Semua Bab 情は山や月の如くあらず: Bab 1 - Bab 10

18 Bab

第1話

「理事長、特許を国に提出し、医科学研究所に入る決意をしました」言葉を聞いた理事長は思わず立ち上がった。「素晴らしい決断です、白河さん。この特許は、何百、何千という患者の命を救えるでしょう。ただ、これは国家機密級の研究機関での任務です。少なくとも三年は表に出られません。十日後には出発ですが……ご家族や恋人には、相談しなくて大丈夫ですか?」「必要ありません」白河澄月(しらかわすみづき)は、淡く苦笑した。——どうせ、あの家に私の居場所なんて、もうとっくになくなっていたから。去年、家でずっと支援してきた貧困家庭の少女・三条陽菜乃(さんじょうひなの)が、両親の事故死をきっかけに、父に連れられて白河家に住むことになった。何でもそつなくこなす澄月とは違い、陽菜乃は人の懐に入るのが上手だった。白河家に来てまだ一年も経たないうちに、彼女はすっかり家族の中心になっていた。父は彼女を宝物のように扱い、澄月の幼なじみであり婚約者の相馬慶悟(そうまけいご)、そして弟の白河凜士(しらかわりんじ)までもが、彼女に心を奪われた。亡き母の遺影が陽菜乃によって割られても、父は「過去は過去だ、忘れろ」と言い、仏壇そのものを片付けてしまった。澄月が母を偲んで研究し完成させた心臓ステントの特許まで、陽菜乃は奪おうとした。それを譲れと言ってきたのは、幼なじみで恋人でもあった慶悟。彼は「もし譲らないなら別れる」とまで言い放った。血のつながった家族も、長年育んできた恋も——甘い言葉に勝てなかった。もう疲れた。争うことに意味なんてない。——もう、行こう。自分を、これ以上苦しめないために。家に戻ると、ダイニングは賑やかだった。白河家に新しい「家族」として迎えられて一年——陽菜乃の「新生活一周年記念パーティー」の真っ最中だった。だれも気づかない。今日は、澄月の誕生日でもあるということに。母が亡くなってから、誰も彼女にプレゼントを贈らず、誕生日を祝う者もいなかった。テーブルには慶悟と凜士が陽菜乃の左右に座り、微笑みながらプレゼントを手渡していた。その様子を冷ややかに見つめながら、澄月は無表情のまま通り過ぎようとした。だが、父・白河誠一(しらかわせいいち)が彼女を呼び止める。「理事長に言って、特許を陽菜乃に譲るように頼んだか?」
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第2話

いつの間にか、澄月は意識を手放していた。夢の中で、彼女は中学生の頃に戻っていた。当時、自分の書いた論文が医療雑誌に掲載され、嬉々としてその雑誌を家に持ち帰った。けれど、家族は誰も内容が分からず、雑誌に一瞥をくれるだけで、すぐに放り出してしまった。ただ一人、母だけが、何度も何度もページをめくり、最後に優しく彼女の頭を撫でながら言ってくれた。「お母さんには、難しいことは分からないけどね、ここにあなたの名前があるって、それだけで嬉しいのよ」母の声は、春の水のように柔らかかった。その午後のぬくもりを、澄月は今でもはっきりと覚えている。今では、彼女の論文は何度も名だたる医学誌に掲載されるようになった。けれど。——あの時のように頭を撫でて、心から褒めてくれる人は、もういない。「……お母さん……」目を覚ました澄月の目尻には、乾ききっていない涙の跡があった。視界に飛び込んできたのは、不安げに覗き込む一人の少年——彼女の後輩であり、現在病院で実習中の東雲悠馬(しののめゆうま)だった。「先輩……家族、ひどすぎませんか?救急隊の人が言ってました。命が危なかったっていうのに、家族は宴会を続けてて、誰も付き添ってなかったって……この二日間も、誰一人見舞いにすら来なかったそうです」悠馬の憤りの声も、澄月には何ひとつ届いていなかった。その顔には、感情の欠片すら浮かんでいない。そのあまりにも冷めた様子に、悠馬は胸が締めつけられる。——絶望って、きっと、こういう顔のことを言うんだ。「先輩、お粥、買ってきました。少しでも食べてください」澄月が返事をする前に、悠馬は遠慮もなくスプーンで粥をすくい、彼女の口元へ運んだ。拒む気力もなく、澄月は一口、口にした。その姿を見ているうちに、目の前の悠馬の姿と、記憶の中の「誰か」が重なって見えた。——あのときも、そうだった。母が亡くなったばかりの頃、澄月は遺影を抱えて、何日も何も食べず、学校にも行かず。怒り狂った父にベルトで打たれ、体中に痣をつくった。弟でさえ、怯えて隅で震えていた。そんなとき、家に駆け込んできたのが、まだ幼かった慶悟だった。彼は小さな身体で彼女をかばい、家に連れて帰り、自ら食事を作って食べさせてくれた。——そのときの慶悟は、まさ
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第3話

