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All Chapters of 水鏡の星詠: Chapter 41 - Chapter 50

96 Chapters

名家の宿命 ⑩

「グレタたちがどこへ向かうにせよ、グレタがこの村を訪れた理由を軽視するわけにはいかない」 ただ買い物に出かけたというわけではないだろう。グレタは何かを企んでいる。「覚悟を決めなければならない時が来たのかもしれない」 クラウディアはそっと呟いた。 リノアを危険な目に晒すわけにはいかないが、グレタが言っていたように、もうそのようなことを言っている場合ではない。 リノアの力を信じなければ、この村の未来は守れないのだ。「トラン、ミラ、お前たちは寒い中、本当によく頑張ってくれている。村のみんなも二人の働きを頼りにしているよ」 クラウディアの声には冷静さと共に温かな励ましが込められており、その言葉は二人の心に安堵をもたらした。 クラウディアは視線をトランへ移すと、穏やかだが確固たる口調で続けた。「トラン、ひとつ頼みたいことがある」「僕に……ですか? 一体、何をすれば……」 トランは困惑した表情を浮かべた。ミラが不安そうな顔でトランを見つめる。「リノアとエレナが森の小屋で作業をしていると思う。二人に伝言を届けて欲しい」 クラウディアは言葉を慎重に選び、トランを見つめた。「トラン、無理しない方が……」 トランは姉の視線を受け流すように顔を上げた。「大丈夫だよ、ミラ。僕だって、それくらいのことはできるよ」 その言葉には、年下ながらも自分の力を証明したいという強い意志が感じられる。「クラウディア様。任せて下さい。シオンが研究していた小屋ですね。すぐに向かいます」「シオンの研究所までは安全だから良いが、それより先は危険が潜んでいるかもしれない。トラン、先に進むんじゃないよ。リノアとエレナが小屋にいなかった時は紙を置いて直ぐに戻っておいで」 そう言ってクラウディアはトランに一枚の紙を手渡した。「分かりました。そうします。クラウディア様」 クラウディアの言葉を胸に刻み込み、トランは顔を引き締めた。 ランタンを手にして広場を出て行くトランの背中は、迷いを振り払うようにまっすぐ伸びている。「ミラ、トランなら大丈夫よ」 クラウディアは不安そうにしているミラの肩に手を置いて、優しく声をかけた。ミラが唇をかみながら、小さく頷く。 広場の空気は冷え込み、鋭い寒気が肌を刺すようだった。薄く立ち込める霞の中で、クラウディアは遠ざかっていくトランの背中を目で
last updateLast Updated : 2025-04-13
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名家の宿命 ⑪

 クラウディアは広場を後にし、杖を突いて小道を急いだ。古老の家は村の外れにある。苔むした石垣に囲まれた小さな家。時間の積み重ねが石垣に刻まれ、歴史の重みが感じられる場所だ。 ランタンの淡い光が地面を照らし、クラウディアの影を長く伸ばしている。光の揺らめきに合わせて、影もまた不安定に踊っているようだった。 クラウディアはその視界の片隅に移る影を無意識に眺めながら、手元に残る紙の感触に意識を向けた。 あの伝言を見て、リノアはどう判断するのだろうか……。 期待と不安が胸中を交錯する。 クラウディアは小さな家の前で立ち止まると、木の戸を軽く叩いた。 やがて戸がゆっくり開き、白髪の古老エダンがランタンを手に姿を現した。皺だらけの顔に鋭い目が光っている。「クラウディア、こんな夜更けに何だ? 国の血を引く者が、こんな時間に村をさまようとはな」 そう言って、エダンは鋭い目でクラウディアを見据えた。その声には疑念と挑発が混じっている。──国の血を引く者── エダンの棘のある言葉がクラウディアの心を現実から過去へと引き戻していく。 かつて国に盲従し、森を焼き払う命令に従おうとしたことがあった。森が失われた時の痛ましい光景、そして村人たちの悲鳴が耳元に鮮明に蘇る。 もしあの時、リノアの母に出会わなかったら、一体、私はどうなっていたのか。あのまま闇に墜ちて行ったのではないか。 クラウディアはエダンの疑うような視線を受け流し、心を落ち着かせた後、静かに言葉を紡いだ。「エダン、こんな時間に押しかけてきて申し訳ない。この村のために、どうしても今すぐ動かなければならないことがあってね」 エダンはクラウディアの言葉に耳を傾けながら、ランタンを少し持ち上げ、顔に一層影を作った。 二人の間に緊張感が漂う。 クラウディアは目を逸らさず、エダンの鋭い目に応えた。「森は私たちの命そのもの。私が信じるべきものは国ではなかった」 クラウディアは杖を握り直し、毅然とした表情でエダンを見つめた。その姿には過去と向き合いながらも未来を守る決意が宿っている。──自然を失えば人は滅びる── リノアの母が私の目を真っすぐに見据えて言った。あのような澄んだ目をした人間を見たことがない。 リノアの母の存在が私の心を国から引き離したのだ。「エダン、戦乱時の話を聞きたい。名家や国の動き
last updateLast Updated : 2025-04-14
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名家の宿命 ⑫

