All Chapters of Soul Link ─見習い聖女と最強戦士─: Chapter 71 - Chapter 80

116 Chapters

#70:形のないもの

「こちらの装置と錬金術との関わりについて、でしたな」  ラムザスは寝台型の装置に手を添え、淀みなく語り始めた。 「まず、記憶は科学の粋を集めたこの装置によって読み取られます。ですが、実のところ、この装置だけで抽出が成立するわけではございません」 「……ふむ」 「取り出すには、その記憶を形あるものへ変えねばなりません。形のないものに、形を与える。それを担うのが──」 「錬金術、だな」  先に言葉を置いたのは、エレンだった。  ラムザスの口が、半ば開いたまま止まる。  エレンは構わず、寝台の脇に置かれた記憶結晶へ目を向けた。続けて、棚に並ぶ簡易型の装置を流すように見る。その眼差しは、剣の構えを読むときとよく似ていた。派手な驚きも、無駄な警戒もない。ただ、仕組みの継ぎ目を探っている。 「察しはつく。この機械どもは、結局のところ“窓”だ。覗き込み、読み取るための代物。記憶を結晶という形に落としているのは別の手──錬金術、というわけだろう」 「……」 「ラムザス。ひとつ聞きたい」  そこでようやく、エレンは彼へ視線を戻した。 「錬金術には、等価交換がまとわりつく。無から有は生まれない。それがこの世界の掟だ。ならば──その代償は何だ?」  沈黙が落ちた。  白衣の足音が遠ざかり、機械の唸りだけが低く残る。結晶の微かな明滅さえ、硝子の奥で息を潜めたように見えた。  ラムザスは口を閉じる。眼鏡の奥で、瞳がわずかに開かれていた。穏やかに保たれていた笑みは、形を作り損ねたまま唇の端に引っかかっている。 「ハズレか?」  エレンが軽く促す。 「──いえ」  ラムザスは、そこでようやく息を吐いた。  苦笑とも感嘆ともつかない響きが、その一息に混ざる。 「いえ、失礼いたしました。エレン様の聡明さに、少々、呆気に取られておりまして」 「世辞はいい。続けてくれ」 「ふふ。世辞ではございませんよ。本当に、舌を巻いた次第です」  ラムザスは姿勢を整え直し、改めてエレンへ向き直った。眼鏡の縁を押し上げる仕草には、先ほどまでの余裕とは少し違う色が混じっている。 「仰る通りでございます。錬金術は、必ず何かを差し出さねば成立いたしません。無から全てを生み出すことはできない。これは、この世界に貼られた掟ですから」 「だろうな」 「しかし──記憶の抽出に限
last updateLast Updated : 2025-08-30
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#71:桃色の記憶

「失礼。──何か、質の良いものは入っておりますかな」  ラムザスが、隣の店主に声をかけた。 「これは、ラムザス様! いつもお疲れ様でございます」  白いエプロン姿の店主が、弾かれたように姿勢を正す。  歳の頃は中年。頬が少し赤らんでいるのは、商売の活気のせいか、それとも、目の前の人物に対する敬意のせいか。男はすぐに屈み込み、硝子ケースの内側を慎重に見回した。  しばしの吟味の後、男はひとつの結晶をビロード張りの台座から摘み上げた。 「質の良いもの、と仰せでしたら──こちらになりますな」 「ふむ。では──」  ラムザスが、懐へと指を伸ばす。 「いえいえ、ラムザス様!」  店主は、見るからに慌てて両手を振った。 「とんでもございません! 我々がこうしてのうのうと商いを続けていられるのも、すべてはラムザス様のおかげなのですから! これくらい、どうかタダで受け取ってくださいませ!」  心の底からの言葉だった。  誇張でも追従でもない。眼差しに濁りはなく、声には商人の駆け引きとは違う温かみがある。この男はラムザスを、街を支える恩人として、本気で慕っていた。 「──そうですか」  ラムザスは、軽く目を細めて受けた。 「では、新しい技術が確立された折には、まずはあなたの店へ一番にお届けいたしましょう」 「あ、ありがとうございますッ……!」  店主が深々と頭を下げる。  ラムザスは差し出された結晶を、指先でそっと受け取った。  ピンク色の、淡い結晶だった。  他のケースに並ぶ結晶は、薄青や、白、鉛色を帯びたものが多い。その中で、ラムザスの掌に乗ったその一粒だけは、まるで朝焼けの中に置き忘れられたかのように、柔らかな桃色の光をたたえている。 「他の結晶と、色が違うな」  エレンが、淡く呟いた。 「ええ、こちらはですね──」  店主が、誇らしげに胸を張る。 「愛された少女の、記憶でございます!」  ──その瞬間。  エレンの瞳が、わずかに鋭くなった。  明確な殺気ではない。剣を抜いたわけでも、構えを変えたわけでもない。ただ、それまで店内を撫でるように流れていた視線が、結晶の一点に固定された。 「ふむ……」  ラムザスは、その変化に気づいたのか気づかぬのか──気づかぬふりを選んだのか──、結晶を指で軽く弄ぶように転がした。
last updateLast Updated : 2025-08-31
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#72:記憶の値段

