All Chapters of 枯れた愛に満開のバラを添えて: Chapter 1 - Chapter 10

16 Chapters

第1話

結婚式を一週間後に控えた頃から、森川晴樹(もりかわ はるき)の出張が急に増え始め、式のリハーサルに一緒に行くと約束した日でさえ、彼は現れなかった。申し訳なさを感じていたのか、彼は朝から何度も電話をかけてきては、私の機嫌をどうにか宥めようとした。「今日風が強いから、外に出ない方がいいよ。式のリハーサルなら僕が戻ってからでも遅くない。いい子にして待ってて」けれど私はもう式場に立っていた。そして、彼の姿を見た。もしかして私にサプライズを?そんな甘い期待がかすめたのも束の間。紫のバラが絨毯のように広がる会場で、晴樹が両腕を広げた。すると、ウェディングドレス姿の女性が彼の胸に飛び込んだ。女性が彼の手を握るより先に、晴樹は彼女の体を抱き寄せ、深く唇を重ねた。「ちょっと、やめてよ、みんな見てるでしょ?」晴樹は警戒するように周囲を見渡した。数秒後、ふっと緊張が解けたように、彼は微笑みながら女性の身体を軽々と抱き上げる。「さっきまで『もう終わりにする』って言ってたの、誰だっけ?」「その話はもういいでしょ?それより腰は?もう平気?」……気づけば、私は露天の式場で二時間も冷たい風に当たっていた。そうでもしないと、あの光景を頭の中から消すことなんてできないだろう。私は一通の電話をかけた。「お世話になっております、小林絵莉(こばやし えり)です。前日いただいた内定の件ですが、ぜひお受けしたいと思います。ええ、なるべく早く入社したいと思います」「承知しました。では一週間後、A国でお会いすることを楽しみにしております」電話を切ると、私は大きく息を吐いた。晴樹のために、結婚したらすぐ妊活を始めようと思い、私は海外昇進のチャンスを手放そうとした。けれど今、この三十年近く暮らしてきた故郷を離れる決心をした理由も、やはり晴樹だった。いろんな思いを巡らせていると、また電話が鳴った。晴樹専用の特別な着信音だ。私は少し間を置いてから、風で冷えた頬を手で温めながら電話に出た。「絵莉?今はどこ?君が落ち込んでご飯もちゃんと食べてくれないんじゃないかと思って、お母さんを家に呼んだんだ。でも君が留守だって連絡が来て……それで何度も電話をしたんだけど、ずっと通話中だった」そこで彼はいったん口をつぐみ、次に続けた言葉に不安が滲んで
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第2話

家に戻ると、母が険しい表情でリビングのソファに座っていた。「いい年して、まったく世話の焼ける娘だよ。晴樹くんも随分優しいわね、あんたがちゃんとご飯を食べないからって心配してくれて、わざわざ私を呼びつけたくらいだから」「母さん、私……」母は私を一瞥すると、こちらの言葉を遮った。「いい男っていうのはそう簡単に見つけられないのよ?晴樹くんみたいに家柄も性格も申し分ない男を捕まえられたんだから、いい加減満足しなさいよ」「母さん!」いつもなら素直に受け入れたその言葉が、今日はただただ耳障りに聞こえ、私は思わず反発をしてしまった。「もう結婚したくない」「……は?」母は目を見開き、まるで何かを聞き間違えたかのように私を睨みつけた。「ご祝儀まで受け取っておいて、今さらしたくないですって?あんた、正気なの?」私は唇をきつく噛み締め、喉の奥から込み上げてくる嗚咽を堪える。「……彼に、新しい恋人ができたの」──パシンッ!頬に強い衝撃が走った。我に返ると、頬が痺れるように痛かった。「絵莉、いい加減にしなさい!今の晴樹くんみたいな人があんたなんかを妻にしてくれるだけでも奇跡なのよ?それなのに、何を贅沢言ってるの!」こんな展開になることは分かっていた。一年前に晴樹の会社が株式上場してからというもの、母の機嫌は完全に彼に左右されていた。母はまだ気が済まないようで、バッグを掴むと、出て行く直前に私を睨みつけた。「私が晴樹くんだったら、とっくにあんたを見限ってるわよ。今の話、もう二度と口にしないで。今度また同じことを言ったら……あんたと縁を切るから」次の瞬間、玄関の扉が勢いよく閉められ、その音は、さっきの平手打ちの音と同じくらい耳に残った。窓の外から、賑やかな歓声が聞こえてくる。気になって覗いてみると、道を挟んだ向かいの公園に、若いカップルが人だかりに囲まれていた。「愛してる!結婚してください!」──その言葉、晴樹にも言われたことがある。二十六歳の時に、彼はマンションの名義に私の名前を書いてくれて、「一緒に暮らそう」って言ってくれた。ある日、日用品を買いに出かけていたら、「両手が君の好きなお菓子でいっぱいだから、代わりにスマホを取って」と頼まれて、私は彼のポケットに手を入れた。その指先に触
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第3話

