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171.佐倉希純(今世)Ⅰ

今世ー「社長、まだ決められないんですか?」「ん?」いや、ん?じゃなくて!中津は目の前で、どこかうきうきとスーツを選んでいる希純を見て、げんなりとした。オフィスの中にある小さなクローゼットには、急に必要になった時用に喪服と他、何着かの着替えが用意されている。希純は今その前に立ってあれこれとスーツを選び、その度に中津に「どうかな?」という視線を向けてくるのだ。そして中津は、律儀に「それはちょっと暗い」とか「華やかすぎて浮きそう」だとかアドバイスをしていたのだが、その時間が長くなってくると段々面倒くさくなってきた。も〜、いったい何分こんなことやってんだ?どれでも一緒だよっ。チラリと腕時計を見て、彼は希純を急かした。「社長、早く選ばないと、裸で行くハメになっちゃいますよ!」「ハハッ、何言ってんだー」そう言いながら自身も時計を見て、急にバッ!と勢いよく振り向いた。「おい!もうこんな時間じゃないか!なんで言わないんだよ!」え〜、言ったし…。なんだったら急かしたし…っ。中津は不満げに口を尖らせると、希純を無視して勝手にクローゼットを漁りだした。「おい!」彼は希純の怒りになど頓着せず、パッパとスーツの上下、それからそれに合ったシャツとネクタイを選び、「はい!」と押し付けた。「これで!」「……」無言で眉を顰める希純に、中津も無言で更にぐいっと押し付けた。やがて、仕方なさそうにため息をついてそれを受け取った希純を着替えに送り出し、中津ははぁ…と息を吐き出した。今日は、美月のコンサートが開催される日だった。希純は当初、海外で仕事を進めていた為このことを知らなかった。だが帰国後その情報を得て、なんとかチケットを買おうとしたのだが既に完売で、泣く泣く諦めていた。その為、彼は今後このようなことがないようにと美月のファンクラブに入会し、万全の体制を整えることにしたのだった。そうしていたところ、そのファンクラブからの通達で【当日チケット特別販売】があることを知り、こうして出かける準備に余念がないという訳だった。開演にはまだまだ十分に時間がある。だが枠の少ないチケットを手に入れる為には、早めに行かなければならない。今朝。希純は、中津を呼んで重々しく言い渡した。「今日の分の決裁は午前中に全て済ませる。俺は午後から出かけるから、後は頼むぞ」「
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172.佐倉希純(今世)Ⅱ

実際、中津は彼がチケットを手に入れられないことを予測していた。美月は今や老若男女を問わずに人気のあるピアニストで、大人が愉しむクラシックオンリーのものや、子どもも楽しめるいろいろな楽曲を集めたものなど、様々な形のコンサートを開催していた。たまには他楽器の演奏者をゲストに迎えながら合奏をしたり、抽選で選ばれた彼女のファンを招待して即興で連弾したり…ととにかく趣向を凝らしたコンサートが人気だったのだ。今回の〝特別販売〟は、チケット完売後にも拘らず問い合わせがあまりにも多かった為、本来ならば空けておいた最後列の席を当日券として販売することに、急遽決めたのだった。そういった理由で席数も僅かで、実は徹夜組もいるという情報を得ていた中津は、午後から行ったところでこのチケットは到底手に入れられないだろうと思っていた。彼は今、目の前で真面目に資料に目を通している希純を見て、会議の進行が遅れないように気を遣った。なぜなら彼には今日、就業後に予定があったからだ。残業も一切無しで帰りたい。その為にはー「はい、ちゃっちゃと資料読んじゃってくださいね〜。あと30分で会議始まりますよ!」「少し遅らせてー」「無理です」断固としてきっぱりと断られた希純は額に青筋を立てながらも、結局は中津の言う通り資料に集中した。そして全て読み終え、ふぅ…と息をついたところで他の業務の為に側を離れていた彼を呼び出した。『はい、中津ー』「終わったぞ」そう言って、返事も聞かずに電話を切った。中津は既にツーツー…と鳴っている音に苦笑して、手元の業務を片付け席を立った。コンコン!オフィスのドアをノックして開けると、そこには少し不機嫌そうな顔の希純が待っていた。「遅いぞ。何してた?」「すみません。明日の午前中はゆっくり出社していただけるように、前倒しで書類の整理をしてました」「っ……そうか」「はい」にこやかに告げられて、希純は不満を口にし辛くなってしまった。なんだよ。そういう気遣いできるならチケット取っといてくれよ。心の中でぶちぶちと文句を言って視線を逸らした。そうして彼は目を通した書類を手に、中津を連れて会議室へと向かったのだった。*会議後。「はぁ〜、疲れたな…」「お疲れ様でした」中津はオフィスに入るなり、グーッと背伸びをした希純を労った。今回の会議は重要度
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173.結末(今世)

就業後。希純はさっさと仕事を終わらせて、中津の挨拶もそこそこに会社を後にした。運転手も、昼間の沈んだ様子の社長を見ていたので自然と顔に笑みが浮かび、問いかけた。「チケット、手に入れられたのですか?」車に乗り込んだ途端にホールへ向かうように言われ、始めはなんの為に?と疑問に思ったが、その嬉しそうな様子から事情を察して尋ねたのだ。「ああ。中津がくれた」「そうですか。よかったですね!」最近の社長はとても親しみがもてていいと思う。以前はなんだかピリピリしていることが多くて、中津さんがいない時はこんな風に話しかけたりできなかった。運転手の男は、バックミラーに映る希純の緩んだ目元を見て、感慨深げに微笑んだ。ホールに着き、ドアを開けて見送った時なんかは、さらっと「お疲れさま」とまで言われた。「ご連絡頂ければお迎えに参りますが?」そう言うと、彼は後ろ手に軽く振って「いいよ」と言った。そのご機嫌な後ろ姿に、男は丁寧に一礼した。*開演前のざわつきの中、希純は自分の隣が2席空いていることに気がついた。こんないい席なのに、まさか遅刻か?開演後に来ても、演奏中はもちろん会場に入れない。しかもこんな前の方なら、目立つこと間違いなし。希純は自分のことでもないのに、妙にそわそわとしていた。そこへー「お疲れ様です」「?」聞き慣れた声に振り向くと、そこには一人の女性を連れた中津の姿があった。「お前も来たのか?」眉を顰める上司にも怯まず、中津はニッコリと微笑んだ。「はい。彼女と一緒に」「井藤花果です」「……」その緩んだ顔に苛つきながらも、側でペコリと頭を下げた女性に視線を向けた。「こんばんは」「こんばんはっ」初めてあった中津の彼女は、可愛らしい感じの女性だった。彼らは希純を越えて隣に中津、その隣に花果が座った。2人は「間に合ってよかったね」「遅刻するかと思ったよ」などコソコソと囁きあっていて、希純は少しだけ疎外感を覚えた。そこで「彼女は如月尚のファンなんじゃなかったのか?」とそっと尋ねてみたのだが、振り向いた中津に「別にファンじゃなくても、来ていいでしょ」と冷たくあしらわれ、希純はそれ以上話しかけるのをやめた。その内コンサートが開演し、彼も舞台に集中して隣にいる2人には見向きもしなくなった。今回はクラシックだけのプログラムで、
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