3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた のすべてのチャプター: チャプター 391 - チャプター 400

414 チャプター

第391話

けれど八雲は、かつて私と一緒に野良猫に餌をあげたことがある。そのとき、表情にはわずかに不機嫌さをにじませながらも、それでも文句は言わず、私が餌をやって、撫で終わるまでそばで待っていてくれた。そして最後には、必ず私を連れて帰り、手を洗わせ、消毒までさせた。――ただ、それもずいぶん昔の話だ。少なくとも、二年以上前のことになる。あまりにも遠い過去だ。その後は、一緒に外を散歩する機会さえなくなった。ましてや、彼が私と一緒に野良猫に餌をやるなんて、考えられるはずもない。家で猫を飼うなんて、なおさらだ。「三年飼ってる」八雲は低く鼻を鳴らした。「ずっと大人しかったから、本当に従順なんだと思ってた。まさか、全部演技だったとはな。最近になって急に騒ぎ出して、家出するとか、新しい家を探すとか言い出して。一度叱ったら、逆に噛みついてきた」――猫って……彼が言っているのは、どう考えても私のことだ。彼は私を猫扱いしている。三年間「飼われて」、三年間「大人しいふり」をして、最近になって家を出ようとし、新しい居場所を探し始め、そして彼に噛みついた。「逆に噛みついた」って?違う。噛みついたのは、むしろ彼のほうだ。離婚を切り出したのも彼。あれほど苛酷な離婚協議書を突きつけ、無理やり私に署名させようとしたのも彼だ。私が理不尽な条件を拒めば、彼は私を侮辱した。和夫の病室の隣で――彼は私の服を乱暴に引き裂き、私の気持ちなど一切顧みず、粗野に、力づくで私を占有した。それなのに今になって、私が「噛みついた」と言う。私は歯を食いしばり、言い返したい衝動を必死に抑えた。すると、今度は葵の声が聞こえてきた。「八雲先輩、猫を飼ってるんだね。でも、猫が人を噛むなんて……何か病気なんじゃないの?よかったら、あとで私が一緒にペット病院に連れて行きましょうか」――優しい子だ。八雲と一緒に「猫」を病院に連れて行こうと言うのだから。「人を噛む猫なんて、飼えないでしょ。上下関係も分からないなんて困りますよね。いっそ手放したほうがいいんじゃないですか?また噛まれたら大変ですし」薔薇子の大きな声が、また別の提案を投げてきた。――彼女たちは、本当に猫の話だと信じてるらしい。私は深く息を吸い、胸の内で荒れ狂う感情と、怒鳴りつけたい衝動を、すべて押し殺した。顔を背け、何も聞かな
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第392話

――簡単に手放したりしない。逆らう気なんて、二度と起きないように躾けてやる。八雲の声はあまりにも淡々としていて、まるで取るに足らない日常の出来事を語っているかのようだった。けれど、その言葉が私の耳に落ちた瞬間、胸の奥が激しく震え、全身にぞっとする寒気が走った。彼は、私がそちらを見ていることに気づいたのかもしれない。闇を湛えた瞳が鋭くこちらを射抜き、強烈な圧迫感を放っていた。私は思わず顔を背けた。温かな温泉に浸かっているはずなのに、身体の芯から冷えていくのを感じる。――八雲は、私を手放さない。そして、私が他の男と結婚することも、決して許さない。彼は簡単に離婚などしない。――私が、あの理不尽な要求を受け入れない限り。でも、どうして?私がこれまで注いできた愛情と譲歩に甘えて、彼はここまで好き放題に私を踏みにじる権利があるの?私が去ることすら許さず、最後の最後まで不平等な条件を突きつけてくるなんて。温泉の中で、私は指を握りしめ、また緩め、そして再び強く握った。「顔色、ちょっと悪くない?どこか具合悪いの?」桜井が近寄ってきて、私の腕にそっと腕を絡めてきた。「大丈夫」我に返り、私は無理やり口角を上げて笑った。「のぼせちゃったんじゃない?この温泉、温度高いし。優月ちゃんは細いから、低血糖かもしれないわね」看護師長が心配そうに言い、続けて向こうに向かって声を張り上げた。「藤原くん!あっちで紀戸先生と猫の話なんかしてないで!藤原くんの彼女、倒れそうよ。早く抱いてあげなさい!」……私は普通に浸かっていただけで、全然倒れてなんかいない。看護師長、心配しすぎだ。けれど、その一言――「藤原くんの彼女、倒れそうよ。早く抱いてあげなさい」それが、浩賢を一気にこちらへ呼び寄せた。彼はやって来るとすぐ、大きなバスタオルを私の肩に掛け、そのまま身を屈めた。「低血糖じゃないよ。高橋看護師長が冗談で言っただけだから、気にしないで」必死に説明したのに、浩賢はまるで聞いていない。そのまま腰を落とし、私をいとも簡単に横抱きにした。こうして私は、同僚たちの好奇心に満ちた視線とざわめきに包まれながら、浩賢に抱かれたまま休憩エリアへ運ばれていった。「藤原先生、彼氏力高すぎでしょ」「付き合いたてのカップルは熱々だね。低血糖じゃなくて、彼氏不足で
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第393話

