All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 591 - Chapter 600

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第591話

まるで、自分の母親を見ているかのようだ。偏愛を極めながら、それが過ちであるという自覚すらない人間に、どれだけ言葉を費やしたところで無意味なのだ。だから、言吾は何も言わなかった。ただ後ろに控える秘書に目配せして今日子を制止するよう指示すると、一度も振り返ることなくその場を立ち去った。まさか言吾に、あんな風にあしらわれるとは。今日子にとっては、まさに青天の霹靂だった。これまでは、一葉との関係がどれほどこじれていようと、言吾は常に自分たちに敬意を払い、礼儀を尽くしてくれていたのだ。それが今や、言葉を交わすことさえ拒絶し、まるで道端に転がる石ころでも見るかのような冷たい視線を向けて立ち去っていく。この仕打ちは、今日子には到底受け入れられるものではなかった。思わず、その背中に向かって叫んでいた。「待ちなさい、言吾さん!このまま行かせるもんですか!私にこんな無礼な態度をとって、優花ちゃんを見捨てるなんて、絶対に許さないわ!」「忘れたなんて言わせないわよ!子供の頃、優花ちゃんがあなたを助けてくれなかったら、あなたはとっくに死んでたはずじゃない!」だが、彼女がどれだけ声を張り上げようと、過去の恩を声高に叫ぼうと、言吾は足を止めることすらなかった。振り返ることなど、万に一つもありはしない。一度もこちらを見ることなく去っていく言吾の背中を、ただ茫然と見送ることしかできない。やがてその姿が完全に視界から消えると、万策尽きた今日子は、糸が切れたようにその場にへなへなと座り込んだ。頭の中がガンガンと鳴り響き、何を考え、次にどうすればいいのか、まったく分からなかった。秘書の高木は、一葉と今日子、そして優花の間の歪な関係を承知していた。この期に及んでなお、養女のために実の娘をここまで貶める母親の姿。彼女がどれほど哀れな姿を晒そうと、高木は一片の同情も感じなかった。むしろ、まだ生ぬるいとさえ思った。この女は、もっと、もっと悲惨な目に遭うべきだと、心の底からそう感じていた。言吾が今日子の懇願を拒絶した、その直後だった。また別の人物が彼の前に現れ、優花が会いたがっている、何としてでも一度会ってほしい、と告げてきた。言吾は目の前の男に猜疑の目を向け、眉をひそめる。優花も大したものだ。これほどの身分の人間をよこして、自分を呼びつけさせるとは。だが、彼女が
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第592話

だが、頼りにしてきた人脈も、かつて彼女のためなら死をも厭わないと誓った男たちでさえ、誰一人として手を貸そうとはしなかった。いよいよ絶望して死を選ぼうとした、その時だった。言吾が無事に戻ってきたという報せが舞い込んできたのは。その瞬間、彼女の目に、再び生の光が灯った。特に、言吾が烈を打ち負かしたと知ってからは、未来への希望が確信へと変わった。彼女は最後の切り札を使い、ある人物に頼んで、言吾をここまで呼び寄せたのだ。命の恩、そして共に育った幼馴染としての深い情。彼が会いに来てくれさえすれば、必ずや彼の心を動かし、もう一度だけ、この最後の一度だけ、助けてもらえるはずだ。その強い確信があったからこそ、面会室に現れた言吾の姿を目にした時、優花はたまらないほどの興奮に打ち震えた。まるで次の瞬間には、ここから解放されることが決まったかのように。「言吾さん……」今にも泣き出しそうな、か細い声で優花が呼びかける。かつての言吾であれば、彼女のそんな姿を見れば、胸が締め付けられるような思いをしただろう。美月さんを同じ母として育った彼は、心の底から優花を実の妹のように慈しみ、幼い頃からずっと守ってきた。彼女のためにあらゆる問題を解決することが、いつしか彼の習性となっていたのだ。だが今、目の前で涙ぐむ優花を見ても、彼の心にかつてのような痛みが走ることは、もはやなかった。たとえ家族同然の深い情愛であっても、度重なる裏切りと愚行によって、跡形もなく消え去ってしまうものなのだ。言吾の冷ややかな空気を、優花は敏感に感じ取っていた。だが、それで気落ちする彼女ではない。事ここに至って、彼が自分に冷たく、もう関わりたくないと思うのも、当然のことだ。今更、以前のように自分を可愛がってほしいわけではない。ただ、最後のチャンスが欲しいだけなのだ。だから、優花は言吾が何かを口にするよりも早く、その腕に強く縋り付いた。堰を切ったように涙を流しながら、訴えかける。「言吾、さん……分かってる、分かってるの……昔のことは全部、私が間違ってた。本当に、自分が間違ってたって、今は分かってるの!」「あれからはもう、一葉お姉ちゃんに酷いことなんて、何もしてないわ。お願い、お願いだから、お姉ちゃんに話して、今回だけは見逃してくれるよう言ってくれない?これっきり、本当にこれ
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第593話

