All Chapters of 君のために、雲海を越えて: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

彼は、自分の耳を疑った。中絶?そんなはずがない!あれは、自分と悠璃の子供なんだぞ。彼女がそんなことをするはずがない!看護師は驚いた様子で言う。「ご存じなかったんですか?昨日の深夜、篠宮さんがわざわざナースステーションまで来て、当直医を起こして中絶したいって言って。てっきり家族と相談済みかと……」楓は、唇まで震わせながら言葉を絞り出す。「今言った篠宮さんって、篠宮悠璃のことか?」「そうです」看護師は急いでその薬を彼の手に押し付ける。「明日もう一度、この薬を飲むよう必ず伝えてください」看護師はそのまま足早に去っていった。楓は薬をしっかり持つこともできず、白い錠剤は床にばらばらと転がり落ちた。目の前に転がるその白い薬を、ただ呆然と見つめるだけだった。心の中は荒れ狂う嵐。波が彼を飲み込もうとする。その時、突然スマホが鳴り響き、楓は無意識に通話ボタンを押した。「楓お兄ちゃん、まだ来ないの?」莉奈の不満げな声が響く。バンッと、楓は握っていたスマホを壁に叩きつけた。そして、怒声が口を突いて出た。「ふざけるな、俺にこんな手を使うとはな?」彼の両目は充血し、まるで獰猛な獣のように上階へ駆け上がる。病室の前で待っていた秘書は、彼を見るなりすぐに頭を垂れて報告する。「社長、ご指示通り、莉奈さんに朝ごはんをお届けしました」「悠璃の居場所をすぐ調べろ」楓は歯ぎしりしながら、一語一語を噛みしめるように命じた。「見つけたら、必ず連れ戻せ!」「俺の子を……俺の子を勝手に……あいつ、頭がどうかしてる!」その言葉に、莉奈が興奮を隠せずに問いかける。「本当に、中絶したの?」楓の目が鋭く彼女を射抜く。さすがに気圧された莉奈は、すぐに口調を和らげた。「楓お兄ちゃん、私はただ、楓お兄ちゃんのことが心配で……きっと、あれは楓お兄ちゃんへの脅しだよ。もしかしたら看護師もグルかも。彼女の思うツボじゃん。焦って追いかけてくる楓お兄ちゃんを見て、どれだけ喜ぶか!これからどんどんつけあがるよ」楓は黙ったまま、何も返さなかった。その沈黙を、莉奈はチャンスと見て、さらに一歩踏み込んだ。「こういう時こそ、彼女に思い知らせてやるべきだと思う。篠宮家の社長が、そう簡単に操れる存在じゃないって」「どうやって?」「私と結婚しちゃえばいいじゃ
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第12話

「なんだって?」楓はいきなり身を翻し、莉奈の襟元をつかみ、そのまま彼女の体を持ち上げてしまった。莉奈はもがきながら咳き込む。「ちょ、ちょっと待って!苦しい、苦しいってば!」楓は手を離し、肩をがっちりと押さえつけて、低く鋭い声で問い詰めた。「今のは……誰の車だって?」莉奈は何度も大きく息を吸い込み、やっとのことで小声で答えた。「多分だけど……あれ……うちのいとこの車、つまり啓司の」「お兄さんの車って、浜市にあるのがほとんどで、こっちにはあれしかないから、ナンバーもよく覚えてるの……」莉奈は眉をひそめて、首をかしげた。「でもおかしいよ、なんでお兄さんがあの女と一緒にいるの?」その瞬間、楓の胸に、ひとつの疑念が渦巻き始めた。まだ確かめたわけじゃない。ただの憶測だ。だけど、それだけで全身の血が逆流しそうなほど、受け入れがたかった!楓は再び莉奈の襟をつかみ、今度は彼女を壁に押し付ける。莉奈の体は壁に叩きつけられ、全身が震えるほどの痛みに襲われた。「痛っ……!何すんの?頭おかしいの?」「相澤に電話しろ」楓は歯を食いしばり、低く唸る。「今すぐ!」「なんで私が?別にあの人とそんなに仲良くないし」莉奈は不満げに呟く。「やるのか、やらないのか?」楓の手が莉奈の首にかかる。その力は、今にも首をへし折りそうなほどだった。莉奈は完全に怯え、震える手でポケットからスマホを取り出した。「わ、わかった、今するから……」二回目のコールで、ようやく啓司が電話に出た。