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君のために、雲海を越えて

君のために、雲海を越えて

By:  ポンコツ書虫Completed
Language: Japanese
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篠宮悠璃(しのみや ゆうり)は、夜中に熱冷ましの薬を探しに階下へ降りると、別荘の玄関が開け放たれていることに気づいた。 ぼんやりして戸を閉めようとしたその瞬間、ふいに、唇と舌が絡み合う艶めいた音が響いた。 自動照明がパッと灯り、目の前にはあらわな体が、何の隠しもなく晒されていた。 三日前に一度見かけたあの女が、夫の篠宮楓(しのみや かえで)に玄関のドア板に押し付けられ、激しくキスされていた。 彼女の頬はほんのりと紅潮し、眩しいほどに艶やかで、身体を震わせながら、楓に問いかける。 「社長、こんな堂々と私を家に連れ込んで、奥さんに怒られないの?」 「怒る?」楓は冷笑を隠そうともせず、「夫婦交換ごっこするって約束したんだぞ。あいつがお前の旦那のところに行く勇気もないくせに、俺に文句があるとでも?」 月村莉奈(つきむら りな)は首を傾け、楓に白い耳たぶを甘噛みされながら、ふと目を開いた。そこで、悠璃と目が合った。 だが莉奈は怯えることもなく、むしろゾクゾクと興奮しているようだった。瞳の奥には、刺激を楽しむ光がちらついていた。 「へぇ?本当に平気なの?奥さんが他の男と寝ても?」 楓は肩をすくめ、冷たく笑った。「ゲームなんだし、気にするわけないだろ。もし嘘だったら、バチが当たるさ」

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Chapter 1

第1話

篠宮悠璃(しのみや ゆうり)は、夜中に熱冷ましの薬を探しに階下へ降りると、別荘の玄関が開け放たれていることに気づいた。

ぼんやりして戸を閉めようとしたその瞬間、ふいに、唇と舌が絡み合う艶めいた音が響いた。

自動照明がパッと灯り、目の前にはあらわな体が、何の隠しもなく晒されていた。

三日前に一度見かけたあの女が、夫の篠宮楓(しのみや かえで)に玄関のドア板に押し付けられ、激しくキスされていた。

彼女の頬はほんのりと紅潮し、眩しいほどに艶やかで、身体を震わせながら、楓に問いかける。

「社長、こんな堂々と私を家に連れ込んで、奥さんに怒られないの?」

「怒る?」楓は冷笑を隠そうともせず、「夫婦交換ごっこするって約束したんだぞ。あいつがお前の旦那のところに行く勇気もないくせに、俺に文句があるとでも?」

月村莉奈(つきむら りな)は首を傾け、楓に白い耳たぶを甘噛みされながら、ふと目を開いた。そこで、悠璃と目が合った。

だが莉奈は怯えることもなく、むしろゾクゾクと興奮しているようだった。瞳の奥には、刺激を楽しむ光がちらついていた。

「へぇ?本当に平気なの?奥さんが他の男と寝ても?」

楓は肩をすくめ、冷たく笑った。「ゲームなんだし、気にするわけないだろ。もし嘘だったら、バチが当たるさ」

そう吐き捨て、皮肉な笑みを浮かべる。「それに、あいつは俺のことが狂おしいほど好きなんだ。他の男なんて眼中にない。交換ゲームなんて、できるわけがない」

「桜井家のお嬢様の純愛さを知らないのか?」楓は誇らしげに眉を上げる。「十年以上も俺一筋。俺が事故で腎臓を壊したとき、自分の腎臓をくれるって言い出したんだぜ。

俺が意識不明で寝てる間、正安寺まで登って祈りに行った。足を血まみれにしてまでなあ。

それだけじゃない。俺のために将来を捨て、家族とも絶縁し、プライドも人格もかなぐり捨てた。俺が一番嫌ってた時期、ブスだとボケだと罵っても、なお俺の後にすがってきたんだぞ」楓は、悠璃の愛をまるで戦利品のように並べ立てる。

「そんな女が、本当に相澤社長とくっつくと思うか?