「……」  ラムザスは、すぐには答えなかった。  眼鏡の奥で、瞳の置き場が一瞬だけ揺れる。唇の端がかすかに結ばれ、穏やかな笑みの形が薄く歪んだ。  だが、その逡巡は瞬きほどの間に消えた。  次の呼吸で、ラムザスはもう、いつもの案内人の顔に戻っている。 「──まぁ、そんなところだ」  エレンは軽く息を吐いた。 「なに、これは私の独白に過ぎん。これを根拠に、私が何かを起こすわけでもない。安心しろ」 「ふ、ふふ……」  ラムザスの口元から、ようやく声が漏れる。  苦笑にも感嘆にも聞こえる、曖昧な笑いだった。 「まさか、たった数度の説明で、そこまで仕組みの裏側を読まれるとは。いやはや、驚きを通り越して、呆れさえ覚えますな」 「……ふん」 「ですが、ご安心ください」  ラムザスの声からは、すでに動揺の色が拭い去られていた。 「メモリスは、記憶を扱う都市。そのような行いを認めるつもりはありません。我々の管理下で、それが行われることは、まずないでしょう」 「そうか」 (──口ではなんとでも言える、か)  胸の内に置いた一言は、外へは出さない。 「……」  店主はいつのまにか口を結び、二人の遣り取りを見守っていた。  話の半分も追えていない顔だ。それでも、ただの世間話では済まない何かが交わされたことだけは、場の重さで察したらしい。視線の置き場を失っている男へ、エレンは軽く首を振ってみせた。 「店主。すまなかったな。忘れてくれ」 「あ、い、いえ……ええ……」 「確かに、危険を孕んだ技術ではあります」  ラムザスが、すかさず言葉を継ぐ。 「ですが、それだけ人々の暮らしを豊かにする技術でもある。──さて、では次へ参りましょう。記憶劇場へご案内いたします」 ✦ ━━━━━━━━━━━━━━ ✦  市場の通りを抜けてしばらく歩くと、その建物が見えてきた。  石積みの土台の上に、滑らかな曲面を描いて広がる巨大なドーム。表面は淡い乳白色で、昼の光を受け、街並みの中にやわらかく浮かび上がっている。  塔のような威圧感はない。市場の硝子棚ほどの華やかさも持たない。  半分ほど地面に沈み込んだ卵のように、静かにそこに据えられていた。  エレンたちが歩み寄ったとき、ちょうど正面口から人の群れが流れ出てくる。 「なぁなぁ、あの劇、すげぇ良か
last updateLast Updated : 2025-09-04
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#73:聖女見習い、衣装案件に巻き込まれる