澄月の虚ろな瞳と向き合った瞬間、慶悟は一瞬だけ目をそらした。だが——陽菜乃が病院に運ばれたことを思い出し、歯を食いしばると、そのまま踵を返して病室を去った。悠馬はその様子に、ただ言葉を失うばかりだった。彼はずっと、密かに澄月に想いを寄せていた。だが、彼女には幼なじみの恋人がいると知ってからは、その気持ちを心の奥深くに封じ込めてきた。——彼女が想う相手は、どんな人間なのか。想像するたびに、どうしようもなく嫉妬した。けれど今、彼が目の当たりにしたのは、澄月が血まみれのままベッドに倒れているというのに、他の女の元へと迷いなく向かうその男の姿だった。どうして……彼女の腕からはまだ血がにじんでいる。だというのに、まるで痛みを感じていないかのように、澄月の瞳は深く沈んだままだった。悠馬の唇が震えた。あの男は一体、どれだけ彼女を傷つけたのだろう。あれほど明るく、いつも誰かに微笑みかけていた彼女が、今では影のように沈んでいる。「先輩、ちょっと待っててください。ガーゼを持ってきます」そう言って彼は急いで処置室へと走り、傷を丁寧に包帯で覆った。その後、澄月は彼に頼み、退院の手続きをしてもらった。病院を出る前、悠馬はそっと彼女の腕を掴んだ。「今、あの家に帰っても、居場所なんてないでしょう。よかったら、もう少しここにいてください。僕が看病します」けれど、澄月は微笑みながら首を横に振った。彼を巻き込みたくなかった。——傷つくのは、自分一人でいい。白河家に戻ると、父の誠一からメッセージが届いていた。【陽菜乃がさっき胃洗浄したばかりでな、今夜は家に帰らん】【台所にご飯置いてあるから、帰ったら勝手に食べてくれ】ダイニングのテーブルには、冷めきった脂っこい肉と、クタクタに煮込まれた青菜の残り物。冷えた味噌汁が一緒に並べられていた。それは彼女のために用意されたものではなく——陽菜乃の食べ残しだった。澄月は表情ひとつ変えず、ただ淡々と受け止めた。こんなこと、もう慣れている。陽菜乃がこの家に来てから、父はずっと彼女を気遣っていた。「山の中で育って、栄養も足りていなかったのだから、良いものは先に陽菜乃に食べさせろ」澄月は陽菜乃より年上だから、我慢して当然——そう言われ続
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第4話

