3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた のすべてのチャプター: チャプター 381 - チャプター 390

414 チャプター

第381話

身も心も、私はすっかり冷え切っていた。けれど、その一面の冷えの中で、私ははっきりとした答えも得ていた。八雲が、私の恋愛を許さず、私が他の男と付き合うことを認めないのは、決して私を想っているからではない。すべては――彼の大切な葵のためだ。彼が私と浩賢の交際を嫌がるのは、それが葵との未来に影響するから。その可能性を、最初から根こそぎ排除したいだけなのだ。今日は彼が自制心を失って衝動的に行動したのではなく、わざと私を辱めたのだ。彼は意図的に、この場所で、この状況下で私と関係を持った。ただ私に伝えようとしたのだ――私の抵抗は、彼の前では全く意味がないと。なぜなら私は彼に逆らえないし、彼には私を屈服させる手段がいくらでもあるのだから。私は音も立てずに立ち上がり、服を整え、病室でしばらく和夫に付き添ったあと、夜九時過ぎに療養病院を後にした。その夜、八雲は家に帰ってこなかった。――想定どおりだ。葵がなぜ突然、薔薇子のもとへ行って酒を飲み、あそこまで泥酔したのかは分からない。けれど、八雲が葵のもとへ向かった以上、今夜はきっと、二人の「愛の巣」で葵の面倒を見ているのだろう。八雲は、葵に対しては、いつだって溺愛し、細やかで、極限まで優しい男なのだから。……翌朝。目を覚まして身支度をしていると、加藤さんから電話がかかってきた。「優月、八雲くんとはもう話した?」「話してない。でも、離婚協議書は必ず作り直すことになると思う」あの条項付きの書類に、私は絶対に署名しない。「作り直さなくてもいいと思うけどね。他は全部いい条項だし、あの追加条項だけ外せば……」加藤さんは少し間を置いて、慎重に言った。「でもね優月、後から思ったんだけど……八雲くん、もしかしてあんたが手放せないんじゃない?それであんな条項をつけたんじゃないかしら。本当は、離婚したくないとか……」「考えすぎ」私は即座に遮った。「お母さん、もう乙女みたいな想像をやめて。八雲は、お母さんが想像してるような人じゃない」八雲は、理性的で冷静な神経外科医であり、同時に、打算に長けた現実主義者の紀戸家の御曹司だ。もし本当に私を愛していたなら、三年間の結婚生活で、あんなに冷たく扱うはずがない。もし本当に手放したくなかったなら、彼のそばに葵が存在すること自体、あり得ない。
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第382話

浩賢には、生まれつき陽だまりのような明るく爽やかな空気がある。その声を聞くだけで、胸に溜まっていた陰りがすっと晴れていく。しかも彼はあれほど辛抱強く、穏やかで、私がゆっくり支度するのを待つと言って譲らなかった。胸の奥に、じんわりとした温もりが広がる。私たちは辛い時期を一緒に乗り越えた仲だ。余計な遠慮はいらないし、彼に対して無理に辞退する必要もないと分かっている。だから私は、ただ真剣にこう返しただけだった。「ありがとう、藤原先生」「じゃあ、ここで待ってるね」浩賢は笑いながら電話を切った。けれど私の指先は、LINEの画面に留まったままだった。というのも、仕事のグループチャットにはすでに写真が上がっていたからだ。出発前に撮った集合写真が一枚。センターに立っているのは青葉主任だったが、この写真で最も目を引くのは、写真の隅に写っている八雲と葵だった。理由は単純だ。二人とも顔立ちがあまりに整っている。美男美女というだけでも十分に目立つのに、この写真では、葵がほとんど八雲の胸に寄り添うようにして、満面の笑みでカメラに向かってピースサインをしている。八雲はただそこに立っているだけなのに、葵がそうして寄り添うのを許していて、その端正な顔には、優しさと溺愛が滲んでいた。本当に、甘くて幸せそうなカップルだ。見ているうちに、目の奥がじんと痛んだ。昨夜、八雲が葵と一緒にいたであろうことも、今日二人が揃って現れるであろうことも、最初から分かっていた。それでも、この写真を目にした瞬間、やはり感情が揺れてしまう。胸に込み上げる辛さを押し殺し、私は画面を閉じて、俯いて洗顔を続けた。だが目を閉じると、脳裏にはなお、寄り添い合う二人の姿と、幸せそうに笑うその笑顔が浮かんでくる。どうやら昨夜、八雲は葵をすっかり宥めたらしい。今日の葵は顔色もよく、機嫌も上々で、二日酔いで泣き腫らしたような痕跡は微塵もない。昨夜の二人は、きっととても幸せだったのだろう。温泉に持っていくものはそれほど多くない。浩賢をこれ以上待たせたくなくて、私は簡単に支度を済ませ、慌ただしく「いつもの場所」へ向かった。浩賢は案の定、そこにいた。私を見るなり笑顔で近づいてきて、コンソメスープとたまごサンドを手渡してくれる。「朝ごはん、食べる時間なかっただろ」「どうして温かいの?」車に乗り込みながら、私は少し驚
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第383話