 エレナは大通りを歩いていた。  メモリスの通りは、どこへ行っても妙に整っている。  建物はどれも正方形に近く、余計な飾りがほとんどない。窓の位置も、扉の幅も、看板の大きさまで揃えられていて、まるで誰かが定規で街を切り分けたようだった。  ただ、その通りに並んでいるものは、記憶結晶でも錬金術の道具でもない。  焼きたてのパン。紙袋に詰められた茶葉。瓶詰めの香辛料。旅人向けの保存食や、石鹸、油、布巾、簡易食器。生活に必要なものが、無機質な棚の上に淡々と並べられている。  料理の匂いだけは、その整いすぎた街並みの中で少しだけ人間らしかった。 『エレン、大丈夫?』 『何がだ?』  返ってきた声は、いつも通り落ち着いていた。  ただ、短い。 『なにって、エレン、ラムザスさんと別れてから明らかに口数が少ないよ?』 『ふむ。問題ない』 (……そういうことじゃないんだけど……)  エレナは小さく目を伏せた。  ラムザスと別れてから、エレンはほとんど何も言わない。怒鳴るわけでも、文句を並べるわけでもない。ただ、内側にいるはずの気配が、ずっと硬い。  沈黙に棘がある。  エレンが何に引っかかっているのか、エレナにも分かっていた。  記憶を取り出す機械。抽出され、複製され、市場へ流される記憶。誰かにとってかけがえのないはずのものが、商材として数えられていく仕組み。  エレンは、それを口にしない。  けれど、口にしないからこそ、余計に伝わってくるものがあった。 (さっきからずっと何も喋らない……。美味しそうな料理の並んでる通りに来てみたのに……)  エレナは視線だけで店先を探した。  薄く焼いた生地に刻んだ野菜と肉を包んだもの。香草をまぶした串焼き。小さな丸パンに甘いクリームを挟んだ菓子。どれも綺麗に並べられているのに、売り場の形は研究棚のように整いすぎていて、少しだけ妙だった。 「お嬢さん、焼きたてだよ。ひとつどうだい?」  店主が明るく声をかける。  エレナは反射的に微笑み返し、足を止めた。 「えっと……エレン?」 『……好きにすればいい』 『好きにって……食べる?』 『君が食べたいならな』  いつもなら、ピザという単語だけで声の温度が変わる。肉の焼ける匂いにも、菓子にも、もう少し分かりやすく反応するはずだった。  それな
last updateLast Updated : 2025-09-08
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#74:神よ、これは給付服です

彼女はこの瞬間、過去の自分の判断という判断を、片っ端から呪う羽目になっていた。  なぜ、あの男の声を素通りしておかなかったのか。なぜ、あの石畳に額を打ちつける道化師を、心を鬼にして見捨てなかったのか。なぜ、相棒の忠告を、もう少しだけ真面目に受け止めなかったのか。──そして何より、なぜ、内容も聞かずに「はい」と頷いてしまったのか。  もはや時を巻き戻す術は、聖の祈りにも、錬金術にも、おそらくこの世のいかなる技術にも存在しない。  エレナにできるのは、目の前に差し出されたそれを見つめ、ただただ全身を硬直させていることだけだった。  ──案内された建物の中は、意外なほどに静かだった。  外装の派手な道化師趣味からは想像もつかぬ落ち着きが、扉の内側には満ちている。磨き込まれた木目のカウンター、低く吊された蝋燭の灯り、柔らかな飴色に染まった梁。本来であれば、客足の絶えぬ温かな酒場として大いに繁盛していそうな、心地よい佇まいだった。  ただし──客は、一人もいない。  拭き上げられたばかりの卓には、グラスがきれいに伏せられたまま手付かずで並び、椅子の背もたれは寸分の狂いもなく揃えられている。整いすぎた静けさ。生活感のない清潔さ。これらが意味するところは、ひとつしかなかった。この店は、長らくまともな客を迎えていないのである。  古びた革張りのソファに、淡い蝋燭の影。落ち着きがあると言えば聞こえはいいが、その実、空気の端々にどこか古臭い匂いが滲んでいた。流行から一歩、また一歩と置いていかれた末に、扉の前で時間そのものが立ち止まっているような──そういう種類の古さだった。 「さあさ、こちらでございます……!」  道化師の格好をしたままの男──おそらくはこの店のマスター──が、奥の小部屋から大事そうに包みを抱えて戻ってきた。  卓の上にそれを広げる。  黒い、布のような何か。光沢があり、ぴたりと身に添うように仕立てられている。耳のような長い飾り、襟元の蝶ネクタイ、白くふわりと丸いしっぽらしきもの。──エレナの常識からは、軽く十歩くらい離れたところに置かれた衣装だった。 「こちらの衣装はですね、東の地──**日龍国《にちりゅうこく》**にて、ばにーがーる、と呼ばれているものだそうでございますっ!」 「は、はぁ……」  エレナは、衣装を凝視したまま、何度か瞬き
last updateLast Updated : 2025-09-10
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#75:聖女、酒場に降臨す