晴樹が帰ってくる前に、私は荷造りを始めた。これまで撮ってきた二人の写真を眺めていたら、目頭が熱くなってきた。写真には肩を並べて芝生に座っている十八歳の晴樹と私が写っている。朝日が霧を破って差し込む中、彼も私も少し照れながらも晴れやかに笑っていた。あの日のことは、今でもよく覚えている。芝生に腰掛けようとしたら、彼に止められ、青と白の制服の上着を丁寧に畳んで芝生に敷いてくれた。「女の子は体を冷やしちゃダメだからね」そう言って芝生に座った彼のズボンは、朝露でびしょ濡れになっていた。次の写真には、二十歳の私たちが写っていた。人ごみに溢れた街の中で、着ぐるみ姿の晴樹が不器用ながらも、優しく私の涙をぬぐってくれた。この日のこともちゃんと覚えている。着ぐるみの頭を外した彼は汗びっしょりだったけれど、その黒い瞳は夜空の星よりもずっと輝いて見えた。彼は「他の子が持ってるものは、君にも全部あげたいんだ」と言い、半月のアルバイトでようやく貯めたお金を手に、まっすぐにディズニーへ連れて行ってくれた……これまで大切にしまってきた、胸が高鳴るような思い出たち。今あらためて見返すと──ただの皮肉にしか思えなかった。……結婚式まであと四日、晴樹が「出張」から戻ってきた。早朝の霧がまだ晴れておらず、湿った空気を纏った彼は私の大好物の朝ごはんを手にしていた。けれど彼の服は、出発前に私が準備したものではなかった。家に入るなり、彼は私の前に駆け寄って、ぐっと抱きしめる。「絵莉、会いたかったよ!」彼の体から私の知らない女性用の香水の香りが漂ってきて、その瞬間、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。けど当の本人はまるで気づいていないようで、嬉しそうに私の手を取り、ダイニングテーブルへと私を座らせる。「まずは朝ご飯にしよう、また胃の調子が悪くなっちゃうからさ」着替えもせずに、彼はうどんからネギを取り除こうとした。気になって話を振ってみる。「ネギ抜きで頼めばよかったのに」高校に入ったばかりの頃、私は朝ごはんを削ってでもギリギリまで寝ていた。そんな私のために、晴樹は毎朝うどんのテイクアウトして届けてくれた。私がネギ嫌いだと知ってからは、必ず「ネギは抜いて」と何度も店主に念を押していたから、顔まで覚えられていたのだっ
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第4話

