All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

以前の一葉であれば、決してここまで毅然とした態度は取れなかっただろう。「一度死にかけたんだもの。今変わらなきゃ、もう二度とチャンスはないかもしれないわ」哲也は、一葉が崖から転落し、生死の境を彷徨ったことを思い出したのだろう。人が変わってしまうのも無理はないほどの重傷だった。彼はそれ以上、何も言わなかった。彼が背を向けて立ち去ろうとした、その時。「ありがとう」と、一葉は心からの感謝を告げた。あの、狂おしいほどの焦燥感に苛まれていた時に、彼が情けをかけてくれたこと。そして、あの決定的な手がかりを与えてくれたことへの、感謝だった。立ち去ろうとしていた哲也は、その言葉に足を止め、一葉を振り返った。一葉をじっと見つめ、その感謝が心からのものだと悟った瞬間、彼は堰を切ったように感情を爆発させた。まるで、もう耐えられない、これ以上取り繕うことなどできないとでも言うように、一葉に向かって叫んだ。「ありがとう、だと?俺に何の礼を言うんだ。俺が何かしてお前の助けになったか?」「大したもんだよな、お前は!法曹界の重鎮たちを動かして、証拠集めを手伝わせて、たったの二日余りで出てきやがって!俺みたいな小物に何ができる? お前のその『ありがとう』に、どんな価値があるって言うんだ?それとも皮肉か。何日も眠れずに葛藤して、悩んで……結局、お前が刑務所に行くのを見過ごせなくて、兄として最後に助けてやろうとした……俺が苦しんで、悩んで、自分を押し殺して差し出したあの救いの手を……お前にとっては、取るに足らないものだったってわけか!お前にあの診断書を渡して、問題の在り処に気づかせてしまったことを、俺がどれだけ後悔してるか、お前に分かるか!?なんでだよ、一葉!なんで、お前はいつも俺より上手くやるんだ!なんで、お前は何をするのもそんなに簡単なんだよ!なんでお前は、何をやってもそんなに幸運に恵まれるんだ!双子として同じ腹から生まれて、同じ遺伝子で、同じ環境で育って、何もかも同じはずなのに、なんでお前だけが、いつも上手くいくんだ!お前は大して努力しなくても成績はいいし、何もしなくてもおばあちゃんや叔母さんにかわいがられて、みんながお前に家業を継がせたがって、俺のことなんか誰も見やしない!やっと恋に目が眩んで、勘当されたろくでなしのために学業も家
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第122話

幼馴染だったはずの少女が、突如として金目当ての継母となり、恥知らずな愛人だと罵られていたかと思えば、次の瞬間には性的暴行の被害者だと報じられる。そして、悲劇の妻であったはずの一葉が、今度は加害者として逮捕される……二転三転する衝撃の展開は、報道を際限なく過熱させた。この一連の出来事は、一葉と言吾、そして優花を巡るいざこざを、世間を揺るがす一大スキャンダルへと発展させたのだ。中でも、一葉の逮捕は決定的だった。その事実は瞬く間に国中の知るところとなり、誰もがこの悪辣な女に刑罰が下ることを望んでいた。それもそのはずだった。恋敵から恋人を奪うだけでは飽き足らず、あろうことかその恋敵を、恋人の父親の寝室へと送り込む。幸せなはずだった一組の恋人たちの間に、決して越えることのできない溝をこじ開け、二人を「継母と息子」という関係に変えてしまう……その手口は、あまりにも悪辣に過ぎた。まさに世にも稀な毒婦だと、誰もが彼女を罵った。人々の義憤はインターネット上にとどまらず、現実世界でも大きな渦となっていた。拘置所の前では、警察に厳正な処分を求める人々が声を上げるだけでなく、大勢の報道陣やインフルエンサーまでもが張り付き、ひっきりなしにライブ配信を行っている始末だった。昨日、一葉は人目を避けて拘置所の裏口から出たものの、その姿はやはりカメラに捉えられていた。たった一晩のうちに、彼女が釈放されたというニュースはインターネットの隅々まで駆け巡り、世間の知るところとなると同時に、激しい非難の嵐が巻き起こった。