 それからしばらくして。  エレナは、客寄せを終えて戻ってきた道化師のマスターから、最低限の仕事を教わることになった。  注文を聞く。厨房へ伝える。出来上がった料理と酒を運ぶ。空いた皿を下げる。言葉にすれば単純で、実際、手順そのものは難しくない。  ただし、その格好でなければ。  結果として、酒場は満員になった。  道化師のマスターが通りで大げさに宣伝した効果もある。だが、それ以上に、聖女見習いとは知らぬ客たちが、初々しく給仕をするエレナの姿に引き寄せられてしまったのだった。  丸い卓はすべて埋まり、壁際の席にも人が詰めかけている。酒杯が鳴り、笑い声が弾み、厨房からは焼けた肉と香辛料の匂いが次々と流れてくる。  その中心を、エレナは盆を抱えて歩いていた。 『うぅ……! エレン……何か話して……! 恥ずかしすぎて気を紛らわしたい……!』 『ふむ。だが、仕事自体はずいぶん手際がよくなってきたではないか。こんなことを言うのも何だが、なかなか様に――』 『エ〜レ〜ン〜!!』 『…最後まで言っていないだろう』 『言わなくても分かるよぉ……!』  エレナは真っ赤な顔のまま、空いた皿を盆に重ねた。  長い耳飾りが動きに合わせて揺れ、客席の何人かがそちらへ視線を奪われる。エレナはそれに気づくたび、肩を小さく縮めた。 『はぁ。これで学んだだろう。安易に頷いてはいけないと』 『もう懲りたよ……もう懲りたから助けて……』 『自分で受けた仕事だ。最後までやるべきだな』 『エレンのそういうところ、すごく厳しい……!』  その時、奥の席から声が飛んだ。 「お嬢ちゃん! エール酒を一杯頼むよ!」  続けて、隣の席の真面目そうな男が、控えめに手を上げる。 「すみません。こちらにも一ついただけますかな」 「あ、はいっ! ただいま!」  エレナは慌てて返事をし、盆を抱え直して厨房へ向かった。  足早に進むたび、靴音が床板を小さく叩く。客の間を抜ける動きはまだぎこちないが、最初に比べれば、皿を落としそうになる回数は目に見えて減っていた。 「マスターさん、エール酒ふたつ入りました!」 「りょ、了解っ!!」  厨房の奥で、マスターが樽の前に飛びつく。 「まさか……まさか、こんなに忙しくなるなんて……っ!!」  彼は感極まったように、目元を袖で拭った
last updateLast Updated : 2025-09-15
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#76:ようこそ!バニー酒場へ!

 その後の展開は、もはや道化師めいたマスターの予想すら、軽々と飛び越えていた。  美少女が二人がかりで、とんでもない格好のまま給仕をしている――そんな噂は、酒場の扉を起点に、通りへ、裏路地へ、さらに別の酒場へと広がっていく。  気づけば、新しく入ってくる客の顔ぶれは、最初の一団とはまるで違っていた。  卓は埋まり、椅子が足され、それでも収まりきらなかった客が壁際で木杯を傾けている。熱気と酒精の匂いで、店内の空気は再び膨れ上がっていた。  だが――。  先ほどまでのような混乱が、どこにもない。  注文が詰まらない。皿が滞らない。厨房へ向かう足と、客席へ戻る足が、不思議なほど噛み合っていた。  空になりかけた木杯は、客が呼ぶより先に下げられている。会話の盛り上がりを邪魔せず、けれど待たせもしない絶妙な間合いで、新しい酒が卓へ置かれていく。  その流れを作っていたのは、間違いなくミストだった。  彼女は笑いながら給仕を続けつつ、視線だけは絶えず店全体を走らせている。  どの卓の酒が減っているか。次に誰が口を開きそうか。会計へ向かう空気がどこで生まれ始めているか。  それらを拾い上げる速度が、異様に早い。  呼ばれる頃には、もう隣にいる。  そんな動きだった。 「ひっく……ろぉ〜い……っ! エール酒ゥ、追加ぁ〜……」  奥の卓で、酔い潰れかけた男が卓に頬を乗せたまま腕を上げる。 「はぁいっ! かしこまりましたァっ!」  返事と同時に、ミストの身体はもう動いていた。 「こっちにもエール一杯! あとワインと葡萄酒、追加で頼めるかい?」  別の卓から、重なるように注文が飛ぶ。 「かしこまりましたァっ! いやはや、お兄さん方! 飲む速度が素晴らしいですねぇっ!」  くるり、と。  ミストは身体を反転させ、その二つの注文をひとつの動線へ綺麗にまとめ上げる。盆の上の木杯は揺れず、立ち客の肩を紙一重でかわしながら、軽やかに厨房へ抜けていった。 「はははっ! そりゃあお嬢ちゃんたちみたいな可愛い子に給仕されたらよぉ! 酒なんざ止まるわけねぇだろっ!」  大柄な男が豪快に笑い、隣の連れを肘で小突く。  小突かれた男は、耳まで赤くしたまま、勢いよく頷いていた。  酒のせいか。それとも、さっきすぐ脇を通り過ぎたミストの姿を、つい目で追ってしまっ
last updateLast Updated : 2025-09-22
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#77:傷だらけの少女