「ノクティス家が……?」 エダンはゆっくりとランタンを持ち上げ、影が揺れる中でクラウディアの顔を見つめた。「そうだ。この村にとってノクティス家は欠かせない一族だった。彼らの裏切りなど、誰ひとり信じることができなかったよ。それは村にとって、あまりに衝撃的で、現実味を欠いているように思えたからな」 エダンは肩をすくめながら、しわがれた声で続けた。「しかし、その噂は瞬く間に村中に広がっていった。誰もが心の中では否定したかったが、繰り返し語られるうちに、次第にそれが真実のように思えてきたのだ」 クラウディアは沈黙の中でエダンの話を咀嚼した。「エダン、その噂を最初に広めたのは誰だか分かる?」「誰が最初かなんて、分かるわけがないだろう。あの混乱の中で真実は霧のようにぼやけ、誰もが自分の見たいものしか見なかったのだからな」 エダンは目を細めたまま、唸るように応えた。 リノアの両親――イリアとカムラン。 戦乱の最中、戦死したと誰もが信じていた。しかし、彼らの遺体はどこにも見つからなかった。今もどこかで生きていることは十分に考えられるが……。 しかし、本当にあの二人が裏切るなどということがあるのだろうか? しかも当時はシオンとリノアは幼かったのだ。 イリアの穏やかな笑顔とカムランの剣に宿る誇り──あの二人が裏切るなど有りえない。「それにしても、急にどうしたんだ。あんたがそんな昔のことを掘り返すなんて」 エダンの声には探るような鋭さが潜んでいた。ランタンの揺れる光がエダンの顔にちらつく疑念を浮かび上がらせる。 クラウディアは一瞬だけ目を向け、エダンの視線を受け止めた。だが、その挑発には乗らず、冷静に言葉を返した。「ちょっと気になることがあったんでね」 そう言い放つと、クラウディアは背を向けた。霧の帳が揺れる中、クラウディアのシルエットがランタンの淡い光に滲む。エダンの視線が背中に刺さるのを感じたが、クラウディアは振り返ることなく、歩を進めた。「エダンのあの様子では、噂を心の底から信じている。他の村人たちもエダンのように噂を信じているのだろうか。 クラウディアの胸に抑えきれない苛立ちが広がる。 どうして誰も疑わないのか。どうして村を守るために命を賭した人たちを憎むのか。 脳裏にイリアとカムランの最後の言葉がよみがえる。──シオンとリノアを頼む
last updateLast Updated : 2025-04-15
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名家の宿命 ⑬

