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第8話

Auteur: 人間よわみ
澄月は、誰の視線も言葉も無視して、静かに屋根裏部屋へ戻った。この小さな空間だけが、彼女だけのものだった。

鏡の前で、自分の傷口を淡々と処置する。すべてを終えたあと、ベッドに横たわり、墨のように深い夜空をじっと見つめた。

——どうか、時間よ、早く過ぎて。

この血も涙も凍りつく家から、早く解き放たれたい。

それからの三日間。

白河家では、陽菜乃の進学祝いの準備が熱を帯びていった。

誠一は、まるで自分の本当の娘のように彼女を可愛がり、

「正式に養子縁組をする」と宣言した。

「澄月なんかより、陽菜乃の方がよっぽど娘にふさわしい」

そう言い切って。

進学祝い当日——

学校の保護者会にも一度も顔を出さなかった誠一が、わざわざ高価なオーダースーツを着込んだ。

澄月に声をかけてくる者は、誰一人いなかった。

まるで最初から彼女など存在しなかったかのように。

出発直前。

屋根裏部屋のドアがノックされる。

現れた陽菜乃は、もはや「可憐な仮面」をつけていなかった。

「澄月。跪いてお願いしてみなよ。

そうしたら、お父さんに許してもらえるよう言ってあげてもいいよ」

無言を貫く澄月を見て、陽菜乃は口元を歪めた。

「ほんと、なんでも私よりできるくせに、たったひとつ、媚びを売ることだけはできないのよね。

だからさ、恋人も、家族も、特許も——全部私がいただいちゃうわけ。

ねえ、どうしてまだ死なないの?犬みたいに惨めに生きてて、楽しい?ふふっ……」

陽菜乃は言いたい放題だった。

だが彼女は恐れていなかった。

澄月が何を言おうと、誰も信じるはずがないから。すべて「逆恨み」として処理される。

だからこそ、陽菜乃は余裕で笑っていられた。

凜士が呼びに来るまで、そうして勝者の気配を纏って立ち去っていった。

ドアが閉まると、澄月はベッドの下から、録音中のレコーダーを取り出し、静かに【録音停止】のボタンを押した。

今日が、この街を離れる日。

その前に、彼女はこの家の人間に「真実」を見せるつもりだった。

——自分たちが育てた「悪の花」が、どれほど美しく、醜いかを。

三十分後。

医科学研究所の迎えの車が到着した。

澄月は、たったひとつの荷物——母の遺影だけを胸に抱いていた。

「もう出発の時間です。荷物、これだけで大丈夫ですか?」スタッフが不思議そうに尋ねる。

「はい。これだけでいいんです」

この腕の中の記憶以外、彼女が持っていきたいものは何もなかった。

空港に着いた澄月は、搭乗ゲートの近くで柔らかな陽の光に包まれていた。あたたかい光が、肩に、頬に、優しく降り注ぐ。

まるで、これから始まる新しい人生を歓迎しているかのように。

そのとき——

スマホが鳴った。

画面に映る名前は、慶悟。

昨日、彼は例のレストランに再び足を運び、監視カメラの映像を確認した。

その結果——陽菜乃が転んだのは、澄月のせいではなかった。

「進学祝いが終わったら会えないか?あの日のこと……言いすぎた。ちゃんと謝りたいんだ。

それと……誕生日、前に祝えなかったから、遅くなったけど、プレゼント買ってあるんだ」

彼は疑っていなかった。

澄月は、どれだけ傷ついても、きっと自分の元に戻ってくると。

今までもそうだった。どんなに酷いことをしても、彼が優しい言葉をかければ、澄月は必ず戻ってきた。

だが——今回は、電話の向こうから、何の反応も返ってこなかった。

沈黙。

その異様な静けさに、慶悟は初めて焦りを覚えた。

そのとき、空港内のアナウンスが流れる。

「〇〇便、まもなくご搭乗開始いたします」

「今の音、なんだ?お前、まさか……どこにいるんだ?」

声を荒げる慶悟。

だが、その問いに答えは返ってこない。

澄月は静かに通話を切り、SIMカードを取り出し、指でゆっくりと、それを折った。

もう、偽りの愛には、二度と縛られない。

父親も、弟も、かつての幼なじみも——誰一人として、もう会いたくなかった。

そう思った瞬間、彼女は一歩を踏み出し、二度と振り返ることはなかった。
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