 その後、エレナは何度も何度もマスターから謝罪を受けることになった。  確かに「まるで聖女様のようだ」とは口にした。だが、まさか本当に聖女見習い本人が目の前にいるなど、夢にも思わなかったのだと。頭を下げては慌て、また謝っては肩を落とし、終いには「罰が当たるかもしれない……」と青ざめ始める始末。  エレナはそのたびに、「だ、大丈夫ですから……」と困ったように手を振り続けることになったのだが――。  ようやく酒場から解放された頃には、街はすっかり夜の色に沈んでいた。 「いやー! 大変でしたねぇっ!」  酒場の扉を背に、ミストがぐうっと大きく背を伸ばす。青い髪が夜風に揺れ、そのまま肩の辺りで跳ねた。 「はい……。もう二度と、あんな面積の少ない服は着ません……」  エレナは胸元を押さえるようにしながら、小さく肩を落とした。  普段の聖衣とは、あまりにも正反対だった。  脱いで元の服へ戻った今でも、肌を晒していた感覚だけが妙に残っている。夜風が肩を撫でるたび、落ち着かなさが薄く蘇った。 「えぇぇっ!? 勿体ないですよぉ! エレナ様、すっごく似合ってましたのに!」 「と、とは言っても……っ! 恥ずかしくないんですか!?」 「恥ずかしいに決まってるじゃないですかっ!」  ミストは即答した。  だが次の瞬間には、びしっと人差し指を突き立てる。 「ですが! それ以上に研究が大事なんですよぉっ!!」 「け、研究……」  どうやら本気らしい。  羞恥より探究心。  科学者という生き物への認識を、エレナは少しだけ改め始めていた。  そんなやり取りを続けていた、その時だった。  ――ガタンッ!  少し離れた路地の奥から、何かが倒れるような音が響いた。  夜道に不自然なほど大きく反響したその音に、二人の足が止まる。 「おや? 今の音は……」 「……人が倒れたみたいな音でした」  顔を見合わせ、そのまま音のした方へ駆け出す。  石畳を折れ、細い路地へ入った瞬間、空気が変わった。  軒灯の光も届かない暗がり。  その奥に、人影がひとつ倒れている。 「っ……!」  エレナがすぐに駆け寄った。  膝をつき、その身体へそっと触れる。 「う……ぅ……」  か細い呻き声。  倒れていたのは、まだ年若い少女だった。  服はところどころ裂け
last updateLast Updated : 2025-09-25
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#78:獣は知る