「美月さんが俺にそう託したのは、あの人の実の娘を頼む、という意味だ。お前は、あの人の実の娘なのか?実の娘でないどころか……お前は、あの人の本当の娘を、この手にかけて殺したじゃないか!」言吾のその一言は、ただでさえ憔悴しきっていた優花の顔から、血の気を完全に奪い去った。その顔色は、見るもおぞましいほどに土気色へと変わっていた。まさか、まさか言吾が、あのことまで知っているなんて。これまで彼が自分に良くしてくれたのは、その大部分が美月の存在あってこそだと、優花は理解していた。もはや自分に何の情も残っていないであろう言吾が、自分が美月の実の子でないどころか、その実の子を死に追いやったと知った以上、助けてくれるはずがない。それでも、彼女はどうしても、この場所から一刻も早く出たかった。だから、もはや希望がないと分かっていながらも、最後の悪あがきを試みた。「そんなこと、私、本当に何も知らなかったの!この間、国雄さんから聞いて、初めて……!だから、私のせいじゃない!」「本当よ!私は何も悪くない!それに、お父さんやお母さんのことを抜きにしたって、私が昔、あなたを助けたのは事実でしょ?言吾さん、だからお願い、これが本当に最後、最後にするから、助けてくれない?約束するわ。今回ここから出してくれたら、もう絶対に、あなたと一葉お姉ちゃんの前に姿を現したりしない。本当に、死んだ人間みたいに、静かにしてるから!」その言葉に、嘘はなかった。今回だけ逃してくれさえすれば、本当に、本当に二度と彼らの前に現れるつもりはなかった。死人同然に、薄暗い世界の片隅で息を潜めて生きていく。彼女は本気でそうする覚悟だった。彼女がどれほど本気であろうと、どれほど真摯に誓おうと、関係なかった。言吾は、彼の腕を掴む優花の手を、無慈悲に、しかし力強く引き剥がした。助ける気など、一片たりともない。誰もが、己の犯した罪の代償を支払わなければならない。過ちを犯したのなら、罰を受けるのが道理だ。「死んだも同然に生きる」と言ったところで、犯した罪が消えてなくなるわけではないのだから。もはや使える手はすべて使い果たし、言うべき言葉も尽きた。それでもなお、目の前の男の決意が微動だにしないことを悟った優花は――これ以上何を懇願しても無駄なのだと、ようやく理解した。
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第594話