ていうかさ、交換ゲームなんて、ただの口実だ。女を家に連れ込むために適当に作った嘘だぞ。あいつが真に受けたけど、お前も信じてたの?」

そして、二人は快楽の絶頂に達する。

だがその同じ瞬間、悠璃は、底知れぬ絶望の闇へと堕ちていった。

かつて、いつか楓が変わってくれると、本気で信じていた。

だから結婚して七年、楓の周りにどれだけ女がいようと、耐えてきた。

彼の「約束」を信じ続けてきた。

悠璃は子供の頃から、楓のことが好きだった。

生まれつき体が弱く、よくいじめられていた彼女に、唯一優しく声をかけてくれたのが彼だった。他の子に「悠璃をいじめるな」と守ってくれた。

十歳の頃から、ずっと彼の後ろをついて回っていた。彼は遊び好きだが、彼女は一途で、どんなに辱められても、決して離れなかった。

七年前、楓は突然プロポーズしてきた。

「篠宮家には女主人が必要だ。お前が最適だ」

「遊び人もいつかは飽きる時が来る。約束しよう、いつか落ち着く日が来る。その時は、お前と仲良く、老いるまで一緒に生きていく」

彼女は本気で信じた。

嬉々として、彼と結婚した。

だが新婚の夜、楓は別の女――あるモデルさんと過ごしていた。

帰宅した彼を平手打ちしたら、彼は怒らず、逆に宥めてこう言った。

「外の女なんて一時の遊びだ。お前が本妻だ。家には絶対に女を連れ込まないと約束するから」

その言葉、また信じてしまった。

愛しているから、何度でも彼を信じてしまう。

数日前、「夫婦交換ゲーム」を提案されたときさえ、ただ無感動に首を振って拒んだだけだった。

楓は意味深に笑う。「なあ、俺は公平主義だ。俺が一途じゃないなら、お前も一途じゃなくていい。心が定まるまで、お互い好きにすれば?」

「楓はどうでもいい。けど、私は参加しない」と悠璃はため息をついた。

だが今――

その女を抱きかかえ、二階へと急ぎ足でやってきた楓を見て。

悠璃は、屋根裏部屋に逃げ込んだ。

狭い、埃だらけの闇の中で、熱気に灼かれながら、心も体も、限界を感じていた。

もう、これ以上待ち続けるのは無理だと。

また響いてきた艶めいた声に、熱い涙が止めどなくあふれ出した。

まだ、泣けるんだ。まだ、こんなにも悲しいんだ。

目を赤く腫らしながら、悠璃はスマホの通話履歴を開き、三日前にかかってきた見知らぬ番号に電話をかけた。

相手はすぐに出た。「何かご用?」

「前に言ってた交換ゲーム、私、やる」

相手はしばらく黙り込み、やがて意外そうに応えた。

「なんだって?」

悠璃は苛立ちを隠そうともせず続ける。「あなたの奥さん、今うちの旦那と盛り上がってるから。だから私もあなたと組むって言ってるの、分からない?」

「分かったよ」相澤啓司(あいざわ けいじ)は笑う。「今どこ?迎えに行く」

悠璃は伏し目がちに、静かに言った。

「どうせなら、思いっきりやろうか?」

「思いっきりって?」

「本物の交換よ。婚姻届の名前まで、全部交換するくらいの。覚悟ある?」
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第1話
篠宮悠璃(しのみや ゆうり)は、夜中に熱冷ましの薬を探しに階下へ降りると、別荘の玄関が開け放たれていることに気づいた。ぼんやりして戸を閉めようとしたその瞬間、ふいに、唇と舌が絡み合う艶めいた音が響いた。自動照明がパッと灯り、目の前にはあらわな体が、何の隠しもなく晒されていた。三日前に一度見かけたあの女が、夫の篠宮楓(しのみや かえで)に玄関のドア板に押し付けられ、激しくキスされていた。彼女の頬はほんのりと紅潮し、眩しいほどに艶やかで、身体を震わせながら、楓に問いかける。「社長、こんな堂々と私を家に連れ込んで、奥さんに怒られないの?」「怒る?」楓は冷笑を隠そうともせず、「夫婦交換ごっこするって約束したんだぞ。