All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 611 - Chapter 620

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第611話

先ほどまでは、ただ葉月の無事を喜ぶあまり、思考が完全に麻痺していた。「なんて杜撰な病院だ、カルテを間違えるなんて!」と、本気でそう思い込んでいた。深く考えることもしなかった。だが、一葉の言葉が、その思考の靄を振り払う。そうだ……一つの病院が、何度も、何度も、同じ患者の診断を間違え続けるなんてこと、ありえるのか?そんな偶然など、この世に存在するはずがない。何度も繰り返されたというのなら、それはつまり――これまで見てきた報告書が、全て偽造されたものだったということだ。ということは、葉月は、ずっと知っていたのだ。自分に心臓病などないことを。全ては、彼女の芝居だったのだ。病気でもない彼女が、なぜあれほど必死に心臓を求めたのか。答えは一つしかない。本当に心臓移植を必要としている人間が、他にいるのだ。――つまり、彼女は、その『誰か』のために病を偽り、俺を騙した。俺は、この女のために心を砕き、どんな汚い真似も厭わなかった。挙句の果てには……実の母親の命まで天秤にかけて、彼女のために心臓を手に入れようとしたというのか!そこまで考えが至った瞬間、国雄は信じられないものを見るかのように、葉月の顔を見つめた。その当の葉月は、一葉の提案の真意を悟り、興奮に体を震わせていた。これはチャンスよ!青山一葉は、自分の手を汚さずに父親を始末したいだけ。私がうまく立ち回れば、私も、そして愛するあの人も助かる!歓喜に心を奪われた彼女は、国雄の表情の変化に気づきもしない。ただ、彼の腕を掴み、上ずった声で訴えた。「国雄さん!私を一番愛しているって、私のために何でもしてくれるって、そう言ってくれたわよね?お願い、あなたの心臓を私にちょうだい!」葉月はそう言って、濡れた瞳で国雄を見上げた。その瞳には、哀れを誘う懇願の色が濃く浮かんでいた。いつもなら、彼女のそんな表情を見るだけで、国雄は胸が締め付けられるような愛しさを覚え、どんな無茶な願いでも叶えようと奔走しただろう。だが――今の彼には、もはや以前のような愛おしさは一片も湧いてこない。代わりに背筋を駆け上がってきたのは、肌を刺すような悪寒だった。真夏の太陽の下から、一瞬にして氷点下数十度の極寒の地へ放り込まれたような感覚。心臓が凍りつき、粉々に砕け散ってしまいそうなほどの、絶望的な冷たさ。「国雄さん、どうし
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第612話

「私の、友達なの。その人は、本当に、本当に可哀想な人で……!あの検査報告書は全部本物よ。本当に、今すぐ移植しないと間に合わないの!「国雄さん、考えてみて。あなたは、私一人だけじゃなくて、もう一人……本当に可哀想な人も救えるのよ。つまり、一度に二つもの命を救うことになるの!二つよ!」国雄はずっと、葉月という女を、一人では何もできない、か弱い存在だと思い込んでいた。とりわけ、彼女が重い心臓病を患っていると知ってからは、壊れ物以上に丁重に扱い、手塩にかけてきたつもりだった。だが、その可憐な花が、まさか毒を持つ食人花だったとは、夢にも思わなかった。その事実に打ちのめされ、彼はたたらを踏むように数歩後ずさった。自分を騙し、躊躇いもなく命を奪おうとする女のために、実の母親まで傷つけようとした。そう思い至った瞬間、国雄は自分自身が、滑稽で惨めな道化に思えた。いや、自分の人生そのものが、一つの茶番だったのだ。生涯をかけて、こんな女を想い続け、彼女の不幸を全て自分のせい、そして母のせいにしてきた。母は、正しかったのだ!母の目は、とうの昔にこの女の本性を見抜いていたのだ。この女は自分を愛するどころか、ただ自分の死を望んでいるだけだったのだと!十歳で父を亡くし、女手一つで、彼と弟妹を必死に育ててくれた母。三人の子供のために全てを捧げ、ようやく暮らしが楽になった矢先に、下の息子と娘を相次いで失った。そんな苦労ばかりの母に、自分は……こんな女のために、死を望んだというのか!実の母親の死を!「俺は……俺は……っ!」もはやその場に立っていることさえできず、国雄は獣のような叫び声を上げると、背を向けて走り去った。一葉は部下に追跡を命じなかった。その必要もないと、分かっていたからだ。国雄が走り去るのを見て、葉月は呆然とした後、本能的に後を追おうとしたが、一葉が側に控えさせていた部下に、その行く手を阻まれた。「何をするのよ、邪魔しないで!お父様を説得しに行かないと!」 一葉に時間稼ぎだと思われるのを恐れたのか、彼女は矢継ぎ早に言葉を続けた。「安心して、三日だけ時間を頂戴!三日あれば、必ずお父様に心臓を提供させるから!」葉月の頭の中では、一葉にさえ見逃してもらえれば、三日以内に国雄の心臓を抉り出してでも、この取引を成立させてみせる、とい
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第613話