目の前の女を見ながら――先ほどまであれほど哀れっぽく自分に懇願していた女が、突如として豹変したその様を見ながら、言吾は思わず、乾いた笑いを漏らした。昔の自分は、本当にどうかしていた。どれほど目が曇り、心が盲目だったのか。彼女のことを、いつまでも幼い頃の、あの弱々しくも心優しい妹なのだと、何の疑いもなく信じ込んでいた。あんなに幼くして、自らの命の危険さえ顧みずに自分を救ってくれた人間が、どれだけ道を誤ろうと、根っからの悪人であるはずがないと。何から何まで、彼女の言葉を信じていた。自分は、本当に……だが、優花の言ったことは間違ってはいない、と彼は思った。かつての過ち、そのすべてにおいて、最も罪深く、最も一葉を傷つけたのは、紛れもなく自分自身だ。死に値する人間がいるとすれば、それは自分なのだと。たしかに、あの時の自分は、過去のトラウマに心を蝕まれ、優花の言葉を鵜呑みにし、一葉が彼女に薬を盛ったのだと、自分たちの出会いから何もかもが彼女の策略だったのだと信じ込んでいた。しかし、そんなことは、彼女を傷つけていい正当な理由にはならない。自分は、いかなる理由があろうとも、万死に値する罪を犯したのだ。言吾は、まっすぐに優花を見据えた。「お前の言う通りだ。元凶は俺で、一番死ぬべき人間も俺だ。俺は、この先の一生をかけて、罪を償っていく」「そしてお前は、お前の残りの人生をかけて、罪を償え。安心しろ。刑期を終えて老人になってから、墓に入る場所もないなんて心配はしなくていい。昔、命を救ってもらった恩がある。お前が穏やかな晩年を過ごせるよう、そして、墓に入る場所くらいは、俺が用意してやる」かつての命の恩は、今や、それだけの価値に成り下がった。言吾はそう言い残すと、背を向けて歩き出した。その冷酷で、一切の情けを含まぬ背中を見ながら、優花は悟った。この背中を見送ってしまえば、もう二度と、いかなる希望も残されてはいないという絶望的な事実を。その認識が、彼女を最後の狂気へと駆り立てた。言吾の心を抉れるだけ抉ってやろうと。「……昔、命を救ってもらった恩、ですって?」優花は一瞬、間を置くと、けたたましい笑い声をあげた。「深水言吾、あんたって、本当に救いようのない馬鹿ね!何年も、何年も、私にいいように踊らされてたことにも気づかないで!」「命の恩
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第595話

「アクシデント?もちろん、あったかもしれないわね。でも、そのアクシデントっていうのは、せいぜい、あんたが車に轢かれて死ぬだけのこと。私には、何の損もないじゃない!うまく行けば、私はあんたの命の恩人になって、一生感謝される。失敗しても、死ぬのはあんただけ。私が、この計画をためらう理由なんて、どこにもなかったのよ!」言吾は、とうに優花の本性――その底知れぬ悪意と毒を知り尽くしていたはずだった。だが、今、目の前で狂気の笑みを浮かべる女の姿に、彼は言葉を失い、全身を打ちのめされたかのような衝撃を受けていた。これまで、彼は信じていた。優花は大人になる過程で道を誤り、歪んでしまったのだと。幼い頃の、あの心優しかった彼女が、こんな風に変わり果ててしまったのだと。あの「命の恩」があったからこそ、彼は一度も疑わなかった。彼女の根が、腐りきっているなどとは。だが、その「命の恩」の真相が、これだったとは。あの「命の恩」があったからこそ、彼は一度も疑わなかった。彼女の根が、腐りきっているなどとは。彼女は、大人になってから悪くなったのではない。最初から……その根の部分から、腐りきっていたのだ。八歳。たった八歳の少女が、これほどまでに悪辣な計略を巡らせるとは。彼女は、本当に……本当に……優花は、やはり言吾という人間を誰よりも熟知していた。彼女が突きつけたこの「真実」は、彼の心を、これ以上ないほど深く、そして残酷に打ちのめしたのだった。真実を受け止めきれず、茫然と立ち尽くす言吾の姿を目の当たりにし、優花の笑い声は、さらに甲高く、狂気を帯びていった。「深水言吾!あんたは、私に一生手のひらの上で転がされてきた、ただの馬鹿よ!そんなあんたが、何で私を見捨てるのよ!何様のつもり!」「こうなるって分かってたら、絶対に助けたりしなかった!あの時、必死で腕を掴んで引き戻したりなんかしないで、あんたが車に轢かれて死んでいくのを、黙って見ててやればよかったんだわ!」優花は考えれば考えるほど、後悔の念に駆られていった。あの時、命の恩人になろうなどと考えず、ただ言吾が死ぬのを見届けてさえいれば。彼が死んでいれば、こんなことにはならなかった。一葉や、慎也と敵対することもなかった。今頃は、もっとずっと幸せな生活を送れていたかもしれない。言吾は、本当はずっと昔に死
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第596話

