篠宮悠璃(しのみや ゆうり)は、夜中に熱冷ましの薬を探しに階下へ降りると、別荘の玄関が開け放たれていることに気づいた。 ぼんやりして戸を閉めようとしたその瞬間、ふいに、唇と舌が絡み合う艶めいた音が響いた。 自動照明がパッと灯り、目の前にはあらわな体が、何の隠しもなく晒されていた。 三日前に一度見かけたあの女が、夫の篠宮楓(しのみや かえで)に玄関のドア板に押し付けられ、激しくキスされていた。 彼女の頬はほんのりと紅潮し、眩しいほどに艶やかで、身体を震わせながら、楓に問いかける。 「社長、こんな堂々と私を家に連れ込んで、奥さんに怒られないの?」 「怒る?」楓は冷笑を隠そうともせず、「夫婦交換ごっこするって約束したんだぞ。あいつがお前の旦那のところに行く勇気もないくせに、俺に文句があるとでも?」 月村莉奈(つきむら りな)は首を傾け、楓に白い耳たぶを甘噛みされながら、ふと目を開いた。そこで、悠璃と目が合った。 だが莉奈は怯えることもなく、むしろゾクゾクと興奮しているようだった。瞳の奥には、刺激を楽しむ光がちらついていた。 「へぇ?本当に平気なの?奥さんが他の男と寝ても?」 楓は肩をすくめ、冷たく笑った。「ゲームなんだし、気にするわけないだろ。もし嘘だったら、バチが当たるさ」
View More悠璃は息を切らしながら病院へ駆け込んだ。そこで目に飛び込んできたのは、足を吊ったままベッドに座る啓司の姿だった。その瞬間、張り詰めていた心が一気に緩んだ。「どうして戻ってきたんだ?」啓司は驚いた顔でそう訊ねた。安堵と同時に、抑えていた感情が一気に溢れ出し、悠璃の目からは、堰を切ったように涙が流れた。「泣くなって」啓司は慌てふためく。「ちょっとした事故さ。足を骨折しただけで、大したことないよ。僕のこと心配しなくていいよ」彼の焦った顔を見ていると、胸の奥が熱く満たされていく。この間に積もった想いは、もうどこにも隠しきれず、溢れ出して止まらなくなっていた。啓司の優しげな瞳を見つめながら、悠璃はついに言葉を口にした。「啓司、結婚しよう」その瞬間、彼女ははっきりと気づいた。もし相手が啓司なら、もう一度、同じ川に足を踏み込んでもいい。彼になら、絶対に裏切られないという自信があった。啓司は呆然と立ち尽くし、しばらくの沈黙のあと、ようやく口を開いた。「今、なんて言った?」「結婚しよう」悠璃はもう一度、はっきりと伝える。「前に言ってたでしょ?盛大な結婚式を挙げようって……」啓司は彼女を力いっぱい抱きしめた。まるで自分の体の一部にしてしまいそうなほど、強く、強く。心配も不安も、すべてその瞬間に霧散して消えた。気が抜けてようやく、悠璃は自分の体中が痛むことに気付く。あの時、思いっきり転んだからだろう。ふと、楓のぎこちない腕を思い出す。そして、自分を庇って楓も転んだことを。無意識に後ろを振り返る。楓の姿を探したかった。けれど、その思いは啓司のはしゃいだ声にかき消される。「ねえ、どんな式がいい?」もう、楓のことなんて考えていられなかった。いや、もしかしたら、これからの人生において、楓はもう二度と重要な存在にはならないのかもしれない。ほんの一瞬たりとも、彼に心を割く余裕はもうなかった。完全に、心の中から切り離したのだ。今はただ、啓司と一緒に、これからの結婚式について話し合うことに夢中だった。けれど、彼女は知らなかった。楓が、ずっと扉の向こうで、静かに彼女のことを見つめていたことを。別の男の腕の中で幸せそうに寄り添う彼女。あのプロポーズの時に一度だけ見せた、幸せに満ちた笑顔。信頼しきった表情で、「結婚
