All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

そう言う言吾の端正な顔に、知らず恐怖の色が滲む。まるで、もし今日、自分が間に合わなかったら彼女がどうなっていたか、想像するのも恐ろしいとでも言うように。「一葉、お前が心優しいのは知っている。目の前で人の命が消えるのを見過ごせないんだろう。だが……」言吾を見つめ、自分が心優しいと語る彼の言葉を聞きながら、一葉は可笑しさを禁じ得なかった。そして、思わず声に出して笑ってしまう。かつてあれほど自分を悪辣だの残酷だのと罵ったのも彼。今こうして、お人好しにも程があると語るのも、また彼なのだ。そんな彼女の笑みに、言吾は虚を突かれたように一瞬言葉を失った。だが、すぐに我に返ると、何かを悟ったようだった。「すまない、一葉……俺は……」謝罪の言葉に慣れていない彼は、次に続けるべき言葉が見つからない。どう謝罪したところで、もはや無意味だと分かっているからだ。考えれば考えるほど、自らの愚かさが身に染みる。見ず知らずの人間を救うため、自らの命の危険さえ厭わない彼女のような人間を、どうして自分はあれほど悪辣だと信じ込んで、この二年間、あんな仕打ちをしてきたのだろうか。ふと、彼の脳裏に、以前彼女が言った言葉が蘇る。八年間だ、と。八日でも、八時間でも、八分でもなく、八年間も一緒にいたのだ。だというのに、自分は彼女をひとかけらも信じてはいなかった。あの時の自分は、彼女が往生際悪く言い逃れをしているだけだと思っていた。自分の愛情に胡座をかいた、傲慢で残酷な女だと。今の彼は、ようやく気づいたのだ。自分がどれほど愚かで、滑稽だったのかを。「すまない、一葉……本当に、すまない……」あれほど高かったはずの頭を垂れ、プライドをかなぐり捨てるかのように、彼は何度も、何度も謝罪の言葉を繰り返した。だが、一葉の心は動かなかった。いまさら謝られて、何になるというのだろう。もし謝罪の言葉一つで許されるのなら、世の中に警察など必要ない。もしそれで全ての傷が癒えるというのなら、こちらとて、毎日でも謝罪の言葉を口にしてやるというのに。一葉は、彼の謝罪に取り合わなかった。「お大事に」とだけ言い捨て、背を向けて立ち去ろうとする。だが、言吾は彼女の腕を強く掴んで離さなかった。「一葉、もう一度だけチャンスをくれ。一度だけでいいんだ、な?
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第142話

外科のフロアを後にし、内科病棟を通り過ぎて病院を出ようとした時、一葉はふと思いついて、優花の病室へと足を向けた。怪我の手当てや検査で忙しい中でも、そして一葉に優花との関係を疑われることを恐れながらも、言吾は優花のために甲斐甲斐しくも特別個室を手配したらしかった。一葉が崖から落ちて意識を取り戻した時、誰一人見舞いに来る者もなく、集中治療室から出された後は、ただ騒々しい八人部屋に押し込められたというのに……それに比べ、この一室一リビング付きの特別室は、まるで入院しているとは思えないほど快適そうだ。コンコン、と響くノックの音に、優花は言吾が見舞いに来たのだと確信したのだろう。嬉々としてドアを開け、媚びるような甘ったるい声で「言吾さん」と呼びかけようとした、その瞬間。目の前に立っていたのは、一葉だった。優花の顔に浮かんでいた可憐な微笑みが、みるみるうちに凍りつく。「一葉……!あなた、何しに来たのよ!」一葉の背後に誰もいないことを確認すると、優花はもはや猫を被ることもなく、剥き出しの憎悪を込めた冷たい声で言い放った。一葉はそんな彼女に、悪戯っぽく微笑んでみせる。「あなたの無様な姿を、見物に来てあげたのよ」彼女をもう少し焚きつけて、もっと頑張って言吾を奪い取ってもらわなくては。そんな計算が一葉の胸のうちにあることなど、優花は知る由もない。まさか、そんな言葉が返ってくるとは夢にも思わなかったのだろう。優花は一瞬、呆気に取られて言葉を失った。