All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

一葉はすべてを聞き終えると、長い、長い沈黙に沈んだ。「誰がその動画を優花に?目的は何です」信じられるはずがない。あの動画が、優花の自作自演ではないなどと。「動画を送った人物は、昨年、交通事故で亡くなっています。そのため、動画を保存・編集し、春雨優花に送りつけた動機を追及することは不可能です」一葉は絶句した。完全な手詰まりだった。しばしの沈黙の後、一葉は再び尋ねた。「他の証拠は?例えば、言吾の父親が薬を使ったという証拠……優花が、彼を誘惑する目的で自ら薬を飲んだわけではないという証拠は、確かなものなんですか」「はい、間違いありません。我々の方でもすべて検証済みです」一葉は返す言葉もなかった。藤堂は国内でも指折りの弁護士だ。彼が検証した上で、証拠は本物だと言うのであれば……本当に、自分が優花を誤解していたとでもいうのか。言吾の父親を誘惑する傍らで、父と共謀して自分を陥れ、言吾に誤解させるための動画を撮ったのではなかったと?この事件のすべてが、単なる誤解だったと?そう思いかけた、その瞬間、ある一点が彼女の脳裏に閃いた。「もしこれが全部、偶然と誤解だったとしたら、私がジュースに入れたあの薬はどこから来たんですか。当時、意識もはっきりしなかった私が、自分で薬を買えるわけがないでしょう」桐山教授の教え子たちが当時の事を調査した際、ジュースに入れられた薬が何であったかまでは特定できなかった。だが、意識が朦朧としていた一葉が、それを風邪薬か何かだと思い込んで飲み、その直後に外で言吾と遭遇したことまでは突き止めていた。様子がおかしい彼女を、言吾が医者に連れて行ったことさえあったのだ。月日が経ちすぎたせいで、医者も当時のことを覚えてはおらず、カルテも残っていなかったが、数々の状況証拠は、彼女がジュースに何らかの薬を入れたという事実を指し示していた。その薬が、何もないところから現れるはずがない。「その点は確かに疑問です。ですが、その一点だけでは、春雨優花があなたを誣告したという直接的な証拠にはなりません」証拠にならないのなら、優花は無罪放免になる。一葉は、「……」と、ただ唇を噛みしめるしかなかった。どうしたって信じられない。当初の出来事が、すべてただの偶然と誤解だったなどと。特に、あの薬の存在がある限
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第132話

その挑発するような眼差しを受け、一葉は胸中の推測が確信へと変わるのを感じた。やはり、計画の始まりは一葉を陥れることだったのだ。ただ、途中で一葉自身が意識を取り戻し、その場から逃げ出したことだけは、彼女の計算外だったに違いない。この女は、いつだってそうだ。どこまでも用意周到で、その心根は底が見えないほど深い。言吾の父をより確実に手中に収めるためか、あるいは万が一、計画が失敗して今日のように自分の身に危険が及ぶことを恐れてか。いずれにせよ、優花は自ら望んで言吾の父のベッドへ忍び込もうとした事実を、巧妙に「薬で自由を奪われ、無理やり犯された」という筋書きにすり替えたのだ。自らをも、被害者の一人として仕立て上げるために。そうすれば、計画通りに一葉を罪に問えればそれでよし。たとえ失敗しても、自分だけは傷つかない。優花という人間の、この用意周到さ。幾重にも張り巡らされた計画の輪、そのどれ一つを取っても彼女自身は罪に問われることがない。その手腕には、もはや感服するしかなかった。到底、自分には真似のできることではない、と。一葉の脳裏に、青山家にやってきてからの出来事が次々と蘇る。いつもそうだ。明らかに優花が仕組んだと分かっているのに、決して証拠を残さない。そんな悔しい思いが、数え上げればきりがないほど積み重なっていた。策略を巡らせることにかけて、自分は彼女に敵わない。その歴然とした差を、改めて痛感させられる。ふと、詮無い考えが浮かんだ。