彼は気怠げな声で言った。「どうした?」莉奈は喉をからして、恐る恐る尋ねる。「お兄さん、悠璃って、そっちにいる?」啓司は短くクスッと笑い、何も言わない。莉奈は焦って叫ぶ。「早く彼女を返してよ!あの女は篠宮家の人なんだから……」言い終わらないうちに、啓司がだるそうに話し始めた。「返す?最初に交換ゲームしようって言い出したの、誰だった?あいつが僕の『嫁』に手を出すのは良くて、僕があいつの女に手を出すのはダメって、そんな都合のいいルールがあるかよ?」「お兄さん!」莉奈は声を荒げる。「あれはただの口実って分かってたでしょ」だが、その言葉も途中で、電話は一方的に切られてしまった。顔を上げて楓を見ると、彼はもう怒り狂って正気を失いかけていた。顔は真っ赤に染
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第13話

楓は、悠璃が大燕市を離れるとは思えなかった。ここは彼女が生まれ育った場所だ。簡単に離れられるはずがない。そして、彼女と啓司の関係についても……冷静に考え直してみれば、きっと啓司に脅されたに違いない、と楓は思った。あんなにも自分のことを好きだった彼女が、たった数日で他の男なんかを好きになるわけがない。きっと、ただ自分に腹を立てているだけだ。見つけ出して、ちゃんと宥めてやれば、彼女はまた以前のように、自分の元へ飛び込んでくるに違いない。彼は、そう確信していた。そんな彼のもとに、お母さんが乗り込んできたのは、ちょうどその時だった。分厚いカーテンで締め切られた豪奢なヴィラ。窓も開かず、外界と隔絶されたその空間で、楓は昏々と眠り続けていた。楓のお母さんはシャッとカーテンを開け、眉間にしわを寄せて言う。「楓、毎日こんなふうに引きこもってるわけ?どうせ外でモデルや売れない女優に会いに行くのが好きなんでしょう?今はもう止めたりしないから、好きにしなさいよ!」楓は眉を押さえ、不機嫌そうに返す。「何しに来た?」「起きなさい。今日は結婚指輪を選びに行くわよ」楓はベッドから跳ね起きた。「どういう意味?」「どうせあの女は他の男と逃げたんだし、まさか一生あの子を待って過ごす気?」楓のお母さんは冷たく言い放つ。「莉奈に聞いたわよ。あの子、楓の過去を全部受け入れてくれるって。結婚しても楓のことは口出ししないし、子供だって産んであげるって。そんな女、今どきどこにいるっていうの?ありがたく思いなさい!どうせ篠宮家の奥様が変わるだけ、楓の人生は何も変わりゃしないわ。さっさと起きなさい。今週中に日取りを決めて、来月には式を挙げるから!」楓は再びベッドに身を沈め、静かに目を閉じて言う。「俺に重婚罪で捕まれって言うのか?」「このバカ息子が!そんな言い方あるか!」楓のお母さんは怒りの眼差しを向ける。「あの女はもう他の男と逃げたのよ。今離婚を切り出せば、彼女だって喜んでサインするに決まってるでしょ!」「ありえない!」楓はまたもベッドから身を起こし、叫ぶ。「あの二人は、そんな関係じゃない……」言いかけたその時、部屋の扉が開いた。莉奈が得意げに入ってくる。「楓お兄ちゃん、さっき兄貴にちゃんと聞いたよ。悠璃は自分からついて行
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第14話

楓の瞳が、今にも裂けそうなほど大きく見開かれた。彼は莉奈の手からスマホをひったくり、写真を何度も何度も拡大しては細部を確認した。首筋には小さな赤いほくろ……間違いない、あれは、悠璃だ!楓は、今にも狂いそうだった。どうして?どうして彼女はそんなことができる?何があった?あんなに自分を愛してくれていたはずなのに。彼女には自分しかいなかったはずなのに……どうして、こんなにも突然、全てが変わってしまったんだ?楓の頭の中は、ぐちゃぐちゃにかき乱されていた。その時、スマホの着信音が短く鳴った。秘書からの動画だった。莉奈は勝ち誇ったように言う。