部屋の空気が一瞬で張り詰めた。晴樹は慌ててスマホをしまい、こちらを振り返ると、私の額に軽くキスをする。「絵莉?起きてたのか?」次の瞬間、また雷が鳴り、私は思わず眉をひそめる。そんな私を見て、晴樹はふっと微笑んだ。その目に浮かぶ優しさは、まるで溶け出しそうなほどにやわらかかった。「そうだ、絵莉は雷が苦手だったね。それで起きてしまったのか?大丈夫、そばにいるから、安心して眠って」言われてみれば、私は確かにひどく眠たかった。何せこの三日間、私は寝る暇も惜しんで荷造りをし、洋服などを海外の新しい家に送っていたからだ。ゴロゴロッ!また一閃。稲妻が夜空を裂き、私は反射的に目を開いたら、晴樹の複雑な表情を目撃した──慌て、後ろめたさ、そして苛立ち。数秒後、私は呼吸を整え、彼の望んだ通りに「眠った」。すると、ベッドの片側がふっと軽くなり、晴樹は忍び足でベッドを抜け出し、服を着替えて出かけていった。出ていく直前、私の布団を掛け直すことを忘れずに。──そういえば、昔の私は、雷の日にいつも彼の腕の中に潜り込んでいた。彼の寝間着に染みついた、あのやさしい洗剤の匂いが、吐息と一緒に私の鼻先をくすぐっていた。けれど今、私の隣には誰もいない。そして私はもう──雷を怖がることもなくなった。急いで出たせいか、晴樹は仕事用のノートパソコンを置いていった。彼のデバイスはすべて同じアカウントで同期されていて、ログインパスワードは私の誕生日。私が望めば、いつでも彼の取引履歴やメッセージのやり取りを確認できる──それほどに、私には警戒心がなかったのだ。その女性の名前は安藤紗耶香(あんどう さやか)。二人が出会ったのは一年前、晴樹が私の実家の土地を買い取ったことがきっかけだった。私にとって苦痛でしかないあの場所を、彼が自ら設計し、紫のバラが咲き誇る庭へと改造してくれた──その過程で、同じくデザインを学んでいた紗耶香と出会ったのだ。最初、二人のやり取りはただの業務連絡だった。しかし、いつの間にかチャット画面にこんな言葉が並ぶようになった。【晴樹さん見て、新しく買ったミニスカートだよ、着て見せたいな】【晴樹さん、まだお仕事?早く帰ってご飯にしよう】彼女からの熱いアプローチを晴樹は拒まなかった。【いい加減にしてくれ】【君まで食
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第5話

朝焼けが空を染め始めた頃、晴樹が帰ってきた。シャツはくしゃくしゃに乱れ、ズボンも出かけた時とは違うものに替わっていた。けれど──彼の体から漂う女性用の香水は、前よりも強くなっていた。その匂いに、私はなんとか吐き気をこらえる。暗がりの中、彼はベッドに上がると、私の背中にそっと腕を回した。「絵莉……君のこと、心から愛してるよ。ほんとうに、誰よりも愛してるんだ」その言葉とは裏腹に、冷えた彼の肌が触れた瞬間、私は無意識に身を震わせた。けれど何も言う間もなく、晴樹は突然胸を押さえ、荒い呼吸を繰り返し始めた。彼は唇を強く噛みしめ、顔も苦痛に歪んで真っ青になっている。私が視線を向けると、彼は自分の体調より私を気遣った。「大丈夫、心配しないで」彼はいつものようにポケットに手を入れて薬を探すも、そこは空だった。──当然だ。あの紗耶香という女性は、彼の全ての服に薬を忍ばせておくほど、彼のことを理解しているわけじゃない。彼が再び顔を上げたとき、私は薬とぬるめの水を彼に差し出していた。私は微笑みながら言った。「晴樹、絶対に長生きしてね」ふいに、昔の記憶がよみがえる。私たちが初めて激しい喧嘩をした時、彼は「縁結びのお寺に行って、神様に赤い糸で君を縛ってもらう」なんて言っていた。ちょうど七、八月だったので、豪雨が急にやってきた。私たちは頂上近くで急な土砂崩れに見舞われ──彼は一瞬の迷いもなく、私の前に立ちはだかり、全身で私をかばってくれた。救助隊に見つかった時、彼の意識はもう朦朧としていたけど、その後救急室に搬送されても、彼は私の手を離さなかった。それ以来、彼は慢性的な持病を抱え、私は雷雨の日が恐ろしくなった。薬を飲み終えた彼は私の腕に軽くもたれながら、徐々に落ち着きを取り戻していく。「絵莉……知ってる?男性の平均寿命は70歳、女性は78歳なんだって。つまり、僕たちが一緒にいられるのは……あと40年くらい。仕事と睡眠を引いたら、君と過ごせる時間は……せいぜい20年。20年じゃ足りないよ……全然、足りない」私は黙って首を振り、心の奥を見せないままつぶやく。「十分、足りてるよ」……結婚式の前日。朝、目を覚ますと、晴樹はキッチンで手作りの朝食を用意していた。テーブルの上には、彼なりの気持ちが詰まった温
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第6話