あいつがお前の旦那のところに行く勇気もないくせに、俺に文句があるとでも?」月村莉奈(つきむら りな)は首を傾け、楓に白い耳たぶを甘噛みされながら、ふと目を開いた。そこで、悠璃と目が合った。だが莉奈は怯えることもなく、むしろゾクゾクと興奮しているようだった。瞳の奥には、刺激を楽しむ光がちらついていた。「へぇ?本当に平気なの?奥さんが他の男と寝ても?」楓は肩をすくめ、冷たく笑った。「ゲームなんだし、気にするわけないだろ。もし嘘だったら、バチが当たるさ」そう吐き捨て、皮肉な笑みを浮かべる。「それに、あいつは俺のことが狂おしいほど好きなんだ。他の男なんて眼中にない。交換ゲームなんて、できるわけがない」「桜井家のお嬢様の純愛さを知らないのか?」楓は誇らしげに眉を上げる。「十年以上も俺一筋。俺が事故で腎臓を壊したとき、自分の腎臓をくれるって言い出したんだぜ。俺が意識不明で寝てる間、正安寺まで登って祈りに行った。足を血まみれにしてまでなあ。それだけじゃない。俺のために将来を捨て、家族とも絶縁し、プライドも人格もかなぐり捨てた。俺が一番嫌ってた時期、ブスだとボケだと罵っても、なお俺の後にすがってきたんだぞ」楓は、悠璃の愛をまるで戦利品のように並べ立てる。「そんな女が、本当に相澤社長とくっつくと思うか?ていうかさ、交換ゲームなんて、ただの口実だ。女を家に連れ込むために適当に作った嘘だぞ。あいつが真に受けたけど、お前も信じてたの?」そして、二人は快楽の絶頂に達する。だがその同じ瞬間、悠璃は、底知れぬ絶望の闇へと堕
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第2話
悠璃は知っていた。啓司には、それを現実にする力がある。彼は浜市の大物。ほんの指先一つ動かすだけで、街を揺るがす嵐を巻き起こすことさえできる男だ。婚姻届の名前くらい、裏でどうにでもできるはず。だからこそ、彼に頼るしかなかった。ここ数年、家族とも絶縁し、友も去り、誰も頼れる相手がいなくなった。最後に思い浮かんだのが啓司だけだった。けれど、彼女は、ほんの少しの希望すら持っていなかった。そんな彼女の思いを嘲笑うかのように、啓司は淡く笑った。「いいよ」「え?」思わず言葉を失う。「悠璃さんは今、僕に頼んでるんだよね?」彼は薄く微笑む。「頼みごとをするなら、それなりの態度がいるんじゃない?」「これは取引よ!」悠璃は歯を食いしばって叫ぶ。「言っとくけど、僕と莉奈は夫婦じゃない。だからその取引は成立しないよ」その一言で、頭の中に雷が落ちたような衝撃が走る。「嘘だろう?」「莉奈は僕の従妹さ。暇だったし、ちょっと手伝っただけ。自分の頭でよく考えてみな」そう言い終えると、啓司はあっさりと電話を切った。悠璃は、その場に立ち尽くすしかなかった。まるで全身が氷水に沈んだように、凍りついた。結局、あの交換ゲームなんて、全部作り話だったんだ。楓は最初から分かっていた。自分が他の男と関わるはずがないからこそ、「好きにすれば」と余裕ぶっていられたのだ。公平主義だと?そんなの、笑わせる!七年も楓の妻でいることが、まるで長い夢でも見ていたよう。そして、ついに夢が覚めた。悠璃が寝室に戻ったとたん、楓からメッセージが届いた。【もう寝た?】まるでプログラムされたAIのように、無意識に即レスしてしまう。【まだ】するとすぐに、ノックの音。上半身裸の楓が、扉の向こうに立っていた。胸元から首筋にかけて、色濃いキスマークが無数に刻まれている。その淫靡さに、胸の奥がかき乱される。悠璃は顔を上げて彼を見つめた。「どうしたの?」熱のせいで頬が赤く染まり、ぼんやりと光る電灯の下で、その赤みが一層際立つ。楓は眉をひそめ、額に手を当てる。「熱があるのか?」「大丈夫。薬飲んだから」「ふうん」彼が気のない返事をした。その時、セクシーなネグリジェ姿の莉奈が、彼の後ろからひょこっと顔を覗かせ、無邪気に笑った。その一瞬で、
