あなたからのリクエストはもういらない のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

126 チャプター

91.辟易Ⅰ

「一つ、訊いてもいいですか?」あれから一ヶ月。怜士は准を送る為に、本来なら週末にありがちなパーティーなどの社交には重要なもの以外ほとんど出席せず、土曜日の朝から車を運転して美月のいる町まで来ていた。そして昼からのレッスンをして、自宅へ戻る…というスケジュールで動いていた。だが、やはり続けば疲労が溜まるし、第一効率が悪い。ということで。彼はこの町に小ぶりな別荘を建て始めた。〝小ぶり〟とはいえ、それはあくまでも真田怜士の基準なので、この辺り一帯の建物の中で一番大きかった。それまでは適当に借家を手配して、土曜日の朝来て、日曜日の午後から帰る…という生活にシフトチェンジした。そうすれば、准がレッスンしている間や土曜日の夜に残した仕事も片付けられるし、身体も休められる。ただやはり借家の狭さや家政婦が一人、という不自由さが彼の好みに合わず、それならば…と別荘を建てることにしたのだ。それを准から聞いて、美月は彼を送って来た怜士に言った。なぜそこまでして、ここに来るのか?と。彼女の口調は〝理解に苦しむ〟というように困惑が滲んでいた。あなたがここへ来ることで、また厄介なことに巻き込まれるのだけは避けたいのだ…と言い難そうに告げる彼女に、怜士も皮肉げに嗤って言った。「この田舎で、俺の顔を知っている奴がいるか?」「それは偏見では?顔は知らなくても、名前くらいは知っていると思います」憤慨して言うのに、怜士はふんっと鼻を鳴らした。「まぁ、どっちみち、ここに来たがったのは准だ。俺じゃない」その「自惚れるな」とでも言いたげな視線に、美月も冷たい視線で応えた。「それなら結構。変に誤解されて嫌な気分になりたくありませんから。今度から、送り迎えも使用人に任せては?」「親子のことに口出しをするな」「……」本当、嫌な人っ。美月はもう口もききたくないとばかりに顔を背け、奥へ引っ込んで行った。やがて、准が指慣らしをしている音が聞こえ始め、怜士は静かに踵を返したのだった。翌週ー。美月は近くにある町立中学校へと足を運んだ。実は、彼女の教室の生徒の中にこの学校の校長の孫がいて、その子やその母親から美月のことを聞き、ぜひ会いたいと連絡をしてきたのだった。断る理由もなかったので出かけて来たのだが、そこで言われたのが、「近々本校である文化祭でピアノの鑑賞会をやっ
last update最終更新日 : 2025-09-03
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92.辟易Ⅱ

「お嬢さま、お探しのお宅はあちらではないでしょうか?」「…?」その声にイライラと組んだ足を揺らしていた女性は、顔を上げた。そこには一軒の平屋があり、周りを囲む塀には確かに「浅野ピアノ教室」と書かれた看板がかけられていた。「ここ?…ふん!とんだ貧乏人じゃない!」「……」運転手は思った。確かにあなたの基準でいったら〝貧乏人〟かもしれませんが、一般的には十分に大きな家ですよ…と。街中とは価値が違うのかもしれないが、二百坪以上はありそうな広さに、趣のある平屋建て。庭の手入れも行き届いている感じで、塀から飛び出ているような枝もない。どう見積もっても数千万はしたに違いない。そう思って、運転手は住人である先ほどの女性に感心した。あの若さでここを手に入れられるなんて…。やっぱり金持ちはズルいな。運転手の男は、雇用主の娘とはいえ、自分の子供よりも年下の娘に罵倒されながらこき使われる自分を思って、密かにため息をついた。その時。先ほどの女性、浅野美月が一人の少年を連れて門から出て来た。「今日は待たせてごめんね。今度から、教室じゃない日に来ることがある時は、連絡をちょうだいね?」「はいっ」にっこりと微笑み合う2人は、母子だと言われても納得できるくらいに仲が良さそうだった。「あれは…」もしかして、真田准じゃない?なによ。この前会った時、あんなに愛想良くなかったのに!あの女、やっぱり…!後部座席の窓を開けて見ていた女性が、悔しそうに拳を握った。そして「ちょっと行ってくるわ」そう言い残してドアを開け、辛うじて整備された道にハイヒールを打ち付けながら近づいて行った。「准くん、ここで何してるの?」「……」「……」さっき聞いた声とは1オクターブは違う猫なで声に、美月は眉を顰めた。准は、彼女を見た途端あからさまに嫌悪の表情を浮かべ、美月の腕に手をかけた。明日にしてって言ったのに、やっぱり来た。ていうか、やっぱりあの人絡みなのね…。美月は仕方ない…と言わんばかりのため息をついて、准に問いかけた。「お知り合い?」「ううん。知りません」「っ…」考えることなく否定する准に彼女は驚き、美月は苦笑した。嘘つきね。だが、彼の顔を見ても彼女に好意を持っている感じではないし、ここは彼に便乗させてもらうとしよう…と決めた。「だそうですが…?」「嘘
last update最終更新日 : 2025-09-03
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93.愛執