 クラウディアは記録保管庫へと急いだ。イリアとカムランの謎めいた行動、消えた真実―その解決の鍵が、そこに眠っていると信じて。 霧に呑まれた小道を進んでいる途中、不意に木々の間で小さな光が瞬くのが目に入った。 咄嗟にランタンを地面に置き、クラウディアは木の陰に身を滑らせた。 地面に置かれたランタンが暗闇の奥を照らす。 クラウディアは感覚を研ぎ澄まし、相手の出方を伺った。 敵か、味方か、それとも……。 静寂の中、葉擦れの音が微かに耳に届く。小さな動物が動き回る音だ。だが、この森ではどんな音であっても油断することはできない。 クラウディアは身を屈めて、光の届かない木の陰からそっと覗き込んだ。 星の欠片のような淡い光……。 ふわりと揺らぎながら、小さな動物の形を描いている。「まだ、この森にいたのか……」 森の伝承に語られる、小さな守り手。星リス。 淡く輝く毛皮をまとい、黒曜石のように澄んだ目でクラウディアをじっと見つめている。 戦時中、村人が森で迷わないように導いたという小さな生き物だ。星リスが発する光は、森の鼓動を表しているかのように儚く揺れている。それは、どこか不安を感じさせるものだった。 クラウディアは眉をひそめ、目の前に現れた星リスをじっと見つめた。森の導き手として知られるその存在が、なぜ今、こうして姿を現したのか——その理由を考えずにはいられなかった。「お前は、この森の現状をどう思っている?」 クラウディアは星リスに問いかけた。しかし星リスは答えず、その輝きをただ揺らすだけだった。そして次の瞬間、光はゆっくりと薄れ、暗闇へと消えていった。 じっと息を潜めながら、クラウディアは光の消えゆく先を見つめた。 森は何かを訴えている……。 クラウディアは心の中で星リスの光が何を意味しているのかを考えながら、再び足を踏み出した。 記録保管庫へ向かう足取りが次第に早まる。リノアとエレナに危険が迫っているのではないかという焦りが、クラウディアの足を急がせた。 村はずれに位置する記録保管庫は、時の流れをそのまま抱え込んだような古びた建物だ。木の扉は朽ちかけ、苔むした屋根が年月の重みを思わせる。 鍵を回す音が静寂の中に響き、扉が軋みながら開いた。中に一歩足を踏み入れると、埃っぽい空気と書物の古びた匂いがクラウディアを迎えた。 ランタンの
last updateLast Updated : 2025-04-16
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名家の宿命 ⑭

 クラウディアは埃まみれの棚から戦乱時の記録を引っ張り出した。 急ぎたい気持ちはある。しかし、ページを捲る手は遅々として進まない。私もまだ心の傷が癒えていないのだ。正直に言って、あまり戦争のことには触れたくはない。 クラウディアの目の前には、まだ目を通していない無数の書物が横たわっている。この中に私が探し求めるものがあれば良いが……。 クラウディアは一層ランタンの光を頼りに、埃まみれの書物に目を落とし、一枚一枚丁寧にページを捲っていった。 リノアとエレナは今、森の奥でシオンの遺物を調べている。あの二人も目を背けたかった過去と向き合う覚悟を決めたのだ。私だけ逃げるわけにはいかない。 クラウディアは古びた羊皮紙の山を捲って、指先に刻まれた過去を追い続けた。読み進めて行くうちにクラウディアは、ある一つの記述に目を奪われた。 黄ばんだ羊皮紙に掠れたインクで、こう記されている。「戦乱末期、名家の戦士が国の使者と密会した。何らかの取引が交わされたと噂される」 クラウディアの息が止まる。 エダンの言っていた「裏切り」とは、これのことだろうか。 記述はあまりに簡潔で、それ以上の詳細な情報は一切、記されていない。──イリアとカムランが国の使者と取引? これは本当か? かつて、私は国の使者として、この村に潜んだ過去がある。 当時、私の使命は村々を分断させ、国の支配を確固たるものにすることだった。 戦乱の最中、国は各地の名家や戦士たちを利用し、領地を拡張しようとしていた。私の使命は村々の結束を揺るがし、内部分裂を促すこと。名家の戦士であるイリアとカムランも、その標的のひとつだった。 私は何度もイリアとカムランに密会を持ちかけた。国へ従うことで得られる利益を二人に提示し、戦乱の中でも安泰を約束する交渉を持ちかけた。「国の庇護を受ければ、村は攻撃を免れる。お前たちが率先して受け入れれば、誰も傷つかずに済む」 しかし、彼らの答えは変わらなかった。「あなたたちに支配されるということは、死ぬことと同じだ。その要求は受け入れることはできない」 その誇り高き二人が村人たちを裏切るはずがない。村を守ることが彼らにとって唯一の指針だったのだから。 この記述の指す「国の使者」は私ではない。私がイリアとカムランに持ちかけた交渉は決裂している。 では、誰が? 交わした
last updateLast Updated : 2025-04-18
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名家の宿命 ⑮

