All Chapters of あなたからのリクエストはもういらない: Chapter 81 - Chapter 90

126 Chapters

81.悲哀

ポタ…ポタ…ポタ…髪の毛から薄赤い雫が落ちるのを、奈月は俯いたまま見ていた。髪の毛だけじゃない。その水滴は彼女の額から鼻筋、頬から顎を伝って、綺麗なサファイアブルーのドレスも汚していた。「あら、ごめんなさい?」そう言ってふふふっと笑う、かつての友の声が奈月の耳に入った時、彼女はぎゅっと拳を握りしめた。「わざとじゃないの。許してくれるわよね?」「……」この女!!わざとじゃないと言いながら、ゆっくり手にしたグラスをテーブルに戻し、次に彼女はそこにあった菓子を手掴みで奈月に差し出した。「どうぞ?美味しいわよ?」「……」この光景を見ていた周りからクスクスと嗤う声が響き、奈月の身体が怒りでぶるぶると震えだした。「なんのつもり?」歯を食いしばって今にも爆発しそうな怒りを飲み込み、奈月は濡れた髪をかき上げて顔を上げた。「私からのプレゼントを首に巻いておいて、言うセリフじゃないわよね」「!」彼女は今気がついた、とばかりに顔を赤く染め、急いでお気に入りのスカーフを乱暴に外した。手に持っていた菓子は、テーブルに投げ出された。下品ね…。奈月は常に周りの目を意識する生活を送っていたせいか、こういった振る舞いはまずしなかった。令嬢教育などしなくても、こんな振る舞いが品のないことくらいわかる。彼女は、まるで犬にエサをやるように、自分に菓子を与えようとしたのだ。手掴みで!これは、奈月のプライドにかけて許さないと決めた。「あんなに私に媚びへつらってお溢れを貰おうとしてたくせに、チャンスと見れば噛みついてくるなんて…。犬畜生にも劣るわね」「な…!」奈月にワインをかけていい気になっていた彼女は、この言葉に怒りを爆発させた。「なによ!男の為なら不倫も辞さない淫乱女が!調子に乗ってるんじゃないわよ!!」「不倫?誰が?」「あなたよ!」こんなに噂されているのに、まだ認めないつもり!?そう思って、彼女は奈月に指を突きつけた。「あなた、お姉さんの旦那に手を出したんでしょ!皆知ってるのよ!」「私が?」キョトンと首を傾げる奈月は、知らない人が見たら本当に無垢な表情をしていた。その、「何もしていません」という顔が、彼女は嫌いだった。いつも得意気で、何もかも佐倉希純のおかげのくせに、まるで自分の手柄のように振る舞っているのが気に入らなかったのだ。
last updateLast Updated : 2025-08-27
Read more

82.その後

ピンポーン…ドアチャイムが鳴って、美月は監視カメラに映る人物に頭を抱えた。また来た…。なんなの?暇なの!?そこには小さな花束を手にした彼女の夫、佐倉希純が立っていて、ソワソワとカメラの向こう側を窺うように見つめていた。『帰って』プツッ…美月はそれだけ言うと、すぐさまマイクを切った。「あ…!」希純は一言も喋る隙を与えられず、眉を寄せた。数日前、奈月に「二度と近づくな」と言って以来、彼は美月を探していた。始めは意気揚々と精華ホテルに向かったのだが、フロントで既に彼女がチェックアウトしていることを告げられ、あちこちのホテルや別荘など、とにかく人が滞在できそうな所はすべて探した。けれどどこにも居なくて、発狂寸前のところでふと、このマンションの事を思い出したのだった。彼女が祖父母に贈られて、大切にしていたこの場所。ここを彼女に許可なく売った時、彼女は激しく自分を責めてきた。この時の自分は、奈月が欲しがったから…という理由以上に、美月の中で、自分よりもこの場所の方が大切なのかという思いがあって、処分してしまいたかった。だから言った。「ただのマンションだろ?しかも、他人が住んだ後なんて、もう中古物件と同じじゃないか。売ってしまっても問題ないだろう?」そう言った後の彼女の顔は、覚えていない。後ろめたさから、正直直視できなかったのだ。思ったのは、どこの誰とも知れない人物に売るんじゃない。妹の奈月に渡すのだから、彼女が所有しているのと変わらないじゃないか?そう、言い訳していた。でも結局、奈月の手にも渡らなくて、他人の物になってしまった。それを知った時、希純の中で美月に対する負い目がしっかりと根づいてしまい、心の中に言いようのない不安が巣食ってしまった。そして今思えば、それ以来美月は、自分に対して以前ほどの愛情を示してくれなくなったようだった。何を贈っても愛想笑いで「ありがとう」と言うだけ。気に入らないのかと訊けば「そんなことはない」と首を振り、でも、それらを使っているところを見たことがなかった。そうした事が続いていくにつれて、自分も美月に対して自然と距離をおくようになっていった。気持ちが冷めたのではない。ただ、どう接したらいいのか分からなくなったのだ。今ならわかる。あの時、自分は彼女にきちんと謝り、マンションを取り戻すべきだ
last updateLast Updated : 2025-08-27
Read more

