《夫も息子もあの女を選ぶんだから、離婚する!》全部章節:第 1761 章 - 第 1770 章

2151 章節

第1761話

星の瞳に、こぼれ落ちそうなほどの喜びが宿った。怜央が見つめる先へ駆け出そうとして――けれど、ふいに何かを思い出したように足を止める。そして振り返り、怜央を見た。「早く行って」怜央は、ほんのわずかに笑った。胸の奥には、じくじくと嫉妬が滲んでいた。それでも同時に、かすかな満足もあった。彼には分かっている。彼女が自分に早く消えろと言うのは、ただ仁志のためだ。それでも――彼女がまだ、自分の死を望んでいない。それだけで十分だった。星は彼が動かないのを見て、眉をひそめる。「何ぼーっとしてるの。早く行ってよ!」怜央は深く彼女を見つめ、やがて背を向けてヘリに乗り込んだ。機体が空へ浮かび上がった瞬間、星の張り詰めていた神経がようやく緩む。まるで夢みたいだった。――やっと、帰ってこれた。そのとき、不意に視界の端に細身の人影が飛び込んできた。まっすぐ自分に向かって走ってくる。胸が大きく跳ねる。「仁志――」そう呼ぶより早く、星は強く抱きしめられていた。たった一か月ぶりの再会のはずなのに、星には何年も離れていたように感じられた。「星……」耳元で、男の低く掠れた声が落ちる。「やっと見つけた」仁志は、壊れそうなほど強く彼女を抱きしめていた。乱れた鼓動がそのまま伝わってくる。腕の力は強すぎて、少し痛いくらいだった。それでも星は押し返さず、そっと彼の腰に腕を回す。ふいに何かを思い出したように、仁志は彼女を離し、全身をくまなく見た。「星……怪我はしてないか?」そのときになって星は、彼の目の奥に赤く血が滲んでいるのに気づく。ただ寝不足なだけじゃない。ずっと、まともに眠れていなかったのだ。星は首を振った。「うん。大丈夫」その言葉に、仁志の表情がほんの少しだけ緩む。だが次の瞬間、背後で回るプロペラ音を聞き、彼は顔を上げた。その視線は、まっすぐ怜央とぶつかる。ヘリはすでに海の上へ出ていたが、まだ高度はそれほど上がっていない。互いの表情がはっきり見える距離だった。いつの間にか空は曇り、さっきまでの晴天が嘘みたいに重たい雲に覆われている。今にも雨が落ちてきそうだった。風は強く、波は絶えず岸へ叩きつけられる。さっきまで穏やかだった海は、獲物を呑み込む獣みたいに荒
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第1762話

星の胸に、ほんの小さな波紋が広がった。けれどそれも、すぐに跡形もなく消えていく。彼女は唇を開き、何か言おうとした。だが最後には、声にならない小さな吐息に変わっただけだった。そして自分から仁志の手を取る。「仁志、行こう」ようやく仁志は視線を外した。「ああ」……仁志の手配で、星はM国へ向かう飛行機の中で彩香と再会した。彩香は勢いよく星を抱きしめ、そのまま目を潤ませる。「星……大丈夫だった?」星は小さく首を振る。「うん、大丈夫」彩香は彼女を上から下までじっと見つめた。顔色もひどく悪いわけじゃない。体にも目立つ傷はない。それを確認して、ようやくほっと息をつく。まだ何か言おうとした、そのときだった。星の後ろに立つ仁志の姿が目に入る。彼は長いまつ毛を伏せたままで、何を考えているのかまったく読めない。彩香は少し考え、やっぱりこの時間は彼に譲ることにした。この一か月あまり、星が行方不明になってから、いちばん壊れかけていたのは仁志だったからだ。怜央が星に執着していることは知っている。だからこそ、彼女に危害を加えない可能性もあるとは思っていた。でも、仁志にとってはそんな理屈は関係なかった。愛している女が怜央に連れ去られた。どこへ連れていかれたのかも分からない。いくら探しても見つからない。そもそも、本当に見つけ出せるのかすら分からなかった。それで取り乱さなかっただけでも、まだましなくらいだった。M国へ戻る便は、仁志が用意したプライベートジェットだった。移動中、仁志はほとんど口を開かなかった。最初に星へ、怪我はないか、具合の悪いところはないかと尋ねた以外、ほとんど何も話していない。それでもずっと、彼は星の手を強く握っていた。まるで彼女がまた突然消えてしまうのを怖がっているみたいに。言葉がなくても、星には彼の不安がはっきり伝わっていた。飛行機に乗ってから、星はようやく知る。自分が怜央に連れていかれていたのは、名前も知らない小さな国だったのだと。そこはM国からはるか遠く、片道十八時間もかかる場所だった。今回、仁志と一緒に来ていたのは雅人と謙信の二人だけ。彩香は空港で待っていたらしい。長いこと星に会えなかった彩香は、もともとじっとしていられない性格でもあり、
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第1763話