これまでの長い年月、常に挑発し、難癖をつけ、あらゆる場面で一葉を苦しめてきたのは優花のほうだった。対する一葉は、ただ耐え、受け入れるだけだった。反撃など思いもよらず、彼女から逃げたい、どうか見逃してほしいと願うのが精一杯だったはずの人間が。今、目の前で、これほど不遜な態度で自分を嘲笑いに来ている。優花にとって、それは信じがたい光景だった。優花が我に返って何かを言うより早く、一葉はすっと眉を上げて彼女を見下ろした。「あなたの言吾さんは、あなたのことを世界で一番愛してるんじゃなかったの?それなのに、あなたが死にそうな目に遭っても、一度もお見舞いに来ないなんて、どういうことかしら」優花は、だらりと体の脇に下げていた両手を、ぐっと強く握りしめた。「……一葉、あなた、死にたいの?」チ
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第143話

「それから、以前に言吾があなたに贈った品々。家に帰ったらリストアップしておいてちょうだい。後日、人を寄越して回収させるから。もし返さないというなら、裁判所に申し立てて、強制執行の手続きを取らせてもらうわ」かつての一葉であれば、言吾が優花に高価な贈り物をし、自分にはおまけのような品しか寄越さないのを見て、ただ泣くことしかできなかっただろう。だが、今の彼女は違う。それらすべてを、取り返すと決めたのだ。今、言吾が優花のために使う金は、紛れもなく一葉の金だ。そして、過去に彼が使った金もまた、夫婦の共有財産、つまり一葉の金なのである。夫が不倫相手に貢いだ高価な品々。それを妻として取り戻す権利が、彼女にはあった。優花の目が、これ以上ないほど大きく見開かれる。言吾が全財産を一葉に譲渡したという衝撃から立ち直れないうちに、追い打ちをかけるように突きつけられた財産回収の宣言。彼女は完全に度肝を抜かれていた。まさか、まさか、まさか。この女が、そんなことをするなんて。常に頭の回転が速いはずの優花も、しばらくの間、呆然と立ち尽くすしかなかった。「……一葉、あなた、気でも狂ったの!?」正気ではない。そうでなければ、こんなことができるはずがない。優花は本気でそう思った。自分が青山家に足を踏みえてからこの方、どれだけ多くのものを一葉から奪ってきたことか。彼女は一度だって文句を言えなかったというのに。それが今、奪い返そうというのだ。この自分から。それは、優花にとって許しがたい侮辱だった。「私が狂ってるかどうかはどうでもいいことよ。大事なのは、あなたがさっさとその品々を準備しておくこと。すぐに人を連れて取りに行くから。こっちには請求書の控えがすべてあるの。一つでも欠けていたら許さないわよ」これまでの二人が、あまりにも見せびらかすように愛情を誇示してくれたおかげで、こちらの証拠は有り余るほど揃っているのだから。皮肉なものだ、と一葉は心の中で呟いた。一葉のその言葉に、優花は逆上した。もはや冷静さを保つことなどできず、声を張り上げる。「一葉、覚えてなさい!覚えてなさいよ!」義父母も、義兄も、そして言吾までもが自分を優先してくれる。その事実に甘え、優花は常に一葉の上に立つのが当然だと思って生きてきた。自分が何をしようと、この女は何もでき
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第144話

家路を辿る途中、まだ自宅にも着かないうちに、言吾から電話がかかってきた。「一葉、何もそこまでしなくてもいいじゃないか……」言葉を濁してはいたが、その疲弊しきった声色で、彼が何を言いたいのかは手に取るように分かった。優花が、待ちきれんとばかりに彼に泣きついたのだろう。そして彼は今、愛する幼馴染のため、そしてかつての義母のために、一葉を諌めようとしているのだ。一葉は冷ややかに笑った。「私が、どうしてもこうしたいと言ったら?」言吾は、いっそう声を弱らせて懇願する。「一葉、どう言おうとだな……」彼が言い終える前に、一葉は冷たく遮った。「『どう言おうと彼女は私の幼馴染だ』なんて、聞きたくもないわ。