All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 151 - Chapter 160

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第151話

だが、優花は予想以上に用心深く、携帯電話を使って水嶋と連絡を取るようなことは決してせず、過去のやり取りも、痕跡一つ残さず消去されていた。これまで、有益な情報は何も得られていなかったのだ。今日のこの通話録音は、長らく続けた監視の中で、ようやく手に入れた最も価値のある「収穫」だった。もちろん、録音以外にも、言吾や一葉自身とのチャット履歴など、監視システムが保存したスクリーンショットは数多く存在する。この録音だけでも十分に決定的だと一葉は判断し、あえてこれ一つだけを突きつけたのだ。もし言吾がこれでも足りないと言うのであれば、他の証拠を次々と見せてやるまでだった。一葉のその言葉が落ちると、言吾の表情がみるみるうちに暗く沈んでいく。「その録音は、どこで手に入れたんだ」「……まさか、俺を盗聴させていたのか?」言吾は馬鹿ではない。すぐにその可能性に行き着いた。一葉は肩をすくめる。「あなたを盗聴なんてしてないわ。誰が送ってくれたのかも知らない。たぶん、天の神様があなたみたいな最低な男に騙される私を見かねて、親切な人を遣わしてくれたんじゃないかしら」言吾を盗聴など、彼女はしていない。優花のスマートフォンに仕掛けていたプログラムは、既に専門家の手で痕跡一つ残さず消去済みだ。言吾が今から調べたところで、何も出てくるはずがない。しばらくほとぼりが冷めた頃に、また仕掛ければいいだけのことだ。悪党を相手にするのに、ルールを守る必要などない。言吾は一葉をじっと見つめ、それきり何も言わなかった。ただ、その瞳の奥深くで何を考えているのか、うかがい知ることはできない。彼が何を考えていようと、一葉にはまったく興味がなかった。「契約通り、あなたは違反した。無一文で出て行ってもらうわ。明日の朝八時半、役所の前で会いましょう」そう言い捨て、彼女は背を向けて立ち去ろうとした。だが、その腕を言吾が強く掴んだ。一葉は振り返り、苛立ちを隠そうともせずに言った。「深水さん、まだ何か用?」離婚の話以外、彼と交わす言葉など、もはや一言もなかった。「一葉、あの動画の件で、確かめもせずに君を誤解して、あんな酷いことをした……本当に、俺が悪かった。これからの人生すべてをかけて、この過ちを償う。君が……」彼が言い終える前に、一葉は冷たく
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第152話

彼には、彼女を手放すことなどできはしない。どうしたって、できはしないのだ。自分が死なない限りは。いや、たとえ死んだとしても。彼は彼女を手放したくない。一緒に逝きたいとさえ願ってしまう。彼女なしではいられないのだ。あれほど苦しんだ時でさえそうだった。ましてや、今となっては。一葉は眉をひそめた。「契約を反故にして、私に訴訟でも起こさせるつもり?」一葉と言吾が交わした契約は、単なる口約束ではない。彼が反悔したいと思えばできるような、生易しいものではないのだ。二人の契約は公正証書にまでなっており、法的な拘束力を持つ。もし彼が約束を破るなら、一葉はすぐにでも裁判所に訴えることができる。そうなれば、裁判所は離婚を認め、財産は離婚協議書に署名された通りに分配される。彼は、無一文で放り出されるのだ。訴える、と告げる一葉の言葉には、一片の躊躇もなかった。彼――言吾へと向けられる瞳に宿るのは、もはや剥き出しの嫌悪だけ。かつて焦がれるほど注がれた愛情の欠片も見当たらない。その事実を突きつけられた言吾の瞳から、じわじわと絶望の色が後退し、代わりに狂気に染まった赤黒い光が滲みだす。彼には受け入れられなかった。どうしても。一葉が、愛していないと、そう易々と言い放ったことが。何の未練も、苦痛の色さえ見せずに。自分は過ちを犯した。だが、それはここまで非情に切り捨てられるほど、赦されざる罪だったというのか。なぜ、彼女はこれほどまでに冷酷になれるのだ……「君が俺を訴えれば、離婚は成立するだろう。俺がすべてを失うという、あの公正証書の通りにな。……だが」言吾が口にしたその接続詞が、一葉の心臓を不吉に締め付けた。なぜだろう。脳裏にふと、優花の嘲るような声が蘇る。――言吾さんが、自分の財産を全部あなたに譲ったのは、本当にあなたの心を取り戻すためだとでも思ってるの?私を取り戻すためじゃない。では、私を陥れるため?そんな考えが浮かんだ、まさにその時だった。耳に届いたのは、温度を失った男の声。「そうなれば、俺は全く新しい、最高の状態の会社を手に入れる。そして君が手にするのは、幾代にもわたって返済不可能な莫大な負債だけだ。知らないかもしれないから教えてやる。深水グループは今やもぬけの殻……いつ破産してもおかしくない状
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第153話