その底知れぬ怜悧さを、もし学問や仕事に注ぎ込んでいたなら。この女は、誰の力も借りず、誰のベッドに潜り込むこともなく、自らの才覚だけで頂点に立てたのではないだろうか。そこへ、知らせを聞きつけた言吾が駆け寄ってきた。優花が涙ながらに謝罪する姿を目にして、言吾は心底安堵したように言った。「一葉、ほら、言っただろう。優花は君を陥れようとしたわけじゃないんだ」「本当に、君を誤解していただけなんだよ」言吾の言葉を聞いた優花の瞳が、さらに勝ち誇ったような色を帯びて一葉に向けられる。「どんな手を使っても、あなたが私に勝てるわけがない」「あなたが何をしようと、言吾さんは私の方を信じるのよ」と。その瞳は、雄弁にそう語っていた。その場にいた全員の視線が言吾に注がれている隙を突き、優花が一葉の耳元に
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第133話

その事実が、一葉の心を苛立たせた。よりによってそんな時に、言吾は火に油を注ぐかのように彼女の目の前に現れた。優花が無罪放免となった今、言吾との取引を持ち出すための切り札は、もはや一葉の手にはない。離婚証明書を受け取る以外、彼と交わす言葉など一言も持ち合わせていないはずだった。だが言吾は、そんな一葉の苛立ちに気づく素振りも見せず、こう言った。「ほら、言っただろう。優花は君を故意に陥れようとしたわけじゃないって。それでもまだ、俺を信じられないのかい」言吾は、心の底から安堵しているようだった。事件の真相が、優花が妻を害そうとしたものではなかったという結末に。もしそうでなければ、妻である一葉にどう顔向けすればいいか分からなかっただろう。一葉はうんざりした様子で彼をちらりと見遣り、「消えて」と口にしかけた。だが、その言葉を遮るように、言吾が続ける。「一葉、俺の名義になっている財産の清算はすべて終わったよ。これが財産の自発的贈与契約書。それから、君が望んだ新しい離婚協議書だ。どちらも俺の署名は済ませてある。君もサインしてくれれば、あとは弁護士に渡して捺印をもらうだけだ」一葉は信じられない思いで言吾を見つめた。全財産を譲るという言葉は、訴えを取り下げさせるための方便に過ぎないと思っていた。いわば、手練手管で利益だけを掠め取ろうという魂胆だろう、と。だからこそ、一葉もまた別の思惑を胸に、彼の提案に乗ったふりをしたに過ぎない。だが、目の前の現実はどうだ。彼が本気で全財産を自分に譲り渡すつもりだったなどとは、想像だにしていなかった。——本当に?この男は、本当に、その全財産を、自らの意思で自分に贈与すると言うのか。その真意を測りかね、一葉はただ目の前の男を見つめ返すことしかできなかった。「どうしたんだい、一葉?俺が本気じゃないとでも?」言吾はそう言って微笑んだ。「知っているだろう、俺にとって一番大切なのは、いつだって君なんだ」たとえあのような誤解があったとしても、彼女こそが、彼の中で最も重要な存在なのだと。そうでなければ、あれほどまでに諦めきれず、苦しむことなどなかったはずだ。「この世のどんなものも、君には敵わない。君が望むものなら、俺が持っているものはすべて与えよう。持っていないものなら、死に物狂いで手に入れてみせる」彼の言葉
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第134話

一葉が突然激しく嘔吐したのを見て、言吾は狼狽した。慌てて彼女の背中をさすろうと手を伸ばす。「どうしたんだ、一葉。何か悪いものでも食べたのか?」だが、彼が近寄れば近寄るほど、吐き気はより一層ひどくなる。一葉は言葉を発することもできず、ただ手を振って、あっちへ行けと合図するしかなかった。外は凍えるような寒さだが、暖房の効いた室内は暖かい。薄いシルクの寝間着一枚だった彼女が腕を振った拍子に、袖が滑り落ち、そこにある傷跡が露わになった。何かを言いかけた言吾の視線が、その傷跡に釘付けになる。彼は一瞬息を呑むと、次の瞬間には衝動的に一葉の手首を掴んでいた。「腕にどうしてそんな傷跡が……?