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第3話

Author: YEER
晴樹が帰ってくる前に、私は荷造りを始めた。

これまで撮ってきた二人の写真を眺めていたら、目頭が熱くなってきた。写真には肩を並べて芝生に座っている十八歳の晴樹と私が写っている。朝日が霧を破って差し込む中、彼も私も少し照れながらも晴れやかに笑っていた。

あの日のことは、今でもよく覚えている。

芝生に腰掛けようとしたら、彼に止められ、青と白の制服の上着を丁寧に畳んで芝生に敷いてくれた。

「女の子は体を冷やしちゃダメだからね」

そう言って芝生に座った彼のズボンは、朝露でびしょ濡れになっていた。

次の写真には、二十歳の私たちが写っていた。

人ごみに溢れた街の中で、着ぐるみ姿の晴樹が不器用ながらも、優しく私の涙をぬぐってくれた。

この日のこともちゃんと覚えている。

着ぐるみの頭を外した彼は汗びっしょりだったけれど、その黒い瞳は夜空の星よりもずっと輝いて見えた。

彼は「他の子が持ってるものは、君にも全部あげたいんだ」と言い、半月のアルバイトでようやく貯めたお金を手に、まっすぐにディズニーへ連れて行ってくれた……

これまで大切にしまってきた、胸が高鳴るような思い出たち。

今あらためて見返すと──ただの皮肉にしか思えなかった。

……

結婚式まであと四日、晴樹が「出張」から戻ってきた。

早朝の霧がまだ晴れておらず、湿った空気を纏った彼は私の大好物の朝ごはんを手にしていた。けれど彼の服は、出発前に私が準備したものではなかった。

家に入るなり、彼は私の前に駆け寄って、ぐっと抱きしめる。

「絵莉、会いたかったよ!」

彼の体から私の知らない女性用の香水の香りが漂ってきて、その瞬間、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。けど当の本人はまるで気づいていないようで、嬉しそうに私の手を取り、ダイニングテーブルへと私を座らせる。

「まずは朝ご飯にしよう、また胃の調子が悪くなっちゃうからさ」

着替えもせずに、彼はうどんからネギを取り除こうとした。

気になって話を振ってみる。

「ネギ抜きで頼めばよかったのに」

高校に入ったばかりの頃、私は朝ごはんを削ってでもギリギリまで寝ていた。そんな私のために、晴樹は毎朝うどんのテイクアウトして届けてくれた。

私がネギ嫌いだと知ってからは、必ず「ネギは抜いて」と何度も店主に念を押していたから、顔まで覚えられていたのだった。

それから十二年の間、私の食事には一度たりともネギが混じったことがなかった。

私の言葉を聞き、晴樹は固まり、気まずそうに口を開いた。

「ごめん、絵莉に早く会いたくて、うっかり忘れちゃった」

私は口元を引きつらせる。

──嘘つき。

……

深夜一時。

雷鳴が空を割り、窓の外では激しい雨が地面を叩き続けていた。私はふと目を覚ます。隣で横たわる晴樹の姿は煙草の煙に包まれ、スマホの明かりに照らされ、どこか儚く見えた。

彼は甘くて低い声で囁いていた。

「紗耶香……たった一日会えなかっただけで、こんなにも苦しいなんて思わなかったよ」

「すごく会いたい」

「大丈夫、たとえ僕が結婚しても──」

一拍置いて、彼は言い切った。

「──君だけを、愛してるから」

雷鳴よりも大きな音が、頭の中で響いた。あまりにも優しすぎるその声は、かえって私の心を容赦なく打ち砕いていった。

その時、彼がふと首を傾けた。わずかに開いていた私のまぶた越しに、その視線がまっすぐぶつかってきた。

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