83.策略 〜未来へⅠ

「尚…話しがあるの」ある日、真剣な顔の美月にそう言われ、如月尚は首を傾げた。「なあに?」昨夜から泊まりに来ていた親友は、彼女にしては少し大人しめなネグリジェに上着を羽織り、くぁ…と欠伸をした。美月はそんな彼女に紅茶を淹れてやり、改めてソファに腰を落ち着けると言った。「逃げようと思うの…」「…?」寝起きだからだろうか。今、何か不穏な単語を聞いた気がする。自分の言葉に何も応えず、カップに口をつけている尚に、美月は焦れたようにまた言った。「このまま待ってても、希純は離婚届にサインしないと思うの」「うん」「だから、逃げようと思うの」「……」尚はそれを聞いて、静かにカップを置いた。実際には思考停止に陥っていて、ただ自然な動作としてカップを置いただけだった。でも美月は、彼女のその落ち着き具合に緊張していた気持ちを緩めて、ニコッと微笑った。「驚かないのね?」「……」いやいや、驚いてるよ!なんで!?なんで逃げる必要があるわけ!?尚の頭の中はパニック状態だった。でも悲しいかな。彼女の性格上、〝慌てふためく〟姿を人目に晒すことはなかった。彼女はふぅ…と息を吐き、目の前に座る親友を見つめた。「どうしてそうしようと思ったの?」「言ったでしょ?いつまでもサインしないからよ」「逃げたら離婚できるの?」「いいえ…」美月は尚の、問い詰めるかのような質問にゆるゆると頭を振った。そして、子供の癇癪のように言い募った。「だって!もう嫌なの!毎日毎日会いに来て、うんざりなの!」確かに「帰れ」と言えば素直に帰るけど、そういう問題じゃないの!あの顔を!もう見たくないのよ!!「……」その主張を黙って聞いていた尚は思った。なるほど。彼女の人の好さにつけ込んでるのね。罪悪感を刺激しようって感じかしら…?まったく、あの男は!面の皮が厚いわね!でも、尚は言った。「賛成できないわ」「え…なぜ?」美月は驚いた。尚なら一も二もなく賛成して、協力してくれると思っていたのだ。まるで、ひどい裏切りにでもあったように、悲しげに眉を寄せる彼女に、尚はなぜ反対なのか説明した。「あの男のしつこさは、あなたがよく分かってるでしょう?」だから、何処へ逃げても〝無駄〟なのだ。「あの男なら、何処へ行こうと追ってくるわ。それができる男でしょう?」「ええ…」美
last updateLast Updated : 2025-08-27
Read more