「パパ」怜士の腕の中で准は顔を上げ、「そういえば…」と切り出した。「僕、美月先生に今日のレッスンのお願いをまだしてなかった」「そうか。じゃあうちに帰って、まずお昼ご飯を食べよう。その時電話して訊いてみなさい」「はいっ」ニコッと笑って頷く准はもう架純のことなど全く気にしておらず、父親と共にその場を立ち去ろうとしていた。美月が閉めた玄関扉をまだ見つめていた架純は、その気配を察して慌てた。「ちょっと待って!」その声に2人が立ち止まって振り返ると、そこには思い切り眉を顰めた彼女がいて、不遜に言い放った。「なぜ私を招待しないの?」「……」「……」なんだろう…。たかりかな?准は、どこかで聞いた言葉を思い出した。だって、こんな風に父親に話す人なんて見たことがなかったし、大体、なんでそんなに偉そうなんだ?招待されたいなら、もっと謙虚になるべきじゃない?ちらりと父親を見ると、見事なまでの無表情だった。「パパ…」ここ、美月先生のうちの前だから、迷惑かけないで…。息子の不安を察した怜士はその背中をポンポンと叩いて宥め、ちらりと架純に視線を向けた。架純は、彼から静かに立ち昇る苛立ちにギュッと手を握りしめた。怖い…。でも、ここで逃げるわけにはいかない。自分は怜士の妻になるのだから!目の前の恐怖から一瞬逃げ出しそうになったがそう思い直し、キッと見つめ直した。大丈夫。彼はきっとまだ私に慣れていないだけ。そのうちこんなこと、笑って許してくれるようになるわ。だって、さっきあの女だってずいぶんと失礼だったわっ。それでも怒るどころか微笑ってたんだから、私だっていずれそうなるはず!架純は胸の内でそう自分に言い聞かせ、震える足をどうにか踏ん張っていた。藤原架純の家は代々地主として栄え、この百年近くで人脈まで広げ、歴史のある名家として幅をきかせていた。といっても、事業としては単なる不動産業を生業としているのだが、その資産を減らすことなく維持し続けているだけで人々からは敬われ、どうにか関係を築こうとする者たちからは媚へつらわれてきた。界隈ではそれなりに影響力があったし、従わせることのできる者たちもそれなりにいた。だからそれで良かった。これまでは。でも、今代の当主である架純の父は違った。彼は野心家だった。金があるだけでは駄目だ。そんなものは才覚があれ
last update最終更新日 : 2025-09-11
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94.迷惑