葵は急ぎすぎて足元が滑り、そのまま転びそうになった。けれど、間一髪で八雲に支えられ、身体ごと彼の腕に倒れ込んだ。八雲も足を止め、長い腕で彼女を抱き留め、そのまま胸の中に引き寄せる。「どうしてそんなに不注意なんだ」ほんの一瞬の出来事だった。けれど、その一連の動きはあまりにも自然で、迷いがなかった。葵は彼の腕の中で顔を上げ、甘く、か弱い声で言う。「八雲先輩、ごめんなさい……急いで追いかけたから……」言い終わる前に、八雲が動いた。彼は腰を落とし、腕を彼女の膝裏に差し入れ、そのまま横抱きにした。少し距離はあったけれど、私ははっきり見てしまった。彼が彼女を見下ろすその表情。そこには、溢れんばかりの慈しみと労わりが宿っていて、優しすぎるほどで、甘やかすような表情だった。「馬鹿だな。追わなくていい」薔薇子の大きな声が、すぐさま響いた。「紀戸先生、本当に葵を大事にしてますね。もう過保護レベルですよ」――ええ、本当に。溺愛そのものだ。けれど、その光景は私の目を刺し、思わず顔を背けた。それでも感情の揺れは抑えきれず、胸の奥がきゅっと痛んだ。八雲は葵に言った。「馬鹿だな、追わなくていい」と。なぜなら、彼はいつだって葵のために立ち止まり、葵だけに特別な偏愛を与えるから。それは、あまりにも独占的な優しさだった。――それなのに、どうして私は、八雲が葵を本当には受け入れていない、などと疑ったのだろう。彼は彼女を、あれほど真剣に愛しているのに。きっと、葵が一時的に敏感になっただけだ。八雲のふとした気の散りを過大に受け止め、酒に酔って、「好きじゃない」と泣きじゃくっただけなのだろう。実際には、二人の愛は灼けるほど激しく、濃密で、彼女が拗ねれば拗ねるほど、関係はさらに深く、熱を帯びていく。「最近、あまり眠れてないんじゃない?顔色、確かに良くない」浩賢は私を休憩エリアのリクライニングチェアに寝かせ、忙しそうにデザートと飲み物を取ってくれた。私は感謝の気持ちを込めて微笑む。「大丈夫。少し休めばよくなるよ」――実際、最近はあまり眠れていない。頭の中は、どうすれば無事に離婚できるか、そればかりだった。浩賢の指が伸び、濡れた私の髪先にそっと触れ、そして立ち上がる。「ドライヤーを借りてくる。ここで待ってて」「大丈夫、藤原先生」私は
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第394話