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第3話
外は、まるで天地が怒り狂ったかのような豪雨だった。マンションの排水も追いつかず、雨水はもうすぐで足首を飲み込みそうになっていた。悠璃はドアを開けた瞬間、激しい雨にズボンの裾をびしょ濡れにされて、ようやく傘を持ってきていないことに気づいた。慌てて二階に取りに戻ろうとしたとき、楓の部屋は、無遠慮に開け放たれていた。二人のじゃれ合う声は、何の遠慮もなく悠璃の耳に突き刺さる。「この賭け、どうやら莉奈の負けなあ」「つまらないね」莉奈は猫みたいに拗ねて、「こんな大雨なのに、文句一つ言わずに出ていくなんて!ほんと、楓お兄ちゃんが指示すれば何でもする。なんであんなに言いなりなの?つまらない、つまらなすぎる!」楓は大笑いした。「だから言っただろ?あいつは骨のない犬だって。いくらいじめても、ちょっと甘くすれば、すぐに俺にすがりついてくるさ」「やだぁ、ひどいね」「どうだ、降参だろ?じゃあ、約束通り……」声はだんだんと艶めかしくなり、莉奈は甘えた声でささやく。「楓お兄ちゃん、あたしの負け。今夜は、兄ちゃんの好きにして……」悠璃は、玄関で凍りついたまま動けなかった。全身の血が逆流するような衝撃、目が真っ赤に染まる。あと一歩で、二人の間に飛び込んで全てをぶち壊したくなる衝動にかられる。でも、動けなかった。ガラス越しに、二人の愚かな姿が揺れて見える。楓が黒い手錠をカチッと鳴らし、莉奈の手首にかける。「お姉さんはこういうのを付き合ってくれるの?」莉奈が笑いながら問う。「ベッドの上じゃ死んだ人と変わらん」楓は眉を上げて言う。「誰もがお前みたいにやんちゃなわけじゃないぞ」「楓お兄ちゃん、いっそ、私と結婚しちゃえば?」その後の声は悠璃にはもう何も届かなかった。傘も取りに行けず、ほとんど逃げるようにして、彼女は今夏一番の土砂降りの中へ飛び出した。瞬く間に全身がびしょ濡れになり、水たまりを踏みつけて泥だらけになった。警備員が慌てて駆け寄る。「奥様、どうして傘を持っていないんですか?この傘を使ってください!」でも、悠璃には何も聞こえなかった。ただ、雨に身を任せ、狂ったように歩き続けた。足元のぬかるみを踏みしめながら、携帯が鳴り響く。楓の苛立った声が響く。「1キロなのに、何でそんなに時間かかってるんだ?まだ帰ってこないの
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第4話
悠璃はその場に立ち尽くし、頭の中が真っ白になった。全身の細胞が燃え上がるような熱さ、意識は朦朧として、まるで夢の中にいるみたいだった。楓の口元が動いても、何一つ耳に入らない。ふいに彼が怒鳴りながら近づいてきた。「お前、俺の言うことが聞こえないのか!」茫然としたまま、悠璃は口を開いた。「何?」「莉奈に謝れって言ってるんだ!」楓は怒鳴り、彼女の腕を乱暴に引っ張った。力が入らない。楓に押され、机の角に激しくぶつかった。全身を走る鋭い痛み――悠璃は震えながら、顔から血の気が引いていく。「痛い……」声はかすれ、喉の奥から絞り出すようにしか出なかった。「楓、私、病院に……」「とぼけるな!」楓は手を振り払って、軽蔑の目で睨みつけた。「お前、いつからそんなに言うこと聞かなくなったんだ?お前を篠宮家の妻にしたのは、素直でおとなしかったからだ。だけど、今のお前はどうだ?いつからそんな嫉妬深い女になったんだ?」嫉妬深い女?床に崩れ落ちた悠璃は、目の前で自分を見下ろすこの男が、自分をまるで犬のように扱っていることに気づいた。心の中の迷いも、未練も、すべて音を立てて消えていく。可笑しかった。どうしてこんな男を、何年も愛し続けてきたのか。