だが、その一方で、彼は誰よりも的確に彼女の本質を射抜いてもいた。真実を知った後の彼は、一葉が本気で離婚を望んでいることも、彼女が与えた「チャンス」が、彼をより惨めな破滅へと誘うための罠であることも、すべて見抜いていたのだ。だからこそ、彼は動いた。一葉が勝利を確信し、復讐の盃を掲げようとしたその裏で、彼は敵将を討つかのような冷徹さで、次の一手を打っていたのだ。まるで蝉が抜け殻を脱ぎ捨てるように、もぬけの殻となった会社の株をすべて彼女に押し付け、実権のすべてを掌握した新たな城を、自分一人のものとして築き上げていた。離婚しなければ、二つの城は一つの王国のまま、繁栄は続く。だが、ひとたび離婚すれば、彼女の手に残された城は音を立てて崩れ落ちる。すべてを失うどころではない。彼が言った通り、幾代にもわたって償うことすら不可能な、天文学的な負債だけが残るのだ。一葉は、目の前の男を見つめた。自分を傷つけるつもりなど毛頭ない、ただ、共にありたいだけなのだと、心の底から真摯な光を目に宿して語りかける、その夫の顔を。彼女はとっさに何かを言い返そうとしたが、言葉が喉元でつかえた。そして、思い至ってしまう。なぜ、自分がこれほどまで完膚なきまでに敗北したのか、その理由に。それは、自分自身の、本能―――潜在意識のせいだ。たとえ言吾という男を忘れ、彼への愛を記憶から消し去ったとしても、一葉の体の奥底に眠る本能は、まだ彼を信じていたのだ。彼は自分を心から愛している。過ちを心から悔いている。すべてを投げ打ってでも、自分を取り戻そうとしているのだ、と。彼の人間性を、彼のすべてを、無意識に信じきっていた。彼が自分を計算ずくで陥れることなどあるはずがない、と。だから、何の疑いも抱かなかったのだ。彼が全財産を差し出したのは、愛を取り戻すための誠意なのだと、あっさりと信じた。それが自分を破滅させるための罠だなどと、想像だにしなかった。この期に及んでさえ、もし彼が「これは君を陥れるためじゃない、俺は絶対に君を傷つけたりしない」と囁けば、本能がそれを真実だと受け入れてしまいそうで……ぞっとする。一葉は、さらに数歩、後ずさった。自分自身の本能が、そして、それを知り尽くしているかのような深水言吾という男が、心底から恐ろしかった。
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第154話