あなたが彼女を可愛い幼馴染だと思うのは勝手。でも、私にそれを押し付けないで」その言葉を聞くと、虫唾が走る。「彼女は幼馴染なのだから」――その一言で、彼女が犯したすべての罪が見逃されるべきだとでも言うのだろうか。「一葉、過去のことは、すべて誤解だったんだ。だから、もう水に流してはくれないか?」「流せないわ。あれは誤解なんかじゃない、明確な悪意をもって仕組まれた罠よ。私は、過去のすべてを追及する。あなたがそれに耐えられるなら耐えればいい。耐えられないなら……優花を選びなさい」なおも何かを言おうとしていた言吾が、ぴたりと口を噤んだ。彼も分かっているのだ。優花を選ぶことが、すなわち全財産を失い、一葉と離婚することを意味するのだと。そして、おそらく気づいたのだろう。一葉がなぜ、ここまで頑なに優花を追い詰めるのか。これは、彼に離婚を決断させるための、最後通牒なのだ。長い沈黙の後、電話の向こうから、痛々しいほど傷ついた声が聞こえた。「……一葉。君は、そんなにも俺と離婚したいのか?」一葉は、一瞬の迷いもなく答えた。「ええ」その、あまりにも簡潔な肯定の言葉は、まるで冷え切った刃のように、電話の向こうにいる男の心臓を深々と貫いたに違いなかった。痛みのあまり、息もできなくなるほどの、決定的な一撃。彼が次に何かを言う前に、一葉は無慈悲に通話を切った。今の彼女の心は、分厚い氷の下に沈んだ石のように、どこまでも冷たく、硬かった。家に帰れば、すぐにでも風呂に入って眠れるものだと思っていた。しかし、玄関の前に門番のように立つ
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第145話

「平たく言えば、父と娘の縁を切るということです」彼は彼女に命を与え、彼女は彼に自由を返す。これで、貸し借りはなくなる。その言葉に、今日子と哲也は呆然として言葉を失った。まさか、一葉がそんなことを言い出すとは。何しろ彼女は、あれほどまでに家族の情を渇望し、愛に飢えていた人間だったのだから。かつては、ほんの少し優しくされただけで、命さえも差し出すのではないかと思えるほどだった。その彼女が今、自ら関係を断ち切ると言っているのだ。今日子が、はっと我に返る。「優愛!あなた、気でも狂ったの!?」娘の本名――「優愛」を叫ぶその声は、ついさっき病室で聞いた、彼女が愛してやまない養女、優花の言葉と瓜二つだった。一葉は乾いた笑みを浮かべた。「ええ、本気ですよ。私が狂っているとでも思ってくださって結構」もう、家族の情などいらない。愛を渇望することも、やめた。せっかく拾ったこの命だ。これからは、もっと有意義なことのために使いたい。この人たちのために、これ以上、一秒たりとも時間を無駄にしたくはなかった。これほど冷たく、情のかけらもない娘の姿を、今日子はこれまで見たことがなかった。その底知れぬ変化に、彼女は思わず狼狽した。「優愛!あの人はあなたの本当のお父さんなのよ!あの方がいなければ、あなたはこの世に生まれなかったのよ!」一葉は母の言葉を無視し、「明日の朝九時に、警察署の前で」とだけ言い残すと、玄関のドアノブに手をかけた。怪我をしてからというもの、彼女の活動量は極端に少なくなっていた。会食、人命救助、病院でのやり取り――今日一日の移動距離は、今の彼女の体には大きな負担となっていた。一葉の冷酷な態度に打ちのめされた今日子は、逆上して掴みかかろうとしたが、それは哲也によって阻まれた。彼は、妹の顔に浮かぶ深い疲労の色を見て取っていた。「一葉、今日はもう疲れているんだろう。とにかく、今はゆっくり休め」そう言うと、哲也はなかば強引に今日子を連れてその場を去った。一葉は、去っていく兄の背中を、思わず目で追っていた。結局、まだだめなのだ。彼の不器用な気遣いに、どうしても心が揺さぶられてしまう。いとも容易く、感情が乱されてしまう。そんな自分が、彼女は不甲斐なくて仕方がなかった。……ぐっすり一夜を明かした翌日。
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第146話