 敗戦後、村の中で囁かれ始めたのは、イリアとカムランに対する「裏切り」の疑念......。「二人は自分たちだけが助かる為に、国の使者と取引をしたのではないか?」 確かな証拠もないまま疑念だけが大きくなり、その噂は瞬く間に広がった。語られるうち、その噂は『裏切り』として既成事実化され、村人たちの心に定着するようになる。 誰もが、そう信じたかったのだろう。やり場のない怒りをぶつける相手として、イリアとカムランは都合が良かったのだ。 だが、私は知っている。 イリアとカムランは最後まで村を守るために戦っていた。二人は裏切ってなどいないことを──。 それにしても、二人は私にリノアとシオンを託した後、どこに消えてしまったのか。人知れず、どこかで戦死してしまったのだろうか。それとも村人の誰かに殺されでも……。 私以外の国の者が村人に調略を持ちかけていたとしてもおかしくはない。扇動された村人が二人を殺害、若しくは捉えて国に差し出した可能性はないだろうか……。 記憶の断片が胸に冷たく突き刺さり、クラウディアの視線がランタンの揺れる光に落ちた。 現時点で考えたところで答えに行き着くことはないか……。情報量があまりにも少なすぎる。 思考の迷路をさまようばかりで、確かな答えはどこにも見つからない。薄暗い部屋の静けさが、焦燥感をより際立たせる。 クラウディアは溜息を漏らした。その時、窓の外で微かな足音が響く。 夜の闇に紛れるような控えめな音が次第に近づき、それに伴って枝が折れる音が鋭く響き渡る。小動物ではない。 クラウディアの背筋に冷たい感覚が走った。 ランタンの光を落とし、窓に近づく。窓を覆う霧が水滴となり、ガラス面を伝い落ちていく。「そこにいるのは誰だ……?」 暗闇の中で何かが動いている。──国、あるいは村の密偵か? 暗闇の中の者に問いかけるが、応答がない。 沈黙が支配する中、突風が吹き、森のざわめきが一層、強まった。その音はクラウディアの心を試し、揺さぶるかのように響いている。 クラウディアの心に不安感が広がっていく。──暗闇に潜む何かが私を見つめている気がする。 クラウディアは窓際からゆっくりと離れ、息を整えた。 ランタンの灯りがわずかに揺れ、淡い光が森をぼんやりと浮かび上がらせている。──本当は、そこには何もないのではないか。私が作
last updateLast Updated : 2025-04-18
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忘れられた研究所の秘密 ①

 老婆の言葉と傍らに立っていた女性戦士の姿が、リノアの胸に奇妙な違和感を残していた。 二人の目的を探る術もなく、ただ村に向かう二人の背中を思い返すばかりだった。リノアとエレナは、お互いに視線を交わしながら森へと足を進めた。 森は秘密を抱えた古老のように沈黙し、静寂は耳を塞ぐほど深い。リノアとエレナの足音だけが森に響き渡る。「エレナ、鳥がいない……」 リノアの声にはかすかな動揺が滲んでいる。「風も吹いてないね」 エレナは辺りを見渡しながら、弓に自然と手を掛ける。 リノアはエレナの陰で森に意識を向け、空気の流れを感じ取ろうとした。 以前の森は木々の隙間を抜ける風が星の歌を運び、その音色が森全体を輝かせていた。それに比べ、今の森は風のない世界のように淀み、輝きを失っている。 異様な沈黙——まるで生命の躍動を感じない。 リノアはこの現象の異質さを受け止めて、冷静に考えを巡らせた。 リノアの視線が森の奥へ進むほど、不穏な空気がじわりとその影を濃くしていく。まるで森全体が息を潜め、その謎めいた真実を語り出す時を待っているかのように。「クラウディアさんの『森が鳴く』って、何だろうね」 リノアの胸に不安がじわりと広がる。クラウディアの言葉は不気味な予感を残していた。「森が鳴く時、世界の均衡が揺らぐ」 エレナが思い出すように呟き、そして続けた。「変化なんて恐れる必要はないと思うよ。存在している以上、全てのものは絶えず変化をしているものだからね。大切なことは均衡を崩さないことなのだと思う」 森が静寂を破る時、そこには必ず理由がある。 木々のざわめき、風の震え、大地に響く低い唸り──それらは、かすかな予兆として現れ、やがて大きな波へと変わっていく。 それは自然が告げる変化の前触れであり、見えざる力が動き始めた証でもある。いつもと異なることが起きた時は細心の注意を払わなければならない。 その変化がまさに今、目の前で起きている。「エレナ、早く行こう。シオンの研究所へ行けば、何か分かるかもしれない」 シオンの研究所は北の小径の入り口近くにある。 二人は北の小径を急いだ。 リノアとエレナは小道の脇に倒れた木の手前で足を止めた。幹や枝が乾いてひび割れ、砕けた鏡のように散乱している。「つい最近まで立っていた木が……」 エレナが困惑した表情で呟いた。
last updateLast Updated : 2025-04-19
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忘れられた研究所の秘密 ②