星が振り返ると、仁志はシートにもたれたまま、いつの間にか眠っていた。その姿を見て、彩香は声をひそめる。「星、あなたがいなくなってからずっと、仁志は毎日数時間しか休めてなかったの」ここでいう数時間休んだというのは、決して数時間ちゃんと眠れたという意味ではない。実際には、ほとんど眠れていなかったのだ。彩香はさらに小声で続けた。「星、仁志、本当に壊れそうなくらい追い詰められてた。それに、ずっと自分を責めてたの」彼女は一度、言葉を区切る。「自分があの場を離れなければ、あなたは怜央に連れていかれなかったって」星は首を横に振った。「たとえ仁志があの時そばにいたとしても、二十四時間ずっと一緒にいられるわけじゃないわ」静かに、けれどはっきりと言う。「怜央はキッチンの配管を使って私たちをさらったの。なら、別の場所から仕掛けてくることだってできたはずよ」そして少し目を伏せた。「それに忘れないで。私たちがよく出入りしてた場所は、もう怜央に買われてたの。私たちが突き止められたのは、せいぜいそこまで。まだ見つかってない場所が、ほかにもいくつあるか分からない」彩香は小さくため息をつく。「……あなたの言う通り。でも、それでも仁志はずっと自分を責めてる。この人は……」そこまで言いかけて、彩香は星の隣で眠る仁志を見た。何か言いたげだったが、結局その先は飲み込む。「その話は、帰ってからにするわ」星も察して、それ以上は追及しなかった。代わりに尋ねる。「まだちゃんと聞いてなかった。どうやって私の居場所を突き止めたの?」彩香は頷き、話を続けた。「とにかく人をかき集めて、あなたの居場所を探したの。でも、手がかりらしい手がかりが何ひとつ出てこなかった。みんなの勢力はM国にはなかったけど、それでもあれだけ人手がいて、しかもあの感じの悪い寧輝と美咲まで協力してくれたのに、それでも痕跡がまるで見つからないなんて、さすがにおかしいってなったの」少し身を乗り出して言う。「それで仁志は、優芽利と明日香を拘束して話を聞いたの。優芽利はすごく協力的だったわ。毎日のように仁志に会いたがって、次から次へと手がかりを出してきた。でも、その情報はほとんど全部ハズレだった」彩香の表情が少し曇る。「明日香は最初、高飛車な
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第1764話