権力と金で罪を揉み消したのだと、あのような凶悪な罪を犯しておきながらなぜ自由の身になれるのかと、警察は一体何をしているのかと、そういった声が世論を極めて悪質な方向へと導いていたのだ。しかし、些細なことでも瞬く間に拡散されるこの情報化社会において、警察の対応はかつてなく迅速だった。ネット上の非難の声が本格的に燃え上がろうとした、まさにその時である。警察はすぐさま公式声明を発表した。事件の捜査経緯のすべてを公にし、ネットユーザーたちが彼女を糾弾するよりも早く、明白な事実と証拠をもって彼女の潔白と、法の公正さを示したのだ。そして、その声明と時を同じくして、さらなる告知がなされた。優花と一葉の実父・国雄が、虚偽告発及び違法な薬物投与の容疑で
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第123話

かつて、例の動画が明るみに出た当初、言吾が公の場で語った言葉——一葉が自分と優花の仲に割り込み、そのせいで優花が父親から暴行を受ける羽目になったのだという、あの主張もまた、今や誰もが知る事実となっていた。もはや一葉が何かを付け加えるまでもなく、言吾はあっという間に「史上最悪のクズ男」という汚名を着せられた。ネット上は、彼を罵る言葉で埋め尽くされている。「妻が苦労して事業を支えてやったのに、その恩も忘れて継母を愛人にするとか、それだけでも終わってんのに、逆ギレして妻が二人の仲を引き裂いたなんて嘘八百並べて刑務所にブチ込もうとするとか、信じられない」「色んなクズ男を見てきたけど、ここまでのは初めて……本当に吐き気がする」「よく考えたら怖すぎ……こいつ、ハナから奥さんの財産目当てで言い寄ったんじゃないの」「よく考えなくてもそうでしょ!奥さんの金で成功したら、用済みになった妻を刑務所に送って、愛人と堂々と一緒になろうとしたってことじゃん」「気持ち悪い……」「こういうクズ男、さっさと死んでくれないかな」「一葉さん、お願いだからこんな男とは早く離婚して!」「こいつの会社どこだ?みんなで不買運動して、破産させて、無一文にしてやろうぜ」「元々何も持ってなかったんだから、最後も何も持たないのがお似合いだよ」「奥さんが不憫でならない。一体どんな業を背負ったら、こんなゲスな二人組に出会っちまうんだ」「お願いだから目を覚まして、一刻も早く離婚してください!今回は刑務所送りで済んだけど、次は殺されて野ざらしにされるわよ!」「みんなで手を取り合って、このクズ男の会社を潰しましょう!」「愛人も相当キモい。父親と寝て、今度は息子と寝ようとか」「キモいだけじゃない!あの女、とんでもない策士よ!養女のくせに、実の親に実の娘より自分を愛させてるし。年寄りのベッドに潜り込みながら、奥さんを陥れる罠まで仕掛ける周到さ。しかもその罠、七年も寝かせてから発動させてるのよ」「マジでとんでもない女……怖すぎる……」「うわ、本当だ……その執念、怖気がする」「実の父親を叩いてる奴はいないのか?何をどう考えたら、実の娘より養女を大事にして、あんな手口で我が子を陥れることができるんだ」「それな!理解不能。どうして養女の方を実の娘より可愛がれるわ
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第124話

ちょうど彼と改めて話したいこともあったので、一葉は言吾を中に招き入れた。このタイミングで彼が訪ねてきたのだから、きっと会社の話だろうと、一葉は思っていた。自分の反論文が原因で、彼はネット上で「史上最悪のクズ男」の烙印を押され、会社の株価にまで影響が出始めていた。多くの株主が不満を表明しているはずだ。あるいは、彼自身のためか。偽りの愛をまたぞろ囁き、過ちを認めて彼女の許しを請い、関係を修復したいとでも言うつもりだろうか。もしくは、ネットでの誹謗中傷に逆上し、もはや彼女への愛情など微塵もないという本性を剥き出しにして、怒鳴り込んで来たのかもしれない。自分にこれまでの仕返しをするために。