その一点に意識が集中するあまり、一葉は今の時刻が夜更けであることすら忘れていた。藤堂法律事務所にたどり着いた時、彼女を迎えたのは、シンと静まり返った漆黒の闇だけだった。思わず、自嘲の笑みが漏れる。よほどの衝撃だったらしい。自分でも気づかぬうちに、正常な判断力さえ失っていたとは。今すぐにでも藤堂弁護士に電話をかけ、この状況をどう打開できるのか、法的に突破口はないのかと問い質したい衝動に駆られる。しかし、もう夜も深い。彼はすでに眠りについているだろう。休んでいるところを邪魔するわけにはいかない。それに、こんな複雑な問題が、電話一本で解決するはずもなかった。一葉はポケットから取り出しかけたスマートフォンを、ゆっくりと仕舞った。明日になれば離婚証明書を受け取れるのだと、心の底から信じていた。この忌ましい結婚生活に終止符を打ち、勉学に専念できる新しい人生が始まるのだ、と。その希望が、予期せぬ一撃によって粉々に打ち砕かれた。込み上げてくる焦燥と絶望が、どうしても心を鎮めさせてはくれなかった。あてもなく、一葉は冬の静かな街を車で彷徨っていた。そして気づけば、桜都大学の正門前にたどり着いていた。日中は学生たちで賑わうその場所も、真冬の夜更けには静まり返り、煌々と明かりを灯しているのは二十四時間営業のコンビニエンスストアだけだ。そういえば、学生の頃、ここのおでんが大好きだった。まだ夕食を摂っていなかったことを思い出し、一葉は車を停めて店内へと入った。かつて好んで食べていた具材をいくつか選び、ついでに飲むヨーグルトを一つ手に取る。レジへ向かおうとした、その時だった。「一葉さん?」聞き慣れたその声に、一葉は反射的に顔を上げた。店の入り口に立っていたのは、知樹だった。彼女の顔を確認するなり、彼は長い脚で大股にこちらへ歩いてくる。キャメル色のロングコートが、彼のすらりと高い姿を一層引き立てていた。端正な顔立ちと相まって、まるでドラマから抜け出してきた俳優のようだ。レジカウンターの若い女性店員が、うっとりと彼に見惚れて、一葉の会計をするのも忘れている。知樹も実験を終えたばかりで、夕食がまだだったらしい。おでんで軽く腹を満たそうと、ここへ立ち寄ったのだという。結局、二人はそれぞれおでんのカップと飲むヨーグルトを手に、
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第155話

その時、二人は気づいていなかった。彼らが連れ立ってホテルに入っていく姿を、何者かがカメラに収めていたことには。部屋に入り、シャワーを浴びて眠りにつこうとした、ちょうどその時。スマートフォンが鳴った。画面には「深水言吾」の文字。本来なら無視するところだが、一葉は少し考えた後、通話ボタンを押した。「一葉、どうして家にいないんだ」言吾は、彼女が病院を後にして自宅へ戻ったものと思い込んでいた。自分の気持ちをなんとか整理し、彼女の住むマンションへ足を運んだものの、部屋に彼女の姿はなかったのだ。一葉は、氷のように冷たい声で言い放った。「私が家に帰ろうが帰るまいが、あなたに何の関係があるの」よくもまあ、あんな仕打ちをしておきながら、こんな風に連絡してこられるものだ。その神経が、一葉にはまるで理解できなかった。「一葉……」彼が何かを続けようとしたその言葉を、一葉は刃物のように鋭い声で遮った。「その呼び方はやめて。それから、その愛情深い振りも、もうたくさん。自分で吐き気がしないのなら、せめて、それを見せつけられる人間の身にもなってちょうだい」言吾は、反射的に弁解の言葉を口にする。「一葉、そんな振りなんて……」「していない、ですって?あなたのその『真新しい会社』は、たった一日で用意できるものなの?今の会社を空っぽにするだけでも、相当な時間がかかったんじゃないかしら」冷静さを取り戻した一葉の頭脳は、すでに高速で回転を始めていた。この電話に出たのは、彼から情報を引き出すため。そのために、敢えて新会社の話に切り込んだのだ。一つの会社、それもあれほど隆盛を極めた大企業を空洞化させるなど、短期間でできる芸当ではない。つまり、彼はこの計画をもっとずっと前から、周到に進めていたことになる。一葉の考えを読み取ったかのように、言吾は電話の向こうで慌ててまくし立てた。「違うんだ、一葉!君を陥れるつもりなんて、最初からこれっぽっちもなかった!あれは会社の癌だった他の株主どもを排除するためだったんだ。あいつらは好き勝手ばかりして、俺がいくら忠告しても聞く耳を持たなかった。会社の株をがっちり握りしめて手放そうとしないものだから、経営にまで支障が出ていたんだ。だから、あいつらを追い出すために、新会社を計画したんだよ!」本来は、機が
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第156話