「楓お兄ちゃん、篠宮家に女主人が必要なら、私以外、誰が楓お兄ちゃんの乱れた生活を許してくれるの?」楓は瞬きもせず、その動画を再生した。画面には、あの日の光景が、第三者の視点で映し出された。二階の階段。そこに立つ、莉奈と悠璃。悠璃は指一本動かさず、ただそこに立っていた。莉奈が突然、悲鳴を上げ、自分で階段から転げ落ちた!そして、その後に続く、莉奈の嘘、楓の盲信、悠璃の絶望と崩壊……すべてが、目の前で繰り返された。その一部始終を見た瞬間、楓は悟った。悠璃は、完全に自分に絶望していたのだ。そして、全ての発端は、目の前でぺらぺらと嘘を並べ、関係を引き裂いたこの女だった。楓の理性が、完全にぶっ壊れた。スマホを握りしめたまま、力任せに、莉奈の顔へと叩きつけた!額に当たったスマホの角が、莉奈の皮膚を切り裂き、真っ赤な血が流れ落ちた。「きゃっ!何すんのよ!痛いっ……」彼女は額を押さえ、べっとりとした液体に気づき、目を見開く。「血が出てる、見てよ!血、血が……」だが、楓は、冷酷な声で告げた。「お前、これが何か、よく見ろ」彼はその動画をもう一度莉奈の目の前で流した。莉奈の顔色はみるみる青ざめ、最後には血の気が完全に引いてしまった。彼女はうろたえながら言い訳する。「そ、それでも、あの女がバカだったのよ。私じゃないって、一言くらい、言えばよかったのに……」楓は莉奈の首をわしづかみにした。「お前が悠璃を家から追い出したんだ!」彼の歯ぎしりが、部屋に響く。「お前が、俺たちの関係を壊したんだ。お前のせいで、彼女はあいつのところに……お前なんか、死んでしまえ!
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第15話

浜市には台風が迫り、連日の豪雨。空も心もどこか陰鬱になるような日々だった。ここに来て、悠璃はもう十日目を迎えていた。相澤家の豪奢な別荘で、使用人たちはみな彼女のことを「奥様」と呼んで、丁重に扱ってくれる。けれど、その優しさがかえって落ち着かない。特に、啓司が家にいる時は。彼は仕事が忙しく、滅多に家には帰ってこない。悠璃は毎日別荘で過ごし、絵を描くか、庭の花や草木の世話をするくらいしかやることがなかった。娯楽なんて、それくらいだ。もっとも、絵を描くことも、思いがけない再会だったのだけれど。かつて彼女は、美術大学を卒業した身だった。だが、楓と結婚してからというもの、もう七年も筆を握ることはなかった。まさか、啓司の家に、画具が一式揃っているなんて。三日目には、悠璃はもう我慢できなく、そっと絵筆を手に取っていた。忘れかけていた夢の続きを、もう一度。その夜、夢中で描き続けていたら、気付けば夜明け前。ちょうどその時、啓司が帰ってきた。浜市に来てから、彼と会うのは二度目だった。スーツを着こなし、ネクタイを締めた彼は、どこまでもビジネスライクで。彼の姿を見て、悠璃はちょっと驚いた。このレベルの男たちなら、こんな夜更けに帰宅すれば、微かにでも女性の香水の匂いを纏っているものだ。実際、悠璃の父親ですら、そうだった。ビジネスの世界では、それが日常だ。でも、啓司にはそれがなかった。それどころか、彼の顔には疲れの色が濃く刻まれていて、ただひたすら忙しそうに見えた。ふと、悠璃は彼が自分をこの別荘に送ってくれた日のことを思い出す。「大事なプロジェクトがあって、帰るまで、二、三日かかるかも」と、足早に去っていった、あの日の後ろ姿。それは、嘘じゃなかったんだ。「上手だな」しばらく悠璃の絵を見つめて、啓司がぽつりと呟く。「この画具、ずっと使われてなかったんだ。悠璃さんに使ってもらえてよかったなあ」思わず、悠璃は手で絵を隠そうとするけど、もちろん無理だった。彼女は、妙に小さな声で答えた。「私も、もう何年も描いてなくて……うまく描けなくなった」彼はふっと笑って、「もしまた描きたいなら、いい先生を探してあげるよ」と言った。「今は新しい技法もたくさんある。学んでみるといい」「えっ、本当に?」悠璃は嬉しさ
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第16話