葉月は他の男に心臓を捧げるため、自分を騙していた。その事実は、国雄の心をへし折るには十分すぎた。極めつけは、優花のことだ。彼女は葉月とその前夫の娘ですらなく、件の間男との不貞の末に生まれた子だった。しかもその男は、何から何まで自分に劣るばかりか、妻を持つ身だというではないか!男は葉月に対して決して優しくはなかったらしい。だが、葉月はその男に惚れ込み、全てを捧げる覚悟だった。男が重い心臓病を患い、余命いくばくもないと知っても、そばに寄り添い、全てを投げ打って尽くすことを厭わなかったのだ。その男に適合する心臓を見つけるためならば、自らが心臓病だと偽り、この自分から心臓を騙し取ることさえ……!これまで葉月が、哀れを誘って国雄からせしめた金も、その全てが間男へと渡っていたのだ!思い出されるのは、葉月のために全てを捧げた自分の愚かしい姿だ。かつては命の危険を冒して犯罪組織と取引し、ついには実の母親にまで、非道な手を下したというのに。だが、その献身の全てが、葉月が他の男のために仕掛けた壮大な茶番だったのだ。自分は、一体……さらに、脳裏をよぎる。長年、実の娘以上に慈しみ、そのために実の娘を何度も手にかけようとさえした最愛の養女・優花も……あの男の娘だったのだと。最初から最後まで、自分はこの世で最も滑稽な道化に過ぎなかった。その事実が、国雄の精神を完全に破壊した。もはや、耐えられるはずもなかった。彼は、狂った。国雄が狂気に囚われ、家の中を獣のように跳ね回っていた、その頃。今日子は病院の救急処置室の前を、落ち着きなく行ったり来たりしていた。全てに絶望し、ここから出られる望みなどないと悟った優花が、刑務所内で自殺を図ったのだ。受刑者たちはただ閉じ込められているわけではない。日中は作業が課せられており、女子刑務所では主に衣服の縫製などが行われる。優花はその作業の最中、刑務官の監視の目を盗み、裁ちばさみを手に取ると、自らの腹部へと突き立てた。狙ったのは脾臓だった。脾臓破裂で即死すれば、余計な苦しみを味わわずに済む。なにせ、刑務所内での自殺はそう簡単なことではないのだ。だが、焦りからか、その一突きは急所をわずかに逸れた。優花は即死できず、病院へと救急搬送されることになった。加えて、今日子がどんな犠牲を払ってでも彼女を助け
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第614話