架純は怜士親子が車に乗り込むまで一時も目を離さず、その姿形が見えなくなるまで見送った。そしてくるりと向きを変えると、目の前にある玄関扉付近をジロジロと見回した。ピンポンピンポンピンポン!叩きつけるようにチャイムを押し、ついでに扉もガンガンと殴った。そうしてその後ろに人の気配が感じられると、彼女はようやくふんっと鼻から息を吐き出し、腰に手を当てて待った。「はい…」現れた人物のあからさまな迷惑顔を憎々しげに睨みつけ、高慢に言い放った。「あなた、なんのつもりで彼らに近づいてるの!?」「……」美月はまた厄介なのが残ったな…と思った。彼女の美しい顔は嫌悪にその眉を顰め、口調も自然と素っ気なくなった。「なんのつもりもありません。私はただのピアノ講師です」「嘘仰っしゃい!」「……」美月は、まるで断罪するかのように自分を睨みつけて言い放つ架純に、うんざりした。信じないのなら、それでいい。彼女には架純の相手をするつもりはなく、黙ってその偉そうな目つきを受け流し、扉に手をかけた。そして、またピシャンと閉めた。当然、鍵も閉めた。鼻の先で閉め出され、架純の怒りは一気に沸騰した。「ちょっと!!」ガンッ!と扉を打つ音がしたが、美月は無視をした。壊れたら弁償してもらえばいい。鉄製とかじゃないのよ。硝子をはめ込んだ扉なんだから、そんなにしたら割れちゃうわよ?そう皮肉げに、胸の内で呟いた。美月は希純と別れて以来、定期的に来る家政婦さんや庭師のお爺さんを除き、一人でここに住んでいた。その間時々訪れる新聞や保険のおじさんおばさんを、上手くあしらう技術も身に付けていたのだ。架純のような、所詮お嬢さまな人間のしつこさなど、何ほどでもない。「浅野美月!出て来なさい!」外で喚いているが、完全に無視をきめていた。美月の家には玄関や裏口、それに庭、と家に入る手段が何か所かある。その全てに彼女はカメラを設置し、24時間体制で監視していた。そして何か動くものがあったら、すぐさま録画がされるのだ。彼女が何か壊したりしたら、すぐに請求してやるつもりだった。例え、植木鉢一つでも。美月は奥のキッチンに引っ込んで、昼食の支度を始めた。「今日は…。夕方から一組ね」予定表を確認して、そう呟いた。美月のピアノ教室は、他とは少し違ったシステムを取り入れていた。
last update最終更新日 : 2025-09-11
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95.野望

怜士は美月からのクレームに眉を寄せた。そしてすぐに架純の父、藤原徳仁に電話をかけた。トゥルルルル…トゥルルルル…何度が呼び出し音がして、やっと相手が出たと思ったら、馴れ馴れしく『怜士くん』と呼ばれた。それで怜士の機嫌は一気に下降して底辺まで行った。「いつもそんな風に俺を呼んでいるのか?」『……』その地を這うような声音に、徳仁はサーッと血の気が引いた。彼にしてみれば自分は怜士の父親の同級生で、年長であるのだから、親しみを込めて名前を呼んだつもりだったのだ。だが、それが彼を怒らせたらしい…。徳仁は慌てて言い繕った。「も、申し訳ありませんっ。つい、友人の息子さんだと思って、軽く接してしまいました…っ」『……』目に見えない分、怜士の怒りがどの程度なのか分からなくて、ひたすら謝るしかなかった。徳仁は屈辱を感じていた。〝友人の息子〟とは言ったが、実際、聖一が自分を友人として認識しているのかは分からなかった。同級生ではあるが、彼はいつも自分たちとは一線を画していたし、バカ話の一つもしたことはなかった。彼は生真面目でルールを遵守し、いつも真田家の後継者として自分を律していた。また他人にも厳しく、ふらふらといい加減に生きている人間を軽蔑していた。若さ故の羽目を外した行動や、責任感のない言葉にも嫌悪を示していた。必然として、クラスメイトらから距離を取られていたが、全く気にもしていなかった。そんな彼に憧れを抱く者も多かったが、徳仁は少し苦手だった。彼は、自分のコンプレックスをひどく刺激する人物だったから。学生時代、友人たちは冗談交じりによく、自分のことを〝お公家さん〟と呼んだ。それは自分が細かいことを気にせず、鷹揚に彼らに対しているからだと思っていた。でもそうではないと、だんだんわかってきた。彼らは自分を、「地位はあるが力のないただのお坊ちゃん」と揶揄していたのだ。それに比べて、真田聖一には確かな力があった。ある時、「教務主任にセクハラを繰り返されている」と涙ながらに学校に訴えた女生徒がいた。だが校長も、学年主任も、果ては理事会も、誰もが彼女の訴えを退けた。校内の監視カメラを調べてくれと、いくら言っても聞いてくれない。挙句の果てには彼女に虚言癖があるなどと言い出し、一丸となって彼女を貶めようとしてきたのだった。その時徳仁は彼
last update最終更新日 : 2025-09-11
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96.嵐の予感

