All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

一葉はうつむき、必死に全身の震えを抑え込みながら、唇の端に冷たい笑みを浮かべた。「人を嬲り殺しにするのは法に触れるからできない、やれば破滅する……じゃあ、生きている人間から心臓を抉り出すのは、合法だとでも言うの?破滅しないとでも?」「それに、確かにおばあちゃんの生死が気にならないわけじゃないわ。でも、私がどれだけ気にかけたところで、もうどうしようもないことなの。医者から聞いているでしょう。おばあちゃんの命の灯火はもう消えかけていて、今年の冬を越せるかどうかも分からない。そんなおばあちゃんが、自分のために孫の私が罪を犯すことを望むはずがないわ。あなたがおばあちゃんに手を下すのを、私には止められない。助けてあげられない……だったら、せめてあなたの愛する者たちを、あなたの目の前で先に地獄へ送ってあげる!愛する人たちが目の前で死ぬのが、耐えられないんでしょう?なら、その光景を、あなたに嫌というほど見せつけてあげるわ!」国雄は、紗江子の病状を知っている。祖母がもう長くないと知った一葉が、本当に救うことを諦め、逆に見せしめとして葉月を先に殺しかねない——そう思い至り、彼はたまらなく焦った。画面の向こうで、国雄が本能的に何かを言い募ろうとする気配がしたが、一葉はそれに一切耳を貸すことなく、一方的に通話を切った。通話を切った直後、張り詰めていた理性の糸がぷつりと切れ、一葉の全身から力が抜け落ちた。膝ががくりと折れ、細い身体はなすすべもなく床へと崩れ落ちていく。しかし、その身体が冷たい床に叩きつけられることはなかった。異変を察した慎也が、咄嗟にその華奢な肩を力強く抱きとめたからだ。「……っ」先ほど父に叩きつけた言葉は、刃のように鋭く、一歩も引く気などないという決意に満ちていた。だが、それはすべて虚勢だった。言いようのない恐怖に支配され、正気を失ってしまいそうな衝動を、必死で押さえつけていただけなのだ。慎也の腕に抱かれた今、抑えようもなく全身がカタカタと震えだすのを、もう止めることはできなかった。祖母の身に何かあることだけは、絶対に耐えられない。よりにもよって、あの男を祖母の元へ行かせたのは、この自分なのだ。一葉は、自分自身の判断の甘さを呪わずにはいられなかった。なぜ、あんな男の人間性などという不確かなものを信じてしまったのだろう。高
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第602話

ひどく怯えていた様子の葉月だったが、一葉の姿を認めると、まるで拠り所を見つけたとでもいうように叫んだ。「一葉さん!早くこの人たちをどかせてちょうだい!私、心臓が悪いのよ!こんな乱暴なことされたら……っ!」その命令するような口調に、一葉はすっと目を細めた。以前、葉月と父の関係については調査済みだった。しかし、その非はもっぱら父にあると考えていた。あの男が、一人の女のために狂っただけなのだと。父自身がおかしいのだから、相手が葉月でなくとも、他の誰かであっただけだろうと。だから、これまで葉月をことさらに責めることはしなかった。だが、今の彼女の態度を見るに、どうやらまったくの無関係というわけではなさそうだ。この一葉に命令できるということは、父が祖母を人質に取って脅迫していることを知っているのだろう。それどころか……父にそうするよう唆したのが、この女である可能性すらある。でなければ、もともと気弱で、昔から祖母に頭の上がらないあの男が、祖母を人質にするなどという大それたことを思いつくはずがない。それに……そう思考を巡らせながら、一葉は再び目を細め、目の前の女を頭の先からつま先までじろりと観察し、最終的にその顔に視線を固定した。自分は医者ではない。だが、研究分野が医療と近いため、これまで多くの患者と接してきた。事前の調査報告でも、父の話でも、葉月は末期の心臓病を患っているはずだった。すぐにでも心臓移植をしなければ手遅れになる、と。しかし、目の前の葉月の顔色は驚くほど健康的だ。