離婚協議書のことは、ずっと私の心に引っかかっていた。あのとき、署名を拒否して以来、私は何度も八雲と話し合って条件の見直しを求めようとした。けれど、彼は一度もその機会を与えてくれなかった。そして、先ほど温泉で見た八雲の態度で、私ははっきり悟った。たとえ話し合おうとしても、彼は条件を変えない。彼が譲らないのは、葵を大切にしているからだ。彼女のために、将来起こり得るすべての面倒やリスクを、あらかじめ排除しておきたいのだ。それなのに、なぜ玉惠が突然電話をかけてきて、離婚協議書に署名しろと言うのだろう。それは本当に新しい協議書なのだろうか?私は様子をうかがいながら尋ねた。「前と同じものですか?あれなら署名しません。条件には同意できません」「あんた、何を都合のいい夢を見てるの?」玉惠の声は厳しかった。「八雲は一時的に判断を誤って、あんたに脅される形で、あれほどの財産を譲ろうとした。でもね、私ははっきり言うわ。そんなこと、私は許さない」彼女は続ける。「これは私と田中弁護士が新しく作り直したものよ。今すぐ来て署名しなさい。私は本家で待ってる」――玉惠は本当に、新しい離婚協議書を作り直していた。私は一度、大きく息を吐いた。けれど、まだ安心はできない。「今、西山にいます。今日は戻れません。明日の朝には帰るけど……その前に、電子版を送ってもらえませんか?内容を確認したいんです」実際、今日帰れないわけではない。ただ、この協議書の中身を、事前に確認しておきたかった。私が気にしているのは、財産分与ではない。問題なのは――あの「追加条項」が、まだ残っているかどうかだ。「西山?どうしてそんなところに?」玉惠は苛立った様子で問い返してきた。私は正直に答えた。「職場のチームビルディング。西山で温泉に入っていて」「……八雲も、そこにいるの?」玉惠の声が急に張り詰め、警戒と不安が滲んだ。「今、あの子と一緒じゃないでしょうね?」「一緒じゃありません」――一緒なはずがない。八雲はいま、大好きな葵と一緒にいて、甘い時間を過ごしているに決まっている。さきほど見た八雲が葵を抱き上げる光景。葵を見つめる、あの優しくて溺愛に満ちた眼差しを思い出すと、胸がまた、見えない手に鷲掴みにされ、押し潰されるように痛んだ。喉の奥に湿って冷たい綿が詰まったようで
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第395話

そして今、玉惠はわざわざ私のところへ来ようとしていて、しかも離婚協議書のことを八雲には知らせるなと言う。ここまでくれば、答えはあまりにも分かりやすい。――この離婚協議書は、玉惠と田中弁護士が水面下で決めたものだ。八雲本人は、何も知らない。玉惠は、八雲がその内容を知る前に、私に先に署名させようとしている。言い換えれば、彼女は独断で離婚協議書の内容を変更し、まず私のほうを先に始末しようとしているのだ。「彼が知っていようといまいと、この離婚協議書には必ず署名しなさい。念を押しておくけれど、余計な真似をして八雲を探したりしないで。この結婚は、必ず終わらせるのよ」玉惠の口調は急に厳しさを増した。「忠告」というより、はっきりした「警告」だった。「あんたと、あんたの母親が以前何をしたか、忘れたとは言わせない。八雲が情にほだされるなんて思わないことね。たとえ彼があんたを受け入れられたとしても、紀戸家は、あんたみたいな腹黒い嫁を決して受け入れないわ!」――やはり、私の推測は正しかった。彼女は勝手に協議書を作り替え、私に先に署名させようとしている。言葉は辛辣だったけれど、私は少しも気にならなかった。彼女の私に対する態度には、もうとっくに慣れている。彼女が私を受け入れられないと言うまでもなく、私自身、この結婚にはとうに愛想を尽かしている。私のほうが、彼女以上に、一刻も早くあの冷え切った家を出たかった。「ご安心ください、紀戸夫人。この水辺優月、責任をもってお約束します。私は絶対に八雲を探しませんし、離婚にも全面的に同意します。この点は、今後も永遠に変わりません」私は真剣な口調でそう告げた。「すぐにこちらの場所を送ります。到着をお待ちします」そう言い切ると、私は彼女の返事を待たずに電話を切り、すぐにLINEで位置情報を送った。送信を終えた瞬間、胸の奥がふっと軽くなったような、不思議な解放感があった。それどころか、ほんのわずかな期待さえ芽生えていた。離婚は、ずっと前から決めていたことだ。ただ、引き延ばされ続けて、正式に終わらせられずにいただけ。前回、八雲が出してきた協議書の追加条項は、あまりにも一方的で、まさに横暴そのものだった。私はこの件はもう打つ手がないと思っていた。それなのに、思わぬところから道が開けた。――玉惠が動いたことで、
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第396話