言吾との電話を切った後、一葉はホテルのベッドに身を横たえた。しかし、どうすればこの絶望的な窮地から抜け出せるかという考えが頭の中を駆け巡り、結局、一睡もできずに夜が明けるのを待つことになった。空が白み始めると同時に、彼女は逸る気持ちを抑えきれずに藤堂弁護士へ電話をかけ、すぐにでも会ってほしいと懇願した。一晩中考え抜き、一つの突破口を思いついていた。ただ、それが法的にどれほどの有効性を持つのか、専門家の見解が必要だったのだ。法律事務所の応接室で事の次第をすべて聞き終えた藤堂弁護士は、険しい顔で眉根を寄せた。言吾が全財産を一葉へ譲渡したあの日、彼も証人としてその場に立ち会い、関連書類を隅々まで確認したはずだった。その時は、彼を心から過ちを悔いた誠実な夫だと信じて疑わなかった。まさか、その裏にこれほど巧妙な罠が隠されていたとは。彼は、専門家としての痛恨の失態を認め、思わず謝罪の言葉を口にした。「申し訳ない、青山さん……私の落ち度だ。そこまで見抜けなかったとは、弁護士として面目ない」深水グループは、今や国内有数のトップ企業であり、その将来性は誰もが磐石だと信じていた。だからこそ、藤堂も会社の財務状況そのものに疑念を抱くことなどなかったのだ。まさか、その土台が腐り落ちる寸前だったなどと、誰が想像できただろう。いや、不可能だ。誰もが有望だと見ていた大企業を、人知れず空洞化させる―――言吾が一代で財を成した稀代の天才経営者だと謳われる理由が、今なら嫌というほどわかる。常人には到底不可能な離れ業だった。「先生を責めるつもりはありません。だって、先生だけじゃない。私だって……いいえ、きっと世界中の誰も、あの深水グループがもぬけの殻だなんて、思いもしませんよ」この状況は藤堂弁護士の責任ではない。そう言って彼を気遣う一葉の瞳には、すでにパニックの色はなく、冷静な光が宿っていた。彼女は、藤堂が何かを言う前に、すっと本題を切り出す。「一晩、考えました。先生、どうでしょう……深水言吾を『夫婦共有財産の不当な移転』で訴えることはできませんか」彼が現在の会社を空洞化させ、その実態を別の新会社へと移した行為。それは、法的に見れば、二人の共有財産を彼が一方的に、不正に移動させたことにはならないだろうか。もしその一点を突くことができ
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第157話

「だが、彼はそうしなかった。それどころか、すべてを打ち明けてまで君を引き留めようとしている。私には……彼が君を本気で愛しているからだとしか思えない。彼が君を会社ごと罠にかけるような真似をしたのも、君を傷つけるためじゃない。ただ君を繋ぎ止めるためだ。何をしても君は自分を許さないと悟ったからこそ、まずは君を自分から離れられないように鎖で縛り付け、そこから先のことを考えようとした……そうは考えられないか。もし君に、まだ彼への情が少しでも残っていて、和解の可能性があるのなら……過去の痛みを乗り越え、二人でやり直すという道を模索するのも、一つの手かもしれない」もし二人にまだ可能性があるのなら、あえて茨の道を進み、絶望的な確率で証拠を探す必要はないのではないか。藤堂は、そう言外に告げていた。「ありえないわ。あの人とやり直すなんて、絶対に無理」一葉の口から、本能的な拒絶の言葉が飛び出した。言吾のそれが本物の愛だなんて思えない。だが、たとえそうだったとしても、もう二度と彼と一緒になることはない。「愛しているから」の一言で、すべての痛みや傷が癒えるわけではないのだ。「青山さんがどうしても彼とやり直す気がないというのなら、では……」藤堂は、彼女の固い決意を認め、別の選択肢を提示する。「彼が君に抱く愛情を利用するんだ。ハニートラップを仕掛けるなり、あるいは、今のこの一触即発の状態を一旦収めて彼に寄り添うふりをし、油断させて証拠を探し出す。夫婦共有財産を不当に移転し、新会社を設立したという決定的な証拠を掴んで、改めて彼を訴えるんだ」一葉は、言葉を失った。「……」突破口を見つけたいのは山々だが、よりによって、言吾にハニートラップを仕掛けるなんて。到底、できっこない。今の自分は、彼に対して生理的なレベルで嫌悪感を抱いているのだ。彼がそばに近寄ることさえ耐えられないのに、自ら進んで親密に接するなど、想像するだけで身の毛がよだつ。となると……残された道は一つ。まずは彼との緊張関係を緩和させ、その上で証拠を探すしかない。すぐにでも離婚できると信じていたのに、結局は、好機が訪れるのをひたすら待つしかないのだ。その事実が、どうしようもない苛立ちを一葉に募らせた。何もかもが嫌になって、ただ家に帰ってベッドに倒れ込みたい。そう思って
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第158話