……言吾は本能的に優花を受け止めようとしたが、ふと何かに思い至り、咄嗟に身を引いた。以前のように彼女が胸に飛び込んでくるのを許さず、ただその腕を掴んで、ふらつく体を支えるに留める。ただでさえ不機嫌だった優花は、言吾が触れることさえ拒んだのを見て、顔からさっと表情を失った。その顔色は、見るも無残なほどに暗く沈んでいる。言吾の、あからさまに嫌疑を避けようとするその振る舞いに、一葉は思わず冷笑を漏らした。見なさいよ。彼自身、分かっているではないか。既婚者の成人男性が、妻以外の女性とそこまで親密に接触すべきではないと。それが、間違ったことなのだと。それなのに、かつての彼は、ことあるごとに優花を抱きしめ、彼女が自分の腕に絡みつくのを許し、まるで恋人同士のように親密な距離を保っていた。そのことを指摘すると、彼は恥も外聞もなく言い放ったのだ。「君の心は汚れているから、見るものすべてが汚く見えるんだ」と。日記に残された記録から推測するに、もし記憶を失っていなければ、今頃どうなっていただろうか。毎日、彼からの精神的な虐待と自己否定の渦中でもがき続けた末、とうの昔に心を病んでいたに違いない。言吾が何かを口にするより早く、優花が泣きじゃくりながら訴えた。「言吾さん、お姉さんが……今朝早くに、私を病院から追い出しただけじゃなくて、今度は人を連れてきて、私の家に押し入ろうとするの……!」「分かってる……以前、何も確認せずに、お姉さんのことを誤解してしまったのは、私が悪かったって……でも、もう本当に反省してるの。あんなに謝ったのに……!」そう言いながら、優花の大きな瞳からは、水晶のような涙がぱたぱたとこぼれ落ちる。もともと嵐の中で揺れる白百合のような可憐さを纏う彼女が、そうして涙を見せると、いっそう見る者の庇護欲を掻き立てた。常日頃から彼女を憐れんできた言吾は、たまらず一葉の方を向く。「一葉、君も分かっているはずだ。私と優花の間には、君が言うような関係など、何もないということを」「……なぜ、こんなことをするんだ?」昨夜、一葉があのような最後通牒を突きつけ、優花がすぐに泣きついたにもかかわらず、言吾は心のどこかで、まだ高を括っていた。あれはただの口先だけの脅しであり、離婚を迫るための癇癪のようなものだろう、と。まさか彼女が、本当に実行に移すとは夢にも思っていなかっ
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第147話

これまでの年月、言吾は、たとえ経済的にどれほど困窮していようと、優花が金を必要とすれば、必ずどうにかして工面してきた。ましてや、裕福になってからは、彼女が望むものは何でも、望むままに与えてきたのだ。優花にしてみれば、まさか、本当に、夢にも思わなかった。あの言吾が、こんな言葉を口にするなんて。一葉が自分にあれほどの仕打ちをしているというのに、咎めるどころか、まさかこんな……その衝撃と怒りで、優花の目の前が真っ暗になり、身体がぐらりと傾ぐ。本気で、卒倒しかけたのだ。以前の言吾であれば、彼女が少しでも体調を崩せば、それこそ飛んできて大騒ぎしたものだった。だが今、目の前にいる彼は、何の心配も見せる素振りすらない。その事実が、優花の涙を、もはや演技ではなく、本物の悲しみからくる雫へと変え、ぽろぽろと頬を伝わせた。「言吾さん、約束したじゃない……一生、私のこと大事にしてくれるって……」優花は、か弱い身体を今にも崩れ落ちそうに揺らしながら、言吾を見上げた。その痛々しいまでの姿は、いっそ見事なほどで、石のように固い一葉の心さえ、危うく揺さぶられそうになるほどだった。ましてや、彼女の「優しい言吾さん」は、なおさらだろう。その証拠に、言吾の身体の脇に下ろされた両手は、無意識に固く握りしめられ、その瞳には、抑えきれない葛藤が色濃く浮かんでいた。彼がここまで優花に尽くすのには、理由がある。幼い頃に命を救われたこと、兄妹のように育ったことだけではない。彼は、彼女の母が亡くなる間際、その枕元で誓ったのだ。