先ほどのヒステリックな口調。屈強な男たちにここまで引きずられてきたというのに、息ひとつ切らしていない。どう見ても、今すぐに心臓移植をしなければ死んでしまうような、末期の病人には見えなかった。ある可能性に思い至った瞬間、一葉の眼差しが、氷のように冷たく沈んだ。一葉の目にも明らかなその違和感を、洞察力に優れた慎也が見逃すはずもなかった。一葉が何かを言うより早く、視線を送るよりすら早く、彼はすでに部下の一人に目配せをし、葉月の「病状」について、改めて詳細に調べるよう命じていた。部下の一人が調査のためにその場を離れた後、慎也は残った部下たちに目配せをした。すると、彼らは葉月を押さえていた腕を、すっと緩めた。自分が一言発しただけで、目の前の女が素直に部下を下がらせ
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第603話

国雄の前では、常に心配され、蝶よ花よと扱われることに慣れきっていたのだろう。彼女が少しでも気を失いそうな素振りを見せれば、国雄はすぐさま狼狽し、大騒ぎする。本港市にいた頃は、使用人を何人も雇い、まるで壊れ物のガラス細工でも扱うかのように傅いていたのだ。そのせいだろう。しばらくよろめいてみせても、誰一人として手を差し伸べようとしない状況に、葉月は苛立ちを隠せないでいる。ついには、なぜ気が利かないのかとでも言いたげな目で、一葉をきつく睨みつけた。その剣幕に、一葉は思わずふっと笑みを漏らした。一葉が浮かべた冷笑に、葉月はさらに不快感を露わにした。しかし、隣に立つ慎也がただならぬ人物であることは察しているのか、あからさまな悪態はつかず、代わりに一層か弱い声で訴えかけた。「一葉さん……めまいが……もう、私、だめかもしれないわ……早く、どこか休めるところへ連れて行ってちょうだい」「もし、私の身に何かあったら、あなたのお父様が何をするか……お祖母様がどうなるか、分からないわよ」それは、一葉を気遣う振りをして、その実、紗江子の命を盾に脅迫する言葉だった。その卑劣さに、一葉は思わず一歩、女へと歩み寄っていた。「私が、あなたを休ませろと?」その声に含まれた、抑えきれない怒りの響きを、葉月は正確に聞き取っていた。だが、彼女は怯まない。紗江子という切り札さえ手にあれば、この女がどれほど自分を殺したいほど憎んでも、結局は何もできずに屈するしかないと高を括っているのだ。だから、彼女は臆面もなく手を差し伸べながら、こう言い放った。「ええ、そうよ。早く、この私を支えてちょうだい。本当にめまいがするの。私の身に何かあれば、あなたのお祖母様がどうなるか……分かっているでしょう?」本当は、国雄も紗江子もいないこの状況で、事を荒立てるべきではないと葉月自身も分かっている。もっと慎重に、下手に出るべきだ。だが、どうしても抑えきれなかった。この女を顎で使ってやりたいという衝動を。紗江子の命をちらつかせて、この女を屈服させてやりたいという欲望を。この女のせいで、たった一人の愛娘・優花は刑務所送りになり、その人生を滅茶苦茶にされたのだ。憎くて、憎くて、たまらない。だが、どれだけ憎んでも、自分には何もできなかった。やっと手に入れたこの機会だ。娘の恨みを、少しでも晴らさずにはい
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第604話

国雄を手玉に取るだけあって、葉月も決して愚かではない。目の前の女から放たれる、本物の殺気を感じ取っていた。こいつは本気で自分を殺すつもりだ、と。その事実に気づいた途端、葉月の身体が恐怖でわなわなと震えだした。「一葉さん、早まらないで!お願いだから、落ち着いて!人を殺せばどうなるか……!それに、お祖母様はどうするの!?あなたのお祖母様が死ぬのを、ただ黙って見てるつもり!?まずは冷静になって。ね?私は、大人しくあなたと一緒にお父様のところへ行くわ。ちゃんと、説得するから!」「私みたいな、もう先のない人間のために、こんなに怒る必要なんてないじゃない!」そう言って、葉月は空いている方の手で、必死に一葉のズボンの裾に縋りついた。