84.策略 〜未来へⅡ

ピンポーン…来た…。美月は一度深呼吸をして、応答した。『上がって。話しがあるの』「…わかった」希純は驚いた。今日もいつも通り、「帰れ」と言われると思っていたので、期待も何もしていなかったのだ。それが、「話しがある」と部屋に通されるとは思わなかった。もちろん、彼女の言う〝話し〟が離婚のことだとは思うが、それでも久しぶりに彼女に会えるのだと思うと、胸が高鳴るのだった。ピンポーン玄関前に着いてチャイムを鳴らすと、間を置かずにドアが開いた。そしてそこには、相変わらず繊細で美しい顔の妻がいて、自分を見つめていた。希純の胸が震えた。「美月……」思わず抱きしめようと腕を広げて近づくと、彼女がサッと避け、彼の心臓にズキリと痛みを与えた。「なんのつもり?」「……」その冷たい眼差しと声音にも、心が締め付けられるような気がした。「そこまで嫌わなくても…」「自業自得でしょ」背を向けながら言われて、希純は苦笑した。そして彼女に続いて部屋に入り、リビングの大きなソファに座った。美月はキッチンでお茶を淹れているらしく、その間、希純は目の前のローテーブルに置いてあった封筒を手にとって、中身の確認をした。それは案の定、離婚届だった。彼女のサインは、しっかりと書かれている。希純はため息をついてそれを元に戻し、テーブルに置こうとしたところ、足音がして美月が現れた。「どうぞ」目の前に小さな音をたてて置かれた湯呑みから、爽やかに匂い立つ香りがした。口に含むと、一番茶のようだった。「美味いな…」希純は、妻がこれほど上手く茶を淹れられるとは知らなかった。考えてみれば、自分は彼女に何もさせなかった。それが愛情を示していると思っていた。「……」美月は黙ってそんな夫を見つめ、それから静かに口を開いた。「希純…お願いよー」「離婚はしない」彼女の言葉を遮って、断固とした口調で告げた。それを聞いて、美月はその形すら美しい眉をそっと寄せた。「始めからやり直したい…て言っても?」「え…」聞き間違いかと思った。希純は、美月が自分と離婚したいのは次の相手を見つける為だと思っていた。もしくは、既に見つけた相手と一緒になる為だとー。それが、なんだって…?「やり直したい」?彼女は本当にそう言ったのか?目を見開いて見つめてくる希純に、美月は神妙に頷い
last updateLast Updated : 2025-08-27
Read more

85.それから〜希純Ⅰ

2年と少しーピロン1年くらい前、新しく友達になった相手からメッセージが送られてきた。『こんにちは、美月さん。希純社長、昨夜はずいぶんと酔っ払ってしまって、ご自宅にお送りするのが困難でしたので、私の家にお泊めしました。単なる事故ですから、怒らないでくださいね』「……」わ〜、早〜い…。美月の感想といえば、それだけだった。希純から離婚届のサインを貰った次の日、早速市役所に提出して、独身に戻った。そして、美月は街を離れて田舎へと引っ越した。それを知った希純からはしつこく理由を訊かれたけれど、適当に「疲れたからしばらく休みたい」のだと伝えた。始めの頃、彼は1週間に一度は必ず会いに来て、食事をしたり一緒に散歩をしたりして過ごしていた。時間がなくても、お茶をするだけの為に通って来ていた。田舎とは言っても車で3時間も走れば着く距離だったからか、かなりマメに来ていたと思う。だが、それが徐々に2週間に一度になり、ひと月に一度になり、今や忘れた頃にほんの少しだけ会いに来る…という感じになっていた。原因は、このメッセージの送り主だろう。あれだけ「愛してる」だなんだ言っておいて、やっぱり彼はこういう男だった。尚の言う通り、〝やり直す〟というワードが彼に安心感を与えて、構わなくても自分が逃げていくことはないと思ったのだろう…。バカな男。ちゃんと言ったのに。「信じてない」って…。引っ越して1年くらいしたある日、見覚えのない名前から友達申請されて、許可した途端に、まず挨拶を装った挑発が送られて来た。『はじめまして。この度、希純社長専属の生活アシスタントになりました、篠原莉子(しのはらりこ)と申します。誠心誠意お世話させていただきますので、よろしくお願いいたします』とまぁ、こんな感じだった。美月にはわかった。これは彼女への〝挑発〟だと。でなければ、なんだというのか?既に離婚して、妻でもない自分にこんな挨拶をしてくるなんて。こんなものは、前世で嫌というほど奈月からもらったから、もう慣れすぎて腹も立たない。しかも、希純のことなどもうなんとも思っていないので、「勝手にしてくれ」という感じだ。美月はふふっと嗤ってそのメッセージと、一緒に送られてきたベッドで上半身裸で眠る元夫と、彼のシャツをパジャマ代わりに着た女性の姿が、鏡越しに見える写真を保存した。
last updateLast Updated : 2025-08-27
Read more