いずれにせよ、一葉はあらゆる可能性を考えたが、全くもって見当違いだった。彼がここへ来たのは、会社の株価のためでも、自身のためでも、ましてや謝罪のためでもない。驚くべきことに、優花のためだったのだ。彼は今日、何をおいてもまず優花を保釈させたいと、そう考えていた。しかし、一葉の反論文がネット上で爆発的な議論を巻き起こした今、状況は彼にとって絶望的だった。優花という毒婦に騙されていたと気づいたネットユーザーたちの怒りは、かつて一葉の厳罰を求めていた時とは比べものにならないほど激しく、現実世界での行動となって現れていた。拘置所の周りには幾重にも人垣ができ、表門も裏門も完全に塞がれている。中には横断幕を掲げる者までいて、法律は優花のような悪辣な女を厳罰に処すべきだと訴えているのだ。このような状況下では、いかに言吾が権力を持っていようとも、保釈の許可が下りるはずもなかった。それはかつて、優花が作り出した世論の圧力によって、厳島弁護士が一葉の保釈を実現できなかったのと同じ状況だった。ただ、あの時、一葉の保釈が叶わなくとも、言吾は少しも焦る素振りを見せなかった。だが今の彼は、ひどく焦っていた。その焦りは彼の理性を麻痺させたのか、あろうことか一葉のもとを訪れ、訴えを取り下げるよう要求してきたのである。そして、ネット上にもう一度声明を出し、すべては誤解であり、優花が意図的に自分を陥れたわけではない、この件には別に隠された事情があり、真相が判明次第、改めて公表する、と世間に説明してほしいと、そう言ったのだ。一葉は、目の前の男をただじっと見つ
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第125話

「信じてくれ、優花は君を陥れるつもりなんてなかったんだ。彼女が君の幸せを快く思っていなかったのは知っている。いい人間じゃないことも分かっている。でも、それはすべて誤解からくる心の歪みだったんだ」「百歩譲って、それが誤解じゃなく、彼女が本当に悪い人間だったとしよう。だとしても、自分の純潔や、一生を棒に振ってまで君を破滅させようとするはずがない!」優花が幼い頃から言吾に向けてきた思慕。それこそが、たとえ彼女がどれほど悪辣で、どれほど一葉を害そうとしていたとしても、自らの純潔を犠牲にするはずがない、という彼の揺るぎない確信の根拠だった。結局のところ、彼は本能的に、優花がそこまで非道な人間ではないと信じているのだ。「一葉、以前の俺は君を誤解し、ひどく傷つけた。誤解される苦しみが、どれほどのものか君は知っているはずだ。だから、その苦しみを他の誰かにも与えるなんてことは、しないでくれないか」言吾は、一葉が経験した誤解される痛み、拘留される痛みを思い出させ、それによって優花に同情し、彼女を許すよう仕向けようとしている。その魂胆が、一葉には滑稽でならなかった。一体、彼はどれだけどうかしているのだろう。自分が味わったあの痛みも、あの苦しみも、すべては優花のせいで引き起こされたというのに。その痛みを思い出して、自分を傷つけた張本人を思いやり、理解しろと、そう言うのか。自分はそんなに安っぽい女だとでも?それとも、聖母のようにでも見えるのだろうか。「一葉、頼むから訴えを取り下げてくれ!そうしてくれたら、優花が出てきた後、すぐに彼女を国外へ送る。もう二度と会わないと誓う!これからの人生、君に許してほしいなんて言わない。ただ、もう一度だけチャンスをくれないか。俺の犯した過ちを、償わせてほしい。いいだろう?」そう言うなり、言吾は一葉の手を握ろうと一歩踏み出した。彼女は悲鳴を上げそうになりながら、後ずさる。こんな汚らわしいものに再び触れられたら、自分のこの腕ごと切り落としたくなるに違いない。「やめて!やめてちょうだい!彼女を国外へなんか送らないで。会わないなんて言わないでよ。それほどまでに彼女を想い、愛しているのなら、これまでのことなんて些細なことじゃない。彼女が出てくるのを待って、二人で添い遂げるべきよ!」この期に及んで、彼
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第126話