だが、その突き刺さるような視線に気づくまで、そう時間はかからなかった。そして、一葉が高額で雇ったボディガードたちは、彼女よりも早くその不穏な気配を察知していた。インカム越しに寄せられた報告は、簡潔かつ的確だった。例の集団は、一葉が家を出た瞬間から尾行を続けており、敵対的な意図を持つ者と見て間違いない、と。報告を聞き、一葉はすっと眉を動かす。やはり……あの優花が、あれほどの屈辱を受けて黙っているはずがない。一葉があそこまで優花を追い詰めたのは、単に言吾との離婚を成立させるためだけではない。本当の目的は、精神的に追い詰めた優花に、再び自分を襲撃させること。最初の襲撃に関わった水嶋秘書の尻尾がどうしても掴めない以上、二度目の犯行、その動かぬ証拠を押さえるしかない。彼女が過去に犯した罪の代償は、必ずその手で支払わせる……!元より優花は、一葉の死を望んでいる。そこへもってきて、これ以上ないほどの恥辱を与えられれば、その殺意はより一層、燃え盛るはず。手段を選ばず、必ずや次の手を打ってくると読んでいた。案の定。彼女は、まんまとこの罠にかかったのだ。一葉はスマートフォンを取り出し、画面を覗き込むふりをしながら、インカメラで周囲の様子をさりげなく窺った。――一人、ではない。挙動不審な人影が複数、そこかしこに散らばっているのが見て取れた。ふっ、と一葉の口元から冷たい笑みが漏れる――『心から愛している』『君を失うことなどできない』……あの男、深水言吾はそう繰り返した。それなのに。優花を海外へ送るという約束も、彼女に渡した大金を返させるという約束も、なにひとつ守られてはいないじゃない。それどころか、言吾が与え続ける金で、あの女は殺し屋を雇い、この私を殺そうとしている。……これが、彼の言う「真実の愛」?笑わせないでほしい。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ。まさか、優花が私を殺そうとしているなんて知らなかった、とでも言うつもりかしら。そんな言い訳が通用するはずがない。第一、この私を殺すために殺し屋を雇った水嶋秘書が逃亡しているというのに、あれほど親密だった優花との関係を、言吾のあの怜悧な頭脳と獣じみた勘が見抜けないはずがないのだから。優花が水嶋と共謀して私を殺そうとした可能性に気づいていながら、それでもあの女を庇い、甘やかし続ける……それのどこが愛
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第159話