夕暮れが静かに街を包み始める。私は飛行機のチケットと列車の時間をもう一度確かめ、最後の荷物をスーツケースに詰める。──この場所にある自分の痕跡を綺麗に消さないと。不意にインターホンが鳴り、郵便受けに一通の手紙が入っていた。戸惑いながら封を開けると、色褪せた便箋にどこか幼さの残る文字が並んでいた。【三十歳の森川晴樹へこんにちは、僕は二十歳の君だ。今の君のことはよく分からないけど、一つだけ信じてることがある。──それは、僕たちはずっと絵莉を愛しているってこと。君たちはもう結婚しているよね?子どもも生まれている頃かな。彼女を泣かせたりしてないよね?毎晩、ちゃんとおやすみのキスをしてあげてる?約束通り、紫のバラの庭を作ってあげた?彼女と暮らす毎日はきっと幸せで満たされているんだろうね。何かあってこの手紙を書いたわけじゃない。ただ──十年という月日はあまりにも長い。だからこそ、伝えたかったんだ。初心を忘れないで】目頭が熱くなり、私はゆっくりと顔を上げた。目の前の庭では、秋の風が木々を揺らしている。その木には、五年前晴樹と一緒に結んだ縁結びの縄があるけど、もうすっかり色褪せていて、見るに耐えず、私はハサミを取り出し、バッサリとその結び目を断ち切った。ピロンと音が鳴り、晴樹から音声メッセージが届いた。「絵莉、仕事はもう全部片付けたよ。明日、式が終わったら一緒にハネムーンに──」そこで、彼は言葉を切った。「うーん、あのハネムーンツアー、あんまりピンと来なかったら、別のプランを一緒に考えてみるか……」「とにかくすぐ帰るから、待ってて」──そうだね、彼と面と向かって決着をつけるのも悪くないだろう。私は庭に小さな火鉢を置き、かつて大切にしていた写真たちを一枚ずつ切り裂いて、炎の中にくべていく。写真は黒く丸まり、やがて灰になって消えていった。スマホには祝福のメッセージが次々と届く。【いいなぁ、理想の旦那さんって感じだね】【末永くお幸せにね!赤ちゃんも楽しみにしてる〜!】【ずっと応援してたカップルだから、ほんとに嬉しい!末永くお幸せに!】……その中に晴樹からのメッセージも混じっていた。【ごめん、急な仕事が入って、今日は会社に泊まることになりそう】【大変だね、でも
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第7話

約十時間のフライトを経て、私は海の向こう側に降り立った。時間からして、結婚式はもう始まっているだろう。スマホの電源を入れると、母からのメッセージが次々と溢れ出した。一分前に届いたばかりのものには、こう書かれている。【もし紗耶香さんが来てくれなかったら、晴樹くんに恥をかかせたところだったのよ!】あまりにもひどい言い様に私は眉をひそめ、ふとあることを思い出す。結婚式の動画素材を確保するために、スマホに式場の防犯カメラにアクセスできるアプリを入れているのだ。そのアプリを開くと、画面にはちょうど式のクライマックスが映っていた──新郎がベールを上げて、新婦にキスをするところだ。晴樹は落ち着いた様子でベールを持ち上げていたが、その指先の微かな震えが彼の緊張を物語っていた。「絵莉、ついに……」掠れた声でそう呟いた晴樹の瞳が、新婦の顔を見た瞬間、驚愕に大きく見開かれる。私も思わず息を呑んだ。彼の目には複雑な感情が入り混じっていたが、ほんの数秒後、彼は目を伏せ──何事もなかったかのように、紗耶香と深く口づけを交わした。場内は歓声と拍手に包まれ、熱気が満ちていた──新婦が入れ替わっていたことなど、誰ひとり気づくことなく。……しとしとと降る雨がアスファルトを濡らし、風に混じった霧が顔にまとわりつく。肌寒さが、少しだけ頭をスッキリさせてくれた。「小林さん!こっちだよ!」「いやぁ、来てくれて本当に嬉しいよ。家庭に入るって聞いた時、どれだけ残念だったか……チーフの席、ずっとあなたのために空けてたんだから」アベルは私の荷物を受け取り、そのまま空港の外へと私を案内した。「今回はどれくらい滞在できるんだい?あんまり長くいると、彼氏さんが心配するんじゃないか?」私はふっと微笑みながら、軽く首を振った。「心配いらないよ。もう、別れたから」アベルは一瞬口ごもり、気まずそうに頭をかくと、かろうじて言葉を絞り出す。「……そっか。でもあまり落ち込まないで。失恋は終わりではなく、もっといい始まりなんだからね」晴樹が、新婦が入れ替わっていたことに気づいていながら、何ひとつ反応を示さなかったその瞬間から、どれだけ深く刻まれた記憶も、どんなに強く抱いた愛情も、すべて煙のように儚く消えていった。正直なところ、今の心境を言葉にす
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第8話