幼い頃からあれほど可愛がり、心根は優しいと信じて疑わなかった優花が、物心ついた頃から計算高く他人を陥れることを何とも思わない、悪魔のような本性を隠し持っていたとは……数々の修羅場をくぐり抜け、近しい者からの裏切りにも遭い、とっくに感情など捨て去り鋼の鎧を纏ったはずの言吾でさえ、その事実は、どうしようもなく心を蝕む暗い影を落としていた。払いきれない重苦しい鬱屈が、胸の内に渦巻く。そんな折、宗厳から電話が入った。重要な話があるため、可及的速やかに獅子堂家へ戻るように、との用件だった。言吾もちょうど宗厳と話すべき重要な案件を抱えていたため、すぐさま車をUターンさせ、獅子堂家の屋敷へと向かった。屋敷に到着し、車が静かに停止すると、すぐに何者かがドアを開け、言吾が降りるのを恭しく促した。ドアを開けたのは、獅子堂家における言吾の腹心の一人、屋敷の警備を統括する高坂碩(たかさか ひろし)だった。言吾が本港市で傷を負い療養していた間、獅子堂家の動向を逐一彼に報告していたのが、この碩である。言吾が絶大な信頼を寄せる人物だった。それほどまでに信頼を置く相手に対し、言吾が警戒心を抱くはずもなかった。だからこそ、思いもよらなかった。車を降り、その腹心の横を通り過ぎようとした、まさにその瞬間——碩の袖口から抜き放たれた鋭い刃が、一直線に言吾の心臓をめがけて突き出されたのだ!あまりの出来事に、言吾は目を見開いた。頭の中が、一瞬で真っ白になる。あれほど信じていた腹心が、なぜ。どうして突然裏切り、自分の命を狙うのか……思考が追いつかない。しかし、思考が停止するよりも速く、幼い頃から身体に叩き込まれた危機回避の訓練が、彼の肉体を動かしていた。脳が状況を理解するより先に、本能が閃光のように身体を捻らせ、その致命的な一撃を紙一重で躱す。返す刀で、勢いのまま突っ込んできた碩の腕を掴み、そのまま背負い投げるようにして地面に叩きつけた!言吾が次の行動を起こすまでもなく、彼の後続車から降り立ったボディガードたちが、地面に倒れ伏す碩の周りを瞬く間に取り囲んでいた。言吾のすぐ後ろにいた高木秘書は、主君を襲ったのが高坂碩であると認めるや、思わず声を荒らげた。「高坂ッ、この恩知らずが!よくも言吾様を……!」「忘れたのか!貴様の息子が事故で死にかけた時、誰が助け
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第597話

言吾に襲いかかろうとする文江は、まるで子を奪われた獣のようだった。その凄まじい形相で吼え、言吾を八つ裂きにして喰らわんばかりの憎悪を剥き出しにする。だが、どれほど狂乱しようと、彼女が言吾に近づくことは許されない。ましてや、その命を奪うことなど、できるはずもなかった。ボディガードたちに一メートル以上も手前で取り押さえられた文江は、ただ、狂ったように、喉が張り裂けんばかりの罵声を言吾に浴びせ続けることしかできなかった。「死ね」「死んでしまえ」と狂ったように叫び続ける文江の姿を見つめながら、言吾は痛いほどに理解していた。なぜ、一葉が家族の愛を求めるどころか、実の母親に会うことさえ拒絶するのかを。こんな母親なら、たとえ血を分けた実の母であっても、二度と会う価値などない。ましてや、こんな母親たちのために心を痛め、苦しむ必要など微塵もないのだ。奴らは、我々がほんの一秒、ほんの一欠片の感情を費やすに値しない存在だ。こんな母親は、二度と我々の前に姿を現せないようにすべきだ。そこまで思い至ると、言吾はすっと手を挙げた。「奥様はまたご病気が再発なされたようだ。今回はかなり症状が重い。病院で治療が必要だろう……神堂市南区の、320病院へお連れしろ」神堂市南区にある320病院は、国内で最も厳格な管理体制を敷く精神病院として知られている。そこへ収容された患者は、完治しない限り、二度と外の世界へ出ることはできない。そして、この病院が創設されて以来、完治した患者は一人もいなかった。自分を精神病院に送ると聞いて、文江はさらに逆上し、獣のように暴れ狂った。喉が張り裂けんばかりの罵詈雑言は、もはや聞くに堪えない。言吾は部下に目配せし、文江を黙らせるよう命じた。有無を言わさず、気を失わせる。ぐったりとした文江を部下が病院へ移送しようとした、まさにその時、宗厳が姿を現した。宗厳は、言吾のボディガードにぐったりと抱えられた文江の姿を一瞥し、不快そうに眉をひそめた。「言吾……いかに錯乱しているとはいえ、あれはお前の生みの母親だぞ。気を失わせたうえ、精神病院にまで送ると言うのか」言吾は、そんな宗厳を温度のない瞳で一瞥する。「では父上は、母上をこのまま屋敷に?……そして、かの海外帰りの優秀な隠し子を、母上の手で殺させるとでも?」その言葉に、宗厳は息を呑ん
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第598話