その瞬間、星は怜央の狙いを悟った。彼は、まったく無関係の人間を使って自分をさらったのだ。しかも、その連中同士には何のつながりもなく、世界中に散らばっている。そんな相手を仁志たちが探し出そうとしても、まさに海の中から針を拾うようなものだった。そもそも、普通はそこまで考えない。怜央が腹心を使わず、赤の他人を使うほど大胆だなんて、誰も思わないからだ。彩香は続ける。「仁志は、明日香と優芽利の証言からそこに気づいて、調べる方向を切り替えたの。でも、それでも簡単じゃなかった。世界は広いし、人も多いから。だから余計に時間がかかったわ。もし明日香と優芽利の証言がなかったら、みんなもっと長いこと同じところをぐるぐる回って、怜央に好き放題振り回されてたと思う」そこまで言って、彩香は少し気まずそうな顔をした。「正直、たとえ私がその手がかりをもらって探しに行ったとしても、半年や一年じゃ何も掴めなかったと思う」そして続ける。「仁志は監視システムにも侵入した。でも、あなたと怜央の痕跡は一つも出てこなかった。だから彼は、あなたたちがいる場所は絶対に信号源のない場所だって断定したの。信号の届かない場所なんて、いくらでもある。でも仁志は、怜央があなたを不便で劣悪な場所に連れていくはずがないって考えた」彩香は指先でカップをなぞりながら言う。「陸地だと、どうしても足取りが漏れやすいでしょ。どれだけ人里離れてても、探検家みたいなのがふらっと来る可能性はあるし、見つかる危険もある。怜央みたいに慎重な人なら、そこまで考えるはずだって」そして結論を口にした。「外の人間に見つかりにくい場所なんて、一つしかない。私有の島だったの」星は黙って聞いていた。「しかも、島にいるとしても、怜央が何度も出入りするとは思えない。ってことは、その島には最初から生活に必要な資源がある程度揃ってて、自給自足できなきゃいけない。島は広いし、普段から管理する人手も必要になる。使用人なしじゃ回らない。でも、その使用人たちが自由に出入りできないなら、報酬は当然かなり高くなる」彩香は肩をすくめた。「だから少し前に大量の使用人を、ある程度いい給料で雇ってて、しかも外と連絡を取れないような場所――そういう条件で洗っていけば、かなり絞り込めるってわけ。仁志
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第1765話

星が尋ねた。「他の連中は?この隙に何か仕掛けてこなかったの?」彩香は肩をすくめる。「忠は結羽に付きまとわれてて、それどころじゃなかったみたい。とっくにやる気もなくしてたし、あなたたちが行方不明になっても、まるで興味なし」少し間を置いて続ける。「翔の方も……特に目立った動きはなかったわ。でも、靖だけは裏でいろいろ動いてたっぽいのよ。自分を支持してる株主たちと組んで、何か仕掛けようとしてたみたい。でも理由は分からないけど、結局失敗した」さらに、彩香は少し呆れたように言った。「そのあと今度は、一歩引いて朝陽と組んで、あなたの受注を奪おうとしたの。でも、なぜかそれも上手くいかなかったのよね」星の瞳がわずかに揺れ、そのまま黙り込んだ。……星は、ここまで長くまともに休めていなかったのだから、仁志はしばらく深く眠るだろうと思っていた。けれど、一時間ほど経ったころだった。仁志はふいに目を覚ました。腕には青い筋が浮かび、ぴくりと脈打っている。星はそんな彼を見て、やわらかく声をかけた。「仁志、悪い夢でも見たの?」その声に、仁志がゆっくり顔を向ける。そして星の姿を見た瞬間、強く抱きしめてきた。呼吸は乱れ、瞳の光も激しく揺れている。「星……俺、夢見てるんじゃないよな」掠れた声が震える。「ちゃんと……お前を見つけたんだよな……?」星はそっと彼の背を撫でながら、やさしく答えた。「仁志、夢じゃないよ。私はちゃんと戻ってきた」仁志の体は、かすかに震えていた。「何度も夢を見た」低く落ちた声は、ひどく疲れていた。「お前が戻ってきたって、本気でそう思った。でも……探しに行くと、全部夢だった。さっきのことだって、また夢なんじゃないかって怖かった。お前に話しかけることすらできなかった」彼は星を抱きしめる腕に、さらに力を込める。「俺が口を開いた瞬間、夢が覚める気がして」この間、彼が眠れた回数は多くなかった。けれど、そのわずかな眠りのたびに、彼は星を見つける夢を見ていた。彼女を見つけたかった。何より、彼女に自分のもとへ戻ってきてほしかった。それなのに、それが全部偽物で、ただの夢だったと分かったときの落差は、彼を狂わせそうになるほど大きかった。そのせいで、彼は眠ることすら
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第1766話