「先のない人間?」一葉は、その言葉を鼻で笑った。「末期の心臓病で、すぐにでも移植しないと死ぬ人間が、鳩尾をあれだけ強く蹴られても平気な顔をしているどころか、命乞いをする元気まで残っているなんて、面白い冗談ね」「あなた、当分死にそうにないじゃない。それどころか、父の方が先に死んでも、まだぴんぴんしてそうね」その言葉は、痛みのせいですでに青ざめていた葉月の顔から、さらに血の気を奪った。その顔色は、まるで死人のように真っ白だ。一葉は踏みつけていた手を離すと、腹いせに二度、三度と葉月の身体を蹴りつけ、それから部下に合図して気絶させ、飛行機に運び込ませた。ぐったりとしたまま機内へ引きずられていく葉月の姿を、一葉はますます冷え切った表情で見つめていた。あれだけ強く蹴られても平気でいるということは、末期の心臓病どころか、そもそも心臓に何の疾患もない可能性が高い。だが、父の話でも、これまでの調査結果でも、彼女は重度の心臓病患者のはずだった。もし本当に病気でなく、心臓移植が必要ないのであれば、一体なぜ、父にそこまでして心臓を手に入れさせようとするのか。自分たちを脅迫することが、どれほど危険なことか分かっているはずだ。常識的に考えれば、そんな危険を冒す理由がない。一葉の心を、慎也はいつも正確に読み取る。彼女が何も言わなくても、何を考えているのか、何を感じているのかが分かるのだ。彼はそっと歩み寄ると、震える一葉の肩を抱き寄せた。「すでに詳しく調べるよう指示してある。すぐに報告が来るだろう」国雄の偏愛も、その狂気も、
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第605話

どんな慰めの言葉も、今の彼女には陳腐に響いてしまうだろう。そう判断したのか、慎也は余計なことは言わず、ただ静かに一葉の頭を優しく撫でた。「あんな男のために、お前が心を痛める必要はない」一葉は俯き、小さく頷いた。「……ええ」憎悪と侮蔑に駆られ、一葉は部下に命じようとした。気絶したままの葉月を引きずり起こし、あの愚かな父の眼前に突き出してやれ、と。お前が命を懸けて守ろうとしている女が、どれほど健康体で、お前がどれほど滑稽な道化なのか、その目でとくと見るがいい、と。だが、その声が発せられるよりも早く、事態は急変した。ずっと意識を失った振りをしていた葉月が、突如、カッと目を見開き、自らの舌を噛み切ろうとしたのだ!一葉から「心臓病のくせに、あれだけ蹴られても平気だ」と指摘された瞬間から、葉月は自分の計画が露見したことを悟っていた。もはや、思い描いていた通りには事が進まないと。しかし、後悔する間も、次の一手を考える時間も与えられず、彼女は殴られて意識を失った。目を覚ました後、誰も自分に注意を払っていないことに気づいた葉月は、すぐさま気絶の振りを続けながら、必死で活路を探っていた。あの国雄を手玉に取り、実の母親に刃を向けさせるほどに操った女だ。彼の性格を知り尽くしている。もし、自分が心臓病ではないと知られたら。それどころか、その心臓が、自分の愛人のためのものだったと知られたら……あの男がどれほど狂乱するか、火を見るより明らかだ。心臓を手に入れるどころの話ではない。その場で、八つ裂きにされるだろう。だから、何があっても、本当に心臓を必要としているのが自分ではないという事実を、国雄に知られてはならなかった。だが、どれだけ頭を捻っても、この窮地を脱する妙案は浮かばない。どうすれば、国雄に真実を知られずに済むのか。そして、飛行機が着陸し、一葉たちが全ての証拠を掴んだと知った時、葉月は完全に絶望した。もはや、生きてこの状況を覆す術はない。自分が、死ぬ以外には。国雄の性格は、知り尽くしている。自分がここで死ねば、たとえ一葉がどんな証拠を突きつけようと、彼は決して信じないだろう。心臓病ではなかったこと、その心臓が愛人のためのものだったこと……そんな事実は、彼の耳には届かない。彼はただ、人生最愛の人を失ったという事実だけで、理性を失