しばらくして、ようやく絞り出すように、悲痛な声を上げた。「優花ちゃん、どうしてそんな酷いことを言うの……?お母さん、あなたに何か悪いことした?」今日子にしてみれば、優花には全てを捧げてきたつもりだった。自分自身よりも、優花を優先してきた。自分が買うのをためらうような高級品だって、優花のためなら惜しみなく買い与えてきたのだ。それほどの愛情を注いできたというのに、養子になったことが人生最大の不幸だったと言われ、今日子は心底傷つき、打ちひしがれていた。「その偽善的な優しさ、もうやめてくれる!本当に私のことを想ってるなら、青山一葉が私を許さないってわかってて、どうしてあいつを殺さなかったのよ?あんたがあいつを殺してさえいれば、私がこんな目に遭うことなんてなかったじゃない!」優花は本気でそう思っていた。もし今日子が自分を本当に愛しているのなら、実の娘である一葉以上に愛していると言うのなら、一葉が自分を決して許さないと知った時点で、どんな手を使ってでも一葉を殺すべきだったのだ。自分にとって最大の脅威であるあの女を排除してこそ、本物の愛だろう、と。口先だけでどれだけ可愛がっている、愛していると言われても、そんなものは何の慰めにもならない。今日子という人間は、もともと常軌を逸しており、歪んだ理屈を正当化するようなところがあった。だが、そんな彼女でさえ、優花の言葉には信じられないといったように、目を大きく見開くしかなかった。どうして、この子はこんなことを言えるのだろう。思考が追いつかない。そもそも、どれだけ憎まれ口を叩こうと、一葉は自分の実の娘なのだ。十月十日、腹を痛めて産んだ、我が子だ。いくら「殺してやりたい」と口にしたことはあっても、本気で殺そうと思ったことなど一度もない。それに、何より——殺人は、法に触れるではないか!人の命を奪えば、自分の命で償わなければならないのだ!自分はこれほどまでに優花を大切にしてきたというのに、この子は、自分に死ねと言うのか!この私に!その瞬間、今日子は何と言い表せばいいのか分からない感情に襲われた。まるで、真冬の氷室に突き落とされたかのように、体の芯まで凍りつくような、凄まじい寒気が背筋を駆け上った。信じられないという表情を浮かべる今日子を一瞥し、優花は吐き捨てるように言った。「何よ、その目は。私、何か
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第615話

「耐えられないのよ、あんたは!一心に初恋の人の娘を育て、全てを注いできた。それが、あんたとあの人との愛の証だとでも思ってたんでしょ。でも蓋を開けてみれば、その娘は赤の他人だったどころか、あんたの『初恋の人』の実の娘を死に追いやった張本人だった!あんたはその事実を受け入れられなくて、信じたくなくて、必死に『これは真実じゃない、この子はあの人の娘なんだ』って自分に言い聞かせたいだけ。だから、私のために必死になってるフリをしてるのよ。あんたがやってること、全部自分のためじゃない!心から私のためを想ってくれたことなんて、一度もなかったくせに!……だから、そんな被害者みたいな顔して、自分がどれだけ不憫で、私のために尽くしてきたかなんて、二度と言わないでくれる!」未来に絶望した優花は、もはや「良い娘」を演じ続ける気などなかった。自分が絶望するなら、この女にも徹底的に絶望を味わわせてやる。その一心だった。悪人は悪人をよく知る、とはよく言ったものだ。今日子が口にしたことは一度もなかったが、優花は、自分を見る今日子の眼差しに宿る僅かな変化から、その全てを察していた。そして、今日子の心の脆い部分を、正確に把握していたのだ。優花は、今日子が最も耐えがたい真実を、容赦なく突きつけた。信じたくない、認めたくないと必死に目を背けてきた現実を、疑いようのない事実として目の前に突きつける。たまらず、今日子は椅子から立ち上がった。「やめなさい!もうそれ以上言わないで!」取り乱す今日子の姿を見て、優花は嘲るように鼻を鳴らした。「……フン、あんたほどの馬鹿は見たことないわ。自分の『初恋の人』の娘を殺した犯人のために、実の娘さえも捨てて顧みないなんて」「真実を知ってもなお、知らないフリを続けて、仇である私に甲斐甲斐しく尽くすなんてね。あんた、実の娘に愛情がないだけじゃなくて、その大層な『初恋の人』にも愛なんてなかったんじゃないの!だって、そうじゃなきゃおかしいでしょ。あの人の実の娘が殺されたって知ってて、その仇を討つどころか、その犯人である私を庇うなんて!あんたの『初恋の人』があの世でこのことを知ったら、さぞかしあんたの愛を気味悪がることでしょうね。あんたみたいな気色悪い女、未来永劫顔も見たくないって思うんじゃない!」優花は、どうすれば今日子を最も深く傷つけ
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第616話