『聞いてるのか?』「…っ」耳元で、怜士の苛立った声がした。どうやら自分の考えに沈んでいた間に何事か言ったらしく、その返事がないことに気分を害したらしかった。ハッとした徳仁は、急いで言い訳をした。「失礼しました。突然でしたので、何かあったのだろうかと考えてしまいました」そう言うと、向こうからフンッと嘲るように鼻を鳴らし、嗤う音が聞こえた。彼にとって「年長者」というのは敬う対象ではないらしい。徳仁は、口元を引きつらせながらも愛想良く問いかけた。「今日はどういったご用件で?」すると、突き放すように言われた。『娘の管理をしっかりやれ』「…は?」仕事の話でもなく、娘について言及されるとは全く予想外だった。「どういうことでしょう?」『わからないのか?』そんなはずはないだろう?言外にそう言われて、彼は娘が最近特に浮かれていたことを思い出した。まさか…。「娘がご迷惑をおかけしたのでしょうか…?」恐る恐る尋ねると、冷たい声が返ってきた。『どうやら、俺の限界を試す気らしいな?』「いえ!滅相もありませんっ」そうして彼は、今日娘が怜士の息子の習い事の教師にまで会いに行ったことを告げられた。娘の性格からして、ただ会いに行ったとは思えない。おそらく怜士との仲を疑って、何らかの文句を言いに行ったのだろう。そもそもそんな権利は娘にないのだが、自分があまりにも彼女に幼い頃から言い含めたせいで、あの娘は怜士を自分のものだと思い込んでいるふしがあった。育て方を間違えた!いや…、怜士がこんな冷酷な男に育つだなんて、想像もしていなかった。真田家の教育はどうなっているんだ!?聖一も融通の利かない厄介な男だったが、怜士はもっと手に負えない。女の一人や二人、適当に角が立たないようにあしらうこともできないのか?何でもかんでも正面から切り捨てやがって!胸の中ではそう文句を言っていたが、徳仁は怜士にすぐ対処することを約束した。上手くいくかどうかはわからないが…。架純は名家の令嬢らしく、自らを美しく磨くことに余念が無く、幼い頃からの教育の賜物で頭も良く、気品もある。ただ気位が高いのが玉に瑕で、思い通りにならない事があると途端に腹を立て、相手を完膚なきまでに叩き潰そうとする傾向があった。その手段もあったことからそうした領域に踏み込むことも簡単で、一度
last update最終更新日 : 2025-09-11
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97.決裂

「お父さん」書斎のドアをトントンとノックして現れた娘に、徳仁は「帰ったか」と頷いた。彼は握っていた万年筆を置いて、目の前に立つ架純を見上げた。相変わらず気位の高い猫のような雰囲気で、父親である自分にすら愛想笑いの一つもしない。「今日は何をした?」「……別に何も」警戒心剥き出しで返事をする。自分が咎められていることを察したのだろう。徳仁はため息をついた。「真田怜士から連絡がきた」「え!?」一瞬にしてその顔に笑みが広がるのに、苦笑いをする。「変な期待をするな。お前をしっかり管理しろと忠告されただけだ」「……」父親のその言いように、架純は不機嫌を隠そうともしなかった。徳仁はそれを見て、やっぱり育て方を間違えたな…と苛立った。自分の気持ちをそのまま顔に出すなんて…愚か者が。教育をやり直すか?令嬢たちの中でのトップ、華となるべく育てたはずの娘が、こんな出来損ないになっているとは…。いったい何を間違えたんだ?いつから間違ってたんだ?どんなに考えても分からなかった。ただこうなってしまったからには、この愚かな娘がこれ以上怜士を煩わせて機嫌を損ねないように、しっかりと見張っておかなければならない。でなければ力をつけるどころか、逆に潰されかねない。真田家、とりわけ怜士にはその力も、能力もあった。徳仁は思わずぶるっと身体を震わせ、意を決して娘に言い渡した。「真田怜士は諦めろ。あれを怒らせるな」「は…?」架純は、怒りにその眉を勢いよく跳ね上げた。「どういうこと!?」最早、怒りを隠そうともしない。徳仁は深くため息をついた。「今日、彼の息子の教師に、何かしたんじゃないのか?」「してないわよ!」思わず父親のデスクを叩きつけ、ギリッと奥歯を噛み締めた。そうか、やっとわかった。あの女、怜士に泣きついたのね!?それで私がこんな事言われてるんだわ!架純は益々美月を嫌いになった。あの鉢植え、もっと壊してやればよかった!怒りに顔を歪める娘を、徳仁は冷めた視線で見つめた。「とにかく、お前は他に嫁がせる」「あり得ない!」父親を睨みつけ一歩も譲ろうとしないが、彼にはそんなこと、もうどうでもよかった。かつての事なかれ主義で、誰にでも等しく優しさを与えられた青年は、もういないのだ。彼は、自分の望みを少しでも叶える為に娘の架純を怜士では
last update最終更新日 : 2025-09-15
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98.妻・妹