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第606話

その処置が終わるか終わらないかのタイミングで、葉月の失踪に気づいた国雄から、けたたましく電話が鳴った。通話ボタンを押すや否や、一葉が何かを言うより先に、焦燥と狂気に満ちた声が耳をつんざく。「一葉!葉月をどうした!言っておくが、もし葉月の身に何かあれば、お前の祖母は、その前に死ぬことになるぞ!」当初は、別のやり方でこの男に対処するつもりだった。だが、この残酷な真実を突きつければ、刃物など使わずとも、奴の心を抉り殺すことができる。そう判断した一葉は、先ほどまでの刺々しい態度を完全に消し去り、切羽詰まった声色で訴えかけた。「お父さん、早まらないで!お願いだから落ち着いて!さっきあんなことを言ったのは、あまりに腹が立って……おばあちゃんを解放してほしくて、脅しただけなの!本気じゃないわ!」「おばあちゃんにだけは手を出さないで!お願い!お父さんだって分かってるでしょう?私は自分の命より、おばあちゃんが大事だって!」必死の嘆願は、効き目があったようだ。「娘が本当に人殺しまでするはずがない」と心のどこかで信じたかった国雄は、安堵したように息をつき、いくらか冷静さを取り戻した。その声色も、先ほどより和らいでいる。「一葉……父さんだって、こんなことはしたくなかった。お前にとって、お祖母様がどれだけ大切な人か、父さんだって分かっている。だが……本当に、もう他に手がなくて……」「葉月に、ちゃんとした心臓を見つけてくれさえすれば、お祖母様には絶対に指一本触れないと誓う!」その言葉に、嘘はなかった。できることなら、実の母親に手をかけることなど、彼自身も避けたかったのだ。「分かってるわ。もう、心臓は用意してある。今、葉月さんと一緒に雲都に着いたところよ。すぐにそっちへ向かうわ。心臓外科の権威の先生も、一緒にお連れした。お父さんが心臓を確認して、問題なければ、すぐにでも手術ができるように。だからお願い!絶対におばあちゃんを傷つけないで!」「もう心臓を準備しただと?」国雄は、娘である一葉を愛してはいなかったが、その性格は熟知していた。自分の知る一葉が、これほど早く条件を呑むはずがない。ましてや、こんな短時間で心臓を用意できるはずもない。何か裏があるのではないか、と彼は訝しんだ。「一葉、父さんを騙そうなんて考えるなよ!お前の祖母と、刺し違えるような
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第607話

突然の出来事に、若い看護師は顔を真っ青にさせて立ち尽くす。だが――舌を噛み切ることすら叶わなかった彼女に、メスでの自殺などできるはずもなかった。刃がその白い首筋に触れるより早く、葉月のそばに控えていたボディガードが、瞬時にその手からメスを奪い取った。一連の行動は、国雄の心を凍りつかせるには十分だった。ボディガードが葉月を取り押さえるや否や、彼は狂ったように駆け寄る。「葉月っ、やめるんだ!なんてことを!君は、君は絶対に生きなくちゃいけないんだ!」恐怖に震えながら叫ぶ一方で、国雄の頭の中は激しい混乱に見舞われていた。なぜ、葉月が突然死のうとするのか。なぜ、あんなことを言うのか。理解できない……そもそも、母親を人質に使えと俺を唆したのは、他の誰でもない彼女自身だったじゃないか!同行させた医師に、紗江子のバイタルを隅から隅までチェックさせ、命に別状がないことを確認すると、一葉は深く息を吐いた。葉月の芝居がかった振る舞いにも、それに見事に踊らされる父の姿にも、彼女はもはや辟易していた。この狂言をさっさと終わらせたい一心で、感傷に浸ろうとする国雄と葉月の間に、冷ややかに割って入る。「国雄さん。心臓は別の便で、もうすぐこちらに空輸されてくるわ。まずは、葉月さんに術前検査を受けてもらわないとね」父が葉月をいかに盲信しているか、一葉は嫌というほど知っていた。彼自身の目で、葉月の体が何の問題もないと確認させない限り、どんな証拠を突きつけようとも無駄に終わるだろう。一葉の言葉に、なおも葉月に何かを言い募ろうとしていた国雄は、はっと我に返った。