楓は、悠璃の言葉などまるで耳に入っていないかのように、彼女の後を追い続けた。ロマンティックなF国から、奔放なX国、そして自由なC国へ。この一ヶ月、悠璃は世界を駆け回り、思うままに旅を続けた。そして、楓は、一瞬たりとも彼女の後ろを離れず、ひたすら追い続けた。言葉を交わすことさえなかったのに、それでも楓は、異常なまでの執着心を見せ続けた。最初のうち、悠璃は彼の存在が煩わしかった。だが、次第に気にも留めなくなった。付いてきたければ勝手にすればいい。ただのボディガードみたいなものだと思えばいい。毎朝、ホテルのドアノブには、楓が用意した朝食と一輪の薔薇がそっと置かれていた。だが、悠璃はその朝食も花も、すべて通りすがりの人にあげてしまった。彼に、これっぽっちの希望すら残してやることはなかった。そして、新しい国に着くたび、啓司からの大きな花束が必ず届いた。彼女はその花束を丁寧に花瓶に生け、長く長く楽しんだ。だが、今回L国に来てみると、啓司からの花束は届かなかった。それでも楓の朝食は、変わらず毎朝やってきた。数日が経ち、突然L国で大雪が降り、交通は全て崩れた。不安が、悠璃の胸を締めつける。啓司からの連絡が途絶え、焦りに駆られた悠璃は、居ても立ってもいられなくなり、空港へ向かうことにした。しかし、外に出た途端、凍った地面に足を取られ、あわや転倒しかけた。楓がすぐさま駆け寄り、彼女を抱きとめた。「こんな大雪の中、どこ行くの?」「空港。啓司、何かあったかも……」「たかが一度、花束が届かなかっただけだろう?」楓は鼻で笑った。「ほかのことで忙しかったのかもな。もしかしたら、別の女に花を贈ってるんじゃないか?」だが、悠璃は静かに首を振り、きっぱりと首を振った。「彼は、そんな人じゃない」自分でも、どうしてこんなに信じているのか分からない。あの人なら、理由もなく約束を破ることなんて、絶対にしない。悠璃はコートをきつく抱きしめ、吹雪の中へと歩み出した。真っ白な雪が視界を覆い、彼女は、突如現れた大型車に気づくことができなかった。凍りついた道路で、ブレーキが効かない。気づいた時には、車がすでに目の前。体がすくんで動けない。もうダメだ、そう思った、そのとき――楓が飛び出し、全身の力で彼女を抱きか
悠璃の旅は、出だしから最悪だった。F国の空港を出てすぐ、持っていた現金をすべて盗まれてしまったのだ。すぐに警察に駆け込んだけれど、短期間でお金が戻ってくる見込みはないらしい。夜も更け、ATMも見つからず、彼女はどうしようもなく街をさまよう羽目になった。ここは国内ほど治安が良くない。しばらく歩いただけで、目つきの怪しい通行人に目をつけられた。慌てて道を逸れようとしたその瞬間、彼女の後を追う影、しかも手には刃物まで握られていた。もう、ここで人生が終わるのかもしれない。絶望しかけた、そのとき。誰かが突然前に飛び出して彼女を庇った。その人影を見て、悠璃は自分の目を疑った。しばらく呆然としたのち、彼がこちらに歩み寄るのを見て、ようやく楓だと確信した。「なんでここに?」悠璃は眉をひそめた。「お前のことが心配だったからだ」楓はそう答えた。「あいつは、こんなふうにお前を守ってんのか?旅行に出たのに、付き添いもしないとは」その口ぶりは、あからさまな皮肉が滲んでいた。「悠璃、そんな男と一生添い遂げるつもりか?」悠璃の胸に、うっすらと嫌悪感が広がり、無言で背を向けた。「ホテルに戻ろう。金、盗まれたんだろ?」楓はすぐに追いつき、強引に彼女の手を掴む。そんな細かいことまで知っているなんて――まさか、ずっと自分をつけていたの?ぞわりと寒気がした。悠璃はぎこちなく首を振った。「そんなの、いらないから」彼女は楓の手を見下ろし、一言一言かみしめるように言う。「また、私の手、傷つけるつもり?」楓は慌てて手を引っ込め、しどろもどろになる。「違う……ただ、心配だっただけだ」悠璃はもう振り返ることもなく、黙々と歩き出す。楓はひたすら付き従い、いくつもの路地を抜けた末、とうとう疲れ切った声で言った。「悠璃、少し落ち着いて、ちゃんと話そう。な?」まさか、自分が楓とまた同じテーブルにつき、向かい合って話す日が来るとは思わなかった。楓は、彼女の好物だったフラットホワイトを注文した。「好み、変わってないよな?」と、まるで機嫌を取るように。だが、悠璃の表情は変わらない。「何が言いたいの?早く言って」楓は温かいカップを撫で、深い瞳で彼女を見つめる。「あいつのプロポーズ、断ったんだろう?」低く、重い声で問いかける。「悠璃は昔から優し