――違う。十数年ではない。負った傷のせいか、あまりに長い年月が過ぎ去ったような錯覚に陥っていたが、よく考えれば、彼が高校一年で実家に戻ってから、まだ八年しか経っていない。「オレだよ、姉さん」人の心を惑わす魔性的な美貌を持ちながら、旭はまるで自らの持つその破壊力に無自覚であるかのように、無垢で、人懐っこい笑みを浮かべた。その笑顔を見て、一葉は深く感嘆の息を漏らす。男の子というのは、本当に化けるものだ。以前の彼は、まだ背も低く、食べ盛りのせいで少しふっくらとしていて、思春期特有のニキビが顔を出しているような、ごく普通の少年だった。今の彼と昔の彼とでは、面影があるのは、その真っ直ぐな瞳くらいのものだ。先ほどまでサングラスをかけていたのだから、気づけなかったのも無理はない。高校時代の三年間、一葉はほとんどの時間を親友である千陽の家で過ごしたため、旭のことは弟のように見守ってきた。昔は、それなりに親しかったはずだ。だが、八年という歳月は、やはり二人の間に確かな隔たりを生んでいた。かつてのような気安さを、すぐには思い出せそうになかった。彼の驚くべき変貌への感嘆が落ち着くと、八年という歳月がもたらした気まずい沈黙が二人の間に流れた。一葉は、ひとまず彼の滞在先を尋ね、そこまで送ってから食事にしようと口を開きかけた。その時だった。「姉さん、早く帰ろうよ。十何時間も飛行機に乗ってたから、もうくたくただよ」まるで八年間の空白などなかったかのように、旭は昔と変わらない親密さで一葉に甘えてみせる。だが、一葉の方はと言えば…………帰る?どこへ?戸惑う彼女の思考を遮るように、親友の千陽から電話がかかってきた。「一葉ちゃん!ごめん言い忘れたけど、うちの弟、あんたの家に住まわせるからね!」「……は?」「あの子、知ってるでしょ?超がつく人見知りで臆病だから、寮生活は無理だし、一人暮らしもできないのよ!だからお願い!戻ったら豪華ディナー奢るから!」一方的にまくし立てられ、一葉は言葉を失う。確かに、そうだった。幼い頃に何かあったのか、この子はひどい人見知りで、普通なら友達とつるんで手がつけられないほどやんちゃな十三、四の頃でさえ、不登校気味で家に引きこもり、誰とも交流しようとしなかった。一人でいるのが平気かと思
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第160話

駐車場に着き、一葉が運転席に乗り込もうとすると、トランクに荷物を入れ終えた旭がさっと前に回り込んだ。「姉さん、オレが運転するよ」一葉は面白そうに眉を上げる。「あら、どうして?私の運転じゃ信用できないってわけ?」悪戯っぽくからかうと、旭はにっと笑った。「まさか。こんな良い車、乗ったことないからさ。運転してみたくて、羨ましかったんだよ」男の子は本当に車が好きなのだなと微笑ましく思い、一葉は素直に助手席へと回り込んだ。車が走り出すと、護衛の隊長から入電があった。すべて手筈通りに進んでいる、との報告だった。「……ええ。でも、くれぐれも気をつけて。皆さんの安全が第一よ」空港へ来る際に乗っていた車は、今頃、護衛チームが運転し、尾行者たちを引きつける囮となっているはずだ。敵が仕掛けてきた瞬間を狙い、一網打尽にする――「袋のネズミ」を捕らえるための作戦。彼らはプロフェッショナルだが、それでも心配は尽きない。通話を終えると、ハンドルを握る旭がルームミラー越しにちらりと視線を送ってきた。「姉さん、『みんなの安全が第一』って……何かあったの?」「ううん、なんでもない。ちょっとした用事よ」一葉が微笑んでそう答えると、旭はそれ以上何も尋ねなかった。自宅に着く頃には、手配しておいた向かいの部屋の準備は、アシスタントがすべて済ませてくれていた。旭に、歓迎されていないと誤解されないよう、一葉は丁寧に説明する。「ごめんね、姉さん今、結婚してるから、さすがに一緒には住めないの」「でも、あなたの部屋は真向かいだから。すごく近いでしょ?何かあったらいつでもすぐに来られるから、何も怖がることはないわ」「うん、わかった。ありがとう、姉さん」旭は、実に素直に頷いた。その様子に何のわだかまりもないことを感じて、一葉は安堵する。昔の癖で、よくやったと褒めるように、彼の頭を撫でようと手を伸ばした。だが、その手は空を切る。彼の頭は、もう、昔のように簡単には届かない場所にあった。一葉が何をしようとしたのか、すぐに察したのだろう。長身の青年は、ふっと笑みを浮かべると、すっと腰を屈め、彼女の手が届くようにその頭を優しく差し出した。その、昔と少しも変わらない素直で愛らしい仕草に、彼との間に感じていた八年分の隔たりが、ふっと溶けていくような気がした。
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