるような歩き方── 風景に溶け込めない何かが、そこにある。──逃げているようでいて、逃げてはいない。 アリシアはそう感じた。 ヴィクターの足取りは何かを振り払っているかのようだ。前へ進みながらも、どこにも辿り着かない歩き方をしている。 歩みを止めることができず、道を選ばずに足を動かしているといった感じだ。 角を曲がり、小さな広場へ出たところで、ヴィクターの足が突然止まった。 あまりに不意な動きに、アリシアは踏み出しかけた足を力で抑え込み、セラは肩をすぼめて後ずさる。──一体、何をしているのだろう。 ヴィクターは立ち止まったまま、動こうとしない。 何か様子が少しおかしい。肩が不自然にこわばっている。 何かに意識を向けてる? それとも尾行に気づいた? 一拍置いて、ヴィクターは全く逆の方向へ身体を傾けると、突然、地面を蹴って走り出した。 叫び声や笑い声の飛び交う広場で、石畳を打つ靴音が空気を裂く。「ヴィクター、待って!」 衝動的にアリシアが叫んだ。 しかし声は届かない。ヴィクターは振り返らずに駆けて行った。 セラが走り、アリシアが後に続く。 ヴィクターの背が斜陽にまぎれて遠ざかっていく。 前を走る二人の足が速い。 アリシアの肺が焼けるように痛み、足が重くなる。それでも前を行く二人の足は止まらない。 夕焼けに溶けかけた二人の背をアリシアは必至で追いかけた。 踏み込む度、わずかに距離が広がっていく。 空気はぬるく、肺は焼けつくよう。喧騒の中にあって、ヴィクターの背中だけが異様に静かで冷たい。 光と影の裂け目を縫うように、人混み
last updateLast Updated : 2025-07-25
Read more

ひと気なき傾斜の先に ⑦

 斜陽の残光が射す中、ヴィクターとセラが座り込んでいる。 そこは海沿いの高台——静寂に包まれた場所だった。 遠くまで広がる海の向こうに、夕空が赤く滲んでいる。 波音がやさしく耳に届き、潮風がアリシアの頬をそっと撫でていった。 ヴィクターは壁にもたれ、目を伏せている。肩は小刻みに上下し、呼吸は浅い。 セラは肩で息をしながらも、どこか安堵したように微かな笑みを浮かべていた。しかし緊張は肌の下にまだしっかり残っている。 きっと状況が一旦止まったことによる一時の休息でしかないことを実感しているからだろう。 アリシアは、その場に立ち尽くした。 その場の空気に何かが沈んでいる気がして、言葉を選ぶことができない。「……アリシア……どうして、こんなところに……」 壁にもたれ、うな垂れていたヴィクターがゆっくりと顔を上げる。 その瞳は相変わらず掴みどころがなく、夕暮れの光に溶けかけていた。「妙なとこで再会するもんだな」 ヴィクターは笑ったのかどうかも曖昧な、微かな表情を口元に浮かべた。 ヴィクターの声には、懐かしさだけではなく、安堵も含まれている。アークセリアでの再開がそうさせるのか、それとも他の理由があるのか…… アリシアは胸の奥が揺れるのを感じた。 ヴィクターはこの地に来てまで、一体、何をしようとしているのか。それを問いたださなければならない。 ヴィクターが壁に背を預けたまま、視線を落として息を吐いた。 肩がわずかに沈み込む。 それは意識的に力を抜いたというより、何かを諦めた身体の反応だった。音を立てずに吐かれたその息には、言葉にできない思いが込められている。「助かったよ。ここに来てくれて。俺、もう、どうして良いか分からなかった」 ヴィクターの眼差しは、目の前の光景ではなく、過去の残像を見ているかのようだった。 その眼差しは目の前に広がる海に向けられている。 クローブ村には海は存在しなかった。ヴィクターが知る景色ではないはずなのに、どこか懐かしそうに海を眺めている。「ヴィクター、あんた、ここで何してんの? カイルは?」 黙って様子を見つめていたアリシアが堪えきれずに口を開いた。「カイル? カイルなんて知らない。お前こそ、どうしてここにいるんだ」 ヴィクターは顔を少しだけ傾けて、ぼんやりと返した。「あんたが怪しいから追ってき
last updateLast Updated : 2025-07-26
Read more