86.それから〜希純Ⅱ

「美月!」我慢がならず、希純は庭先に飛び出した。そこには彼の妻と、彼女の親友で作家の如月尚がいた。如月尚の顔は面白そうにニヤついていたから、この女が、自分がいる事を知った上であんな事を言ったのだと、すぐに理解した。そして、美月は。彼女の視線はまるで刺すように鋭く、氷のように冷たかった。「美月…違うんだ……」そう口にすると、彼女は嘲るように嗤った。「へぇ…。何が違うの?」そう言ってスマホを起動させ、ある写真を見せてくれた。「!!」そこには、信じられない光景が写し出されていて、希純は思わず一歩、後退った。「説明して」低く抑えた彼女の声は怒りに染まっており、きっと今は、どんな説明も聞き入れてはくれないと思わせた。だが、これだけは言わなければならない。「美月、誤解だ。彼女とはそんな関係じゃないっ」「……」その視線は、疑わしそうに眇められていた。「彼女に嵌められたんだ!俺はただ、本当に酔っ払ってて…。目が覚めたら、彼女の部屋にいただけだ!」「証拠は?」「え…?」「ないの?口では何とでも言えるわ」あの、優しかった美月が。自分に再び「信じさせてほしい」と言ってくれた美月が…。希純は顔を青褪めさせて、言い募った。「証拠は絶対に探す!」「でも、婚約するんでしょう?」無邪気に首を傾げて尋ねる彼女に、心臓が針で刺されたように痛んだ。「しない!する訳がない!!待っててくれっ。必ず証拠をつかんで、潔白を証明してみせるから!」「そう…」微かに頷いた美月を見て、希純は急いで去って行った。「今更ね……」美月は呟いた。そもそも証拠なんか、残しているはずがない。余程のバカでない限り。彼は罠に嵌められたと言うが、彼の警戒心はゼロなんだろうか…?もうその時点で、この彼女を特別に扱っていることに、なぜ気づかないのか…。「まぁ、いいわ」どんな〝証拠〟を持ってくるのか、楽しみだ。美月はそう思って、ふっと微笑った。そして。あれから半月が経とうとしていた。『来た?』定期連絡のように来る尚からのこのメッセージに、美月は苦笑して返信した。『来ない。たぶん、もう来ないわ』ピロンー速攻で返事が来た。『上々』「……」美月はそれを見て、静かにスマホを置いた。世間は、希純の婚約式の噂で持ちきりだった。あれ以来彼がここに来ないのも、そ
last updateLast Updated : 2025-08-27
Read more

87.それから〜希純Ⅲ

美月の元から戻った希純が、ふらふらと足下も覚束ずにオフィスに入る様子を、中津はじっと見ていた。この人は、本当に世話が焼ける。彼はふぅ…と息を吐き出し、「社長」と声をかけた。希純はふとデスクから彼を見上げ、眉を下げた情けない顔で言った。「美月に、今度視界に入ったら殺すって言われた…」「ああ…」言われるだろうな、そりゃあ…。中津は大きなため息をついた。「だから言ったでしょう?〝当て馬〟なんて逆効果だって」「でも…」そうなのだ。始め、中津も希純が突然雇用した〝生活アシスタント〟なる女性に、激怒した。美月に会う為、彼の生活が機能しなくなっていることは知っていた。でも、だからといってなぜ、そんな訳の分からないアシスタントを雇わなければならない!?家政婦や使用人でいいじゃないかっ。自宅の生活が上手く回らないのを補うのに、なぜわざわざ会社での地位を与え、いつも一緒にいる必要があるんだ!?病気か!?だったら、専属医を雇え!そう腹立たしく思っていたので、その怒りを十分の一くらいぶつけた。そうしたら、彼は言ったのだ。「実は彼女は、美月を嫉妬させる為の〝当て馬〟なのだ」と。アホだ…。また女に騙されている…。そう思ったから、そう伝えた。「彼女に当て馬は逆効果です。それは、〝好意はあるのに素直になれない〟場合にのみ有効な手立てであって、あなたへの信用を失っている相手に使うものではありません」「いや、でも。莉子がこれが一番手っ取り早いって言ったんだ」「莉子…?」なぜ名前呼び?ジロリと睨むと、希純は慌てて言い訳した。「いやいや、意味はない!彼女が、より親密に見せた方が効果的だって言って、名前で呼ぶようにって…」後半、だんだんと声が小さくなっていくのに、中津も呆れてゆるく頭を振った。「こんな小娘の言い分を信じたんですか?」「……」わかる。たぶん、藁にも縋る気持ちだったんだろう。だが…。「結果、どうなりました?」そう言うと、希純ははぁ…とため息をついた。「最悪だ…」頭を抱えて沈んでしまった彼に、だが中津は容赦なく言った。「彼女を訴えましょう」「は?」目を瞬く希純に、中津は言い募った。「あなたは取り返しのつかない写真を多数撮られています。しかも、2人きりで食事をしたり、デートまがいの事もしています。彼女がこれを世間に公表
last updateLast Updated : 2025-08-27
Read more

