LOGIN幼なじみと弟が、我が家に身を寄せることになった貧しい少女に、そろって恋をした。 気づけば、家族の愛も、恋心も、すべて彼女のものになっていた。 私にはもう、何も残っていなかった。 だから私は、この家から——いいえ、この世界から、静かに消えることを選んだ。 だけど、 「死ねばいいのに」 そう言い放ったあの人が、私を探して狂ったように彷徨い始めたのは、皮肉にも私がいなくなったその後だった。
View More「……もう、本当に俺たちに未来はないのか?」慶悟は、まだすべてを諦めきれずにいた。澄月は、何も答えなかった。だが、その沈黙こそが、はっきりとした答えだった。——拒もうと思えば、きっとできた。でも、どう別れを告げれば彼の心をこれ以上傷つけずに済むのか、その方法だけが、どうしてもわからなかった。その沈黙は、澄月にできる、たったひとつの最後の優しさだった。「……わかった」慶悟は、そっと目を伏せた。ようやく、自ら手放した。澄月は彼を支えながら、白衣のポケットから一つのカセットテープを取り出した。ひと目で、それが何なのか、慶悟にはすぐにわかった。それは、かつて澄月が初めて彼に贈ったプレゼント——彼の大好きな曲を詰め込んだ、小さな想いの結晶だった。しかし彼は、陽菜乃に心を奪われたことで、それをレコーダーごと返してしまった。彼女との過去を、強引に断ち切ろうとした証だった。それが、自分の人生で最も悔やまれる行為だった。後にレコーダーを確認したとき、あのテープは見当たらず、燃やされてしまったのだろうと思い込んでいた。——まさか、澄月が今も大切に持ち続けていたなんて、夢にも思わなかった。「……本当は、燃やすべきだったの。でもね、それをしてしまったら……私があなたを愛していた証が、この世から何も残らなくなってしまうから」澄月は、テープをそっと彼のポケットに差し込んだ。「今度こそ、失くさないで」慶悟は彼女を強く抱きしめた。肩を震わせながら何度もうなずき、唇を震わせて呟いた。「……ありがとう……残してくれて……」澄月も、彼をやさしく抱き返した。——これが、本当に、最後だった。雨の夜。濡れた二つの魂が、沈黙の中で、ようやく過去に別れを告げた。翌朝、慶悟は飛行機の座席に座り、窓の外に広がる三万フィートの空をじっと見つめていた。彼の指先は、ジャケットのポケットにしまったカセットテープを何度も何度も撫でていた。それは、彼の人生で最も尊い宝物となった。雲の切れ間から差し込む朝日が、ガラス越しに彼の顔をやわらかく照らしていた。ようやく彼は、静かに目を閉じた。深く、安らかな眠りのなかへ。帰国後、彼は澄月の行方を誠一に一切伝えなかった。たとえ、向こうが定期的に何度も彼女の行方を尋ね
空気に霜が降りそうなほど、冷え込みは厳しかった。口の中に鉄のような味が広がったとき、慶悟は初めて、自分が下唇を噛み破っていたことに気づいた。この再会のために、彼は十二ヶ月もの朝と夜を踏みにじるように過ごし、街の隅々まで探し回った。学業は完全に投げ出し、かつての秀才だった彼が堕ちていく姿を見かねた学長が、ようやく澄月の居場所を教えてくれたのだった。情報を手にした慶悟は、すぐさま飛行機を予約し、急いでここへやって来た。道中、水を一口飲む余裕さえなく、ただひたすら、彼女に会いたい一心だった。しかし、ようやく再会したその瞬間、彼は残酷な現実に直面することとなる。——澄月は、もはや記憶の中にいた、すべてを許し、優しさで包み込んでくれるあの少女ではなかった。どれほど必死に想いをぶつけても、彼女の冷たい漆黒の瞳からは、かつてのぬくもりのかけらすら見出せなかった。まるで山と月のように、永遠に交わることなく、ただ遠くから見つめ合うしかない存在になっていた。いっそ彼女に憎まれた方がよかった。罵倒された方がまだ救われた。まるで赤の他人のように扱われるくらいなら。一方、その頃、澄月もまた、心の静けさをどうしても取り戻せなかった。彼女は、自分の心にもう慶悟への想いが残っていないことを確信していた。だが、再び目の前に現れ、絶望的な声で泣き叫ぶ彼の姿を見てしまえば、どれほど冷たく振る舞おうとしても、完全に無感情ではいられなかった。幼い頃、母を亡くし心を閉ざしていた彼女の手を取って、暗く冷たい世界から救い出してくれたのは、他ならぬ慶悟だった。かつて彼は、彼女の人生に差し込んだ、いちばんあたたかな光だった。けれど今は、その彼女をいちばん深く傷つけた、鋭く冷たい刃になってしまった。「忘れる」なんて、言葉で言うほど簡単なことじゃない。実験室の蛍光灯が昼のように煌々と輝き、ビーカーの中で煮え立つ液体が、彼女の固く結ばれた唇の輪郭を浮かび上がらせていた。そのとき、手にしていたガラス器具が突如破裂し、飛び散った破片が古傷を切り裂いた。かつて絶望の縁から彼女を救ったその少年が、今は鋭利な刃となって、癒えかけた傷をまたしても切り開いたのだった。翌日、警備員が告げた。「昨日の男、まだ門の前にいるんですよ。何も食べてないみたいで、