いったい、いつ怪我をしたんだ」「どうして……どうして俺に何も言ってくれなかったんだ」彼は知っていた。一葉が誰よりも痛みに弱いことを。これほど大きな傷跡が残るほどの怪我だ。その時、彼女がどれほどの痛みに耐えたのか、想像するだけで胸が締め付けられる。なぜ、こんな怪我をしたことを、ひと言も教えてくれなかったのか。言吾はそう言いながら、彼女の袖をまくり上げて傷跡を確かめようとした。その眼差しに浮かぶ心配と焦燥、そして痛ましげな表情には、嘘偽りは微塵も感じられない。まるでかつての日記に綴った日々のようだ。昔の彼は、指先に小さな傷ができただけで、目に涙を浮かべるほど彼女を心配したものだった。その記憶が、目の前の光景と重なり、一葉はたまらなく滑稽な気分になった。本当に、笑えてくる。もはや、込み上げてくる乾いた笑いを抑えることはできなかった。喉の奥から、くつくつと音が漏れる。——あの時、私はあれほど高い崖から落ちた。病院からの緊急連絡を受けても、あなたは見舞いにすら来なかった。全身の骨の半分が砕け、二ヶ月以上もベッドの上で身動き一つ取れなかった。水の入ったグラスひとつ、持ち上げられない私を、あなたはその目で見ていたはず。それでもあなたは、私が怪我をしたとは信じなかった。本物のカルテも、医師の診断も、すべてあなたの目の前に差し出されたというのに。病院を何より嫌うこの私が、三ヶ月以上も白い病室で過ごしたというのに。そのすべてを、あなたは「演技」だと断じた。そのあなたが、今になって問う。なぜ、怪我をしたことを教えてくれなかったのか、と。ど
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第135話

彼にも、それがようやく伝わったようだった。一葉がどれほど自分を嫌悪し、その存在を疎んでいるか。そして、あの乾いた笑みに、どれほどの悲しみと痛みが込められていたか。考えれば考えるほど、言吾の心臓は締め付けられ、得体の知れない恐怖が背筋を駆け上がった。「一葉、やめてくれ。な、何でもちゃんと話し合おう。分かってる、全部俺が悪かったんだ。だから……」彼はそれでも一歩踏み出そうとした。彼女を強く抱きしめることでしか、この恐ろしい心の空洞を埋める術がないように思えたからだ。しかし、一葉がテーブルの上のフルーツナイフを手に取るのを見て、彼の足はコンクリートで固められたようにぴたりと止まった。「一葉、危ない!」彼が恐れたのは、自分の身ではない。「そのナイフで、君自身を傷つけたりしないでくれ」「消えて!」一葉はもはや一瞬たりとも、彼の顔を見ていたくなかった。今すぐ、この視界から消え失せてほしかった。これまで決して一葉の心を理解しようとしなかった言吾も、今度ばかりは、その瞳に宿る決然とした拒絶の色を読み取らざるを得なかった。そこには、一秒たりとも彼の存在を許さないという、揺るぎない意志が宿っていた。彼は痛ましげに一葉を見つめ、「……わかった。俺は行くよ。だから、少し落ち着いてくれ。話は、また改めて」と言葉を残した。かつての彼は、一葉を計算高く、悪意に満ちた女だと信じ込んでいた。だから、彼女に何をしても許されると思っていたし、自分は十分に寛容な夫だとさえ思い込んでいた。だが、すべてが誤解だったと知った今、過去二年間の自らの仕打ちを思い返すことすら恐ろしかった。ましてや、以前のように力ずくで彼女を従わせることなど、できるはずもない。彼は後ろ髪を引かれる思いで、静かに部屋を後にした。言吾が去った後も、一葉はしばらくの間、その場で動けなかった。肩で大きく息を繰り返し、ようやく心の猛りが収まるのを待つしかなかった。……部屋を出た後も、言吾はすぐにはその場を立ち去らなかった。彼は階下へ降りると、一葉の部屋の窓を見上げ、灯りのともるその窓から久しく視線を外せずにいた。これまでは常に一葉が彼を宥め、尽くすばかりの関係だった。だから、いざ彼女をなだめ、関係を修復しようにも、どうすればいいのか皆目見当がつかないのだ。ふ