ひと気なき傾斜の先に ⑧

「祭りの日……森の異変が噂になって、村中がざわついてた。俺も不安でさ、先のことが全然見えなくて。木工の仕事も思うようにいかなくなったし……。いつも通りにやってるのに、木が妙に乾いてたり、芯が脆く割れてたりしてさ。そんな時に、リノアが村の儀式でリーダーに選ばれたって聞いて……」「だからリノアに絡んだって言うの」 アリシアが冷ややかに言い放った。「後になって気づいたんだ。俺、ひどいことをしたって……」 ヴィクターは視線を落としたまま、苦しげに言った。「だから、あいつを──リノアを追うことに決めたんだ。何か俺にもできることがあるんじゃないかって……」 ヴィクターは言葉を絞り出すように言った。声が震えている。「リノアに怒鳴ったのは……たぶん、自分の無力さをごまかしたかったからだと思う。あんなの、ただの八つ当たりだよな……」 言葉を紡ぐたびに、ヴィクターの声が小さくなっていく。 アリシアの胸を冷たい風がひとすじ吹き抜けた。 ヴィクターの言葉が本心なのか、場を繕うための嘘なのか、判然としない。 ヴィクターの手が膝の上で震えている。 アリシアは沈黙の中、そっとヴィクターから視線を逸らした。 その顔に浮かんでいたのは、ただ、何かを喪失し尽くした者に残る、擦り切れた疲労だけだった。 もうヴィクターの言葉を疑う理由はない。 ヴィクターは嘘をつくには不器用すぎる──それは昔から知っていることだ。 誰かを騙すために言葉を選ぶ器用さも、感情を隠す技術も持ち合わせていない。むしろ、こうして自分を責めるように喋り続けること自体が真実を表している。 語られた後悔は、きっと本物なのだろう。 しかし、まだ心に引っ掛かるものがある。それは、このアークセリアの地でヴィクターが取った不審な行動だ。 どうして、ヴィクターはグレタと行動を共にする必要があったのか。 心の奥でアリシアは警戒心を拭いきれずにいた。 グレタはグリモア村の村長。少し前にクローブ村に姿を現し、リノアのことをあれこれと詮索したと聞く。 その名は何度か耳にしていたが、良い噂は殆どなかった。善意の面影をまとっているが、底の見えないものを孕んでいるという話だ。 アリシアは立ち上がって、ヴィクターから少し距離を取った。
last updateLast Updated : 2025-07-27
Read more