そうだ、手術が最優先だ。彼は他の全てを忘れたように頷く。「ああ、そうだな!すぐに術前検査を!」その言葉を聞いた瞬間、葉月の顔からサッと血の気が引いていく。心臓病なんて、全部嘘なのに……!彼女は己の運命を悟った。検査をすれば、たとえ簡単な心エコー検査だけでも、自分の心臓が健康そのものだとバレてしまう。それは、自らの死刑宣告に他ならなかった。本能的に何かを叫ぼうとした葉月だったが、その声が形になる前に、一葉が側に控えさせていた部下が、素早く彼女の腕に再び鎮静剤を注射した。その光景を見た国雄が、怒りに顔を歪めて叫んだ。「一葉!貴様、何をするんだ!」「また自殺騒ぎを起こされて、検査が遅れると困るから
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第608話

部長はもう一度モニターに視線を落とし、確信に満ちた口調で告げた。「この患者さんの心臓ですが……心臓移植が必要などころか、全く何の問題も見当たりませんよ」「なっ……!?」国雄は呆然と立ち尽くす。「私は長年、心エコー検査に携わってきましたが、断言できます。この患者さんは、心臓病など患っていません」「ありえない!そんなはずはない!」国雄は激しく首を横に振った。部長の言葉はあまりに断定的だったが、国雄には到底信じられるものではなかった。彼が愛する葉月に病気であってほしいと願っているわけではない。しかし、この二年間、彼女の心臓移植のために、彼は髪が白くなるほど心血を注いできたのだ。『愛する人は、もうすぐ死んでしまう』――その現実は、彼の脳に深く、深く刻み込まれていた。それなのに、今になって「心臓病などない」と告げられても、到底受け入れることなどできはしなかった。「信じられないのでしたら、こちらへ来てご覧になりますか。彼女の心臓のエコー画像と、本物の心臓病患者の画像を比べてみれば一目瞭然ですよ」「比べる必要などない!以前の彼女の検査結果がどんなものだったか、私が一番よく知っている!私が診る!」そう叫ぶと、国雄は部長の手から、半ばひったくるように超音波の探触子を奪い取った。葉月が国雄を信じ込ませる手口は、巧妙だった。彼女が彼に見せてきた数々の検査データは、全て偽造されたものではない。それは彼女の『本当の愛人』の、正真正銘の検査結果だった。ただ、患者の名前の部分だけを、彼女自身の名前に書き換えて。国雄は葉月の体を心から案じ、彼女が必要とする心臓の情報を得ることに必死だった。それゆえに、彼は過去の全ての検査データを、脳裏に焼き付くほど詳細に記憶していた。たとえ今、手元に実物がなくとも、記憶だけで正確に再現できるほどに。それだけではない。彼女を救いたい一心で、彼は心臓病に関する医学知識を貪欲に吸収し、今では半ば専門家と言ってもいいほどだった。だからこそ、彼は自らの手で探触子を葉月の胸に滑らせ、モニターに映し出される映像を見た瞬間、理解してしまったのだ。記憶の中にあるデータとは似ても似つかない、あまりにも健康で、力強く拍動する心臓がそこにはあった。何度角度を変えても、何度確認しても、結果は同じだった。ついに悟った。葉月は――病など患って
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第609話

「これが解毒薬だ、早くお前の祖母に飲ませろ!すぐに目を覚ますはずだ!」国雄はそう言うと、小さな薬瓶を一葉に向かって投げ渡した。母親を思う気持ちがないわけではない。だが、彼にとって最も大切なのは、いつだって愛する女だった。自分が解毒をしている間に、一葉が葉月に何かするのではないかと恐れたのだ。彼が自らの手で母親を救おうとしないことに、もはや誰も関心を払わなかった。解毒薬さえ手に入れば、それで十分だったからだ。祖母が目を覚ました後では、彼がいくら葉月のそばにいようと無駄だというのに。いや、そもそもその頃には、彼はもう葉月を守ろうなどとは思わなくなっているだろう。一葉は心の中で冷ややかに呟いた。さすがに実の母親に渡す薬だ。国雄も変な細工はしていなかったらしい。