二人が親密に寄り添っている姿を目にした瞬間、胸の奥がまたちくりと痛み、私はすぐに視線を逸らした。「専用車なんてまだ可愛いもんだよ。藤原くんはね、水辺先生の胃を冷やしちゃいけないって、朝ごはんまで温めてたんだから」私たちの後ろを歩いていた奥村先生が、このタイミングでのんびりとそう口を挟んだ。奥村先生は、普段は口数も少なく、話す速度もゆっくりだ。けれど、なぜか発言するタイミングだけはいつも的確で、要所を外さない。案の定、彼がそう言った途端、周囲の視線が一気に集まった。最初に口を開いたのは薔薇子だった。「藤原先生って本当に細やかですね。水辺先生が最近、胃腸の調子が悪いことまで気づいてるなんて!女の子を口説くなら、大胆さと細やかさが必要って言うけど、藤原先生は全部クリアしてますよね!」「薔薇子、それは違うわ」その時、葵が突然割って入った。にこにこ笑いながら私と浩賢を見て、わざと声のトーンを上げる。「藤原先生を褒めるなら、『理想的な彼氏』って言わなきゃ。だって、水辺先輩はもう藤原先生と付き合ってるんだから」「えっ?藤原先生、もう水辺先生を射止めたの?」薔薇子は大げさなくらい驚いた顔をした。けれど、薔薇子と葵が一瞬交わした視線を、私は見逃さなかった。昨夜、薔薇子は葵と一緒に酒を飲んでいた。この話は、きっと昨夜のうちにもう伝わっていたはずだ。今の驚きなど、完全に演技。ただし、他の人たちの驚きは本物だった。桜井が目を丸くして、私に確認する。「本当なの、水辺先生?」看護師長はむしろ大喜びだった。「そうなの?藤原くん、ついに美人を射止めたの?やるじゃない!」浩賢は眉をひそめ、皆の問いや詰問に正面から答えようとはせず、ただそっと私に視線を送ってきた。――どうする?そう尋ねているのだと、すぐに分かった。「そうですよ。昨日、私と八雲先輩も、水辺先輩と藤原先生がデートしてるところに偶然会いましたし。水辺先輩も、自分で認めてました」葵は真面目な顔でうなずき、さらに振り返って、八雲の袖を引きながら確認を求めた。「ねえ、八雲先輩?」八雲は、さっきまで笑っていた。けれど、私と浩賢が近づいてきた瞬間から、その笑みは消えていた。今、昨日のことについて葵に同意を求められると、八雲の顔色は一気に陰り、黒く沈んだ瞳の奥に、凍えるような冷気が宿っ
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第384話