星々が鎖のように連なる夜。月光に濡れた石のベンチに、悠馬は静かに身を丸めていた。彼はそっと前腕を澄月の膝に預けたまま、その顔を一瞬たりとも離さず見つめていた。月の光は、陶器のように滑らかな彼女の肌に静かに降り注ぎ、夜の闇の中でもなお、眩いほどにその輪郭を際立たせていた。薬が火傷に触れた瞬間、彼は思わず息を呑み、ようやく意識を現実に戻した。「思ったよりひどいね。ちゃんと処置しなきゃ、跡になっちゃうよ。東雲くんも医学生なのに、どうしてそんなに無頓着なの?」「平気だよ。男なんだし、腕にちょっとくらい傷があっても誰も気にしないさ——」「私は気にする」澄月はそっとため息をついた。そのひとことに、少年の瞳は茫然と止まった。薬を塗り終えた後、彼女は真剣なまなざしで彼を見つめた。「東雲くん、明日には学校へ戻って。あなたの気持ちはわかってる。でも今の私は、恋をしてる場合じゃない。東雲くんにも、こんなところで時間を無駄にしてほしくないの」悠馬が何かを言おうとした矢先、澄月の言葉が続いた。「来年の医科院の統一試験で、上位50位以内に入って。それなら、私は待ってる」彼女は知っていた。彼が自分に寄せる感情も、自分が彼を嫌っていないことも。けれど、ほんの一時の恋に溺れて、彼の未来を曇らせたくはなかった。その約束を受けて、悠馬はようやく、学校へ戻る決意を固めた。翌日、澄月は空港まで彼を見送りに行った。「先輩……ハグしてもいい?」搭乗前、悠馬は振り返り、どこか切なげな眼差しで彼女を見つめた。彼女が静かにうなずいたのを確認すると、彼は彼女をぎゅっと抱きしめた。「先輩、これからは僕があなたを守る。あなたの、頼れる存在になりたい」その言葉に、澄月の心は一瞬、ふっと揺れた。やがて彼女は、そっと彼の胸に顔を埋め、小さくうなずいた。しばらくして、名残惜しそうに彼が彼女を離した。飛行機が雲を突き抜けてゆくのを見届けるまで、澄月の耳には、彼の鼓動の余韻が確かに残っていた。翌年、木蓮が芽吹く頃、新薬の研究は大きな節目を迎えた。祝いの名残がまだ辺りに漂う中、澄月は実験棟の前で、ふと足を止めた。そこに立っていたのは、慶悟だった。色褪せたグレーのトレンチコートを羽織り、まるで水分を失った老木のように、春の寒さのなかにひっそりと
医科学研究所の西側、芝生の上に立つ一本のイチョウの木のそばで、澄月は陽のぬくもりを感じられる場所を見つけ、そっと腰を下ろした。鼻腔にはまだ実験室の消毒液の匂いがかすかに残っている。彼女は白衣の襟元をゆるめ、外気を胸いっぱいに吸い込んだ。砕けた全粒粉パンを手に取り、灰白入り混じった鳩たちへと静かに撒いていく。ここに来て、三か月が経った。研究室に入ると、ほとんど丸一日こもりきりになることも珍しくない。ポケットに入れたままの入室カードは、白衣の上からでも跡がつきそうなほど使い込まれていた。この忙しさは、普通の人なら音を上げてもおかしくない。だが、数え切れないほどの困難をくぐり抜けてきた彼女にとっては、むしろ心地よい充実だった。新薬開発チームで共に働くのは、最前線で活躍する研究者や、医学界の泰斗と呼ばれるような存在ばかりだ。彼女は今のところ助手という立場にすぎないが、このわずか三か月で得た学びは、これまでの人生すべてを上回るほど濃密なものだった。枕元には今も、薬品の染みがついた手書きのノートが置かれている。びっしりと文字で埋め尽くされ、まもなくその一冊が終わろうとしていた。そんな中、今日ふいに半日休みがもらえた。なのに、いざ時間ができると、行くあてもなく、ただぽかんと時が過ぎていった。慣れないことといえば、せいぜい料理の味付けくらいだった。ただ、ここ数日は少し変わった気がする。もしかしたら料理人が変わったのかもしれない。届く食事が驚くほどあっさりしていて、彼女の舌にしっくり馴染むようになった。知らないうちに、彼女は目を閉じ、まどろんでいた。数時間後、夕暮れの冷たい風がそっと頬を撫で、彼女を現実に引き戻した。首筋についた草の種が、起き上がると同時にさらさらと落ちていく。白衣の左胸には、パンくずと鳩の羽がいくつか残っていた。研究室の仲間たちは皆、時間を惜しむように食堂から食事を届けてもらっている。だが今日は休日。彼女は久しぶりに、自分の足で食堂に向かった。しかし、ひと口食べた瞬間、箸が止まった。舌の奥を鋭く刺す、強烈な山椒の辛味が広がったのだ。確かに、メニューは同じはずだった。なのに、昨日のやわらかな味わいとはまるで別物だった。「……まさか、料理人が元に戻った?」ふと気になり、彼女は裏口からそっ