ひと気なき傾斜の先に ⑨

「ヴィクター、一つ訊いていい? 何でグレタと一緒にいたの?」 優しげな視線に潜む鋭さが、ヴィクターの心を突き刺すように走り、ためらいを問答無用で断ち切る。 ヴィクターはすぐには答えなかった。 その沈黙が、かえってヴィクターの動揺を際立たせる。「……騙されたんだ。あいつはグリモアでも異変が起きてると言って近づいてきた。リノアならそれを止められるって。だから……俺、協力するしかないと思ったんだ」 海鳴りが断続的に響く中、ヴィクターの声が波間に沈むように響いた。その声は途切れ途切れで弱々しい。 アリシアは、その言葉にすぐに反応できなかった。 海鳴りの合間に思考の波が打ち寄せる。 グレタの意図は何なのか、いまいち見えてこない。「それで、ヴィクターは何をしたの?」 疚しいことをしていないなら、逃げる必要なんてないはずだ。 ヴィクターは沈黙の中、視線をゆっくりと落とした。 そして何かを確かめるように間を置き、絞り出すように言葉を紡ぐ。「グレタたちは森で何かを探してたんだ。自然保護の調査だとか言って……」「それって、探していたのは鉱石ですか?」 セラが不意に割り込んだ。「どうして、それを……?」 ヴィクターは驚きのあまり、声を失い、思わず息を止めた。視線がセラに釘付けになる。 動きかけた手が止まり、まるで心の奥にしまっていた記憶が不意に引きずり出されたようだった。「わたし、クローブ村の近くで青白い光を見たことがあるんです。地面の割れ目から浮かぶ怪しげな光でした」 セラは一歩踏み出すように身を前へ傾け、そっと言葉を紡いだ。指先が無意識に袖を握りしめている。「崖崩れが起きた時なんて、土の色が変わってた。木々も不自然に枯れていたし」 セラの声が空気に染み渡るように響くと、ヴィクターの顔色がさっと変わった。心の奥を急に照らされたように、視線が彷徨う。「知らなかったんだ。森を壊すことになるなんて、思ってもみなかった。気づいた時には……すでに、自分の手で多くを傷つけてしまってた。何も知らずに……」 声がかすかに揺れる。後悔が言葉の端々から溢れていた。「だけど、クローブ村の近くで起きた件と崖崩れは俺じゃない。あの場所には、俺は関わってない」 ヴィクターの声が波音に飲み込まれるたび、か細く震えて戻ってくる。 アリシアはゆっくりと視線をヴィク
last updateLast Updated : 2025-07-27
Read more

密やかなる命の痕跡 ⑨

 霧の帳を引き裂くように、甲高い叫びが響き渡った。 幼い声──震えるほどの恐怖がこもっている。 リノアは反射的に振り向いた。 霧の向こうからだ。 その声が、まるで胸を素手で掴まれるようにリノアを揺さぶった。 それは助けを呼ぶ声。 命が砕ける寸前の、魂の叫びだった。──絶対に守らなければならない。 リノアはエレナに目で合図し、二人は霧の中を滑るように突き進んだ。 霧の奥からは物音ひとつ聞こえない。 走りながら、リノアは周囲に目を走らせた。 先ほど仕留めた兵は霧の深みに沈んだはずだ。だが、それ以降の動きが見えない──静かすぎる。 敵が私たちに気づかれないように回り込んだのだろうか。 この濃霧では、視覚も聴覚も当てにならない。足音も気配も簡単に塗り潰される。それが分かっているなら、回り込むのは比較的たやすい。 背後にはエレナがいる──その確信を意識の奥に留めながら、前だけを見つめる。 ぴたりと息の合った動き── 互いの沈黙が、研ぎ澄まされた共通意志となって霧を裂いていく。 木々の隙間を駆け抜けた刹那、視界の端に、きらりと小さな光が閃いた。 霧が風に揺れ、茂みの奥で葉擦れの音がひとつ。 遠く、霧の切れ目に二つの人影。 女性が小さな子を抱きかかえ、転びそうな足取りで必死に逃げている。 その子の小さな手に、星型のペンダント── 霧の中で淡く光りながら、揺れている。 あれは── 母の形見と同じ形。 私が持っているものに似ている……「危ないっ!」 エレナの声が霧の中を裂いた。 前方の二人が振り返る間もなく、子どもが女性の服にしがみつく。 その瞬間──霧の向こうで何かが動いた。 木々のざわめきの向こうから、重く、不規則な足音が這い寄ってくる。 一体、何人いるのか。いや、何体と言うべきか……。実体が怪しい影が幾つかある。 リノアとエレナは息を合わせるように霧の中を駆け抜け、素早く人影の前に立ちはだかった。──なんとしてでも、二人を逃がさなければ。「敵が来る! リノア、援護して!」 エレナの声に反応したリノアは、腰袋に入った凍結の晶核に触れた。 微かな振動が空気を震わせ、氷の粒が花のように広がる──瞬く間に、半透明の氷壁が立ち上がった。 その隙を逃さず、エレナは横へ回り込み、茂みの奥へと身を滑らせて弓を構えた。
last updateLast Updated : 2025-07-27
Read more