どうして彼のために、未来も家族も捨ててしまったのか。ああ、自分は馬鹿だった。狂っていたんだ。彼のために全てを捨てた、ただの愚か者だ。悠璃は、苦しげに床から体を起こし、低く冷たい声で言い放つ。「バカ言わないで。私が、あの女に謝ることなんて、死んでもあり得ないわ」「もういいよ!」莉奈は涙声で口を挟む。「楓お兄ちゃん、お姉さんもきっとわざとじゃないし、私もちょっとケガしただけ……お姉さんもケガしてるみたいだし、先に病院連れて行ってあげて」その思いやりの言葉が、楓のプライドをさらに刺激した。素直だった悠璃が自分に逆らったという事実だけが、彼を苛立たせる。「お前、いい加減にしろ!」楓は荒い息をつきながら、悠璃の腕を引っ張り立たせた。無理やり謝らせようとしたその瞬間、悠璃の目がゆっくり閉じ、呼吸が荒くなった。そのまま、意識が闇の底に沈んでいく。「おい、悠璃!?」それが、彼女が最後に聞いた楓の声だった。次に目を開けたとき、もう昼過ぎになっていた。
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第5話
バンッ!楓はその場で激怒し、手の届く限りの物を床へと叩き落とした。「よく言うね!お前、俺を脅すつもりか?」悠璃は咳き込みながらも、顔に熱が上って赤みが差した。腹部の痛みがぶり返すが、それでも一歩も引かず、毅然とした目で答えた。「そう思っても構わない」「ハッ、ハッ、ハッ!」楓は冷笑しながら、「お前、そんなに気骨があるなら、さっさと出て行け!二度とこの家に戻ってくるな!」そう叫ぶなり、彼は彼女の腕を乱暴に掴んでベッドから引きずり下ろした。それでも悠璃は、一度も言い訳や弱音を口にしなかった。ふらつきながらも、玄関まで歩くと、ちょうど莉奈と鉢合わせた。彼女の無様な姿を見て、莉奈は驚いたように口元を押さえる。「まあ、お姉さん?どうしたの、その格好……まさか家出?」莉奈はわざとらしく涙声になり、「もしかして……また私のせい?お姉さん、誤解しないで、私たち、ただのゲームだったの。本気じゃないし、楓お兄ちゃんも私を心配して……行かないで!行くなら、私が出て行くから!」そう言って、莉奈は大げさに背を向けて泣き喚き始めた。そして、彼女がくるりと振り返ったその瞬間、ドサッという轟音とともに、彼女は階段から転げ落ちた!「お姉さん!」彼女は絶叫しながら階下へと落ちていく。「もう謝ったのに、どうして私を突き落とすの?」楓は、靴も履かないまま部屋から飛び出した。「違う、私じゃ……」悠璃は混乱し、必死に弁解しようとした。だが、その言葉が終わる前に、バチンッと楓の平手打ちが、彼女の頬に叩きつけられた。悠璃は顔を押さえ、ただただ信じられない思いで楓を見つめていた。「お前に、がっかりしたよ」楓は頭を振り、階下へ駆け降りていった。彼は莉奈を抱きかかえ、怒りのまま振り返って悠璃に叫ぶ。「お前、人殺しするつもりか!わかってるのか?」「違う!私は……」全身の血が逆流し、これまで押し殺してきた感情がついに溢れ出した。「楓!私たち、何年一緒にいたと思ってるの?私がどんな人間か、本当に何も分かってなかったの?彼女の言うことだけを信じて、私一体何なの?」涙も怒りも混ざり、悠璃の目は真っ赤に染まる。その瞬間、腹部に激痛が走り、恐ろしい予感が頭をよぎった。下を向くと、白いネグリジェがゆっくりと赤く染まって
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第6話