 石畳を踏む爪先の音が、夜の路地に低く沈んだ。 「クンクン……」  鼻先がわずかに持ち上がる。  夜の冷気に混じる、人いきれ、酒場の油、誰かが捨てた残飯。雑多な臭いをかき分けて、ひと筋だけ、白く澄んだ匂いが残っていた。少女のもの。それから、鮮烈な血の匂い。  唇の端が、ほんのすこし吊り上がる。 「逃げても無駄だ。俺の鼻はよく効く。どこまでも追いかけるぞ」  誰に言うでもなく、低く呟いた声には、長年この身体に染み込んだ自信がある。  獣人ウルサスにとって、追跡は仕事の中で最も得意な部類だった。大陸の外、霧深い森の中で、自分より速い獲物などいなかった。風向きがどう変わろうと、雨が降ろうと、相手が水の中を走ろうと、一度捉えた匂いを見失うことはない。  爪先を音もなく繰り出して、ウルサスは細い路地へと足を踏み入れた。  月明かりの届かない壁の連なり。湿った石。浅い水たまり。その奥から、確かに匂いは続いている。  ――近い。  ウルサスの黄色い眼が、ふっと細まった。  その時。  ぴくり、と、三角の耳が跳ねる。  空気が、変わった。  そう、空気が、だ。  風が止んだわけではない。匂いが消えたわけでもない。少女の匂いは、確かにまだ前方の闇から流れてくる。だが、その手前――路地の途中、一番濃い影が落ちている辺りから、何か別のものが滲み出していた。  冷たい。  異常な程に、冷たい。 「なんだ……!? 匂いが……変わった……!」  ウルサスの足が、無意識に止まる。  いや、止まった、というのは正確ではない。止められた、と言うべきだった。肉体が一足分先に異常を察知して、勝手にブレーキをかけた。本能が、首根を掴まれた仔犬のように、その場へ縫い付けたのだ。 「ふむ。やはり獣。ずいぶんと鼻が利くんだな」  声が、影の中から落ちてきた。  ぬるりと、闇が割れる。  壁の継ぎ目の暗がりから、人ひとり分の影が、染みのように滲み出して輪郭を結んでいく。  歩み寄る、というのとは違う。影の中にいたものが、ようやく見せてやろうという気になっただけ――そう錯覚させる、緩慢で、無造作な現れ方だった。  月光が斜めに差した瞬間、ウルサスの視界に、二つの紅が灯った。  目だ。  暗闇に、双眸だけが浮かんでいる。深い赤。血よりも濃く、夜よりも昏い、紅。
last updateLast Updated : 2025-09-26
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#79:復讐の権利

「……私は、迫害を受けたわけではない。した側でもない。故に、お前たち獣人族の憎しみも、怒りも、推し量ることはできん」  エレンの声に、熱はなかった。  同情でも弁解でもない。分かったような顔で傷に手を伸ばすこともしない。ただ、自分にはその痛みを語る資格がないと、最初に線を引いた。それだけだった。  その線の引き方が、かえってウルサスの怒りを鈍らせた。  怒鳴り返す相手なら、いくらでも牙を剥けた。憐れむ人間なら、爪を立てて引き裂けた。だが、目の前の少女はそのどちらにも立たない。知らないものを、知っているとは言わない。その一点だけが、恐ろしいほど誠実だった。 「だが、お前には力があったはずだ」 「……何が言いたい」 「お前には力がある。人間を憎む理由もある。ならば、やり返せたはずだ」 「ッ……!?」  ウルサスの肩が跳ねた。  斬撃を避けるための反射ではない。殺気に反応した本能でもない。もっと内側の、長く押し込めてきた場所を不意に叩かれた、そういう動きだった。 「な、何を……! 俺のことなど、お前は何ひとつ知らないだろうがッ!」 「いや。お前の動きを見て、分かったことがある」  エレンは静かに首を振った。 「お前はあの時、こう言った。『その少女を渡せ。であれば痛い目を見ずに済む』……だったか」  ウルサスの目が見開かれた。 「その言葉から推し量るに、お前は人間へ危害を加えようとしていない」  反論は、出なかった。  石畳に膝をついたまま、ウルサスの爪がゆっくりと握り込まれる。戦いながら、避けながら、追い詰めながら、それでもエレンはあの言葉を拾っていた。  痛い目を見ずに済む。  脅しの形をしていた。だが、その中には確かに、避けられるなら避けたいという線が残っていた。 『エレン……、あまり煽らないで?』 『……本音だが?』 『それはそれで問題だよっ!!』  ウルサスには届かない声だった。ただ、エレンの紅い瞳が一瞬だけ、別の誰かと言葉を交わすように揺れた。ウルサスは眉を寄せる。路地にいるのは、膝をつく獣人と、白銀の髪の少女だけのはずだった。 「こほん……」  わざとらしい咳払いがひとつ、夜気に落ちた。 「弱い者を見つけると、自分が強くなったと錯覚する者がいる。立場を得ただけで、相手を踏みつける資格まで得たつもりになる者が
last updateLast Updated : 2025-10-01
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