紗江子は薬を投与されると、ほどなくして意識を取り戻した。目を覚ました紗江子は、状況が飲み込めず、ただ茫然と虚空を見つめている。そんな祖母を前にして、彼女がどうしてここにいるのか、一葉はどう説明すべきか言葉に詰まった。とてもじゃないが、真実など告げられなかった。あなたのたった一人の実の息子が、あんな女のために、あなたを毒殺しようとしたなんて――祖母がその衝撃に耐えられるはずがないと、一葉は思ったのだ。親子の情、とりわけ、母が子を思う気持ちというものは、この世で最も断ち切ることが難しい絆なのかもしれない。我が子がどれほどの過ちを犯そうと、多くの母親は子を責めるのではなく、まず自分を責める。「自分の育て方が悪かったのだ」と。紗江子は、まさにそういった母親だった。国雄が優花を甘やかし、一葉をないがしろにした時も、その他様々な愚行を重ねた時も、彼女は心底失望し、「いっそ叩き殺してやりたい」とまで口にすることもあった。だが、それでも心の底では息子を想い続けている。一葉に対して、彼女はよくこう零していた。「あの子が幼い頃、私が仕事にかまけてばかりで、ちゃんと向き合ってやらなかったから。だからあんな風に、物事の分別がつかない人間になってしまったのよ」どれだけ失望させられても、彼女は息子を見捨てることができないのだ。一葉のように、完全に絶望し、諦めることなどできずに。心のどこかで、息子の更生を願い続けている。そんなにも息子を想う祖母の姿を前にすると、一葉は身動きが取れなくなる。どれほ
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第610話

一方、国雄は狂喜の熱から徐々に醒め、冷静さを取り戻しつつあった。そして、自分が実の母を人質に取ったという事実を思い返し、血の気が引くのを感じていた。――母が目を覚ませば、一葉は必ず俺たちに落とし前をつけさせようとするだろう。一葉が祖母を気遣い、自分に致命的な危害を加えることはないかもしれない。だが、葉月は別だ。彼女がただで済むはずがない。その考えに至った国-雄は、衝動的に一葉の部下を打ち倒し、葉月を連れてこの場から逃げ出そうかと考えた。しかし、思いとどまる。一葉一人の力でさえ、自分は逃げ切れないだろう。ましてや、あの桐生慎也が背後にいるのだ。逃げたところで、何の解決にもならない……国雄は葛藤に葛藤を重ねた末、逃亡ではなく、娘に許しを乞うことを選んだ。病室から出てきた一葉の姿を認めると、彼は堰を切ったように泣き落としにかかった。「一葉!父さんが悪かった!どんな理由があろうとお前の祖母に薬を盛るなど、決して許されることではないと分かっている!だが父さんも、本当に追い詰められて、他にどうしようもなかったんだ!」「父さんがここまで追い詰められたのは、全てあの病院のせいなんだ!あの無責任な医者どもが、患者のカルテを取り違えたりしなければ!こんな誤診さえなければ!」「そうだ、全ては奴らのせいなんだ!こんな事態になったのは、全部、全部あの病院のせいなんだ!」国雄は、自らの罪の全てを、病院になすりつけようと必死だった。だが――そんな見え透いた責任転嫁が、通用するはずもない。一葉は何かを言い返そうとして、ふと、傍らで葉月が意識を取り戻したことに気づいた。その瞬間、彼女の頭に新たな考えが閃く。おばあちゃんがいる手前、物理的に消すことはできない。ならば――あの男の心を、完膚なきまでに叩き潰してやればいい。一葉はもはや国雄には目もくれず、その視線をまっすぐに葉月へと注いだ。葉月は、度重なる自殺未遂の失敗に、もはや死ぬ気力さえ失っていた。覚醒した意識がはっきりしてくると、自分を見下ろす一葉の姿が目に入る。彼女は反射的に、憎悪に満ちた瞳で相手を睨みつけた。どうせ殺されるのだ。せめて最後に罵詈雑言を浴びせてやろうと口を開きかけた、その時だった。一葉がふっと身を屈め、葉月の耳元で悪魔のように囁いた。「――生きたい?」喉元まで出かかった罵りの言
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