澄月の瞳には、冷ややかな皮肉が浮かんでいた。もう、何も感じない。慶悟に対しても、期待なんて、とうに捨てた。静かに、一言だけ落とした。「分かった」それだけだった。しかし、凜士は信じられないというように目を見開いた。「慶悟さん、あんなにお姉ちゃんを大事にしてくれてたのに、たったそれだけ?ねえ……お母さんが亡くなってから、お姉ちゃん、なんかおかしくなったよね。陽菜乃姉ちゃん、今回のことで命まで危なかったのに、お姉ちゃんは一言も心配してあげないの?分かってるよ……お姉ちゃんは、家族の愛情を陽菜乃姉ちゃんに取られたって思ってるんでしょ?だから、あんなふうに自殺未遂させて、心の中じゃ死ねばいいって思ってるんだよね?陽菜乃姉ちゃん、あんなに苦しんでるのに、それでも嫉妬して……お姉ちゃん、いつからそんなに汚くなったの?」そこまで言われて、澄月は思わず笑いそうになった。陽菜乃が本当に自殺を図るつもりなら、どうしてあんなに「ちょうどよく」家族に見つかるような量の薬だけを飲んだのだろう?この数年、陽菜乃はいつだってそうだった。小賢しい策略で、少しずつ家族の愛情を奪っていった。——それに、今さら言い訳したって、どうせ無駄だ。何も言わなくても、彼女はいつだって「加害者」にされる。沈黙さえも、彼女の「罪」になる。家を出ようとしたとき、凜士は冷たく言い放った。「知ってる?あの日、事故で俺が倒れたとき、輸血してくれたのが陽菜乃姉ちゃんじゃなくて、お姉ちゃんだったらよかったのに、って俺、今でも思ってる。お姉ちゃんは俺の本当の姉なのに……一番苦しい時に、なんでいてくれなかったの?俺、お姉ちゃんのこと、もう……許せない」ドンッと音を立てて、玄関のドアが乱暴に閉められた。振り返ることもなく、彼は去っていった。——あの日、半年前の夜。凜士は酒気を帯びた運転手に轢かれ、重傷を負った。大量出血で命が危ぶまれ、病院の血液ストックも底を尽きかけていた。あと1400mlが、どうしても足りなかった。そのとき、父の誠一と澄月は、共に輸血に協力しようとした。だが、誠一はわずか200mlを抜かれただけで「もう無理だ」と騒ぎ、針を抜かせた。代わりに澄月は、800mlの時点で意識を失いかけながらも、歯を食い
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第5話

スマートフォンの通知が鳴った。陽菜乃がSNSに投稿していた。【皆さん、たくさんのご心配ありがとうございました。もう大丈夫です。苦しい時、いつも側にいてくれる慶悟さんに、感謝しかありません。残りの人生をかけて、あなたに恩返しします】添えられていた写真は、病室のベッドに横たわる陽菜乃と、その手を握る慶悟の姿。まるで映画のワンシーンのようにお似合いの二人。だが、澄月はその投稿を一瞥しただけで、スマホの画面を閉じ、無造作にテーブルの上へ置いた。もう、慶悟との関係は——終わったのだ。陽菜乃が何を意図してこの投稿をしたのか。見せつけたかったのか、挑発だったのか。どちらにせよ、澄月の心は動かなかった。静かにキッチンに立ち、自分のためだけに温かい夕食を作った。それを食べ終え、ベッドに横たわると——家の中に誰もいない夜、彼女は数年ぶりに安らかな眠りについた。翌朝。澄月は、自分のために丁寧に豆を挽き、一杯のハンドドリップコーヒーを淹れた。庭の籐椅子に腰かけ、朝のラジオを聴きながら、ゆっくりと身体を伸ばす。これまで家族のことで心をすり減らし続けてきた彼女にとって、こんな時間は初めてだった。——そうだ、もっと早く、自分のために生きるべきだった。朝食を終え、部屋に戻ると、澄月は慶悟からもらった物も整理して返そうと思った。だが、引き出しを開けて気づいた。交際期間中、彼がくれたものは、本当にわずかしかなかった。しかも、どれも安価で雑な物ばかり。それでも澄月は、それらを大切に、大切にしまっていた。鍵のかかる引き出しの中に。けれど、取り出してみれば、それらはどれも色あせ、カビまで生えていた。まるで——彼からの愛情そのもののようだった。澄月はそっと首を振った。潔癖症の彼が、こんな古びた物を受け取るはずがない。彼女はすべてを鉄製のゴミ箱に投げ入れ、かつての写真やプレゼントと共に火をつけた。炎が勢いよく立ち上がり、パチパチと音を立てながら、過去の思い出をひとつ残らず焼き尽くしていく。それは、彼女の決別の儀式だった。その足で、澄月は大学へ行き、休学の手続きを済ませた。残されたわずかな日々くらい、自分の心を整えるために、少し旅に出ることにしたのだ。観光地の情報を眺めながら、穏やかに計
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第6話