暗闇。重苦しく、息苦しい。こんな閉ざされた空間に放り込まれ、胸の奥に一気に不安が広がった。その瞬間、私は反射的に思い出していた。――あの日のエレベーター前も、同じように暗く、危険だった。誰?まさか、ずっと暗がりで私を弄び、陥れようとしてきたあの正体不明の人物?まさか私たちのあとを追ってここまで来て、わざわざ私の部屋の向かいに部屋を取って、こんなふうに襲ってきたの?今、私をこの部屋に引きずり込んで、いったい何をするつもりなの?恐怖が蔦のように背中を這い上がり、全身に絡みつく。私は反射的に脚を蹴り上げ、同時に肘を振り上げ、背後へ思いきり打ちつけた。――けれど、空を切った。次の瞬間、身体が強引に反転させられ、硬い扉に押しつけられる。両手首はまとめて一つの大きな手に掴まれ、頭上に押さえつけられた。大声で助けを呼ぼうとした、その口を、柔らかな唇が塞ぐ。極限の恐怖と無力感の中で、私は嗅いだ。――よく知っている、清冽なシダーウッドの香り。このキスには、あまりにも見覚えがあった。横暴で、乱暴で、強烈な独占欲と支配欲に満ちた感触。分かった。――八雲だ。彼は不意打ちを仕掛け、こうして無理やり私を組み伏せたのだ。一瞬で、恐怖と混乱は、悔しさと怒りに変わった。私は思いきり彼の舌先に噛みついた。「……っ!」低い呻き声。口の中に血の味が広がる。荒い息が私の顔にかかり、暗闇の中で彼の瞳が異様な光を放っているのが分かった。低く笑う声が耳元で響く。「本当に、反抗期の猫だな。噛み癖がますます板についてきた」「私は猫じゃない!」――あなたの猫でもない!必死にもがき、身体を捻って彼の唇を避け、声を張り上げる。「八雲、放して!」「放して、浩賢と抱き合いに行かせるってか?」八雲の声に、鋭い苛立ちが混じった。いつもの冷淡さや皮肉とは違う。生々しく、熱を帯びた怒り。――彼は、怒っている。背中はドアに押しつけられ、腕は高く拘束されたまま。彼の問いかけに向き合った瞬間、胸の奥に、強い悲しみと反発心が湧き上がった。八雲は、私をまったく尊重していない。こんな形で私を追い詰めて、逃げられない状況にして、力ずくで踏み込んでくるなんて。卑劣すぎる。思い返せば不自然だった。浩賢が私をホテルのロビーまで送ってくれた直後、藤原夫人からの電話が
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第397話

本当に、笑わせる。八雲が今さら「紀戸奥さんとしての役目」なんて言葉で私を押さえつけようとするなんて。彼は、私たちの間で何が起きたのか、そして今どこまで関係が壊れているのか――本当に忘れてしまったのだろうか。「紀戸先生、ひとつ親切に教えてあげますけど」私は冷ややかに笑い、暗闇の中で鋭く光る彼の瞳をまっすぐ見据え、一語一語、はっきり告げた。「あなたはすでに離婚協議書に署名しています。私たちは、もうすぐ離婚するんです。私はもう紀戸奥さんじゃない。紀戸奥さんの役目なんて、果たす必要はありません」私の声があまりにも冷たかったのか。それとも、八雲が、ここまで刺々しい私を見たことがなかったのか。その瞬間、熱を帯びていた空気が、ふっと凍りついた。温度が一気に下がり、冷気が二人の間を満たしていく。八雲の身体も固まった。私の手首を掴んでいた手に力がこもり、わずかに震えている。「……今、何て言った?」「紀戸先生、聴力に問題があるとは思えません。わざわざもう一度繰り返す必要はないでしょう」私はさらに冷たい声で言い、再び彼の手を振り払った。「それから、紀戸先生が、ご自分の彼女さんを悲しませたくないのなら、人前では私と距離を保ったほうがいい。たとえば今みたいに……もし彼女が突然カードキーで入ってきて、この光景を目にしたら、どう思うでしょうね?」薔薇子は、最後の一枚のカードキーを持って、八雲と葵を部屋まで案内していた。そのカードキーが、まさにこの部屋のもののはずだ。――ここは、八雲と葵が今回一緒に泊まっている部屋。その部屋で、彼は私を壁際に押さえつけ、無理やり口づけていた。こんな場面を葵が見たら、傷ついてしまうに違いない。あれほど葵を愛しているのに、どうしてそんなことに気づかないのか。八雲の身体は、完全に動きを止めていた。私は難なく彼を押しのけ、ドアを開けて出て行こうとした。――けれど、次の瞬間、また手首を掴まれる。低く、掠れた声が落ちてきた。「……浩賢と、付き合ってはいけない」本当に、身勝手だ。こんな状況でも、彼はまだ私を縛り、要求してくる。彼の大切な葵のために、私に身を引けと言うのだ。「誰と一緒になるかは、私の自由です。紀戸先生には関係ありません。紀戸先生の不平等な条件、私は絶対に受け入れません。それでも無理に押し通すつ
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第398話