言吾は、本能的に問い返した。「どんな条件だ」「即刻、離婚すること。そして、あなたは全財産を放棄して出ていくことよ」「離婚証明書を受け取ったら、すぐに訴えは取り下げるわ」あれほどまでに愛しているというのなら、何だって差し出せるはずではなかったか。ならば見せてもらおうではないか。その真実の愛とやらのために、全てを投げ打つ覚悟がこの男にあるのかどうかを。一葉の胸中に、冷たい闘志が湧き上がるのを感じた。口先だけで自分を丸め込み、彼の可愛い恋人を救おうなどと。あまりにも虫が良すぎる。優花は長年働いてもいないのに、殺し屋を雇う金はあった。その金は、一体どこから出たのか。考えるまでもない。たとえ一葉と言吾の夫婦関係が破綻していたとしても、彼の資産は法的に二人の共有財産だ。優花は、自分たちの金を使って、自分を殺そうとしたのだ。これほどの屈辱と惨めさがあるだろうか。それなのに彼は、どの面下げて訴えを取り下げろなどと言えるのか。彼女の責任を不問に付すどころか、すべては誤解だったとネットで声明を出せとまで要求する。本当に、自分を意思のない泥人形か何かだと思っているのだろうか。彼らの都合のいいように、いくらでもこねくり回せるとでも。その傲慢さに、一葉は吐き気を覚えた。言吾は、眉をひそめた。それを見た一葉は、冷たく笑う。「どうしたの、惜しくなった?」「あなたの優花は、とってもか弱いんでしょう?あんな場所にはいられないんじゃなかったの?その彼女のためなのに、たかがお金くらい、惜しいのかしら」一葉を道徳的に追い詰めようとした時はあれほど饒舌だったのに、いざ自分が何かを差し出す番になると、途端に渋りだす。よくも言えたものだ、自分のことは好きにしていいなどと。これほどの皮肉を浴びせれば、言吾も逆上するだろうと一葉は思った。彼はただ、かつてのように一葉が無条件で譲歩することだけを望み、自らが代償を払う気など毛頭ないのだから。彼女は、彼の全財産を要求しているのだ。だが、意外にも、彼は怒りを露わにしなかった。それどころか、真剣な面持ちでこう言ったのだ。「一葉、金が惜しいんじゃない。俺は……君と離婚したくないんだ」その言葉を聞いた瞬間、一葉の中で、殺意にも似た激情が込み上げた。いっそ、金が惜しいと言われた方が、まだマシだ
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第127話

彼が本気でやり直したいのか、あるいは別の魂胆があるのか、そんなことは一葉にとってどうでもよかった。彼が本当に全財産を差し出すというのなら、一度くらい「機会」を与えてやるのも悪くない。その言葉を聞いた言吾の目が、途端にキラキラと輝き出した。さっきよりもなお、爛々と輝いている。まるで、また以前のように、自分が優しく宥めれば彼女は全てを水に流し、再び自分を愛し、心底尽くしてくれるものだと信じ込んでいるかのようだ。彼は興奮し、彼女を抱きしめようと身を乗り出した。一葉は目に浮かんだ嫌悪を隠すように俯き、一歩下がりながら言った。「まあ、焦らないで。先にやるべきことを済ませましょう」「今すぐ弁護士を呼んで財産整理を始めてちょうだい。あなたの全財産を私の名義に移し、さらに、新たな財産放棄の離婚合意書にサインしたら、すぐに訴えを取り下げるわ」もっとも、その直後には殺人教唆の罪で優花を再び告訴するつもりだった。彼女を拘置所から一歩も出さないために。もし彼が優花を救うことを選ぶのであれば、それはそれで好都合だ。全財産を放棄させて離婚するだけのこと。言吾の浮かべかけた満面の笑みが、不意に顔の上で凍りついた。彼はどこか及び腰で、不満そうに言った。「機会をくれるって言ったじゃないか。どうしてまだ離婚合意書にサインする必要があるんだ」一葉は彼を見据える。「離婚合意書にサインすることが、離婚を意味するわけじゃないわ。これは私にとっての保険。万が一、私が離婚を撤回した途端に、あなたがまた元の木阿弥に戻ったらどうするの?」「それとも、サインしたくないっていうのは、あなた自身、約束を守れないって分かってるから?」