その後の三日間、私のスマホは一秒たりとも静かになることはなかった。【絵莉ちゃん、今どこにいるの?晴樹くんがめっちゃ探してるよ?】【絵莉、今はどこ?式が終わってすぐいなくなったって晴樹さんが……何があったかはわからないけど、晴樹さんみたいな誠実な人、絶対大事にするんだよ】結婚式前に作ったグループチャットを開いて返信をし、それをピン留めする。【私は結婚式に出席していません。そして、森川晴樹さんとはすでに別れました】その短い文を境に、グループ内は一瞬で騒然となった。ざっと目を通してみると、どのメッセージも、晴樹の肩を持つ声ばかりだった。【駅や空港を何度も探し回ったらしいよ】【朝から晩まで、絵莉さんの居場所を聞いて回ってたって……】私は一瞬、説明しようかと迷った。けれど、あまりにも一方的な空気に飲み込まれ、結局なにも言わず、そのままグループを退出した。母はというと、毎日のようにビデオ通話とボイスメッセージを送ってくる。そのしつこさに耐えきれず、とうとう彼女と晴樹の連絡先を削除し、ブロックした。それから二週間後。アベルがスマホの画面を見て、顔色を変えた。「小林さん、大変だ!お母さんが倒れたって」この十五日間、晴樹はまるで何かに取り憑かれたように、私の知人たちにひたすらメッセージを送り続けていたらしい。遠く海を越えて暮らすアベルにまで、その影響は及んでいた。「『今どこにいるかわからないけど、もしこのメッセージを読んだら、すぐ帰ってきてほしい』『お母さんに会えるの、これが最後かもしれない』って……」アベルがメッセージを読み上げた直後、私のスマホに病院からの着信があった。……冷たい風をかき分けるようにして、私は急いで帰国したが、病室の扉を開けた瞬間すべてを悟った──これは、母と晴樹が仕掛けた罠だったのだ。ベッドにもたれかかっていた母は、私の姿を見つけた瞬間、元気そうな声で怒鳴りつけた。「絵莉!結婚式までドタキャンして、いったい何を考えてるの!?この老いぼれがどうなってもいいの!?」きっと、母は私の顔に謝罪や後悔の色が滲んでいるとでも思っていたのだろう。それがなかったことに苛立ち、彼女はまるでかんしゃくを起こすように叫び出す。「その態度は何なの!?この部屋に入ってきた時から、まるで私が悪いみたいな
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第9話