獅子堂家の屋敷内に多くの情報網を持つ紫苑の元へ、文江が精神病院へ送られたという報せが届くのに、そう時間はかからなかった。その一報は、ただでさえ血の気を失っていた彼女の顔を、さらに紙のように真っ白に変えた。幼い頃から、自分が何を望み、将来どのような道を歩むべきかを、常に冷静に計算して生きてきた。そんな彼女が、生まれて初めて、自分がどうすべきか、これから先の道をどう進めばいいのかが、全く分からなくなっていた。まるで魂を抜かれた機械人形のように、紫苑は空虚な瞳で窓の外を眺めた。世界は春から、生命が最も輝く夏へと移ろい、あらゆる生き物たちが命の限りを尽くして咲き誇っているというのに、自分は……ふ、と紫苑の口元に乾いた笑みが浮かんだ。馬鹿なことを考えたものだ。もはや、自分がこれからの道をどう歩むかなど、考える必要すらなかったのだ。実の母親さえ冷酷非情に精神病院へ送り込む男だ。ましてや、自分のような存在を、言吾がどう扱うかなど、火を見るより明らかだった。待ち受けるであろう末路を想像し、紫苑はゆっくりと窓際へ歩みを進めた。ここは六階だ。頭から落ちれば、おそらく死ねるだろう。言吾が下すであろう罰を、紫苑はいくつも想像してみた。そのどれも、最も軽いものですら、今の彼女には耐えられそうになかった。ましてや、それ以上の苦しみを味わわされるくらいなら、いっそ死んだ方がましだ。だから、一歩、また一歩と、彼女は窓へと向かった。だが。窓辺にたどり着き、いざその足を乗り出そうとした時、なぜか足が鉛のように重く、どうしても上がらなかった。このまま死んでしまうことが、どうしようもなく惜しい。悔しい……本当に、悔しくてたまらない!私の人生は、こんなはずじゃなかった!私は、この神堂市で最も尊い令嬢で、獅子堂家の、誰からも羨まれる若奥様だったはず。どうして、どうしてこんな無様な終わり方をしなければならないの!それに……まだ、完全に手詰まりになったわけじゃない。たとえそうなったとしても、死ぬなら一人では死なない。誰かを道連れにして、地獄へ引きずり込んでやる……!……そうよ。例えば……青山一葉を。紫苑は、自分の人生におけるすべての不幸が、一葉に起因するものだと信じて疑わなかった。もし一葉さえいなければ、自分がここまで追い詰められることも、そして、烈
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第599話

