「次は……“僕の名を”」 ミストの唇が、そこでわずかに止まった。 「“呼ぶ”」 グレンが眉をひそめる。 「声が、ロードの名前を呼んでたってことか?」 「そこまでは断定できません。でも、文脈上は……そう読むのが一番近いですね」 ミストは硝子の向こうの紙片を見つめたまま、少しだけ声を落とした。 「……嫌な並びです」 展示室の光は変わらない。床を走る銀線も、壁際の薄明かりも、先ほどと同じ静けさを保っている。それでも、硝子の中にある黒ずんだ日記だけが、周囲の光から切り離されたもののように見えた。 「“夜になると、あれは僕の名を呼ぶ”……」 エレナの指が、袖口に触れた。 ロード。 勇者として語られ、王として讃えられ、物語の中で幾度となく人々を救ってきたかもしれないとされる人物。その名が、今は古びた紙片の上から、ひどく頼りないもののように浮かび上がってくる。 「……続きは?」 シオンが静かに訊ねた。 「“最初は遠くから”……ここは欠けています。“今は”……“近い”……?」 ミストは紙片の文字列を追いながら、慎重に言葉を選んだ。 「“部屋のすぐ外”……かもしれません。いえ、もっと曖昧です。“扉の向こう”とも読めます。たぶん、声が近づいている、という意味です」 誰も、すぐには言葉を返さなかった。 空調も、光も、展示台の配置も変わっていない。けれど、先ほどまで勇者たちの伝承を照らしていた白い光が、今はどこか硬く見えた。礼拝堂に似た静けさが、いつの間にか別のものへ変わっている。 「……なぁ」 シイナが低く言った。 「これは、本当に日記なのか?」 「少なくとも、祈祷文や公式記録の形式ではありませんね。ですが、これが仮にロード様の日記なのだとしたら……」 ミストは小さく首を振った。 「もっと私的なものです。誰かに見せるためではなく、自分のために書いた文章に近いと思います」 その時、内側からエレンの声が落ちた。 『……日記だな。少なくとも、誰かに見せるための文章じゃない』 短い一言だった。 それだけで、硝子の中の紙片は伝説から遠ざかった。誰かが後から飾った英雄譚ではない。勇者王ロードという名の奥にいた誰かが、夜の中で書き残したもの。 「ミストさん」 エレナが声をかける。 「これは……このまま聞い
Last Updated : 2025-10-15 Read more