激しい雨が降りしきる中、悠璃はレインコートすら着る暇もなく、使用人たちと一緒に庭へと駆け出した。倒れかけた花々を、必死に救おうと。ついさっきまで満開だった花々が、無残にも台風の雨に叩きつけられて、項垂れているのを見ていられなかったのだ。息を切らし、全身びしょ濡れのまま花を守ろうとしていると、使用人の一人が必死な声で叫んだ。「奥様!風邪をひいてしまいますよ!もしご主人様が帰ってきたら、私たち怒られちゃいます」悠璃は顔の雨を手で拭い、にっこりと無邪気に笑った。「私が風邪ひいたって、それは私の勝手だ。啓司さんが怒るなら、私に怒るでしょ?みんなに当たるわけないじゃない」けれど、使用人は何も言わず、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせて、なぜか彼女の背後をじっと見つめている。その瞬間、不意に頭上の雨音が消えた。「あれ?雨、止んだ?」顔を上げてみると、そこには大きな黒い傘が広がっていた。心臓が跳ねる。振り返ると、啓司と視線がぶつかった。彼は意味ありげに微笑んでいる。「さて、困ったな。うちの奥さんの体を、こんなにびしょ濡れにしてしまった。ちゃんと責任を取ってもらわないとな」顔が、一気に熱くなる。悠璃は、必死で言い訳を探した。言い訳もうまく出てこない。ただ、もごもごと呟いた。「だって……あの大事な花々が、雨でダメになっちゃうのが嫌で……」啓司のぬくもりを感じて、思わず距離を取ろうとした。慌てて家の中へ走ろうとした、そのとき。スリッパが滑った!足がつるりと抜けて、ぐきっと足首を捻ってしまう。もう、恥ずかしさで消え入りそうだったのに、啓司は我慢できずに声を上げて笑った。「本当に、悠璃さんってば……」「笑ってるの、ひどい」顔から火が出そうだった。「笑ってないよ」そう言いながら、彼はあっさり悠璃を横抱きにして、ひょいと持ち上げ、そのまま大股で階段を上っていく。「悠璃さんのおかげで、こうして抱っこするチャンスをもらえたわけだ」その口調はあくまで軽い。でも、彼女の心臓はもう、バクバクと抑えきれないほど鳴り響いていた。手はどこに置いたらいいかわからず、胸元で小さく握りしめて、顔を埋めるようにして、まるで小さなウズラみたいに縮こまってしまった。彼はそれ以上からかったりせず、ベッドにそっと降ろしてくれた。そして、静かに、捻った足首
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第17話

悠璃が自分と啓司の婚約パーティーが五日後に決まったと知ったのは、翌日のことだった。その知らせを聞いた瞬間、手に持っていた肉まんをぽろっと落としてしまった。啓司がそれを拾い、彼女に差し出したとき、彼女の指先が熱いのに気づき、表情が一変する。「熱、出たの?」「え?そんなことない……と思うけど」悠璃はきょとんとしたまま、啓司を見上げる。「別にどこも具合悪くないけど……」いつもは余裕のある啓司の顔が、真剣そのものになった。彼はすぐさま立ち上がり、掌で彼女の額に触れた。――まるで卵が茹で上がりそうな熱さ。もう他のことはどうでもよくなったように、悠璃をひょいと横抱きにし、そのまま二階へ駆け上がる。「岩谷先生をすぐ呼んでくれ!」その声に、使用人たちは慌てて動き出した。「きっと昨日の雨に濡れたからだよ!」「だから奥様にレインコート着てって言ったのに、聞いてくれなかったんだよ!」「奥様は、花や草たちの心配ばかりして、自分のこと……」「こんなに優しい奥様が、どうか無事でいてくれますように……」屋敷中が大騒ぎになった。わいわいと騒がしくて、どこか胸がざわつく。でも、その喧騒の中には、温かなものが溢れていた。悠璃は意識がぼんやりとしたまま、ベッドに寝かされていた。ふと気づくと、ひんやりとした大きな手が、ずっと彼女の手を握りしめている。夢を見た。夢の中でも熱を出して、楓に病院に連れて行ってほしいと懇願していた。だが、彼は彼女の手を振り払って、冷たく言い放った。