希純は久しぶりに本家へと帰って来ていた。そして今、目の前に座る父親、佐倉純孝(さくらすみたか)に渡された資料に目を通して、眉を寄せた。「これは何だ?」その問いに、純孝ははっきりと告げた。「見合い相手の資料だ。しっかり読んでおけ」「は?」見合い?誰が?誰と?その意味に辿り着き、希純の資料を持つ手が怒りで白くなるほど握りしめられた。「そんなもん、するわけないっ」「……」純孝は激昂する息子を冷静に見つめ、静かに問い質した。「それは、この先独身を貫く…ということか?」「違う」答えがわかっているくせにわざとそんなことを言う父親に、希純は冷たい口調で言った。「俺は、美月以外の女と結婚するつもりはない」「離婚したじゃないか?」「今、そうなだけだ」「……」純孝は、呆れて物が言えない…とばかりに鼻を鳴らした。「復縁できると思っているのか?」「必ずする」父親を睨みつけながらそう言い切る希純は、おそらく自分でもそれを信じていないだろう。それでもそう口に出さなければ、身の置きどころがなかったのかもしれない。そんな息子に、純孝は深いため息をついた。「無理だ。諦めろ」「嫌だ」「……」頑固なところはいったい誰に似たのか…。純孝は、もうしばらく会っていない妻のことを思い出した。彼女は希純が3歳の頃この家を出て行き、それから25年、ずっと別居状態にある。彼が何度帰って来るように言っても頑として頷かず、元々事業の才覚があった彼女は、今では世界中を飛び回っていた。恋人関係になっているような男はいないようだったが、彼女の充実した日々はそのSNSに綴られていて、純孝も今や、それを見ることでしか彼女の姿を目にすることができなくなっていた。彼は言った。「女というものはな、一度〝こう〟と腹に決めたら、もう2度とそれを覆すことはない。お前の母親を見れば分かるだろう?」だから絶対に、何があろうとも、離婚だけはしてはならなかったんだ!「……」その言葉に、希純は我知らず拳を握り締めていた。後々知ったことだが、彼の母親、佐倉芳香(さくらよしこ)は純孝と婚約していた頃から、彼の幼馴染の存在を疎ましく思っていた。というのも婚約時代、2人の仲を深める為に度々一緒に出かけたり食事をしたりしていたのだが、いつも何かしらの理由をつけて同席したり、あるいは純孝
last update最終更新日 : 2025-09-15
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99.齟齬