88.再びⅠ

『篠原莉子は詐欺師です。誤解のないように』「……」美月は久しぶりに送られてきた中津からのメッセージを見て、ふんっと鼻を鳴らした。なんだっていいわ。結局、あの人に隙があったってことでしょ?そう思って、ただ『わかりました』とだけ返した。それから少し考えて、希純と中津、2人とも全ての連絡先をブロックした。もう離婚したし、いらないわよね。美月は満足気に微笑った。篠原莉子は…。うん。彼女はタダで証拠をくれるし、残しておこう!皮肉にも、彼らの敵となった莉子が、美月と連絡を取れる唯一の人間になった。彼らはまだそれに気づいてはいないが、どうしてもという用があるなら、なんとかするだろう…と美月は楽観視した。それからしばらく、美月の周りは穏やかな日々が流れた。だが世間では、佐倉グループ社長の佐倉希純が、自身のアシスタントを訴えたというニュースが話題をさらっていた。ただの案件ではない。それが、元妻を取り戻す為に計画したものが全てそのアシスタントの策略で、嫉妬をさせる為だと偽られ、親密なふりをしたり写真を撮られたりし、しかもそれをさも事実かのように偽って元妻に送っていた形跡があり、彼女と修復不可能な状態にされた…というのだ。より親密に見せる為にしたことを〝証拠〟として、世間的にも2人の仲が本物だと誤解させ、名誉を著しく失墜させた、と訴えたのだ。希純は、自分が彼女に〝騙された〟として、その間に支払った給与や贈り物の返還を求めた。このニュースを聞いた世間の反応は〝失笑〟だった。確か彼はほんの少し前も、元妻の妹と曖昧な関係にあったはずだ。それで離婚になったのに、なぜまた同じような事をしているのか?なぜそれで、元妻とよりを戻せると思ったのか?頭悪いんじゃない?主に女性からの評価が低く、男性からは苦笑された。「大丈夫ですか?」「ああ…」オフィスでため息をつく希純に、中津が言った。「でもこれで、世間にはあなたがアシスタントに〝騙された〟被害者であると認識されました。よかったですね」「…よかったのか?」ちらりと中津を見た希純は、想像以上の世間からの失笑と同情に打ちのめされていた。〝マヌケ〟〝情けない〟〝恋愛下手〟〝チョロ男〟などなど、今までのイメージとはまるで違う印象を世間に浸透させてしまったことに、頭を抱えていた。だが、中津は意外そうに言っ
last updateLast Updated : 2025-09-03
Read more