かつての八雲には、弱点などなかった。理性と冷静さを極めた神経外科の首席執刀医であり、冷ややかで高慢な、まるで神のような存在だった。けれど今、その神にも弱点ができた。――八雲は、恋をしたのだ。彼は葵を愛している。愛しているからこそ不安になり、愛しているからこそ恐れを抱く。葵が悲しみ、傷つくことを恐れるがゆえに、彼は私の「脅し」に応じた。私の目的は達成された。八雲は私の手首を放し、道を空けた。けれど、心の中には一片の喜びもなかった。むしろ、言葉にできないほどの、どうしようもない哀しみだけだった。――恋は、本当に理不尽だ。私は八年間、八雲を愛してきた。五年の片想い、三年の結婚生活。持てるすべての想いを注ぎ、ただ、ほんの少しの愛の応えを求めただけだった。それでも、最後まで報われることはなかった。一方で、葵は――彼と知り合って、まだ数か月しか経っていないのに、あっさりと彼の心を掴んだ。彼女は何もしなくてもいい。ただそこに立っているだけで、八雲は自ら雲の上を降り、彼女のために道を敷き、手を差し伸べ、ありとあらゆる気遣いを尽くす。私だって、彼女より劣っているわけじゃない。それなのに――彼女があっさり手に入れたものを、私はどれだけ願っても、決して得られなかった。……そうか。恋は、努力ではどうにもならない。恋は、運命なのだ。私は、その運命を持っていなかった。俯いて、涙が込み上げてくるのを隠し、彼が空けた隙間から立ち去ろうとした、そのとき――八雲の、低く沈んだ声が背後から響いた。「いいだろう。じゃあ今すぐ行って、彼女に言えばいい。俺の肩の噛み跡は、お前がつけたってな」……え?私は凍りつき、信じられずに顔を上げた。そこにあったのは、静かで澄んだ彼の瞳。その黒い眼差しから、先ほどまでの苛立ちはすっかり消え、代わりに、かすかな笑みさえ浮かんでいる。「水辺先生、できるか?皆の前で、俺とお前が本当の夫婦だって言えるか?」――そういうことだったのか。八雲は、少しも私に脅かされてなんかいなかった。でも、それは葵をどうでもいいと思っているからじゃない。むしろ逆だ。全部――葵のため。わざと私を刺激して、私に夫婦関係を公にさせた。そうすれば、浩賢との「恋人関係」なんて、自然に崩れる。私が浩賢と付き合わなけれ
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第399話