澄月は、いま真実を明かすつもりはなかった。「ちょっと疲れちゃってね。しばらく休学して、近場を旅してこようかと。そんなに遠くには行かないよ」そう言いながら、手元の観光ガイドを慶悟に見せる。嘘ではないようだと察した慶悟は、ようやく安堵したように手を離した。「ならいいんだ。いや、まさかそんなことでキレるなんて思わなかったよ。特許なんてまた作ればいいだろ?」そのとき、彼のスマホが鳴った。電話の主は、病院にいる凜士だった。「慶悟さん、今どこ?陽菜乃姉ちゃんが目を覚ましたら慶悟さんがいなくてさ、また症状がぶり返して……壁に頭打ちつけて血だらけだよ!早く戻って!」電話を切ると、慶悟は大急ぎで出て行こうとした。去り際、振り返って言った。「旅行して気分転換してくればいい。だけど、あまり遠くに行くなよ」澄月は、静かに微笑んだ。——心配しないで。遠くには行かないよ。ただし、「あなたたちには絶対見つからない距離」だけれど。庭を通り過ぎるとき、焦げた灰の山がまだ残っていた。それを見た慶悟は、わずかに顔をしかめた。胸の奥に、言いようのない不快感が広がる。けれど、すぐに気持ちを切り替えた。——澄月があそこまで冷たくなるなんて、こっちだってもう、情けは無用だ。なのに、なぜか胸騒ぎは消えなかった。……あいつ、俺に何か隠してる気がする。……いや、考えすぎか。どこに行くっていうんだよ。今は陽菜乃のことで手一杯なんだ。余計なことに構ってる暇はない。慶悟は再び、澄月のことを頭の中から追い出した。数日後——澄月は市内の名所を巡るツアーに参加し、仲間たちと充実した時間を過ごしていた。同年代の参加者たちと共に、山の頂で夕日を見たり、星空の下で歌ってバーベキューをしたり。そこには、家族の裏切りも恋人の欺瞞もなかった。ただ、自分の時間を、自分のために使える世界が広がっていた。彼女は確信した。——人はやっぱり、自分のために生きるべきだ。旅の最終日、澄月は評判の良いガーデンレストランを訪れ、窓際の席に座って静かな午後を楽しもうとしていた。だがそのとき、ドアのベルが鳴り、新たな客が入ってきた。陽菜乃だった。今日は彼女の退院日であり、家族総出でお祝いに来ていたのだ。一行はレストランの最も
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第7話

かつて——澄月がほんの冗談で、友人たちの前で慶悟の頬に軽くキスしただけで、彼は何日も口をきいてくれなかった。今になって初めて気づいたのだ。慶悟は、決して「奥ゆかしい男」などではなかった。ただ、彼が冷たく振る舞っていたのは——恋人が自分だったからだ。そう思うと、澄月は込み上げてくるものをどうしても抑えきれず、吐き気すら覚えた。彼女はゆっくりと席を立ち、レストランの外へ向かった。その瞬間、彼女の姿に気づいた慶悟は、驚いたように陽菜乃を突き飛ばした。周囲がようやく気づいた——澄月が、ずっとそこにいたことに。ドアを出た瞬間、陽菜乃がすぐに追いかけてきた。「澄月さん、さっきのこと、誤解しないで……!」「手を離して」澄月は眉をひそめ、彼女の手を拒絶した。だが、陽菜乃は執拗に肩を掴んだまま、力を強めていく。「ねえ、もし私がここで倒れたら……あなたの家族は、私を突き飛ばしたって言うと思う?」その言葉を口にした直後——陽菜乃は大きな悲鳴を上げ、わざとらしく後ろへ倒れ込んだ。その勢いで、レストランのガラス窓が砕け散る。音を聞きつけて駆けつけた白河家の面々が目にしたのは——血まみれで倒れる陽菜乃の姿だった。頭部からは鮮血が流れ、身体中に無数の切り傷。「澄月、お前……お前、彼女を殺すつもりだったのか!?」凜士は叫び声を上げ、陽菜乃を抱きしめた。澄月が何も言う前に、誠一の平手が彼女の頬を打ち抜いた。「このクズが!」地面に倒れ込んだ澄月の口からは、砕けた歯と混ざった血がこぼれ落ちた。唇を震わせ、何かを言おうと口を開く——けれど、家族たちのその目を見た瞬間、言葉は喉で凍りついた。——憎悪と怒りに満ちた眼差し。まるで彼女を八つ裂きにでもしたいかのような視線。彼女が何を言っても、何をしなくても。この家では「悪」になるしかなかった。「澄月さん」陽菜乃が凜士の腕の中で、震えながら泣き出す。「もし私のことが嫌いなら、そう言ってくれればよかったのに。そしたら、私はこの世界から消えるよ。もし私が慶悟さんを奪ったって思ってるなら、返すから……ね?澄月さんが笑ってくれるなら、私は何だってする。だから……お願い、もう叩かないで……」その「演技」に、白河家の誰もが目を潤ませた。「澄月
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第8話