「そんな甘ったれるなよ」びくりと目を覚ますと、自分の手は、誰かに、力強く握られたままだ。横を見ると、そこには啓司がいた。スーツのまま、ベッドの傍に腰かけ、眠ったまま彼女の手を強く握っている。外では、使用人たちがひそひそ声で話していた。「やっぱりご主人様、本当に奥様が好きなんだね。今日、大事な会議があるって話だったのに、全部キャンセルしたんだって!」「え?たかが会議じゃないの?」「知らないの?ご主人様は誰よりも仕事人間なのよ!どんな美人が来ても、仕事より大事なものなんてなかったんだから」「浜市じゃ有名だよ、相澤家の若様は三十過ぎても女性に興味ないって。ゲイ疑惑まで出てたくらい」「私も、そうだと思ってた……でも今ならわかる。ご主人
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第18話

浜市の相澤家の若様は、三十年以上、女色に一切近づかなかったが、ついに婚約パーティーを開くという。そのニュースが流れた瞬間、上流社会はまるで嵐に飲まれたかのように大騒ぎになった。みんな、興味津々だった。選ばれた女性とは、一体どんな人なのか?なにしろ――これまで、どんなに美しく、どれほど素晴らしい女性でも、彼の前に立ったら、返ってくるのは決まっていた。「お引き取りください」それでも食い下がると、今度は、冷笑と共にこう言われる。「失せろ」だからこそ、悠璃がどんな女性なのか、パーティーの前から、浜市中の名家令嬢たちの好奇心は沸騰していた。そして迎えた婚約パーティー当日。まだ控室でメイクをしている最中の悠璃のもとへ、待ちきれない者たちが押し寄せた。「お嬢様、奥様はまだお支度中ですので……」使用人が止める間もなく、啓司の従妹の佳奈(かな)が香水を振りまいた令嬢たちを引き連れて、堂々と部屋に踏み込んできた。まるで珍獣でも見るかのように、悠璃を上から下までジロジロと眺め回し、あからさまな嘲笑を浮かべる。「なんだ、そんなに隠してるからどんな絶世の美女かと思ったのに、普通じゃない?」「そうそう、普通じゃん!佳奈の指一本にも及ばないわ!」控えめに使用人の林さんが耳打ちする。「奥様、この方はご主人様の従妹で、一番仲のいい子です。ちょっとわがままですが、どうか気にしないで」名前は聞いたことがある。相澤佳奈(あいざわ かな)。一時は女優としても活躍し、デビュー早々「日本十大美女」のトップ3と評されただけはある。それはもう、ひと目見れば納得する華やかさだ。悠璃は、地味な箱入り娘。比べてしまえば、どうしたって見劣りする。彼女は静かに目を閉じ、何も言わなかった。だが、佳奈はなおも攻め立てる。「お兄ちゃん何年も待った結果がこれ?マジでありえない。もういいわ、これ以上見てたら目が汚れるわ!」そう吐き捨てて出て行こうとした瞬間、扉の前に長身の影が立ち塞がった。「お兄ちゃん、なんでここに来たの?」「僕が来なかったら、好き勝手に悠璃をいじめるつもりだったのか?」その呼び捨てに、悠璃の全身がびくりと震えた。思わず彼のほうを見る。白いタキシードが似合う彼は、静かに怒りを帯びていた。「お前、またわがままになったな。僕の婚約パーテ
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第19話

悠璃は、思わずグラスを落としそうになった。けれど、啓司がそっと手を添え、グラスを支えてくれた。「大丈夫だ」彼は低い声で囁く。「何度でも言うけど、僕がいるから、大丈夫」その言葉で、悠璃は本当に肩の力を抜いた。彼女は楓の方を真っ直ぐ見据え、視線を逸らさなかった。楓は、ひどく痩せこけていた。頬はこけ、目には無数の血走った筋が走り、口元には無精髭がうっすらと。まるで、長い間まともに眠ることも、身なりを整えることも忘れてしまった男のようだった。ささやき声があちこちから聞こえる。「誰よ、浮浪者?警備はどうなってるの?」「なんであんな奴が入ってこれるわけ?」「はやく追い出せよ、クサすぎる!」楓は、これまでの人生でこんな屈辱を受けたことなど一度もなかった。