生涯をかけて、優花の面倒を見ると。何よりも決定的なのは、優花の両親が、彼の用立てのために外出した先で、交通事故に遭って亡くなったという事実だ。言わば、彼らの死は、自分のせい。彼にとって、どんな理由があろうと、優花の面倒を一生見ることは、絶対的な義務だったのだ。だが、今は。彼は……彼は思わず一葉に視線を向けた。「一葉、俺は優花に、そういう感情は一切ないんだ!」言吾の言葉は、これ以上ないほど真に迫っていた。彼にとって優花は、兄妹としての情愛の他には、何一つ男女の感情を抱く相手ではない。どうかそれを信じてほしい、これ以上優花を追い詰めないでほしい、と。彼の瞳はそう必死に訴えていた。その、嘘偽りのない真っ直ぐな瞳を、一葉は静かに見つめ返す。信じよう。彼は心
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第148話

そして間一髪のところで、言吾は優花を救い出した。その身を盾にして優花を庇い、彼女を救い出した瞬間、彼は天の神仏すべてに祈りを捧げたいとでもいうように、心の底から安堵の表情を浮かべた。その様子が一葉の目にもはっきりと映る。言吾が、優花には男女の情など一切ないと言ったこと。一葉はそれを信じている。彼は本気で優花を愛しておらず、愛しているのは自分だと、心の底から思い込んでいる。そうでなければ、全財産を彼女に譲り渡すことなどできようはずもない。だが、彼自身は気づいていないのだろう、と一葉は思う。彼が本当に愛しているのは、優花の方なのだと。でなければ、あんな行動は取れるはずがない。言吾は、優花が無事であるのを確認し、ほっと息をつこうとした。だがその視線が、嘲るような光を宿した一葉の瞳と絡み合う。彼の心臓が、どきりと跳ねた。思わず腕の中の優花を突き放そうとする。しかし優花は、すっと目を閉じ、彼の腕の中へと崩れ落ちた。いつもの彼なら慌てふためき、優花を抱きかかえて病院へ駆け込むだろう。そうなればもう、明日にも離婚証明書を受け取れる――一葉がそう確信した、その時だった。彼は、おもむろに秘書を呼びつけ、優花を病院へ運ぶよう命じたのだ。秘書が気を失った優花を抱え、車に乗せようとすると、言吾は忘れずに釘を刺した。「支払いは俺のカードを使うな。君ので立て替えてくれ。金は後で、彼女自身に返させる」秘書が「……」と絶句する。気を失ったはずの優花も「……」と身体をこわばらせたように見えた。そして、一葉も「……」と思わず言葉を失う。彼女が望んでいたのは、言吾が優花と一線を画すことでも、自分を選ぶことでもない。だから、秘書に連れられていく優花の姿を見ても、一葉の心は晴れるどころか、むしろ苛立ちが募るだけだった。あれほど優花を溺愛していた言吾が、なぜ今になってこれほどの振る舞いができるのか。今日の優花の様子は、本気で衝撃を受け、本当に気を失った可能性が高い。それなのに、秘書に任せるだけで平気でいられるなど、到底考えられなかった。それに、自分がここまで優花を追い詰めたのだ。彼の目には、さぞ酷い仕打ちに映っているはず。だというのに、彼はそれすらも耐えるというのか。それどころか、優花が運び去られた後、彼は一葉に向き直り、
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第149話

何度振り払っても、離れようとしない。恩師である桐山教授の家に着くまで、結局彼を撒くことはできなかった。気難しいことで知られる教授は、一葉の後ろに言吾がいるのを目にするなり、浮かべかけていた笑みをすっと消し、険しい表情になった。「どういうことだね。なぜそいつが一緒なんだ。まさかまた、恋に目が眩んだわけではあるまいな?」以前の彼女は、あまりにも恋に盲目だった。だからこそ、今どんなに情を断ち切ったように振る舞っていても、恩師は彼女がまた同じ過ちを繰り返すのではないかと、心底心配しているのだ。一葉は微笑んでみせた。「いいえ、ご心配なく。もうすぐ、彼とは完全に縁が切れますから」言吾は罪悪感からか、あるいは彼が口にする「愛」とやらのためか、本気で心を決めたようだった。