密やかなる命の痕跡 ⑩

 エレナは深く息を吸い、弓を横に掲げた。 その瞬間── 五つの矢が閃光のごとく疾走した。 雷光石を仕込んだ矢の先端が青白い光を放ち、凍てつく光が上空を蜘蛛の巣のように覆う。 敵兵の一人が足を止め、思わず空を見上げた。 肌を刺す静電気に、一瞬、たじろぐ。 霧の向こう、空には雷の網。青白く脈打つ光の糸が天空を覆っていた。 雷群が天空から舞い降り、霧の帳を鋭く裂きながら地表を突き刺す。 声をあげる間もない。 敵が叫ぶよりも早く、雷光の矢が炸裂した。 地鳴りが響き渡り、視界の端が明滅する。 一体、二体、三体── 稲妻に包まれた影が次々と膝をついていく。 視界はなお揺らめき、雷の残響が空間を歪める中、霧の奥で、ひとすじの疾光が駆け抜けていった。「一人、逃げた!」 リノアは言うと同時に氷壁の裏から飛び出した。 手には凍結の晶核。 走りながら晶核に指を這わせる。──間に合うだろうか? 足音が地面を打つたび、不安が胸を叩く。 剣を構えた男が一歩踏み込み、右腕をゆるやかに引いた。 肩が回転し、剣先が弧を描く。 照準は前方を走る女性と子ども── 霧の中、剣の輪郭だけが銀色に光り、呼吸と共に筋肉が軋む。 男の筋肉が一気に収縮した瞬間、腕が旋回し、銀の剣が空を切り裂いた。 投擲された剣が唸りを上げ、霧を突き破っていく。 風鳴りが一拍、遅れて走り、剣が鋭い軌道で滑走した。 狙いは寸分の狂いもない。 向かう先は女性の背中だ。「──させないっ!」 焦燥が喉元まで迫る中、リノアは凍結の晶核の表面を指先で裂いた。 形が崩れると同時に、飛沫のように散った氷粒が前方へ勢いよく放たれる。──お願い、間に合って。 空気を裂く音と共に氷粒は螺旋を描きながら疾走し、霧を穿つように前方へ突き進む。 リノアの手から放たれた氷の障壁が剣の軌道に割って入った。 氷塊が一瞬で拡大し、空間を覆う。 ドン! 投擲された剣が氷壁に直撃し、爆ぜるような衝撃が辺りに走った。 断ち切られた力の余波に、女性と子どもが身体をぐらつかせる。 足元の斜面が崩れ、氷の残滓と共に二人は雪崩のように滑り落ちていった。 枝を掠め、岩肌を擦るように滑りながら、身体は翻りつつ斜面を落ちていく。 そして── 水音が緋色の静寂を破った。 冷たく澄んだ川の水が、二人を抱え
last updateLast Updated : 2025-07-28
Read more