 ここでシオンは研究に没頭し、時には夜を越してまで続けていた。思い浮かぶのは、彼が満ち足りた笑顔で机に向かっていた姿。部屋のどこを見ても、シオンの存在がいまだにこの場所を支配しているように感じられる。 中に足を踏み入れると、冷たい冬の空気が二人を鋭く包み込んだ。吐息がわずかに白く曇り、室内は静けさとともにひんやりとした湿気を漂わせている。土壁は冷え切り、かすかな霜がその表面にしみ込むように薄く光っていた。 かつてシオンが過ごした時間の痕跡が室内の隅々に残されている。 埃の積もった木肌の上に、くっきりと浮かび上がる笛の跡。その姿は、まるで時間の狭間に取り残された思い出の影のようだった。「シオンの物、そのまま残してるんだね……」 リノアの囁くような声が、埃っぽい空気の中に溶け込む。 私たちにとって、ここにある全てのものが形見だ。たとえ時が流れても触れた瞬間に過去が蘇る。その儚さが、かえって手を伸ばすことをためらわせるのだ。「手を付けてはいけない気がしてね……。何だか思い出が壊れそうな気がするから」 そう言って、エレナは目を伏せた。 その表情には、どこか切なさと迷いが見て取れる。 リノアはエレナの言葉にじっと耳を傾けた。触れれば壊れてしまいそうな繊細な記憶。その言葉には過去を大切にしたいという想いが含まれている。 リノアはゆっくりと息を吐きながら、視線を落とした。 この部屋に満ちる静けさが、エレナの気持ちと重なり合うように感じられる。 沈黙が流れる中、やがてリノアは目線をさまよわせ、ふと隅に積まれた木箱へと目を留めた。「……あれって何だろう?」 リノアが不思議そうな顔で呟いた。木箱の表面には、リノアが持っている笛と同じ文様が刻まれている。「開けてみたら?」 エレナが言った。「でも……」 エレナの言葉にリノアが戸惑いを見せた。「いいのよ、リノア」 リノアの視線を受け止めるように、エレナはそっと微笑んで言った。 その笑顔には、これまで閉じ込めていた想いが解き放たれたような温かさがある。「ここに来るまで、私はシオンの死に向き合うことを避けていた。でも、このままずっと触れないでいたら、思い出は遠ざかっていくばかり。シオンはそんなことを望んでいないと思うし……ね」 そう言って、エレナは懐かしむように木箱へ視線を落とした。「ほら、リノ
last updateLast Updated : 2025-04-19
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忘れられた研究所の秘密 ③