仁志はそっと星の手を握った。「星……俺は壊れてしまう」その声はかすかに震えていた。「本当に、気が狂いそうだったんだ」しばらく見つめ合ったあと、星はふいに顔を上げた。そして、おやすみのキスを落とすみたいに、そっと仁志の額に口づける。「仁志、眠って」仁志の体は、もう本当に限界だった。星にやさしく宥められ、彼はようやく眠りについた。本当はソファで寝ようとしていたが、それは星が止めた。けれど星自身は、まったく眠くなかった。むしろ気力はかなり戻っていた。彼女は横になることもせず、椅子に座って静かに本を読んでいた。それでも仁志は、長くは眠らなかった。目を覚ましたとき、星がまだそこにいるのを見て――ようやく確信する。これは夢じゃない。星は本当に戻ってきたのだと。……十八時間かけて、星はようやくM国へ戻ってきた。空港には、大勢の人が待っていた。影斗、雅臣、奏、そして航平まで、みんな迎えに来ている。星と仁志がすでに気持ちを確かめ合っていることもあって、皆それぞれ心配はしていたものの、態度は比較的抑えめだった。ただ一人――航平だけは、胸の高鳴りを隠しきれていなかった。彼は数歩前に出る。呼吸も少し乱れている。「星……お前、その……最近、大丈夫だったのか?」星はもう彩香から聞いていた。今回の件で、航平もかなり動いてくれて、ほとんどまともに眠っていなかったのだと。人の心に偏りがあるのは当然だ。確かに、航平のこれまでの言動には腹の立つことも少なくなかった。それでも少なくとも、彼が星を傷つけたことはない。だから彩香も、以前ほど彼に強い嫌悪感は抱いていなかった。星は軽く頷き、礼儀正しく答える。「私は大丈夫。手伝ってくれて本当にありがとう」航平は慌てて首を振った。「そんな、礼なんていらないよ。何があっても、私たちはもう何年もの付き合いなんだ。力になるのは当然だろ」星はそれ以上は何も言わず、今度は影斗と雅臣にも礼を伝えた。奏は彼女にとって先輩であり、兄のような存在でもある。だから彼に対しては、よそよそしく礼を重ねたりはせず、ただ静かに頷くだけにとどめた。一行はそのまま車で戻ることになった。車の中で、彩香が小声で星に話しかける。「雅臣と航平、それ
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第1767話

怜央が星を好きだったということは、少なくとも彼女の身の安全だけは、ある程度守られていたということでもある。けれど――あの怜央のように、狂気を抱えた男に孤島へ連れ去られていたのだ。この一か月のあいだに何があったのかなど、想像するまでもなかった。だからこそ、星が無事に戻り、こうして皆が顔をそろえているというのに、その場の空気は妙に静まり返っていた。誰も口を開かない。迂闊なひと言で、星に思い出したくもないことを思い出させてしまうのが怖かったのだ。星もまた、皆が何を考えているのかは何となく察していた。けれど、自分から細かく説明するつもりはなかった。ただ静かに口を開く。「今回は、本当にみんなに助けてもらったわ。ありがとう」そう言って、一人ひとりを見渡した。「このところ、誰もまともに休めてなかったでしょ。今日はもう休んで。明日、あらためて食事をごちそうするわ」そこまで言われては、誰も反対できなかった。影斗はここには泊まらないらしい。立ち上がると、星に向かって気軽な口調で言った。「星ちゃん、じゃあ俺は先に帰るわ。何かあったらちゃんと呼べよ」星は自分から彼を玄関まで見送りに出た。仁志もまた、当然のようにその後ろをついてくる。本当は影斗にも、星に言いたいことはあった。けれど、仁志までぴったりついてきているのを見て、結局は軽く声をかけるだけにとどめ、そのまま帰っていった。最初のうちは、星も特に気にしていなかった。だがそのあと、彼女がどこへ行っても、仁志がぴたりとついてくる。ついには、ただトイレに行っただけなのに、彼が扉の外で待っているのを見たとき――星はようやく、さすがに少しおかしいと感じた。少し考えた末、やはり一度、仁志とちゃんと話をしようと決める。他の誰かに説明する必要はない。けれど、仁志にだけは、きちんと話しておくべきことがある――そう思ったのだ。部屋に入ると、星は自分の分と仁志の分、二つのグラスに水を注いだ。仁志は、彼女から差し出されたグラスを受け取る。「ありがとう」星は彼を見つめ、静かに切り出した。「仁志、実は私と怜央のあいだには、何も――」その先、「何もなかった」と言い切る前に、仁志が唐突にその言葉を遮った。「星。お前が無事に戻ってきてくれた。それ
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第1768話