あの夜、すべては悠璃の心を揺さぶる衝撃で幕を閉じた。彼女はようやく気づいたのだった。なぜあの日、自分が「取引」と軽く口にしただけで、浜市の相澤家の唯一の後継者――相澤啓司が、あれほどまでに無茶に付き合ってくれたのか。理由は簡単だった。二人の出会いは、決して初めてではなかったのだ。実は、ずっと昔から、彼らの物語には小さな伏線が張り巡らされていた。ただ、啓司が、自分をいつ、どこで知ったのか――どれだけ問い詰めても、彼は笑ってはぐらかすだけだった。「もし、僕たちが本当に一緒になる日が来たら、そのとき全部話すよ。でも、もしそうならなかったら、このことを悠璃の足かせにはしたくないんだ」こうして、ふたりの結婚の話は保留となった。そして、悠璃は、浜市を離れることを決めた。世界を旅するために。出発の日、空は見事な青空だった。長く一緒に過ごした別荘の使用人たちも、みんな彼女との別れを惜しみ、代表を立てて空港まで見送りに来てくれた。だが、最後まで啓司の姿は見えなかった。――しばらくは、もう二人会うこともない。それが分かっていたからこそ、彼女の胸にはどうしようもない寂しさと後悔が残った。「奥様、このところ会社が忙しいみたいで、ご主人様はおそらく来られないと思います……」付き添いの使用人が、そっと言った。空港のアナウンスが搭乗時刻を告げる。これ以上は待てないとわかった悠璃は、キャリーケースを引きながら、セキュリティゲートへと向かった。そのとき、耳に馴染んだあの声が聞こえ、胸の高鳴りを抑えきれなくなる。振り返れば、息を切らせて走ってくる啓司の姿があった。「渋滞で遅くなったんだ、ごめんな」「もう来ないかと思った」悠璃は唇をかすかに上げて微笑む。よかった。やっぱり、最後に会えた。けれど次の瞬間、啓司は深呼吸して、険しい顔で言った。「悠璃、篠宮がトラブルに巻き込まれたみたいだ」「……え?」思わず立ち止まる。「婚姻記録の異常に気づいたあと、彼はすぐ大燕市に戻って離婚手続きをしようとしたが、記録に使われた相手の女性は、何年も前から行方不明で、どうにもできなかった」啓司はため息をついて続けた。「それで、役所の人と揉めて、拘留されてしまったんだ」少しの沈黙の後、悠璃は尋ねる。「これ、莉奈が教えたの?」啓司は、わずかに口ごも
婚約パーティーが終わって家へ帰る頃には、すでに夜も深くなっていた。車に乗り込んだ悠璃は、ふとバックミラー越しに、少し離れた場所に立っている楓の姿を見つけた。その一瞬、胸の奥にいろんな思いが駆け巡る。自分がどれだけ迷いなく、彼を好きでい続けたか……沈黙を破るように、啓司が口を開いた。「降りて、話してくるか?」一瞬だけ迷ったけれど、悠璃は小さく首を振った。啓司はそっと彼女の手を握り、「あまり考えすぎないで」と優しく囁く。二人きりの車内で、悠璃はこくんと頷き、無意識のうちに自分の手を少し引っ込めてしまう。啓司は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。啓司のお母さんは、二人よりも先に別荘へ帰っていた。家に入るなり、悠璃は手を取られ、興奮気味に質問攻めにされる。「悠璃ちゃん、結婚式の日取り、いつにしたい?来月の3日はどう?