山あいの空気はひんやりとして、八雲の視線を浴びるほどに、私はますます凍えていった。骨の隙間まで寒気が染み込み、彼の眼差しの中で、私はただ黙り込むしかなかった。その時だった。背の高い人影が一歩前に出て、私と八雲の間に割って入った。浩賢だった。浩賢は俯いて、私の手にそっと手袋をはめてくれる。「寒いから。手、冷やさないで」浩賢の背中は、まるで揺るぎない盾のようだった。八雲の冷たく鋭い視線を遮り、あの露骨な威圧と脅しからも、私を守ってくれた。この瞬間、私は浩賢が与えてくれる「守られている」という感覚と安心感を、はっきりと実感した。同時に、ずたずたに刺し貫かれていた心も、ようやく静まり返った。私は、葵の笑みを含んだ瞳を真正面から見返し、顎をわずかに上げた。「私たちのことは、まだ先でいいの。それより、松島先生こそ、公表すべきじゃないの?」「え?私と八雲先輩が?」まさかそんな切り返しをされるとは思っていなかったのだろう。葵は一瞬うろたえ、両頬にぱっと赤みが差した。「えっ、紀戸先生と松島先生って、本当にお付き合いしてるの?それはめでたいことだね」看護師長が、目元に笑みを浮かべて言った。桜井はまったく驚いた様子もなく、あっさり頷く。「それなら、とっくに公表してもおかしくないですよ。松島先生はもともと紀戸先生が連れてきた人ですし、関係が浅いわけないじゃないですか」話題は自然と、私と浩賢から、八雲と葵へと移っていった。正直なところ、皆の関心は私たちよりも、あの二人に向いていた。何しろ、八雲はクールさで知られている。ところが葵が東市協和病院に来てからというもの、葵への態度だけは明らかに違っていた。少し前には、八雲が告発されて停職処分になった件もあり、周囲の好奇心は最高潮に達している。八雲と葵の関係はまたもや不可解で、八雲は権限を乱用して葵に便宜を図ったわけではないのに、それでいて関係は親密――だからこそ、二人が本当に恋人同士なのか、誰もが知りたがっていた。葵の顔はさらに赤くなり、八雲をちらりと見て、焦ったように口ごもる。「ち、違います……水辺先輩、誤解です。私と八雲先輩は付き合ってなんていません。本当に、本当に……」それは八雲との関係を否定する言葉だったが、どこか切実な期待も滲んでいた。葵は、八雲がはっきり答えてくれることを、心のどこ
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第385話

「やっぱり恋人同士で間違いなさそうね。まさかとは思ったけど、めでたい話が一度に二つも来るなんて」「それなら今夜は、紀戸先生も藤原先生もお祝いに一杯やらなきゃ」そんな冷やかしの声が飛び交う中、八雲の顔色はみるみる青くなった。薄い唇はきゅっと一直線に結ばれ、結局何も言わないまま、鋭い視線で私を一瞥すると、スーツケースを引いてその場を立ち去った。――予想通りの反応だった。私はただ静かに、八雲のすべての感情を受け止めていた。けれど、葵の反応は少し奇妙だった。私の言葉を聞いたあと、これまで浮かべていたはにかんだ笑みが固まり、丸い目には濃い疑念が浮かび、その奥に敵意が滲んでいた。とはいえ、彼女は私をじっと見つめ続けることも、何か問いただすこともなかった。八雲がスーツケースを引いて人混みを離れると、彼女もまた、その背を追って慌ただしく去っていった。肝心の当事者二人が、しかもどちらも機嫌が悪そうな様子で退場したため、場の空気は一気に冷え込んだ。だが、看護師長の反応は早かった。軽く咳払いをしてから言う。「えーと、お酒の話は夜にしましょう。まずは部屋のカードキーを配りますね。全室ツインですから、自由に組んでください」「水辺先生、私と同じ部屋にしない?」真っ先にそう言った桜井は、カードキーを受け取った瞬間、私の隣に立つ浩賢に気づいて、はっとしたように目をやり、少し気まずそうに言い直した。「あ、違うか……水辺先生は藤原先生と……?じゃあ、私は他の人を探します」――完全に誤解している。桜井は、本気で私と浩賢が恋人同士で、同じ部屋に泊まると思い込んでいた。これはさすがに違う。ちゃんと桜井に説明したかった。私自身のことはともかく、浩賢に悪い影響が出るのは避けたかった。彼は独身で、ちょうど適齢期でもある。私のせいで縁談の邪魔をするわけにはいかない。「俺は奥村先生と同室にするよ」その時、浩賢が笑顔で口を開き、桜井の言葉を遮った。「この二日間、水辺先生のことは桜井さんにお願いしてもいいかな」――彼は私の代わりに説明してくれた。けれど、それはどこか中途半端でもあった。同室にならないとは言ったが、私たちが恋人同士ではない、とは否定しなかったのだ。桜井は一瞬驚いたものの、すぐに「了解」という顔になり、何度も頷くと、私にウインクまでしてきた。「藤原先
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第386話