認めたくはなかった。だが、認めざるを得なかった。優花の言う通りだ。自分は、優花が愛する人の実の娘ではないと知っても、そればかりか、その実の娘を死に追いやった張本人だと知っても、仇を討とうとはしなかった。それどころか、「そんなはずはない、私が愛した子は間違っていない」と自分に言い聞かせ、現実から目を背けてきた。この犯人を殺そうと思うどころか、助けるために必死になっていたのだ!自分は……「拓海お父さんはね、あんたみたいな身の程知らずで自己中心的な女が一番嫌いだった。どうりで、いくら頑張っても美月お母さんには敵わなくて、拓海お父さんに振り向いてもらえなかったわけね!あんたみたいな女、美月お母さんの靴についた泥にも劣るわ。拓海お父さんがあんたを愛するなんてあり得ないし、あんたが一生を捧げたからって、来世で結ばれるなんて夢のまた夢。あんたみたいな気色悪い女、ちらっと見るのも嫌だったでしょうね!」長年、今日子と密な時間を過ごしてきた優花は、その歪んだ価値観を共有する者として、今日子の心の機微を手に取るように理解していた。かつては、その理解を武器に今日子に取り入り、養女としての寵愛を一身に集めていた。だが今は、その同じ武器で、どうすれば今日子を最も深く、最も残酷に傷つけられるか、それだけを考えていた。この女を狂わせたい。自分を殺したくなるほど、憎しみを掻き立ててやりたい!今回の自殺未遂で、刑務所に戻れば独房に入れられることは避けられないだろう。そうなれば、二度と自殺の機会など訪れない。外の空気を吸うことすらままならなくなるかもしれない!そんな日々を生きるなんて、考えただけでもぞっとする。だから、当初はただ「良い娘」の仮面を脱ぎ捨てたいだけだった優花の心は、死にきれなかったことへの絶望から、より過激な衝動へと駆り立てられていた。この女を挑発し続け、ありとあらゆる手段を使ってでも自分を殺させる。それしか、この地獄から抜け出す道はない。今日子を熟知している優花の言葉は、その一言一句が鋭利な刃物となって、今日子の心臓へと突き刺さった。その目はみるみるうちに血走り、真っ赤に染まっていく!この世で最も聞きたくなかった言葉——恋敵に劣る、という言葉。それも、恋敵の靴についた泥にも劣るとまで言われたのだ!その侮辱が、今日子から完全に理性を奪い去った
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第617話

長年愛情を注ぐうちに、優花は今日子にとって、かけがえのない大切な存在になっていたのだ。それなのに、この娘は、自分に対して一片の真心も抱いていなかったどころか、これほどまでに自分を死に追いやろうと憎んでいる!先は、自分のために人殺しをしろと責め立て、今度は、警察官の目の前で自分を殺させようと挑発する。私を殺人犯に仕立て上げ、その罪を償わせるつもりなのだ。この子は、本当に……!どうしようもない悲しみが、今日子の胸を締め付けた。これほどまでに心を尽くして愛してきたのに、なぜ、こんな仕打ちを受けなければならないのか!その理由が、全く分からなかった。なぜだろうか、今日子の脳裏に、ふと一葉の姿が浮かんだ。実の娘である、あの子の姿が。今日子はこの結婚に満足したことなどなく、夫という存在も気に入らなかった。だから、家を継ぐことになる息子はともかく、娘である一葉のことなど少しも可愛いとは思えず、優しくしたいとも思わなかった。それなのに、あの子は、自分に酷い態度をとったことなど一度もなかった。それどころか、いつも自分のことを気にかけてくれていた。寒くなれば、誰よりも早く暖かい服を届けてくれた。雨が降れば、一番に傘を持ってきてくれた。美味しいものを口にすれば、真っ先に自分のことを思い出し、自分は食べずに持ち帰ってきてくれた。体調を崩せば、夜も眠らずに看病してくれたのは、いつもあの子だけだった。どれだけ冷たく突き放しても、一葉は変わらず自分に優しかった。家から追い出した後でさえ、良いものがあればまず自分にと考え、自分の具合が悪いと聞けば、すぐに駆けつけてくれた。自分はあの子に、ほんの僅かな愛情すら与えたことがない。なのに、今になってみれば、この世で一番自分に優しく、見返りを求めず無償の愛を捧げてくれたのは、間違いなくあの子だった。思い出すのは、幼い頃の一葉の眼差しだ。母親である自分に愛されたい、少しでいいから優しくしてほしいと、ただひたすらに願う、あの健気な瞳。その記憶が蘇った瞬間、今日子の胸は締め付けられるような痛みに襲われ、息が苦しくなった。優花にはあれほど尽くしてきた。真心から、全てを捧げてきた。だが、あの子は感謝するどころか、一片の情けも見せず、自分の死を望んでいる。一方、あれほど酷い仕打ちをしてきた一葉は、ただひたすらに自分
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第618話