悠璃は妊娠していた。この子がやってきたのは、あまりにもタイミングが悪すぎた。手にした妊娠診断書を見つめながら、そっと自分のお腹に手を添える。この中に、小さな命が宿っている。お医者さんは厳しい表情で告げた。「篠宮さん、お体の状態はとても悪いです。今回も、かろうじて赤ちゃんを保てただけの状態です。これからはくれぐれも無理をしないでください。もしまた何かあれば、この子は……」悠璃はぼんやりとうなずいた。その日一日、彼女は病室のベッドで、何も考えられずにただ横たわっていた。夜、突然ドアが開き、楓が駆け込んできた。ベッドの脇に立ち止まり、抑えきれない感情が声に滲む。「悠璃、本当か?妊娠したのか?」悠璃は背中を向けたまま、何も答えなかった。楓はため息をつき、少しだけ優しい声になる。「なあ、もう意地張るのはやめよう?どうせ、莉奈を突き落としたのは悠璃だ。もし万が一のことがあったら、悠璃にも責任があるんだぞ。俺は悠璃のことを考えて、急いで莉奈を病院に運んだだけだ。やっと俺たちの子どもができたんだ。こんな時離婚なんて、もう怒るのはやめよう?」楓の声は柔らかくなり、そのまま靴を脱いでそっと彼女の隣に横たわる。その瞬間、彼女の体はびくりと震えた。彼は彼女のお腹に手を当て、優しく撫でる。「ここに、俺たちの子どもがいるんだな。悠璃、子どもが生まれたら、三人で遊園地に行こう。俺たちで育てて、成長を見守って……幸せな家庭を築こう。絶対にそうするから」楓は、甘い未来を約束してみせた。「悠璃、これからはもう昔みたいに外で遊びまくるのはやめる」その言葉に、悠璃の胸が激しく高鳴った。ふと下を見れば、楓の大きな手が、自分のお腹を包み込んでいる。決意していたはずの心が、突然ぐらりと揺れる。もしかしたら、この子は神様がくれた最後のチャンスなのかもしれない。楓が変わってくれる、二人でやり直せる唯一の希望なのかもしれない、と。そのとき、テーブルの上に置いた悠璃のスマホが不意に光った。新着メッセージ。【すべて準備できた。予定通り、明日の朝迎えに行っていい?】悠璃の指先が、わずかに震える。「予定って?」楓がその画面を目ざとく見つけ、眉をひそめて問いかける。「どこかに行くの?」悠璃はそっとスマホを伏せ
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第7話
夜の病院は静まり返り、廊下には人影ひとつなかった。悠璃は裸足のまま、冷たい床を一歩一歩踏みしめながら、莉奈の病室へと近づいていく。病室のドアは半開きで、その隙間から中の会話がはっきりと聞こえてきた。楓のお母さんは、本当にそこにいた。彼女の顔は嫌悪で歪んでいた。「妊娠した?そんな馬鹿な!楓、ママは何度も言ったわよね。悠璃との結婚なんて絶対に認めないって。結婚したいって言うから仕方なく許したけど、今度は子どもまで作るなんて!」楓はうんざりしたように言い返す。「じゃあ、どうしたいんだ?」楓のお母さんは深く溜息をついて答える。「どうするって、そりゃもう産ませるしかないんだろ。他に方法なんてないわよ。だけど、私は、莉奈しか認めてないの!」彼女は冷たく鼻で笑った。「昔お見合いさせようとした時は嫌だって言ったくせに、今になって莉奈を好きになるなんて、一体何を考えているの?」「おばさん、そんなふうに言わないで……」莉奈は俯いて唇を噛みしめる。「大丈夫、私は楓お兄ちゃんを待てます。たとえ一生待つことになっても……」楓は黙って俯いた。「もう離婚しちゃいなさい!」楓のお母さんは鋭く言う。「子どもが産まれたら、離婚して、莉奈と盛大な結婚式を挙げて、大燕市中が羨むような……」だが楓は顔を上げ、きっぱりと否定した。「無理。あれは俺の子どもだ……」楓のお母さんは冷笑した。「今回の騒ぎで、あの女が本当に子どもを産むかどうかも分からないわよ。もしかしたら、楓が帰ったら離婚届が待ってるかもね」楓は鼻で笑った。「そんなことあるもんか!あいつは、俺の言うことには絶対逆らわない女だ。離婚なんて言われたら、腰が抜けて泣き出すような奴だぞ。俺の子どもを産めるのなら、むしろ喜ぶだろう」「それはどうかしら」楓のお母さんは皮肉気に言う。「その子が生まれれば、我が家の長男。そうなったら、そのガキを盾にして好き勝手求めてくるんじゃないの?離婚どころじゃなくなるわよ?」楓はタバコに火をつけ、煙をくゆらせて顔を隠した。悠璃に聞こえたのは、冷たい彼の声だけだった。「そうか?でもな、俺が指一本動かせば、あいつはどんなに強がっても、俺の前で跪いて行かないでって泣きついてくるさ」「信じない?なら賭けてみるか」その時、空に雷鳴が轟いた。眩い稲光が一瞬で