澄月は、誰の視線も言葉も無視して、静かに屋根裏部屋へ戻った。この小さな空間だけが、彼女だけのものだった。鏡の前で、自分の傷口を淡々と処置する。すべてを終えたあと、ベッドに横たわり、墨のように深い夜空をじっと見つめた。——どうか、時間よ、早く過ぎて。この血も涙も凍りつく家から、早く解き放たれたい。それからの三日間。白河家では、陽菜乃の進学祝いの準備が熱を帯びていった。誠一は、まるで自分の本当の娘のように彼女を可愛がり、「正式に養子縁組をする」と宣言した。「澄月なんかより、陽菜乃の方がよっぽど娘にふさわしい」そう言い切って。進学祝い当日——学校の保護者会にも一度も顔を出さなかった誠一が、わざわざ高価なオーダースーツを着込んだ。澄月に声をかけてくる者は、誰一人いなかった。まるで最初から彼女など存在しなかったかのように。出発直前。屋根裏部屋のドアがノックされる。現れた陽菜乃は、もはや「可憐な仮面」をつけていなかった。「澄月。跪いてお願いしてみなよ。そうしたら、お父さんに許してもらえるよう言ってあげてもいいよ」無言を貫く澄月を見て、陽菜乃は口元を歪めた。「ほんと、なんでも私よりできるくせに、たったひとつ、媚びを売ることだけはできないのよね。だからさ、恋人も、家族も、特許も——全部私がいただいちゃうわけ。ねえ、どうしてまだ死なないの?犬みたいに惨めに生きてて、楽しい?ふふっ……」陽菜乃は言いたい放題だった。だが彼女は恐れていなかった。澄月が何を言おうと、誰も信じるはずがないから。すべて「逆恨み」として処理される。だからこそ、陽菜乃は余裕で笑っていられた。凜士が呼びに来るまで、そうして勝者の気配を纏って立ち去っていった。ドアが閉まると、澄月はベッドの下から、録音中のレコーダーを取り出し、静かに【録音停止】のボタンを押した。今日が、この街を離れる日。その前に、彼女はこの家の人間に「真実」を見せるつもりだった。——自分たちが育てた「悪の花」が、どれほど美しく、醜いかを。三十分後。医科学研究所の迎えの車が到着した。澄月は、たったひとつの荷物——母の遺影だけを胸に抱いていた。「もう出発の時間です。荷物、これだけで大丈夫ですか?」スタッフが不思議そうに
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第9話