慎也と違い、傲慢で残忍な烈には、その血肉を啜ってでも復讐を果たしたいと願う仇敵が、それこそ星の数ほどいるのだから。慎也の言葉で、彼と言吾がとっくにそこまで見越し、既に手を打っているのだと一葉は理解した。やはり、こういうことに関しては、自分は到底彼らの足元にも及ばない。すべてを彼らに任せておけばいい。そう思うと、一葉は余計な考えを振り払うように、心を落ち着かせた。言吾と烈を巡る一連の騒動に、ようやく終止符が打たれようとしている。そうなれば、慎也との婚約についても、そろそろ何らかの決着をつけなければならない。そう思い、一葉が慎也を見上げ、何かを言いかけた、その時だった。スマートフォンの着信音が、静かな空気を破った。聞き慣れた、特別な着信音。紗江子からの電話だ。普段は自分からかけることがほとんどで、多忙な一葉を気遣う祖母が、自ら電話をかけてくることは滅多にない。よほどの用件だろう。ビデオ通話の表示に、一葉は思わず笑みを浮かべる。しかし、通話に応答した画面に映し出されたのは、祖母ではなく——父の国雄だった。彼の背後には、ベッドに横たわる紗江子の姿が見える。身じろぎ一つしないその様子は、ただ深く眠っているだけかのようにも見えた。だが、画面越しの父の鬼気迫る表情が、一葉の胸に得体の知れない不安を掻き立てる。彼女が何かを言うよりも早く、国雄が焦燥に駆られた声で叫んだ。「一葉、葉月が……もう、心臓移植をしなければ、もたないんだ!」「どんな手を使っても構わん、明日の朝八時までに、葉月に適合する心臓を用意しろ!」「さもなければ……お前をあれほど可愛がってくれたお祖母様には、二度と会えなくなると思え!」国雄はそう言うと、スマートフォンのカメラを紗江子へと向ける。「今はただ眠っているように見えるだろうがな、実は毒を盛られたんだよ!そして、その毒を消せるのは、この私だけだ!」「いいか、よく聞け。もしお前がこのまま見殺しにするつもりなら……葉月が死ぬというのなら、俺はお祖母様を道連れにして、後を追う!」その狂気に満ちた決意は、彼の愛する女性が死ねば、本当に実の母親を手にかけかねないことを物語っていた。一葉は、画面越しの父を見つめた。とっくに失望しきっていたはずの相手が、実の母親を人質に自分を脅迫している。その事実は、まるで真夏の炎天下から
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第600話

一葉の悲痛な叫びを受け、国雄はまるで、彼女以上に苦しんでいるかのような表情を浮かべた。そして、彼女の声をかき消すほどの大声で、吼え返した。「俺が、好きでこんなことをしているとでも思うのかッ!」「あの人は、俺の母親だ!俺が一番、孝行したかった人なんだぞ!俺が死んでも、傷つけたくなかった人なんだ!だが、今死にかけているのは俺じゃない……!葉月が、死んでしまうんだ!彼女が、死んでしまうんだぞッ!俺が弱かったせいで、あの人はこれまでずっと苦労ばかりの人生だった。一日だって、幸せな日はなかったんだ。ようやく俺が勇気を出して、あの人のそばで支えたいと思った矢先に、あんな重い心臓の病にかかって……もう、移植しか助かる道はないんだ! 俺は、あの人を見殺しにすることだけは、絶対にできない!葉月をただ黙って死なせるくらいなら、俺はお袋を道連れにして、あの人の後を追う!昔、あの人を見つけ出し、旦那さんが亡くなったと知った時、俺は、あの人と一緒になりたかった。だが、お袋が……お袋が、いくら頼んでも、首を縦に振ってくれなかったんだ!絶対に許してくれなかった!葉月の不遇な人生は、元を辿れば、すべてお袋が招いたことだ。ならば、あの人の命の代わりに、お袋が命で償うのも、因果応報というものだろう!育ててくれたお袋には、本当に申し訳ないと思ってる。だが、俺にはもう、これしか……!一葉、お前は俺の腕を知っているはずだ。俺が本気で毒を盛った人間は、決して助からない。適合する心臓を用意できないのなら……お前は、俺とお袋の亡骸を、二人まとめて引き取ることになるぞ!」話すうちに、国雄の瞳に宿る光は、ますます常軌を逸したものへと変わっていく。「一葉、脅しだと思うなよ。俺は、本気でやるぞ!」そのあまりに強い覚悟は、彼の言葉が単なる狂言ではないことを、誰の目にも明らかにした。事実、国雄は本気だった。もし最愛の人を、ただ指をくわえて見殺しにしなければならないのなら、いっそ実の母を道連れにして、共に死んで罪を償う覚悟だった。母親には申し訳ないと思っている。だからこそ、自分も共に死に、その命をもって償うのだと。そんな身勝手な理屈に、一葉は全身がわなわなと震えた。「青山国雄……この人でなしッ!この、人でなしッ!自分の弱さ、甲斐性のなさを棚に上げて!青山家の財産を
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