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第8話
夜明け前、空の端がわずかに白み始めた頃。莉奈は、うつらうつらした意識の中で、病室の入口に立つ楓の姿を見た。彼女はすぐに何かに気づき、口の端をゆがめて、皮肉っぽく言った。「楓お兄ちゃん、すっかり騙されたんじゃないの?昨日の夜には来るって言ってたのに、結局今まで姿も見せやしない」莉奈は鼻で笑って続けた。「昨日あんなにあっさり約束したの、変だと思ったんだ。やっぱり、そこまで楓お兄ちゃんのこと愛してるわけじゃなかったみたいね?」楓は急にタバコの火をもみ消すと、ギロリと彼女を見た。徹夜で眠れていない目には赤い筋が浮かんでいて、その一瞥に莉奈は胸がざわつき、思わず目をそらした。楓の声には抑えきれない怒りが滲んでいた。「あいつ、何か事情があったんだ」莉奈は、黙っていた。楓のイライラはさらに募り、もう一度スマホを手に取る。時刻はすでに朝の七時。だが、悠璃に送ったメッセージは、どれも返事がなく、まるで石に沈んだようだった。彼は深く息を吸い、再び文字を打ち込む。【一晩も放っておいた。もう気は済んだだろ?】【お前、妊娠したからって俺を思い通りにできると思うなよ。篠宮家に子供を産みたい女なんていくらでもいる。俺はお前じゃなきゃダメってわけじゃないぞ】【俺の我慢にも程がある】彼はさらに電話までかけた。だが、相手の携帯は依然として誰も出なかった。「もういいでしょ?」と、莉奈は甘えるように彼をなだめる。「彼女、今お腹に赤ちゃんがいるから、そりゃ気も強くなるよ。怒らないで。ねぇ、お腹すいちゃった。何か買ってきてくれない?」楓はうんざりした様子で、「何が食べたいんだ?」と返す。「楓お兄ちゃんが買ってくるなら、何でも嬉しいよ」楓はスマホをしまって階段を降りる。まだ朝の七時だというのに、すでに屋台はにぎやかになり始めていた。彼はまず、入り口近くの肉まん屋が目に入った。少し迷った末、肉まんを買うことにした。悠璃が一番好きな朝ごはんは肉まんで、いくらでも食べられるっていつも言っていた。肉まんを持っていけば、さすがにもう怒りも収まるはずだと、彼は自分の怒りを押さえつけて思った。何年もこうしてきた。彼が少しでも優しい言葉をかければ、悠璃はすぐに笑顔を取り戻してくれた。これ以上どうやって下手に出ろっていうんだ。
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第9話
楓の心は、まるでコントロールできなくなったかのように、激しく奈落へと落ちていった。胸の中に、どうしても拭いきれない違和感が残る。彼は昨夜のあの電話を思い出した――悠璃が、あんなにも静かに、おとなしい声で、何度も「いいよ」と返事をしていたことを。彼は、彼女が前より分別をわきまえたのだと思っていた。だが、今になって分かった。あれは、彼女の芝居だったのだ!まったく、本当に子どもを授かったからって、俺すら眼中にないってのか?まさか俺を手玉に取るなんて!楓は怒りで煮えくり返り、すぐさま悠璃に電話をかける。しかし、コール音が何度も響くだけで、冷たく無機質な応答なしのままだった。彼は、苛立ちで頭が爆発しそうになる。文字を打つ指さえも、震えていた。【お前、どんどん偉くなってきたな。俺をからかうなんて!】【いいだろう、よくやった!離婚したいんだな?今すぐそっちに行ってやる。