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第136話

千円にも満たない価値の花瓶は、古代の貴重な骨董品として処理され、言吾のカードから1億円が引き落とされた。言吾は元来、金に頓着しない性質だ。加えて、ここは古美術店であり、少額のトラブルで優花が自分を呼び出すはずがないと思い込んでいたため、高価な骨董品を壊したのだろうと疑いもしなかった。彼は金の支払いだけ済ませると、会社に急用ができたと言い残し、足早に店を去っていった。言吾の背中が見えなくなると、店主が優花に声をかけた。「優花さん、深水さんは本当にあなたに夢中ですねえ。1億円もの大金を、理由も聞かずにポンと払ってくださるなんて!」店主は、羨望の眼差しで優花を見つめている。しかし優花は、そんな視線を鼻で笑うかのように、ただ冷たく一瞥を返すだけだった。彼がどれだけ自分に尽くそうと、金は彼のものだ。彼が与えようと思った時にしか手に入らず、まとまった額が欲しいと思えば、今日のように何かしらの口実を設けねばならない。もしこの金がすべて自分のものだったなら、こんな回りくどい真似をする必要などないのだ。すぐにでも、使いたいだけ使えるというのに。優花は幼い頃から言吾と共に育った。深水の家で、彼女を使用人の子として扱う者など誰もいなかったし、その生活水準は令嬢そのものだった。だが、どれほど良い待遇を受けようと、所詮は執事の娘に過ぎない。言吾と、そして彼の母親に気に入られなければ、その暮らしは一瞬で失われる。幼い頃から人の顔色を窺い、媚びへつらうことでしか欲しいものを手に入れられなかった彼女にとって、金の心配をせず、誰にへりくだることもなく、思うままに生きることは何よりの渇望だった。だからこそ、幼い彼女の最大の願いは、言吾と結婚し、深水家そのものを手にいれることだったのだ。しかし、その目的を果たす前に両親は亡くなり、彼女は深水家に厄介払いされるように、青山の家へと送られた。義父母の青山夫婦と義兄の哲也は、彼女を蝶よ花よと可愛がった。彼女が巧みに立ち回った結果、彼らは実の娘である一葉以上に、自分に愛情を注ぐようにさえなった。だが……青山家の実権は、すべてあの老夫人――青山紗江子が握っている。今日子と国雄ですら紗江子の機嫌を伺わなければ金を使えないのだ。ましてや、居候の身である自分に自由などあるはずもなかった。
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第137話

志麻先生をお招きした、その日のことだった。個室の席で、一葉は思いがけない人物と顔を合わせることになった。染谷源。言吾の親友の一人だ。一葉が何か言うよりも早く、志麻先生が口を開いた。「青山君、紹介するよ。実家の家業を継いだ私の教え子でね。君の件、彼のおかげで調査が随分と早く進んだんだ」源の実家は薬局チェーンを経営しており、雲都のどこの通りにもその店があると言っても過言ではない。事件当日、一葉がいたホテルの真向かいにも彼の実家の薬局があった。そしてその日、店は偶然にも周年記念のイベント中で、その様子を記録した映像が残っていたのだ。その映像に、一葉がホテルから出てくる姿がはっきりと記録されていた。それが、真相究明を早める決定的な証拠となった。「染谷君は、その映像を探し出すのに相当骨を折ってくれたんだよ」志麻先生の言葉に、一葉は驚いて源へと視線を向けた。彼は言吾の親友ではなかったか。なぜ、自分を?確かに源は、言吾の友人仲間の中で、唯一彼女を見下すことなく、常に敬意をもって接してくれた人物ではあった。だが、それでも彼は言吾の親友だ。その彼が、この一件で自分に手を貸してくれたという事実は、どうにも腑に落ちなかった。そんな一葉の心中を見透かしたように、源が杯を交わす際、ふっと笑みを浮かべて言った。「俺があんたに手を貸したのは、言吾さんの友人だからってわけじゃない」「一葉さんは覚えていないかもしれないが、あんたが高校生の頃に一度会ってるんだ」一葉は、……言葉に詰まった。確かに、記憶にはなかった。