「出ていきなさい!今すぐに!こんな親不孝な娘……あんたが目の前で倒れても、私は一滴の涙も流さないから!」その瞬間、病室の扉が勢いよく開き、晴樹が飛び込んできた。全身は汗に濡れ、肩で息をしながらも、彼はぴたりと動きを止め、失くしていたものをようやく見つけ出したかのように、目を大きく見開き私を見つめ続けた。静寂が空気を満たすなか、彼の目に溜まっていた涙がひと粒、頬をつたい静かに落ちていく。そして次の瞬間、彼は私の胸元へと飛び込んできた。「絵莉……いったいどこに行ってたんだ?君がいない日々が……どれほど苦しかったか想像できる?」「晴樹」私は普段から頭痛になりがちだった。今日は時差ボケのせいか、いつもより頭が重く、こめかみがじわりと締めつけられる。そんな不快感に耐えながら何か言おうとすると、晴樹に手首を掴まれた。「絵莉、お願い、一緒に帰ろう。君に……会いたかったよ」私はその手を振り払い、ゆっくりと一歩後ずさる。「晴樹、私たちはもう別れたの。近寄らないで。その香水の匂い……気分が悪くなるの」彼の体がふらつき、立っているのがやっとのようだった。「別れた……?嘘だろ?五年も一緒に過ごしたんだよ?急に別れたなんて……そんなのどうやって受け止めろっていうんだ?」叫ぶ彼の姿に、私は呆れ果てて声も出ない。「片方の心がもう離れている婚姻に、意味なんてあるの?」その言葉に、晴樹の瞳がかすかに揺れた。息がつまるような沈黙のあと、彼は焦りながら言葉を並べる。「違うんだ……僕はずっと、君だけを愛してきた。信じてくれ。式の日は仕方がなかったんだ。母さんが言ったんだよ、『花嫁が逃げた』なんて噂が広まったら困るから、それで……紗耶香に──」そこで、晴樹は間を置いてから続けた。「紗耶香さんに代役を頼んだ。彼女の体格が君と似てて、顔立ちも少し似ていたから……でも式の途中まで、僕も気づかなかったんだ。とにかくもう安心してくれ。あの騒ぎは全部片付いたし、式場も予約し直した。今度こそちゃんと式をやろう……」「晴樹、いつまで『理想の男』を演じ続けるつもり?」私は冷たく彼の言葉を遮った。あのメッセージを送れば、彼は察して終わらせてくれると思っていたが、そういかなかったようだ。ならば──私もこれ以上黙っている理由はな
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第10話

私の口から真実が一つ、また一つとこぼれるたびに、晴樹の顔色は目に見えて青ざめていった。「違う……絵莉、違うんだよ……」彼は唇を震わせながら、必死に何か言おうとしていたが、言葉は見つからず、やがて力なく沈黙した。その様子を見ていた母もようやくすべてを悟ったようで、顔から血の気が引き、青ざめていった。「晴樹くん……絵莉の言ってること、全部本当なの?あなた、絵莉と結婚したいって私に頼んだとき……何て言ったか、覚えてる?」私は小さく笑った。覚えているわけがないと思いながら。大学時代、晴樹に誘われて一緒に恋愛心理学の講義を受けたことがある。あの頃はまだ、互いに想い合っていながら、言葉にできないままの関係だった。その授業で、先生がこんな話をした。「恋愛中、人の脳内ではさまざまな『愛のホルモン』が分泌される。特にフェネチルアミンは興奮や親密さを生むが、その効果のピークは通常、6ヶ月から4年だとされている」──それが「恋の賞味期限」というのだ。人間は本能的に、永遠に一人だけを愛し続けるようにはできていない。永遠の愛は、生物としての設計にそぐわない。あの時、隣でその話を聞いていた晴樹は、黙ったままだった。大学を卒業してまもなく、彼は母の前で私の手を取り、真剣な眼差しで、まるで誓いのように言った。「絵莉のことを、生涯愛します。たとえそれが本能に逆らうことであっても、僕はこの人を選び続けます」──けれどその誓いも、たった四年で切れてしまった。私は視線を落とし、乾いた声で呟く。「今にして思えば……ずっと入籍を渋ってたのも、むしろ救いだったのかもしれないね」もし結婚していたら、離婚届を出すだけでもひと苦労だっただろう。彼は最後まで、自分が浮気したとは絶対に認めようとしないだろうし、私も、そんな人間とこれ以上向き合うつもりはない。不意に、病室に母の怒声が響き渡った。「──出ていきなさい!二人とも!!揃いも揃って最低だわ、出てって!」母はベッドから身を起こすなり、怒りに任せて私たちを追い出そうと声を荒げた。私は静かに従ったが、ヒステリックに叫ぶ母の姿を見つめながら、頭に浮かんできたのは過去の痛みだけだった。その時、スマホの着信音が病室に鳴り響き、晴樹は反射的に通話を切った。その黒い瞳に、限界ぎりぎりの不安が滲んで
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