「そうなの?」まだ少し寝ぼけたまま、椅子に座りながら、桜井が着替えて靴を履き替えるのを眺めていた。「そうなんだよ。でもこの話を聞いて、みんな結構盛り上がってて。もともとチームビルディングって、距離を縮めるためのものじゃない?自分たちで焼くほうが楽しいってことで、看護師長が役割分担をしたの。何人かは買い出し、何人かはコンロを設置して火起こし。それに、今夜は自分から名乗り出てカクテルを作るって人もいて、みんなすごく楽しそうだよ」桜井は、いかにも楽しそうに話した。今回のチームビルディングの目的は、神経外科と麻酔科の関係を和らげることだった。私はむしろ、青葉主任がバーベキューの内容を勘違いしたのではなく、最初からこうなることを狙っていたのではないかとさえ思う。みんなで役割分担をして、集まって焼きながら食べる。確かに、距離を縮めて、連携を深めるには、とてもいいやり方だ。私は小さく笑って、頷いた。「確かに、楽しそうだね。いいと思う」「楽しいのは楽しいけど、残念なのは藤原先生が急用で帰っちゃったのよ。あの人、有名なグルメなのに。今夜のバーベキュー、藤原先生がいたらもっと盛り上がったのに……水辺先生、なんだか元気ないけど、藤原先生が帰ったからなの?」話の途中で、桜井は心配そうに近づいてきた。――浩賢が急用で帰った?一瞬、意外に思ったけれど、すぐに腑に落ちた。浩賢は、きっと藤原夫人に呼び戻されたのだろう。そして、その裏で手を回したのは――八雲。八雲は本当に、葵のために考え抜いている。葵のためなら、どんな手を使ってでも、私と浩賢の距離を引き離そうとする。私は笑って首を振った。「違うよ。藤原先生は家の用事があっただけ。帰るときも、私は知ってたから」少し間を置いて、私は真剣に桜井を見て言い添えた。「それにね、私と藤原先生はただの友達。まだ付き合ってないの。松島先生や尾崎看護師は事情を知らなくて、誤解してるだけ」八雲に対して意地を張るのとは別に、浩賢の評判に影響が出るのは、どうしても避けたかった。正直に言えば、八雲の言葉は間違っていない。水辺家の条件では、藤原家のような家柄には到底見合わない。藤原家は普通の家じゃない。浩賢が将来迎える女性も、きっと普通じゃない人で、離婚歴のある私など、最初から選択肢に入らない。だからこそ、浩賢の今後
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第400話

その電話は、玉惠からだった。相変わらず、簡潔で高圧的な命令口調。「二階のカフェ。今すぐ降りてきなさい」――もう着いている。思っていたより、ずっと早い。頭はぼんやりしていて、身体も重く、寒気までしていたけれど、それでも私は歯を食いしばり、必死にベッドから起き上がった。「……分かりました。すぐ行きます」今はただの発熱だ。たとえ、さっき手術明けでも、私は必ず下へ行っただろう。この機会を逃すわけにはいかない。八雲が気づく前に、離婚の話を、今日ここで確定させなければならない。数時間前、八雲が私を無理やり彼の部屋に引きずり込んだ。目的ははっきりしている。離婚協議書にある、あの理不尽な条件を飲ませるためだ。もし私が首を縦に振らなければ、彼は簡単に引き下がるつもりなどなかった。そして私は――彼に対抗する手立てを、何一つない。脅しですら、あまりにも無力だった。だからこそ、今この瞬間、玉惠が差し出したこの「抜け道」を、私は絶対に逃さない。服を着替え、急いで部屋を出た。身体が辛く、壁に手をつきながら、俯きながら歩く。そのとき――エレベーター前で、思いきり誰かにぶつかった。「すみません、見えてなくて……」反射的に一歩下がり、慌てて謝る。だが相手は、突然私の腰に手を回し、支えた。その瞬間、私は顔を上げ、相手の顔を見た。冷ややかな目元に、整った顔立ち。銀縁の眼鏡の奥にある、細長い目は深く暗く、きつく眉をひそめている。「……どうしてそんなに顔が赤い?」――八雲だ。数時間前、私を襲ったばかりの、その本人。彼を見た瞬間、胸がひくりとした。後ろめたさに襲われ、反射的に身を翻して逃げたくなる。どうして、こんなに間が悪いの。こっそり動こうとした矢先に、もう見つかるなんて。けれど、手首を掴まれた。彼の眉間の皺は、さらに深くなる。「こんなに熱い……どうした?」どうした、って。見れば分かるでしょう。――発熱だ。けれど私は、皮肉に笑っただけだった。医者である彼なら、少し注意して見れば、すぐ分かるはずだ。それでも気づかない。理由は一つ。彼の心は、私には向いていないから。気にかけていないから、目にも入らない。それなら、わざわざ言う必要もない。傷は、心配してくれる人に見せてこそ意味がある。八雲に見せたところで、彼はきっと、その傷
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