進学祝いの会場。慶悟は、手に持ったスマートフォンを握りしめたまま、小刻みに震えていた。まさか、澄月が自分の電話を切るなんて——そんな日が来るとは、想像すらしたことがなかった。慌ててもう一度かけ直す。だが、聞こえてきたのは彼女の声ではなく、無機質で冷たいアナウンスだった。「おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため——」頭が真っ白になった。どういうことだ?彼女は何も言わずに去った。最後に聞こえたのは、ぼんやりとした「アナウンスの声」——空港のような……いや、まさか。澄月が一人で、飛行機に……?「慶悟さん?どうかしたの?」陽菜乃が彼の異変に気づき、心配そうに近づいてきた。慶悟は電話が繋がらなかったこと、そして澄月の様子が気になると正直に伝えた。「でも安心して。私、出発前に屋根裏部屋を見に行ったの。ちゃんと部屋にいたよ。そんな短時間で、どこかに行けるわけないよ」そう言いながら、彼女はそっと慶悟の手を握り、うるんだ瞳で見上げてくる。「澄月さん、きっとまだ私のことを許してないよね……特許のこと、全部私が悪いの。謝りに行くよ。土下座してでも、二人を仲直りさせてみせる」いつもの陽菜乃なら、きっとこの言葉だけで彼の心を動かせた。だが、今日は——彼の眉間に、うっすらと皺が寄った。あの日の映像を見て以来、どうにも腑に落ちない。澄月が陽菜乃を突き飛ばしたのではなく、陽菜乃自身がバランスを崩して転倒していた——それが真実だった。だが彼女は、まるで澄月に暴力を振るわれたかのように振る舞い、彼さえも騙した。そして彼は、激情のまま、澄月に二度と戻れない言葉を浴びせた。そのあと、陽菜乃に問いただした。だが彼女はただ、うつむいて「よく覚えていない」とだけ繰り返した。その答えは、まるで真実を曖昧にごまかそうとするようだった。もっとも、陽菜乃は退院したばかりで体も弱っていた。そう思えば、あの転倒が偶然だったとしても、不思議ではない。——そう、ただの事故だったんだ。彼は何度も自分に言い聞かせようとした。だが、夜が更けて静寂が訪れるたびに、ある恐ろしい考えが頭をよぎる。もしも、あれが——陽菜乃が澄月を陥れるために仕組んだ「罠」だったとしたら?そ
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第10話

「慶悟さん、行かないで——!!」陽菜乃の絶叫が、宴会場のざわめきを切り裂いた。彼女はふらつきながら、彫刻の入ったテーブルの角に頭を打ちつけた。額からは血が滲み、砕けた陶器の破片が手のひらに食い込んだ。それでも彼女は、必死に慶悟の背中へ向かって手を伸ばした。人々は潮が引くように道をあけた。ただ、ぽたり、ぽたりと血の滴る音だけが、その場に響いていた。振り返った慶悟の目に映ったのは——血に染まった涙を湛えた、陽菜乃の瞳だった。いつも微笑を浮かべていたその瞳は、今や涙と血に濡れ、唇は青ざめ、かすれた声で同じ言葉を何度も繰り返していた。「行かないで、お願い……私には、もう慶悟さんしかいないの……戻ってきてくれるなら、何だってするから……」その光景に、凜士は思わず涙をこぼした。「薬……薬、まだ俺のカバンの中に……医者に言われてたんだ、これ以上刺激を受けたら危ないって……!」慶悟は、一瞬、足を止めた。だが——「……ごめん」その一言だけを残し、彼は踵を返し、会場を駆け出した。理由はうまく言えない。ただ、胸の奥に巣食った不安が、叫び声のように彼を急かしていた。今すぐにでも、澄月に会って、ちゃんと話したい。謝りたい。「澄月、どこにいるんだ——」屋根裏部屋の扉を開けた瞬間、ふわりと香るアロマと、まだ残る微かな体温の余韻が鼻を掠めた。誰もいない。差し込む午後の日差しが、机の上の箱と、その下にある手紙を照らしていた。インクは、まだ乾ききっていない。【今より以後、あなたはあなたの道を、私は私の道を。もう、交わることはない。相馬慶悟、これでもう、二度と会うことはない】その文字を読んだ瞬間——頭の中で何かが弾け飛んだ。世界がぐらりと揺れ、景色がぐにゃりと歪み、慶悟は思わずその場に膝をつきそうになった。震える唇が、かすれた声を漏らす。「嘘だ。君は俺を、からかってるだけだよな?」澄月に行き場なんてない。母を亡くしてから、ずっとひとりだった彼女にとって、自分は唯一の支えだった。泣くときも、笑うときも、側にいた。一緒に植えた桃の花、あの庭の約束。彼女の思い出のすべてに、自分は存在しているはずだった。「そんな彼女が、俺の世界から、消えるなんて……あり得ない……!」何かに
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