離婚手続きに行こうじゃないか!】最後の文字を打ち終えた瞬間、彼はバンッと勢いよくスマホを車の窓ガラスに叩きつけた。目を閉じると、鼻先に漂うのは、吐き気がするほどの肉まんの匂い。クソ!自分で彼女のために、肉まんなんて買ってきたとは!ここ数日、彼女に甘くしすぎたせいで、彼女はすっかり図に乗ったのだろう。楓は窓を開け、肉まんを道路に放り捨てた。運転手はびっくりして、バックミラー越しに何度も彼を覗き込む。楓は歯を食いしばりながら言った。「帰れ!」運転手は慌ててアクセルを踏み込む。三十分後、楓は別荘に帰った。秘書がずっと待っていた。「頼んだものは?」楓は眉をひそめ、冷たい声で問う。「離婚届は、すでに準備できております……」秘書はおそるおそる言った。「社長、本当に離婚なさるんですか?奥さまは、つい先日妊娠がわかったばかりでは……」楓は冷たく笑い、目には嘲りの色が隠せなかった。「妊娠したからといって、調子に乗っているんだ。俺を操れるとでも思ったのか」彼は離婚届を受け取り、一語一語、皮肉と傲慢を込めて言う。「だが、この離婚届を目の前で叩きつけてやれば、さすがのあいつも動揺するはずだ。何年も俺を待ち続け、ようやく子どもを授かったのに、待っていたのが離婚届とは……誰だって、心が折れる。その時になれば、どれだけ彼女がプライド高くて
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第10話
楓の全身に、怒りと焦燥が一気に爆発した。手にしていた離婚届を、ビリビリに破り捨てた。「くそっ!」彼は深く息を吸い込む。「あいつは、いったいどこに行ったんだ?」思い返せば、二人が結婚した当時、桜井家のみんなはこぞって反対し、結婚式にも誰一人来なかった。それどころか、悠璃はとっくに実家と絶縁状態になっている。だから、今さら桜井家には戻れないはずだ。しかも、楓と共にいたこれまでの年月、悠璃には特に親しい友人もいなかった……複雑な感情が、胸の奥から一気に湧き上がってくる。その瞬間、彼ははたと気づいた――自分が、いかに彼女のことを分かっていなかったかを。彼女がどこへ行くかすら、まったく思い浮かばないのだ……楓は、ふらりとソファに腰を下ろし、思考は絡まり合う糸のように混乱するばかりだった。そのとき、鋭いスマホの着信音が静寂を破った。楓は、ほとんど跳ね起きるようにしてスマホを手に取る――悠璃からの電話だと思ったのだ。だが、画面に映ったのは莉奈の名だった。この瞬間、楓の中に残ったのは、ただの苛立ちだけだった。彼はうんざりした声で電話に出る。「なんだ?」「楓お兄ちゃん、、朝ごはん買ってくるって言ってたのに、どこ行っちゃったの?こっちはお腹ぺこぺこだよ!まさかお姉さん、まだ許してくれないの?あれだけ下手に出たのに、まだ引っ張るつもり?」その言葉を聞いた瞬間、楓の胸の中の複雑な思いは一瞬で消し飛び、怒りだけが燃え上がった。彼は声を押し殺し、歯の隙間から絞り出すように六文字を吐いた。「あいつ、いない」「えー?家出か?なんだ、それなら心配いらないって!そんなの、あたしだって昔よくやったよ!」莉奈の口調は呑気そのものだった。「お金も持ってないんでしょ?しかも妊婦でしょ?そんな状態で、どこまで逃げられるのよ?二、三日食べなきゃ、すぐに泣いて帰ってくるに決まってるじゃん?それに、彼女あれだけ楓お兄ちゃんのこと好きでしょ?子どものことだってあるし、絶対戻ってくるって」楓は目を閉じ、額を押さえてズキズキとした痛みを感じる。「そうかな?」一時的に感情を抑え、楓は莉奈の言葉を黙って聞いた。頭の中には、これまで何度も自分にしがみついてきた悠璃の姿が浮かんでくる。そうだ。あいつが帰らないはずがない。妊娠しているのに、どこへ
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