言吾は本能的に否定した。「できる!一葉、俺は本当にできるんだ!」以前の過ちは、すべて誤解から生じた愚かな行いだった。これからは二度と繰り返さない。彼にとって最も大切なのは、ずっと彼女だったのだ。この一件が片付いたら、本当に優花を遠くへやり、これからの人生、ただ一心に妻だけを大切にして生きていくのだ。「いいわ、じゃあそれで決まりね。あなたが自分の名義の財産をすべて私に自発的に贈与し、新たな財産放棄の離婚合意書にサインしたら、私は訴えを取り下げる。そして今後、私と優花との間で、あなたが常に私を選び続けるなら、私たちは離婚しない。でも
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第128話

彼女は構わず、口に運びかけていた肉を頬張ってから、ゆっくりと立ち上がり玄関へ向かった。あれほど性急なノックだ。てっきり、母である今日子がとうとう乗り込んできたのだと思った。ネットに公開した一葉の反論によって、今日子は「実の娘を陥れるために義理の娘に加担するなんて、どうかしている」と、世間から猛烈な非難を浴びていたのだから。体面を何よりも重んじる今日子のことだ。世間中からこれほど罵られれば、今ごろ怒り狂っているに違いなかった。いきなり殴りかかられてはたまらない。一葉はドアを全開にはせず、細く一条の隙間を開けるに留めた。以前、言吾に引きちぎられたドアチェーンは、帰宅してすぐに業者を呼び、一番高価で頑丈なものに付け替えさせていた。取り付けに来た業者は「よほどの力自慢でも、この鎖を引きちぎるのは不可能ですよ」と太鼓判を押していた。万全の備えを固め、彼女はドアを開ける。だが、そこに立っていたのは……母ではなかった。三浦知樹――三浦教授その人だった。予期せぬ人物の登場に、一葉は目を丸くした。ドアの外に立つ知樹もまた、一瞬目を見開いた。ドアの内側に、まさかこれほど物々しい鎖が取り付けられているとは想像もしていなかったのだろう。はっと我に返った一葉は、気まずそうに小さく笑みを浮かべると、鎖を外してドアを大きく開き、知樹を中へと招き入れた。「すみません、母が文句を言いに来たのかと早とちりして……」知樹もネット上の騒動は見ていたのだろう。彼女の母親がなぜ乗り込んでくるのか察しがついたのか、彼はそれ以上何も聞かなかった。部屋に入り、一葉が彼に向き直って、こんな夜更けに何の用かと尋ねようとした、その時だった。知樹の方が先に、実に申し訳なさそうな顔で口を開いた。「ごめん、一葉さん。飛行機を降りてすぐ君の事を聞いて、つい焦ってしまってな。連絡もせず、いきなり来てしまった」いつもは理知的で清潔感のあるその顔には、長旅の疲れが色濃く浮かんでいた。本当に、長い道のりを急いで駆けつけてくれたのだと一目で分かった。一葉は彼に向かって微笑みかけた。「もう大丈夫ですよ、三浦教授。心配してくださって、ありがとうございます」知樹は、一葉の顔を見つめ、何かを言おうとした。だが、どんな言葉をかければいいのか、彼自身にも分からないよう
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第129話

「どうして私、あんたみたいなものを産んじゃったのかしら!」今日子が一葉に掴みかかろうとした、その瞬間。知樹がさっと前に出て、その体を遮った。大柄な知樹が立ちはだかると、その静かな威圧感に今日子は思わず動きを止める。「おばさん。僕と一葉はただの学友に過ぎません。ご自身の娘さんを、そのように貶めるのはおやめいただきたい。それに、もし彼女が人でなしだと言うのであれば、おばさん、ご自身は何になるのですか。彼女がネットで発信したことに、何か一つでも間違いがありましたか。現に、あなたはそうだったのではないですか。正直なところ、僕もネット上の人々と全く同じ気持ちです……とても不思議でならない。一体どうして、養女を庇うために、実の娘さんをここまで追い詰めることができるのか、と」知樹は、ネット上の誰もが抱いたであろう純粋な疑問を、静かに、だが鋭く突きつけていた。