89.再びⅡ

怜士は、息子と目を合わせて訊いた。「本当に、彼女でないと駄目なのか?」それに真剣な表情で頷く准に、彼は言った。「なぜだ?」准は僅かに躊躇った後、小さな声で言った。「ママに似てるから…」「ママに?どこが?」「ピアノが大好きで…パパに興味がないところ……」「……」傍に控えていた井上は、それを聞いて絶句した。怜士はふむ…と考えた。確かに。妻も自分に過分な興味を示さなかった。愛してはくれていたが纏わりついたりせず、一定の距離を保っていた。いつもいろんな奴らに纏わりつかれてうんざりしていた怜士はそれが心地よく、言ってしまえばそれで彼女との結婚を決めたようなものだった。ただでさえ忙しいのに、妻の機嫌などそんなしょっちゅう取っていられるか、と思っていたのだ。ゴタゴタはあったが、その後の生活の快適さを考えれば、両親が勧めるような女との結婚を避ける為にも、彼女を妻にしたかった。彼女は彼女で、とにかくピアノが続けられる環境を提供できて、かつ、愛情を抱ける相手なら誰でもいいという心情だった。初めてそれを聞いた時、少なからずショックではあったが、やはり〝まぁいい…〟と納得した。そうして結婚したのだが、彼女が産んだ息子は想像以上に愛らしく、怜士の母子に対する気持ちも徐々に深くなっていったのだった。それなのに、まさか彼女があんなに早く亡くなってしまうとは…。分かっていたらもっと2人の時間を取って、愛情を深めることができたのに…。怜士はこれまでの人生で、これが唯一後悔していることだった。それが今、准によって美月が妻と同じだと言われ、ほんの少し彼の興味を誘った。一方。「……」〝ママと同じ〟というワードに反応した父親に、准は俯いたまま僅かに口角を上げた。准は分かっていた。父親が未だに母親を忘れられないことを。でも准は違う。母親は自分を可愛がってくれてはいたが、それはいつも彼女に余裕がある時で、決して何を差し置いても…という訳ではなかった。それは〝愛してる〟と言えるだろうか…。僕はペットじゃない。准はいつも思っていた。ママが一番大切なのはピアノであって、家族じゃなかった。パパですら、ママがピアノに没頭しているところを邪魔すると不快感を示されていた。パパは気にしていないようだったけど、自分は違う。そういう意味では、以前うちに来てい
last updateLast Updated : 2025-09-03
Read more

90.再びⅢ

「准、この日曜日は空けておきなさい」「!」そう言われた時、准は父親が約束を果たしてくれるのだと思った。「美月先生のところに行くの!?」飛び上がって喜ぶ息子に、怜士は微笑んだ。「そうだ。でも、レッスンのお願いは自分でしなさい。パパは連れて行ってあげるだけだ」「はい!」准は本当に嬉しかった。美月がくれるただ自分を想っての優しさは、自分を幸せな気持ちにしてくれた。他の人みたいに、父親のオマケのような扱いなど、彼女は一度もしなかったから。それだけで、美月は准にとって特別な人だった。准の機嫌が一気に上昇していったことに、怜士もまた考えざるを得なかった。やはり、彼女しかいないのか…?別に、准の為に毎週車を走らせてレッスンに通わせることなど、なんてことはない。聖一にまた彼女と関わることへの説明をするのは面倒ではあるが、直接関わるのは准だけだと言えば、なんとかなるかもしれない。実際、彼女に下心などないしな。怜士は、再び自分と会った美月がどんな顔をするのか想像して、ふっ…と微笑った。きっと、面倒な奴が来たと嫌な顔をするだろう。それを思うと、怜士もまた週末が楽しみになってきたのだった。その頃。これ、もういらないかな?スマホに残る篠原莉子の連絡先を見て、美月は考えていた。昨夜、如月尚から連絡があって、希純が莉子を訴えたことが話題になっていることを聞いた。美月は、幼い頃からレッスンに明け暮れていたのでテレビを見る習慣も、下世話な噂話に耳を傾ける趣味も時間もなかった。しかも今は彼らとは距離をおいていたので、実はこの事を全く知らなかったのだ。どうりで、最近は彼女から〝証拠〟が送られてこないと思った。美月は少し残念に思った。今度はどんなバカバカしいことをやらかしているんだろう…と、ちょっと楽しんでいたのだ。自分に関係がなくなった途端、彼らがどんなに空回って勝手に騒いでいるのかが分かって、本当に縁を切って良かったとホッと胸を撫で下ろしていた。彼女の〝証拠〟は、また懲りずに絡んできた場合の保険だったので、それが丸ごと世間に晒された以上、もう自分が持っている価値はなくなった。それならば、こんなゴミは捨ててしまおう。美月はなんの躊躇いもなく、削除した。そして明日の予定を確認して、新しくレッスンを希望して親子が教室に挨拶に来ることを思い出し
last updateLast Updated : 2025-09-03
Read more
PREV
1
...
7891011
...
13
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status