占いの先生に見てもらったら、その日が一番いいって!結婚後は夫婦円満、末永く幸せになれるって言ってたわよ!」啓司は、困ったように悠璃を見て、「お母さん、そんなに急がなくても……3日って、いくらなんでも急すぎる」と苦笑した。「そうなの?まだ半月以上あるんじゃない!私、明日にでも決めてしまいたいくらいよ。早い者勝ちって言うでしょ?こんな素敵な子、絶対離しちゃダメよ!」悠璃は、どこかぎこちなく笑うしかなかった。啓司のお母さんはさらに手を握りしめ、「悠璃ちゃん、安心しなさい。うちは絶対に悠璃ちゃんのことを大事にするから。何だって一番いいものを用意するわ!結婚式はどんなスタイルがいい?何でも言ってね、おばさんが全部準備するから……」ふいに、悠璃はどっと疲れが押し寄せてきた。口を開きかけて、何を言えばいいのかわからない。その様子に気づいた啓司が、慌てて場を取りなした。「もう遅いし、今日は休もう。続きは明日にしよう」部屋に押し込まれるまで、啓司のお母さんの声は途切れなかった。ようやく静かな寝室で、啓司はほっと息をつく。「うちの母さんはちょっと世話焼きすぎるんだ。気にしないで」「ううん……」悠璃はおとなしく笑ったものの、カップを持つ手に落ち着きがなかった。啓司は、彼女が何か言いたげなのに気づいたが、無理に問いただすことはしなかった。自分のことを黙々と始める。それでも結局、悠璃の
楓はまるで捨てられた野良犬のように、無造作に街の片隅へと放り出された。通りすがる人々が、好奇と軽蔑の入り混じった視線を向けてくる。彼は道端にうずくまり、思考はぐちゃぐちゃに絡まり、頭の中は真っ白だった。脳裏には、悠璃が見せたあの冷たい眼差しが、何度も繰り返し浮かぶ。今まで、一度だって、あんな目で見られたことはなかった。これまでの彼女は、いつも自分を見上げて、憧れや期待、そして純粋な喜びで目を輝かせていた。だが、さっきの彼女は違った。あの無表情、軽蔑、嫌悪、そして厭わしさ。まるで、この世のすべての悪い感情を、彼女が自分にぶつけてきたみたいだった。どうしてこんなことになった?楓には理解できなかった。あれほど自分を愛してくれた女性が、ある日突然、自分を愛さなくなるなんて。そんなはずがない、と信じたかった。「ママ、このおじさんかわいそうだから、パンを買ってあげようか……」ぼんやりとした意識の中、子どもの声が耳に届く。しばらくして、小さな手が彼の手に、ふわりとパンを押し込んできた。顔を上げると、無垢な瞳が彼を見つめていた。「おじさん、なんでおうちに帰らないの?僕、パンあげるね!」その一言で、楓のプライドはズタズタに引き裂かれた。彼は、怒り狂い、パンを地面に叩きつけた。そして、子供を怒鳴りつけた。「消えろ!」子どもは泣き出し、親は険しい目で彼を睨みつける。「なにこの人……子供の親切もわからないなんて、恩知らずのやつ」その視線は、まるでさっきの悠璃と同じ、ただただ、嫌悪と軽蔑しかなかった。「恩知らず」その言葉が、鋭い刃となって胸に突き刺さる。その瞬間、楓は、初めて悟った。自分こそが、ずっと恩知らずだったのだ。彼女がどれだけ自分を想い、どれだけ自分に尽くしてきたか、どんなに自分勝手に振る舞っても、振り返るたび、彼女は必ずそこにいてくれた。まるで、根を張った大木のように。自分だけのために絡みつく蔦のように、絶対に離れないと思い込んでいた。だが今、その蔦はしおれて、根を離れ、自由に、風に乗ってどこかへ行ってしまった。そして今さら、彼は気づいた。あの蔦は、すでに自分の身も心も覆い尽くして、もう切り離すことなどできない存在になっていたのだ。楓は震える手で、秘書に電話をかける。「今の、
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