八雲と葵は、本当に同じ部屋に泊まっていた。皆が荷物を置き終えて一階に集合したとき、私は八雲と葵が肩を並べて出てくるのを目にした。温泉に入るため、全員すでに水着に着替えている。葵は淡いピンクの水着を身に着け、肩には真っ白なバスタオルをかけていた。下から覗くのは、ほっそりとしたふくらはぎだけだ。彼女は顔を上げて八雲に何か話していて、八雲は少し俯き加減になり、手を伸ばして彼女のこめかみのほつれた髪を整えている。彼の横顔しか見えないはずなのに、なぜかはっきり分かった。眉と目を伏せ、唇の端と目尻には優しい笑みが浮かんでいた。まるで、恋人に優しくて、惜しみなく甘やかす理想的な彼氏そのものだった。「紀戸先生と松島先生って、本当に仲がいいですね。いつも一緒で」人混みの中から、そんな感嘆の声が上がった。すると薔薇子がすぐに笑顔で続ける。「それはそうですよ。葵は若くてきれいで、明るくて可愛いですしね。好きにならない人なんていませんよ。それに才能も実力も兼ね備えてるし、紀戸先生が大事にするのも当然です。二人で並ぶと本当にお似合い。才色兼備ってこういうことね。私は二人のCPのガチファン第一号ですから!」――そう。才色兼備。確かに、お似合いだ。何と言っても、八雲が着ていたあのカジュアルな服には確かに柄があったものの、色は葵の水着と同じ色味――どちらも淡いピンクだったのだ。正直に言えば、彼がピンクを着る姿は本当に似合っている。以前、私が想像していた通りだ。この淡い色合いが、彼のもともと鋭い顔立ちをやさしく包み込み、全体に柔らかな印象を与えている。――それは、甘い恋が彼にもたらした優しさ。目の奥がじんわりと熱くなり、胸の内にも痛みが込み上げてくる。八雲は本当に気を遣っているのだろう。葵と「カップルコーデ」にするために、わざわざこんな一着を引っ張り出してきたのだから。ただ、彼は少しだけ無頓着だった。このピンクの服を選んだのが、私だったということを忘れていたのだから。結婚してもうすぐ一年、あの年の東市の冬はひどく寒く、雪も深かった。それでも私は心から浮き立っていて、八雲が休みの日に一緒に西山へ雪見と温泉に行ってくれるのを楽しみにしていた。八雲は、あのとき確かに約束してくれた。だから私は早々に準備を始め、彼のためにこの、淡いピンクで柄の入
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第387話

それは、まろやかで、やさしい甘さだった。はちみつ特有の、穏やかな香りが広がる。私は少し驚いて顔を上げ、浩賢を見た。浩賢は、どこか照れたように笑う。「高橋看護師長が言ってたんだ。このところ君、胃腸の調子があまり良くないって。それに今日は車酔いするんじゃないかと思って、出発前にはちみつ水を用意しておいた。まさか車の中では使わず、今になって役立つとは思わなかったけど」浩賢はこんなに気が利いていて、こんな細かいところまで考えが及ぶなんて、この瞬間、感動せずにはいられなかった。一緒に生活していた私の夫は、私を責め、脅し、時には侮辱するばかりで、私の体調不良など一度も気に留めたことがなかった。それなのに、友人である浩賢は、私の些細な変化も見逃さず、ここまで細やかに気遣ってくれる。浩賢を見つめながら、胸の奥がわずかに揺れた。けれど、どう感謝すればいいのか分からない。「わあ、藤原先生って本当に水辺先生に優しいですね。はちみつ水まで用意してるなんて。うちの神経外科の『模範彼氏』は、一人どころか二人もいますよ」薔薇子の大きな声が、またその場に響いた。その一言で、皆の視線が一斉に私と浩賢に集まる。思わず顔を上げた瞬間、ちょうど八雲がこちらに向けて投げてきた、熱を帯びた不満に満ちた視線とぶつかった。八雲の表情は一瞬で変わった。さっきまで葵に向けていた優しさと溺愛は、苛立ちを孕んだ灼熱の炎へと変わり、その熱が八雲の顔に浮かび、さらには浩賢に支えられている私の腕を射抜くような視線を向けていた。――八雲は、やはり私と浩賢の関係を気にしている。人前での、私たちの「親密なやり取り」に、八雲ははっきりと怒りを覚えているのだ。けれど、私はまったく気にしなかった。浩賢の手からはちみつ水を受け取り、ゆっくり一口飲んでから、浩賢に微笑みかける。「甘いね。ありがとう、藤原先生」そう言い終えると同時に、向こうから低く、怒りを含んだ声が飛んできた。「温泉の準備はできてるだろ。行くぞ」八雲の声だった。視線の端で見ると、八雲はすでに踵を返し、温泉エリアの入口へ向かって歩き出している。長い脚を運びながら、腕は葵の肩を抱いていた。その仕草は、あまりにも親密だ。どうやら八雲は、私に相当苛立ったらしい。これ以上、私と浩賢のやり取りを見たくなくて、葵を連れて先に立ち去ったの
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第388話