 箱の中には薬草の束が整然と収められている。その薬草は不思議と枯れることなく、時の流れに逆らうように鮮やかな色合いを保ち、まるで何かを守るように静かに横たわっている。 その中心で銀色に輝くペンダント── リノアは淡く輝くその光に目を奪われながら、ペンダントを手に取った。指先が触れた瞬間、リノアは胸の奥深くで何かが高鳴るのを感じた。その感覚が波紋のように全身に広がって行く。 突然、リノアの視界が揺らぎ、目の前に幻想的な光景が広がった。見たこともない光景だ。 漆黒の夜空に無数の星が煌めき、静かに瞬いている。その光を浴びるように広がる広大な森。それらの木々を風が一本一本、優しく撫でている。 森の奥深くには神殿がひっそりと佇み、石壁に紋様が刻まれていた。 その神殿の入口に、小さな影。 可愛らしい目をしたリスがこちらを眺めている。長い時を超えて語りかけるような視線……。 リスは神殿の前で動かず、小さな二本足で立ち、尾をゆったりと揺らしている。やがて星の輝きと共鳴するかのように淡く光り始めたかと思うと、その光は星々に呼びかけるように広がって、そして消えていった。 その場で立ち尽くすリノア。「リノア、どうしたの?」 エレナの声が静寂を破った。 リノアは瞬きをし、視界にぼんやりと映し出される光景を見て我に返った。「今……何かが見えたの。神殿と星空……そして、リス。リスが私を見つめていた」 現実とは思えないほど鮮やかな光景だった。 一体、何だったのだろうか。 現実の光景だったのか、それとも心の中に浮かび上がった幻だったのか——リノアには分からない。 ただ、その瞬間、胸の奥に何かが目覚めるような感覚があったのだけは確かだ。「リノア、大丈夫?」 エレナが心配そうな顔をして、こちらを見つめている。 リノアははっとして顔を上げたが、その瞳はまだどこか遠くを見つめているようだった。「シオンが、私に何か伝えようとしているのかもしれない」 リノアは自分でもその言葉の意味を完全には理解できていなかった。ただ、目の前に広がった光景が持つ重みを感じていた。「リノア、その光景に見覚えはあるの?」 エレナの問いかけに、リノアは小さく首を振った。「ううん。私、神殿なんて一度も見たことがないし」「神殿か……。何でそんなものを見たんだろうね。確か、山の奥に今は使
last updateLast Updated : 2025-04-19
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忘れられた研究所の秘密 ④

 リノアとエレナはシオンの研究所の扉を押し開け、北の小径の奥へ向けて足を踏み入れた。 陽は西へ傾き始め、森の中に柔らかな夕暮れの気配が漂い始めている。リノアとエレナは、ゆっくりと伸びていく木々の影を感じながら歩を進めていた。 時間に追われるわけではない。しかし、この言いようのない気持ちは一体何だろう。穏やかな情景とは裏腹に、森に立ち込める空気には言いようのない不穏な気配が漂っている。 リノアは腰の革帯に差し込んだシオンの笛を無意識に握り締めた。「この笛は僕、そのものだ。リノア、一つあげるよ」とにっこり笑ったシオンの笑顔が忘れられない。その時以来、シオンの笛は私の大切な宝物であり、心の支えとなっている。 シオンが笛を吹けば、その透き通った音色に誘われるように小鳥たちが集まった。シオンの心はいつも自然と共鳴し、まるで森の一部のように溶け込んでいた。 シオンは実の兄として、リノアに優しさと安心を与えてくれた、かけがえのない人だった。そのシオンの死はリノアの心に癒えない傷を刻んだ。 シオンは森の奥で何を見つけたのか? どうして命を落とさなければならなかったのか? その答えがすぐに見つかるわけではない。 それでもリノアの胸にはシオンの秘密を解き明かしたいという熱い想いが渦巻いていた。 隣を歩くエレナが年上らしい落ち着きと、凛とした瞳で前を見据えている。だが、その凛とした表情の奥には、シオンの死に対する深い悲しみが隠れていることをリノアは感じ取っていた。 エレナとシオンは恋人同士だった。二人が寄り添い、言葉を交わす姿は自然で、お互いの存在が当たり前のように感じられた。だけど、シオンはもういない。喪失の痛みを押し隠すように、エレナは前だけを見つめて歩いているのだ。 木々が迫る小径を抜けた時、リノアの足がぴたりと止まった。 地面に焦げた土の跡が点在し、黒ずんだ石が辺りに散乱している。冷たく湿った感触が手に伝わり、鼻をつく焦げた臭いが森の清涼な空気と混じる。 それは、ここで確かに炎が揺らめいていた証だった。 リノアは膝をつき、石を一つ拾った。「これ、シオンの焚き火の跡だ」 リノアは石の表面を撫でて、ざらついた焦げ跡を確かめて言った。 以前、森で見たものと造りが同じだ。他の村人たちは食料を調達しに来るか、単に通り過ぎるだけ。この場所で火を焚いて、夜を過
last updateLast Updated : 2025-04-20
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