源は穏やかに笑みを返すだけで、それ以上は何も言わず、一葉に気遣いは無用だとだけ告げた。やがて彼は、所用があるからと足早に席を立って行った。彼の短い言葉の端々に、何か別の意図が隠されているような気はしたが、一葉は深く考えるのをやめた。いずれ離婚が成立した後は、自分がすべきことは一つ。ただひたすらに学び、恩師たちの期待に応える。そして、国と社会の役に立つ人間になることだ。食事を終え、家路につく。一刻も早く、あの温かい寝床へ――そんな思いから、一葉はいつもの道ではなく、近道を選んだ。あと一つ角を曲がれば家に着くという、その時だった。一台の黒い車が脇道から猛スピードで飛び出してくると、狂ったよ
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第138話

車の中からその光景を見ていた優花は、すっと目を細めた。斜面を滑り降り、事故に遭った人間を助けようとする一葉。横転した車は、いつ火を噴いてもおかしくないように見える。優花の瞳に、毒々しい光が宿った。この真冬の深夜、事故を目撃した青山一葉は、果敢にも人命救助を試みた。しかし、非力な彼女は人を助け出すことができず、車の爆発に巻き込まれて命を落とした――これほど完璧な筋書きの事故死が、他にあるだろうか。優花は、一葉に死んでほしくてたまらなかった。だからこそ、この光景を目の当たりにした瞬間、彼女の頭を占めたのはただ一つ。いかにして一葉を、自分とは全く無関係の事故に見せかけて殺すか、ということだった。一葉が死ねば、たとえ自分が永遠に言吾と結ばれることがなかったとしても、彼の心の中では自分が唯一無二の、最も大切な女になる。その甘美な想像に、優花は唇の端を吊り上げ、陰惨な笑みを浮かべると、静かに車のドアを開けた。車を降りた優花は、まず油断なくあたりを見回す。監視カメラ一つない、寂れた道。こんな真冬の夜更けに、ここを通りかかる者などまずいないだろう。まさに、天が与えてくれた絶好の機会だった。優花はハンドバッグを握りしめると、素早く、しかし足音を殺して一葉へと近づいていく。畑に転落した車から、オイルが漏れ出しているのが見える。その光景に、優花は歓喜に打ち震えた。こんなにもたやすく好機が手に入るとは!あとは、あの女を打ちのめして意識を奪い、自分は素早くこの場を立ち去るだけ。そうすれば、一葉は誰にも知られず、自分とは一切無関係の事故で死ぬ。これでようやく、枕を高くして眠れるのだ!そう思うと、優花の足取りはさらに慎重になった。車が転落した斜面の縁までたどり着き、いよいよ慎重に斜面を滑り降りて、一葉を背後から襲おうとした、まさにその時だった。突如。一台の黒いベントレーが、音もなく彼女のすぐそばに停車した。優花が反応するよりも早く、長身の男が慌てた様子で車から降りてきた。その男が誰であるかを目にした瞬間。優花の顔から、さっと血の気が引いた。彼女が硬直していると、男は訝しげに眉をひそめて尋ねた。「優花?なぜ君がこんなところに」優花がどう答えるか、言葉を探している間にも、言吾の視線は、すでに斜面の下の一葉と、多量
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第139話

一葉が子供を抱き上げ、その場を離れようと振り返った、その時だった。先ほど妊婦を安全な場所へ移したばかりの言吾が、目を血走らせてこちらへ走ってくるのが見えた。何が起きたのかを理解するよりも早く、彼は飛びかかるようにして一葉を抱きしめる。その勢いのまま数度体を回転させると、自らの大きな体で彼女を完全に覆い隠すように庇った。直後、ドォンッという轟音が響き渡る!背後で、車が爆発したのだ!一瞬にして、火の粉が闇夜を焦がす。その轟音と、燃え盛る炎が、一葉の脳裏に忘れかけていた記憶の扉をこじ開けた。あれは、大学二年の初学期の頃だったか。実験室でのこと。後輩の操作ミスが、爆発と火災を引き起こした。爆風で倒れてきた薬品棚の下敷きになり、一葉は身動きが取れなくなった。