薔薇子の質問はあまりにも唐突で、私は一瞬、頭が真っ白になり、言葉に詰まってしまった。そのわずかな沈黙の中で、私はふと理解した。さっき葵が、あんなにも疑念と敵意の入り混じった視線を私に向けてきた理由を。――葵も、同じことを聞きたかったのだ。実のところ、薔薇子は真相にかなり近いところまで辿り着いていた。だから私は、あっさりと認めた。「ええ。あのとき、紀戸先生は確かに私と一緒でした」一緒にいただけではない。ほんの少し前まで、かなり親密な距離にあった――なぜだか、そんな一言を付け加えたくなった。薔薇子がそこまで噂話が好きだというのなら、思う存分格好の話題を与えてやればいい。思い切り、大きなゴシップを知らせてやればいいのだ。薔薇子の親友の恋人は、独身ではない。しかも、私の夫だ。薔薇子が八雲に電話をかけ、葵を迎えに行くよう頼んだそのとき、八雲は、まさに私と情事を終えた直後だった。八雲は、私が再婚することを嫌がっている。過去の私との関係が、彼の大事な葵を不快にさせることを恐れているのだ。――だったら、なおさら彼の思い通りにはさせない。どうして、いつも八雲が主導権を握り、私の尊厳や感情を踏みにじる側にいて、私は彼の理不尽な要求をただ耐え続けなければならないの?そんな思いが胸に渦巻いたけれど、私は結局、自分を抑えた。理性が感情を押しとどめ、余計なことは何一つ口にしなかった。私の目的は離婚だ。三角関係に首を突っ込むことでもなければ、無用な非難や面倒を招くことでもない。ところが次の瞬間、薔薇子は目を大きく見開き、驚愕を滲ませながら、矢継ぎ早に問いかけてきた。「一緒にいたって……あんな遅い時間に?何をしてたんですか?」本当に、筋金入りのゴシップ好きだ。他人の私生活を覗き見る欲求が、あまりにも強い。いや、彼女がここまで執拗なのは、単なる好奇心だけではないのかもしれない。彼女の瞳の奥には、驚きだけでなく、興奮――それも、ほとんど狂喜に近い感情が渦巻いていた。私は彼女と目を合わせ、目元にゆっくりと笑みを浮かべた。「……そんなに知りたいんですか、尾崎看護師?」「ええ。水辺先生がそのとき、紀戸先生と一緒に何をしていたのか、とても気になります」薔薇子はほとんど考えもせず、即答した。彼女の瞳の奥に浮かぶ興奮がますます強まり、
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第389話