顔はみるみる暗くなり、怒りを噛み殺しながら悠璃の元へと詰め寄ると、彼女の手首を乱暴に掴んだ。「帰るぞ、俺と一緒に」会場が一瞬で静まり返る。誰もが気づいた――この男は、悠璃の過去に関わっているらしい。手首が痛む。悠璃は眉をひそめ、振りほどこうとしたが、力では敵わない。ただ冷たく告げる。「放して」楓は深く息を吸い、怒りを抑え込むように言葉を絞り出した。「悠璃、いい加減にしろ!わけも分からず他の男と浜市まで来て、婚約パーティーなんて――俺を嫉妬させたいだけだろ?……わかったよ。認めてやる。俺は嫉妬してる、マジで怒ってる!お前は俺の女だ。これからもずっと、俺だけのものだ。もういいだろ?」そう言って、彼女を自分の胸の中へ無理やり引き寄せようとする。その様子に、悠璃はかつてないほど冷静だった。かつては、彼が優しい声をかけてくれるだけで、天にも昇る気持ちになった。けれど今――なぜだろう、ただ滑稽としか思えない。「私たちはもう終わったの」彼女の声は、まるで氷のように冷たかった。「調子に乗るなよ」楓は目を閉じ、怒りを必死に押し殺す。「もし、まだ莉奈のことを気にしてるなら――」彼はゆっくりと目を開き、はっきりと口にした。「俺が悪かった。あの日のこと、監視カメラで確認した。全部俺の誤解だった。莉奈はすでに代償を払った。お前のために、もう全部済ませた。これで満足だろ?」上から目線で、何もかも自分で決めつける態度――それが、悠璃の中の最後の未練すらも
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第20話

楓の叫びが会場に響き渡った瞬間、ざわめきが一気に広がる。無数の視線が、悠璃に突き刺さった。「えっ、どういうこと?あの人、バツイチなの?」「違う違う、バツイチどころか、まだ離婚してないってことでしょ!」「まさかこれって結婚詐欺じゃないの?ねぇ、相澤社長はこのこと知ってたの?」悠璃は必死にドレスの裾を握りしめ、恥ずかしさと不安で、もうここに立っていられそうになかった。その時、佳奈がわざとらしく声を上げる。「お兄ちゃん、恋愛する前に相手の素性くらい調べなかったの?まだ離婚してない女と婚約パーティー?さすがに笑えるんだけど!プライド高いくせに、なんでバツイチ女なんか選んだの?」悠璃は唇を噛みしめ、啓司の腕を振りほどいて逃げ出そうとする。だが、その腕を突然、啓司のお母さんがしっかりと押さえた。「おばさん……」驚いて顔を上げると、啓司のお母さんは優しく彼女の手をポンポンと叩き、そのまま鋭い視線を佳奈に向けた。「佳奈!わがままにも程がある」「兄夫婦のことに、いちいち口を挟むんじゃない!」「お、おばさん」まさか啓司のお母さんが怒らないなんて!佳奈は顔を青ざめさせる。「だって、聞いたでしょ?この女、まだ離婚してないのよ!」「ふん」啓司のお母さんはひとつひとつ、はっきりとした口調で言い放つ。「彼女が離婚したかどうか、私が一番よく知ってるわ。離婚手続き、この私が手配したから」その瞬間、広い会場はシンと静まり返った。息を呑むほどの沈黙――針が落ちる音さえ聞こえそうだった。悠璃も驚きで、目を見開き啓司のお母さんを見つめる。啓司がそっと悠璃の手を握り、耳元で静かに囁いた。「安心して。あいつとは、法律的にはもう何の関係もない」悠璃はまた、驚きのまなざしで彼を見つめる。「そんなに驚くこと?」啓司は片眉を上げて微笑む。「この取引、最初に持ちかけたのは悠璃さんじゃなかった?婚姻届の名前も交換するって」悠璃は頭が真っ白になる。あの時、助けを求められるのは彼しかいなかった。啓司が浜市でどれほどの力を持つか知ってはいたけれど、まさか大燕市までやってくれるなんて。自分でも知らないうちに、すべてを片付けてくれていた。悠璃は思わず、彼の手を握り返す。心臓が高鳴り、鼓動が速くなる。一方、楓は呆然と目を見開き、今にも壊れそ
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