そんな過去を思い出していると、突然父子の間に澄んだ声が割り込んだ。「どうしたの?何か、深刻な話?」「……」「……」現れたのはまさに今口にしていた純孝の〝妹のような幼馴染〟、森悠(もりはるか)だった。彼女の装いは薄緑色のワンピースで、膝丈の裾が歩く度にひらひらと靡いてその細い脚をチラつかせていた。余計な装飾品もなく、パールの控えめなイヤリングと揃いのブレスレットが、その清楚な雰囲気に似合っている。「悠…」純孝の戸惑ったような声音に彼女はにっこりと微笑み、次に希純に向かって優しく嗜めるように口を開いた。「希純、また何か困らせるようなことを言ったの?あなたも佐倉グループの社長なんだから、そんな子供じみたことしたら駄目じゃない」「……」「……」2人は理解した。これはあまりにも酷い。調子に乗りすぎている!と。そもそも悠は佐倉家の使用人の娘だ。どこぞの名家の娘などではない。シングルマザーだった彼女の母親を不憫に思った前当主夫人、純孝の母親が、母娘で住み込みで雇っていたに過ぎない。子供の頃は雇用主や使用人といった関係や分別がつかなくても特に気にしていなかったが、今もまだこんな風だとは、希純には到底看過できなかった。「出て行け」「え?」きょとんと首を傾げる悠に、希純は苛立った。「出て行けと言っている」「……」突然の厳しい口調に、悠は一瞬にして涙を滲ませ、純孝を見つめた。〝助けて〟と訴えるその眼差しに、純孝もつい可哀想になり口を出そうとしたところ、ジロリと息子に睨まれてしまった。「希純…」「馴れ馴れしく呼ぶな。自分を何だと思ってる?」「わ、私は…あなたの叔母よっ」彼女がそう言った途端、希純はバカにしたように鼻を鳴らした。「お前は赤の他人だ。それとも何か?自分を佐倉家の令嬢だとでも思ってるのか?」「!」悠の身体が震えた。そしてその身体がふらついた時、純孝はつい習慣で咄嗟に支えようと腕を伸ばそうとして、ピタリと止まった。希純が、氷のような眼差しで見つめていたからだ。それはそう、いつかの妻のように…。「俺は数年ぶりに会いましたが、どうやら父さんは違うようですね?」「……」図星だった。純孝は、妻が怒った理由を「勝手に息子に触らせたから」だと思っていた。だからあれ以来、悠には最低限しか希純に会わせないようにしたし、彼が成長し
last update最終更新日 : 2025-09-15
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100.終局

純孝は今更のようにそれに思い至り、恥ずかしくなった。昔、芳香が出て行って、使用人がいるとはいえ息子にまで手が回らず、彼女自身が手助けを申し出てくれたこともあり、毎月いくらかの手当てという名の支援を施してきた。それは、小さい子の面倒を見るということは彼女自身の時間を少なからず犠牲にする行為だった為、その申し訳なさから支払っていただけだった。支払い自体は〝使用人の給与〟ということで執事に任せていた為、その後、純孝の意識からそのことは忘れ去られていった。些事だったからだ。そして今、希純がそれに言及したことで思い出し、彼自身も未だにそれが支払われていたことに驚いていた。悠は自分の秘書として既に10年も働いている。本来ならば高い専門性や知識を必要とする職業である為、その給与は一般社員よりも高く設定されている。悠はこれにまったく沿わない履歴だったが、純孝はあえてそれを無視してまで彼女を優遇してきた。今彼女は、希純とは関わりなく秘書の仕事しかしていない。それも殆ど覚束ないというのに、その金までまだ受け取っていたとは…。ここまで厚かましいと、もう呆れるしかない。道理で芳香から、「特別扱いも大概にしろ」と注意されるはずだ。純孝は己の失態に苦笑した。「俺のミスだから、働き出してからも受け取っていた分は返さなくていい。だが、今月からはないと思ってくれ」「そんな…」悠はあのお金に、まさか〝使用人としての給与〟という意味があったなんて思っていなかった。あれは純孝からの好意。〝お小遣い〟だと思っていたのだ。だから自分は彼から特別に思われている。可愛がられている。そう思い込んでいた。それが、ただの〝給与〟だったなんて…。悠は絶望に沈んだ。彼女はもう今の贅沢な生活に慣れきっていた。実際毎月得るお金の半分がその〝使用人としての給与〟だったので、それがなくなるというのは耐えられなかった。「お願い…そんなことしないで…」憐れを誘うように言う悠に、純孝は眉を顰めた。「なぜだ?秘書としての給与だけでも、十分に生活できるだろう?」「無理よ!」涙の滲んだ目で睨みつけてくる悠に、首を捻った。いったいどんな生活をしたら無理なんだ?そう思ったが、一社員の給与交渉などは自分の仕事ではない。だからアドバイスだけ与えた。「昇給が望みなら、資格を取得して仕事に役立
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