炎がすぐそこまで迫ってくるのを、ただ呆然と見つめることしかできない。このまま焼け死ぬのだと覚悟した、その時だった。言吾は、まるで天から舞い降りた神のように現れ、彼女を絶望の淵から救い出してくれたのだ。あとで聞いた話では、爆発が起きた時、誰もが我先にと外へ逃げ出したという。そんな中、一葉がまだ中にいると知った言吾だけが、誰の制止も聞かず、命がけで燃え盛る実験室へと飛び込んできたのだと。今の彼は、まるであの時のようだった。何の躊躇もなく、すべてを投げ打って一葉のもとへ駆け寄り、その身を挺して彼女を守っている。幸いにも、今回の自動車の爆発はそれほど規模が大きくなく、二人も少し離れていたため、飛び散った車の破片が言吾の背中に当たっただけで済んだ。あの時のように、崩れ落ちてきた梁を生身で受け止め、背中に大火傷を負って一ヶ月以上も入院した時とは比べ物にならない。だが、今の彼は、あの頃よりもずっと恐怖に駆られているように見えた。一葉をきつく、きつく抱きしめるその腕は、まるで一瞬でも遅れれば彼女を永遠に失ってしまうとでも言うかのように、震えていた。言吾は一葉をきつく、きつく抱きしめたまま、しばらくの間、荒い息を繰り返していた。ようやく落ち着きを取り戻したかのように見えたが、次の瞬間、抑えきれない感情が怒号となって彼女に突き刺さった。「普通は危ないことから逃げるもんだろうが!なんでお前だけが馬鹿正直に突っ込んでいくんだ!」その怒鳴り声は、あまりにも似ていた。一昨年、彼を
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第140話

かつての一葉ならば、このような状況に置かれるたび、期待せずにはいられなかっただろう。明らかに演技だとわかる優花ではなく、今度こそ自分を選んでくれるのではないかと、浅はかな期待を抱いていた。だが、今の彼女は、心の底から彼が優花に心を痛めることを望んでいた。いつものように、彼女が倒れるのを見るや否や、他のすべてを忘れて慌てて彼女を抱きかかえ、走り去ってくれることを。そうなれば、すぐにでも離婚証明書を受け取ることができるのだから。確かに、言吾はかつて彼女を救った。そして、つい先ほども。しかし、彼が与えた心の傷は、決して消えることはない。彼に救われたことで抱く感傷はあれど、離婚するという決意が揺らぐことはなかった。そもそも、自分だって彼を何度も救ってきたではないか。命を救った回数で言えば、むしろ彼の方に借りがあるくらいだ。彼に何の借りもないはずだ。だからこそ、一葉は願った。彼が優花を選ぶことを。そうすれば、この忌まわしい結婚生活に、一刻も早く終止符を打てる。だが、彼はいつものように、彼女のそのささやかな期待さえも裏切った。あれほど彼に選ばれることを渇望していた時には、一度として振り向いてはくれなかった。それなのに、彼に優花を選んでほしいと切に願う今、彼は自分を選ぶのだ。優花の失神がどれほど真に迫って見えようと、言吾は一葉を抱く腕を解くことはなく、ただ、優花も救急車に乗せるよう指示しただけだった。救急車に乗せられる優花の手が、青筋が浮き出るほど強く握りしめられているのを、一葉は見逃さなかった。……結局、一葉は言吾に付き添って病院へ向かうことになった。診察が必要なのは彼女ではなく、彼の方だった。救急車が走り去った後、現場に残った警察官が事情聴取をする中で、言吾の背中に車の破片が突き刺さっているのを発見したのだ。肉に食い込んだ破片から絶えず血が流れているというのに、言吾はまるで何事もなかったかのように、ただひたすらに一葉の身を案じている。その様子を見ていた警察官たちは口々に、一葉に素晴らしい夫を持ったと褒めそやし、こんなにも妻を想う夫は滅多にいない、大切になさいと諭すのだった。その言葉を聞いて、一葉は思わず乾いた笑いを漏らした。崖の上で選択を迫られた時、彼は何のためらいもなく、自分を見捨てたというのに
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