計画が成功すれば、自分は返り咲けるばかりか、あの一葉を消し去ることすらできるのだ。そう思うと、紫苑の興奮はさらに高まった!だが、その興奮の最中、ふと、血の気が引くような冷静さが彼女を襲った。これは、罠ではないか?あの獅子堂烈という男、決して善人などではない!彼の子を身ごもっていた時でさえ、烈は自分に何の関心も示さず、僅かな便宜を図ることすらしなかった。今や、子供は流れ、実家の谷川家は没落した。今の自分に、彼にとっての利用価値など皆無のはずだ。彼のような男が、何の役にも立たない自分に、これほど良くしてくれるはずがない。それなのに、彼が提示してきた条件は、あまりにも魅力的すぎる。これは、何か裏があるのではないか。烈は自分にこんな約束をして、一体何を企んでいるのか。そう考えずにはいられなかった。しかし、もはや自分に選択の余地などない。最悪、死ぬだけだ!そう思い至ると、紫苑は余計な考えを振り払った。今、烈は自分にとって唯一の希望なのだ。信じる、信じないの選択肢はなく、ただ信じるしかない。烈との連絡は、これ以上ないほど秘密裏に行われている。誰にも気づかれるはずがない。紫苑はそう高を括っていた。だが、彼女と烈の一挙手一投足が、言吾に筒抜けであることを、彼女は知る由もなかった。烈が動き出したその瞬間から、言吾はその計画の全貌を把握していたのだ。言吾が傑物であることは間違いないが、烈もまた決して劣ってはいない。彼は、自分の行動が全て言吾に監視されていることを承知の上で、計画を続行していた。それこそが、彼の狙いだったからだ。言吾に全ての計画を知らしめ、その上で、言吾を自らの計画の一部に組み込むこと。古い物語に、こんな話がある。ある英雄と、その英雄に瓜二つの姿と力を持つ影武者の話だ。二人は寸分違わぬ姿を持ち、その力も全く互角だった。天を駆け、地を割り、激しく戦ったが、勝負はつかず、誰にも二人の見分けがつかなかったという。ならば、最後に生き残ったのが、本当に英雄本人であったと、誰が断言できるだろうか?影武者ではなかったと、どうして言える?自分と言吾は、その英雄と影武者以上に酷似している。自分がプライドを完全に捨て去ることさえできれば、将来、生き残ったのが深水言吾なのか、それとも獅子堂烈なのか、誰にも見分けることはできなくなる
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第619話