密やかなる命の痕跡 ⑪

 遠ざかっていく水音の中、リノアは、その場に立ち尽くしていた。 霧に紛れて消えた二人を呆然と見送る。 森の深みへ消えていった女性。 間違いなく、あの人は…… 言葉にならない想いが喉に詰まる。「リノア、油断しないで。まだ何体か残ってる」 エレナの声が背後から届いた。 霧の陰で動く影。 ひとつ、またひとつ──散らばる影が音もなく足元へ迫る。 エレナは指を弦に掛けた。 視界の外縁に残る敵の動きが、風の揺らぎに微かに浮き上がる。「残ってるのは、三体。数が減ってる。私たちの攻撃が効いているのかもしれない」 エレナは冷静に言った。 この場に居るのは、わずか三つの気配だけ。目の前にいる二体、そして森の中に潜む一体だ。 先ほどまでの統率は、もうなさそうだ。殺気も薄れ、動きも、どことなく遅くなっている。 それでも油断はできない。 散った獣ほど不規則に動き、深く食い込んでくるものだ。この者たちも例外ではない。「あいつ逃げる気なのかな」 リノアは森の中へ引き返す一体を目にして言った。「そう見えるね。あれがこの群れを操っていたリーダーなのかも。多分、人間よ」 エレナが答える。「あとは任せて、私一人で大丈夫」 そう言って、エレナが敵を見据え、そっと矢筒に手を伸ばした。 足元に目をやり、湿った地表に狙いを定める。矢が放たれ、雷光石が地を這った。 バチン! 閃光とともに電流が地表を這い、一体が足を取られて崩れる。 エレナは短弓に持ち替えると、眉ひとつ動かさず連射した。 矢が斜め下から心臓部と思しき位置へ次々と打ち込まれていく。 三本目が着弾した瞬間、二体目が呻きながら膝をついた。「さて、最後の一体……」 茂みの奥、逃げる人影が一瞬だけ姿を見せた。 砕けた鎧の隙間から覗く、細身の輪郭。揺れる布が風に翻る。「やっぱり人間だ……」 リノアが呟く。 エレナは頷いたが弓を下ろさなかった。 エレナの指先が最後の矢へと滑る。 羽根の根元には鈴のような装飾──小さな銀の球が一つ付けられている。『風語の鈴』 狩人たちが眠りのために用いる、静かで優しい凶器だ。「それ効くの?」 リノアが問う。「分かんない。取りあえず使ってみる。効果を発動させるには衝撃が必要と言ってたっけ? ちょっと遠いけど、風に乗れば届くでしょ」 エレナは弓を引い
last updateLast Updated : 2025-07-28
Read more

ひと気なき傾斜の先に ⑩

 他にも動いている人たちがいる? アリシアのヴィクターに向ける視線には怒りも非難もない。言葉の裏にある真実を探るような確かな意志が込められている。 一言ごとに距離を測るように思考を深めるその様子は、揺るぎない芯を持った者の姿だった。 アリシアはその言葉を反芻しながら、ヴィクターを見据えた。「その人たちって誰なの?」 アリシアは唇をきつく閉じたままのヴィクターの顔を、じっと見つめた。 言葉を待つ間も、アリシアの視線は揺らがない。 それは問いを投げたというより、答えを引き出す意志そのものだった。「ヴィクター、本当は知っているんじゃないの? 正直に話して」 アリシアの瞳がヴィクターを射抜く。「ちょっと、待ってくれよ。俺は詳しくは知らないんだ。一度だけ、グレタが誰かと話しているのを見ただけで……」 言い訳のように紡がれた言葉は、かえって何かを隠しているように見えた。「それはどこで?」 声に怒気はない。だが問いは鋭く、ヴィクターに逃げ道を与えない。「酒場だ。街の真ん中にある店で、まるで何も隠す気がないように会っていたよ」 ヴィクターの口調は淡々としている。「相手は軍人でも商人でもなかった。何か……もっと違う雰囲気だった」 アリシアが、ちらりとセラへ視線を送る。「私がクローブ村の近くで見た人たちも、そんな感じだったかな。黒いマントを着ていたと思う」 そう言って、セラは苦い顔をした。「ということは──連中はこの事態に、裏から関わってるってことになるよね?」 アリシアは再びヴィクターに向き直る。 アリシアの問いは鋭く、沈黙を許さないものだった。 ヴィクターが答えかねて口をつぐむ中、波音が静かに会話の間を埋めていった。 海岸に面した街の空気は、塩を含んだ湿気で肌にまとわりつくような重さを持っている。 沖合では、かつて漁師たちの目印だった灯台が、いまや色褪せた鋼鉄の影として佇んでいる。 浜辺には焦げたような油膜をまとう漂着物が増え、潮の満ち引きと共に、異臭と腐食の気配が運ばれていた。 気象記録員の報告に、「水質成分の異常」「海流の変調」「毒素の蓄積による魚種の激減」が並んでいたことを思い出す。 それは排水による汚染。そして原因不明の発光を伴う藻の異常繁殖といったものだった。人為的な搾取の影響によるものだ。「夜になると波が引いてい
last updateLast Updated : 2025-07-28
Read more
PREV
1
...
141516171819
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status