目の前の仁志を見ていると、星にはどうしても断れなかった。少し迷ったあと、彼女は小さく頷く。「……いいわ」その返事を聞いて、仁志はようやくほんの少しだけ笑った。星は自分の手で、彼のために床へ布団を敷いた。明かりを消すと、星はほどなくして眠りに落ちた。ようやく戻ってこられた安心感もあったのだろう。その夜は、久しぶりに深く眠れた。目を覚ましたときには、もう外はすっかり明るくなっている。星はふと思い出したように、床へ視線を向けた。仁志は、まだ眠っていた。彼がこんな時間まで起きないことなど、ほとんどない。星は物音を立てないよう静かに起き上がり、そっと身支度を整える。ちょうど洗面を終えたころ、部屋のドアがノックされた。扉を開けると、彩香が立っていた。けれど、その表情はどこか妙だった。星は思わず問いかける。「彩香、どうしたの?なんか変な顔してるけど」彩香は部屋の中をちらりと見て、小声で聞いた。「仁志は?」「まだ寝てるわ」彩香が何か話したいことがあるのだと察して、星は部屋の外へ出ると、そっとドアを閉めた。「どうしたの。何かあった?」彩香は声を潜めて言う。「さっき、門のところから連絡があったの。斉藤悠真って名乗る人が来てて、星に会いたいって」星は、その名前を頭の中で確かめるように繰り返した。「斉藤悠真?私たち、その人知ってる?」彩香は答える。「本人いわく、怜央の秘書らしいわ。それで、どうしても急ぎであなたに会わなきゃいけない用があるんだって」怜央の名を聞いた瞬間、星の表情は少しずつ沈んでいった。彩香は、そんな彼女の顔色を窺う。「星、会うの?」星は静かに答えた。「通して」彩香は意外そうに目を見開く。「本当に会うの?もし仁志に知られたら……」星は淡々とした口調で言った。「あの日、仁志が怜央に向けて発砲したところは、たぶんかなり多くの人に見られてるはずよ。もう噂も広まってるでしょう」少し間を置いて、はっきり続ける。「怜央は司馬家の当主。そんな簡単に殺していい相手じゃない。もし怜央が死んだら、司馬家は全力で仁志を潰しにくる。たとえ怜央の死を望んでる人間が司馬家の中にどれだけいたとしても、それでも彼らは復讐しなきゃいけないの」その声
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第1769話