十月十日、腹を痛めて産んだはずの娘に対し、なぜこれほどまでの仕打ちができるのか。今日子は反射的に叫び返した。「わ、私は優花を庇ってこの子を陥れたりなんて……!この子があまりに性悪で、この子が……」そこまで言ったところで、今日子の声は次第に尻すぼみになっていった。彼女は、ふと気づいてしまったらしかった。娘が、自分の言うような「悪事」など、ただの一度も働いていなかったという厳然たる事実に。途端に、彼女は何を言えばいいのか分からなくなった。その瞳に、今まで一度たりとも見たことのない狼狽の色が浮かぶ。事が起きてからこの方、彼女の頭にあったのは、夫と優花を拘留から救い出さねばならない、ということだけだった。これまでのように反射的に一葉を責めた。実の父親と義妹を警察に突き出すなんて、なんて血も涙もない娘なのだと。しかも、頑として訴えを取り下げようともしない。国雄と優花を救うため、焦りだけが募り、打つ手も見つからない。そんな中、一葉がネットで更なる反撃に出たことで、今日子は一夜にし「世界で一番頭のおかしい母親」の烙印を押された。彼女はただ怒りに任せ、一葉に仕返しをすることだけを考えていたのだ。娘がそもそも無実であったという、その単純な事実を思い出す暇さえなかった。こうして突然核心を突かれ、今さらその事実に気づかされてしまった彼女は、もはや何を言えばいいのか、何を言えるというのか、完全に分からなくなって
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第130話

もちろん、言吾が全財産を譲渡するなどという話には裏があるのだろうと、一葉は踏んでいた。恐らく彼は、一葉が今でも昔のままの女だと思い込んでいるのだ。彼が少しでも傷つくことを何より恐れ、その顔色ばかりを窺っていた、愚かな女のままだと。だから、愛しているそぶりさえ見せれば、実際に何かを失わずとも、すぐに心が揺らいで言いなりになると高を括っているに違いない。彼が命じさえすれば、言われるがままに訴えを取り下げ、優花は無実だったという声明まで出す、と。要するに、彼は何一つ失うつもりなどないのだ。だが、そんな魂胆などどうでもいい。彼を無一文で叩き出し、彼と優花を二人揃って惨めな境遇に突き落とす――そんな甘美な夢を描くことくらい、許されて然るべきだった。一葉は音楽を聴きながら、上機嫌で眠りに落ちた。言吾が何を企んでいようと、もはや自分に不利なことなど起こり得ない。そう高を括っていた彼女は、忘れていたのだ。言吾に「待て」と言われて、ろくな結果になったためしがないということを。これまでの人生で、本当に大切な瞬間に、彼がそばにいてくれたことなど一度もなかったように。そして今回もまた、彼を待つことは叶わなかった。弁護士を連れて財産譲渡の書類に、そして無一文での離婚合意書にサインをしに来る彼を……それどころか、一睡している間に、天と地がひっくり返ってしまったのだ。……けたたましい着信音に、一葉は叩き起こされた。寝ぼけ眼のまま電話に出ると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、担当弁護士の声だった。優花が無罪放免になった、と。脳がまだ霧に包まれたまま、何かを言い返そうとした、その瞬間――血の気が引き、一気に覚醒した。「なんですって」一葉は驚愕に跳ね起きた。藤堂弁護士は彼女が寝起きで頭が働いていないことを察し、もう一度繰り返した。「春雨優花が、無罪放免になりました」一葉は言葉を失った。まさか、ただ一晩眠っただけで、あれほど盤石に思えた状況が、根底から覆されるとは夢にも思わなかった。「どういうことです?なぜ彼女が無罪放免になんてなるんですか」あの事件は、間違いなく優花が仕組んだものだったはずだ。一葉が薬を盛る様子を撮影しようと、周到に計画された罠。それなのに、なぜ。「警察が、ご主人の深水言吾氏が提出した証拠を元に
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