それが運命の悪戯だったのか、あるいは必然だったのか。無我夢中で逃げ惑ううち、彼は、知らず知らずのうちに、文江が入院している精神病院へと迷い込んでいた。そして、吸い寄せられるように、文江の病室のドアを開けてしまったのだ!刹那、二人の視線が、不意に絡み合った。烈も、文江も、互いの存在に言葉を失い、凍りついた!どれほどの時間が経っただろうか。先に我に返ったのは、二人同時だった。烈が何かを言うより早く、文江がその腕に強く縋り付いた。その声は、興奮と歓喜に震えている。「烈……!お母様を助けに来てくれたのね?」獅子堂家という神堂市随一の名家の威光のおかげで、この病院で文江が酷い扱いを受けたことは一度もなかった。しかし、幼い頃から蝶よ花よと育てられ、神堂市一の名門に嫁ぎ、その生涯を栄華の中で過ごしてきた彼女にとって、精神病院に閉じ込められるという事実そのものが、この世で最も耐え難い苦痛であり、屈辱だったのだ!あらゆる手段を講じて、ここから出ようと試みた。だが、彼女の力ではどうすることもできなかった。あまりにも、外の世界が恋しかった。だから、最愛の息子である烈の姿を見た瞬間、彼女は、その息子の身の上を案じることさえ忘れ、ただ一心に、自分を救いに来てくれたのだと信じて疑わなかった!再び、烈が口を開くのを待たずに、文江は声を詰まらせながら懇願した。「烈、お願い、お母様を助けてちょうだい。もう一日だなんて言わないわ……一分だって、ここにいたくないの!」「助けて、お願いだから、お母様をここから出してちょうだい!」文江は、息子の烈を心から溺愛していた。その愛情は、生まれつき性根の腐っていた烈でさえ、この母親に対しては多少の苛立ちを感じる程度で、不幸になることを望むまでには至らなかったほどだ。もし自分がまともな状況にあったなら、母親をこんな精神病院に閉じ込めておくようなことはしなかっただろう。だが、今の自分の境遇を思うと、烈は自嘲の笑みを漏らすしかなかった。「母さん、助けたいのは山々ですがね。見ての通り、俺は今じゃお尋ね者だ。いつ捕まって、いつ殺されるかもわからん。そんな俺に、どうやってあんたを助けろって言うんです?」「お尋ね者……?」文江は一瞬呆気にとられたが、すぐに思い出した。そうだ、自分がここへ送られる直前、烈は警察に逮捕されたのだ
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第620話

言吾が烈になりすましていた期間の出来事は、言うまでもない。生まれたばかりの、あの皺くちゃで泣き喚いていた赤ん坊の顔さえ、はっきりと覚えている。そして、どうやって自分が、躊躇いもなくこの息子を捨て去る選択をしたのかも。どれほど夢の中で、生まれたばかりの赤子が泣き叫ぶ姿を見ようとも、その度に泣きながら目を覚まそうとも、一度たりともあの子のそばへ行ってやろうとはしなかった。自分が言吾にどれほど酷い仕打ちをしてきたか、文江ははっきりと覚えていた。特に、この精神病院に入ってからは、毎晩のように夢を見た。過去に自分が言吾にしてきた、数々の非道な行いの夢を。昼間でさえ、ふとした瞬間に、言吾に対して犯した罪が脳裏をよぎるのだ!本当は、こんなことは思い出したくもない。かつての所業など振り返りたくもないし、言吾に対して罪悪感など微塵も感じたくなかった。自分は胸を張っているべきなのだ。あの子は生まれついての悪魔なのだから、あの仕打ちは当然の報いだったのだと。だが、そうやって自分を正当化しようとするたびに、頭の中で声が響く。お前は一体、何を根拠に言吾が生まれついての悪魔だと決めつけるのか、と。その声は、断固として彼女の言い分に反論する。言吾が一体どんな悪事を働いたというのだ。お前が「生まれついての悪魔」だと断じるほどの、どんな悪事を。あの子は、何一つ悪いことなどしていなかったではないか!言吾は罪を犯した、数えきれないほどの悪事を働いたのだと、文江は言いたかった。しかし、彼女自身も、そして夫である宗厳も、言吾の身辺は徹底的に調査済みだ。彼は悪事を働くどころか、非常に情け深い人間だった。まだ小さな会社を経営していた頃でさえ、寄付ができる機会があれば、決してそれを惜しむことはなかった。虫眼鏡で探したところで、彼が悪事を働いた証拠など、何一つ見つけ出すことはできないだろう。これでは、言吾こそが悪なのだと、声を大にして主張することなどできはしない。だが、もし言吾が生まれついての悪魔でないのなら、一体誰が?まさか、手塩にかけて育てた、あの最愛の長男こそが、生まれついての悪魔だったなどと……そんなこと、到底受け入れられるはずがなかった!だから、彼女は必死に思い込もうとするしかなかった。言吾こそが、悪魔なのだと。だが、それでも、頭の中で響く反論の声を
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