もう二度と、以前のように優花へ肩入れはしまい、と。だが、優花の手腕を、一葉は誰よりもよく知っていた。彼女が、言吾のその決心を長く続けさせるはずがない。彼が本当に自分と距離を置くことなど、決して許しはしないだろう。特に、今回のように追い詰められ、刺激された状況ではなおさらだ。冷静さを取り戻せば、彼女はすぐにでも反撃に出てくるに違いなかった。一葉が恩師と共に家の中へ入ろうとした、その時。言吾が、彼女の背中に向かって叫んだ。「一葉、外で待っているから!」桐山教授が自分を快く思っていないのを察してか、厚かましくもついてこようとはしなかった。一葉は彼を一瞥したが、何も言わなかった。彼がここで長く待っていられるはずがない、と確信していたからだ。彼のかわいい幼馴染は、今頃もう冷静さを取り戻している頃合いだろう。そしてきっと、すぐに何か策を思いつくはずだ。気を失った自分を置き去りにした「非情な言吾さん」を、慌てふためいて病院に駆けつけさせるための、とっておきの策を。案の定……一葉が恩師の家から出てきた時。外に、もはや言吾の姿はなかった。携帯電話に、三十分ほど前に送られてきたメッセージが一通残っているだけ。【会社に急用ができた】。一葉は、ふ、と笑った。携帯をしまおうとしたその時、優花からメッセージが届いた。彼女の進展とやらを見てやろうと、一葉は通知を開く。まず送られてきたのは、一枚の写真だった。気品のある男が、病室のベッドのそばに
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第150話

一葉が病院に着いた時、言吾はちょうど、眠っている優花の布団を直し、病室を出ようとしたところだった。振り返った彼は、そこに立つ一葉の姿を認め、息を呑む。その端正な顔に浮かんだ表情は、驚きと焦燥と、そして後悔が入り混じり、到底一言では言い表せないほど複雑な色をしていた。一葉は彼に向かって、にこりと微笑んでみせる。「行きましょ。外で話しましょう。あなたのかわいい優花の眠りを妨げちゃ悪いものね」そう言い残し、彼女はくるりと背を向けた。その言葉を聞いた言吾が、どれほど苦々しい顔をしているかなど、一葉は気にも留めなかった。彼は、一葉が自分と優花の関係を気にするのを嫌う。それでいて、彼女がその関係を気にしないことを、心の底から恐れているのだ。病室から出てきた言吾は、まっすぐに一葉を見据えた。彼女が何かを言う前に、彼が堰を切ったように話し始める。「本当に会社の用事があったんだ。それを片付けるために、一度ここを離れた!」「用事を済ませてから、優花を見に来た。それだけだ。それに、俺が来たのは、優花が家も、俺が贈ったものも、すべて売って君に金を返すと約束したからだ。そして、彼女はすぐにでも海外へ発つ。もう二度と、俺たちは連絡を取り合ったりしない!」彼の言葉は真に迫っていた。あまりにも真摯なその口ぶりに、もし一葉が、彼が先ほどまで優しさの滲む手つきで優花の布団を直していたのを見ていなければ、あるいは彼の非情さを信じてしまったかもしれない。だが、もはや彼女が彼を信じるか信じないかなど、重要ではなかった。彼が本当に優花へ情けを捨てたのかどうかも、どうでもいいことだ。重要なのは、彼が契約を破ったという、その事実だけ。「そんなことはどうでもいい。重要なのは、あなたが私たちの間で交わした契約に違反したということ。明日にでも離婚証明書を受け取りに行くと、その通告に来たのよ」ちょうど今日、役所から離婚届が正式に受理されたという通知が届いていた。だからこそ、一葉は事を急いだのだ。これ以上の猶予など、一日たりとも与える気はなかった。「一葉、俺は契約違反なんてしていない!約束通り、君と優花の間では、ずっと君を選んできたじゃないか!」言吾は理屈で彼女を説得しようと、必死に言葉を重ねる。「言吾、誰かに二者択一を迫られた時だけが
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