正直なところ、薔薇子は記者にでもなればよかったのにと思う。噂話となると、本業以上に真剣なのだから。「尾崎看護師は、何が言いたいんですか?」私は目を細め、逆に問い返した。「薔薇子、もう聞かないで」葵が小走りで前に出て、薔薇子の手を押さえ、そのまま私に向き直って笑った。「水辺先輩、怒らないでください。私たち、別に他意はないんです」――他意がないなら、わざわざここに私を足止めして、こんな質問はしない。葵は、明らかに疑っている。ただ――答えを聞いてしまったら、もう後戻りできなくなるのが怖いのだろう。私はそれ以上何も言わず、ただ薔薇子を一度だけじっと見つめ、手洗いを後にした。背後から、かすかに薔薇子の憤った声が聞こえてくる。「葵ちゃん、どうしてあの人をかばうの?どう考えても、昨夜はわざと紀戸先生と会ってたんでしょ。だって、そんな偶然ある?昼にレストラン雲間で会って、夜にもまた偶然会うなんて?絶対に裏があるわ。もっと追及すべきよ」「たまたま、ってこともあるかもしれないでしょ。薔薇子、考えすぎだよ」「葵ちゃんのためを思って言ってるの!昨夜、酔って私の腕の中でどうやって泣いてたか、忘れたの?紀戸先生が自分を好きじゃないって、今も受け入れてくれないって泣いてたじゃない。彼の心には他の人がいるって……親友として、その『恋敵』をはっきりさせてあげないと。私、前から気づいてたの。紀戸先生と水辺先生、どうもおかしいって……」薔薇子の言葉は早口で、切迫していた。だが、それを葵がきっぱりと遮った。「ありえない!薔薇子、もう言わないで!」葵は少し息を荒らし、しばらくしてから低く続けた。「私は八雲先輩を信じてる。彼はそんな人じゃないし……それに、水辺先輩はもう藤原先生と付き合ってるんだから。八雲先輩と何かあるはずがない。絶対に、ありえない」私はそのまま歩き去り、二人の後の会話はもう耳に入らなかった。私たちが入るのは貸切温泉で、同じ庭の内ではあるものの、温泉ごとに効能が異なっている。看護師長と桜井が私を一つの小さな温泉へ引っ張っていった。「さあ優月ちゃん、こっちよ。この温泉は貴重な薬草が入ってて、女性向けに作られてるの。エネルギーを補うのにいいんだから、早く入って」思わず苦笑した。医療従事者であっても、商業的な売り文句には弱いらしい。それでも私は言わ
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第390話

どうやら、隣の温泉は八雲たちのいる温泉だったらしい。チームビルディングの回数を重ねるうちに、同僚同士の距離が縮まったのか。それとも、葵の存在によって、八雲はもう雲の上の人じゃなくなった気がしたのか。いつの間にか、彼を遠慮なくからかう同僚まで現れていた。植え込みの隙間から覗いてみると、隣の温泉はかなり広く、男女混浴ができる造りだった。八雲は浩賢たちと並んで湯に浸かっている。上半身は脱ぎ、スイムパンツだけを身に着けている。その隣には、ピンクの水着を着た葵が座り、葵の右側には薔薇子。周囲の同僚と一緒になって笑っていた。「葵ちゃん、ずいぶん思いきり噛んだのね。紀戸先生の肩、ちゃんと傷になってるじゃない」――葵が八雲を噛んだ。それ自体は、何も不思議なことじゃない。数日前だって、八雲の首元には、葵が残した噛み跡がはっきりとあったのだから。この二人は、いつだって情熱的だった。昨夜もきっと情熱的だったのだろう。我を忘れるほど、二人きりの世界に溺れて――分かりきっていた事実なのに、その瞬間、胸の奥を鋭く刺されたような痛みが走り、一気に広がった。私は指先をきつく握り、慌てて視線を逸らす。八雲と葵が一緒にいる時、どんな様子なのかは分からない。でもきっと私に向ける態度とは違うはずだ。もっと優しくて、もっと細やかで、壊れ物に触れるみたいに気を遣って、葵の機嫌を取るように、丁寧に甘やかしているに違いない。私に対してのように――乱暴で、横暴で、独善的で、私の気持ちなど一切顧みず、尊重もなく、思うがまま、時と場所も選ばない――そんな態度ではない。たとえば昨夜。和夫の病室の隣で、八雲は気に入らないことがあったというだけで――そこまで思い出した瞬間、強い羞恥が込み上げた。私は深く息を吸い、必死にその退廃的な光景を頭から追い払おうとする。忘れよう、と。しかし次の瞬間、葵の低く沈んだ声が耳に入った。「皆さん、誤解しないでください。私と八雲先輩は本当に付き合っていませんし、私が彼を噛んだことも一度もありません」「そんなはずないでしょ。あの位置はどう見ても抱き合ってるときに噛んだ跡よ」薔薇子はまだ笑いながら、葵をからかっている。そのとき、私の胸がひくりと鳴った。ある細部が、稲妻のように脳裏をよぎり、思わず顔を上げて、再びそちらを見てしまう。――肩?抱
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