星は彩香に言った。「彩香、悠真を私の書斎に案内して。私は仁志の様子を見てくる」彩香はひと言返すと、そのまま悠真を迎えに向かった。星はもう一度、部屋へ戻る。仁志はまだ眠っていた。本当なら起こそうかとも思った。けれど、彼がこんなに穏やかに眠れているのは久しぶりだ。どうしても起こす気にはなれない。少し考えた末、星は仁志のために一枚の書き置きを残し、音を立てないように部屋を出た。……書斎でしばらく待っていると、彩香が悠真を連れてやってきた。その顔を見て、星はようやく思い出す。以前、病院で怜央と会ったとき、この男を何度か見かけていた。ただ、名前までは知らなかっただけだ。星は悠真に席を勧めてから、静かに尋ねた。「斉藤さんがわざわざ私に会いに来たということは、何かご用件があるんでしょう?」悠真は書類袋から数枚の書類を取り出し、星の前に差し出す。「こちらは、司馬さんが以前、私に託しておいた株式譲渡書です。まずはお目通しいただけますか」株式譲渡書――?彩香は思わず戸惑った。ここへ戻ってくるまでの間、星はその話を一度もしていなかったからだ。もっとも、それは仁志がずっとそばにいて、話しづらかっただけなのかもしれない。彩香は悠真から書類を受け取り、そのまま星へ渡した。星が目を通してみると、それは以前、怜央に見せられたものとまったく同じだった。だが、彼女が何か言うより先に、悠真が口を開く。「星野さん。先日、司馬さんの乗られていたヘリが制御を失い、海へ墜落した件は、すでに司馬家も把握しております」その表情は重かった。「現在、一族総出で捜索と救助にあたっておりますが……いまだ司馬さんは発見されておりません」少し間を置いて、低く続ける。「状況は、かなり厳しいかと」星は目を伏せたまま、何も言わなかった。あの日、怜央はすでに銃弾を受けていた。それだけでも危うい状態だったのに、あのときは雨も降っていて、風も波も激しかった。たとえ撃たれていなかったとしても、あの海へ落ちて助かる可能性は、きわめて低い。悠真は続ける。「星野さんは現場にいらっしゃいましたから、経緯は十分ご存じかと思います。ですので、私からあらためて多くを申し上げるつもりはありません」そして、星をまっすぐ見た。「た
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第1770話

彩香は思わず唾を飲み込んだ。認めるしかない。自分は、たぶんそういう意味ではあまり筋の通った人間じゃない。金には弱いし、うまい話にも弱い。もし自分だったら、きっと迷わず受け取っていた。もらえるものは、もらっておかないと損だ――そう思うタイプだ。悠真はさらに続ける。「もし星野さんがなおも受け取りを拒まれる場合、司馬さんの株式は五年間凍結されることになります。凍結期間中であれば、星野さんはいつでもお考えを改めることが可能です」だが、そこでわずかに表情を曇らせた。「ただし、司馬家の事情は特殊です。本当に五年間きっちり凍結を維持できるかどうかは、正直不透明です。ですが、これが司馬さんがどうにか確保できた最長の猶予でした」つまり、星にはこの先五年のあいだ、いつでも選び直せる余地が残されているということだ。もし仁志との関係に何かあったとしても。あるいは、自分が急な窮地に追い込まれたとしても。そのときにはいつでも、司馬家の株式を引き受けて切り札にできる。もっとも、怜央の抑えがなくなった今、本当に五年間そのまま守られる保証はない。長くても二、三年――その程度かもしれなかった。もしその期間を逃してしまえば、あとになって悔やんでももう遅いだろう。それでも、これが怜央が星のために考え抜いた、もっとも完成度の高い案だった。悠真も、今すぐ返事を求めるつもりはないらしかった。「星野さん、どうか今すぐお答えになる必要はありません。お戻りになったばかりですし、まだ片づけるべきことも多いでしょう。司馬さんが行方不明になってから、まだそれほど時間は経っておりません。司馬家も、そう簡単にすぐ手配を出すわけではありません。ですから、その間にどうかじっくりお考えください」それだけ言うと、悠真は立ち上がり、そのまま辞去しようとした。だが、数歩進んだところで、ふと思い出したように足を止める。振り返って、星を見た。「星野さん」少しだけ声を落とす。「司馬さんが、手の怪我を治せるかもしれないという、医師を見つけていたことは……ご存じですか?」星は何も言わなかった。その様子を見て、悠真はすべて察したように小さくうなずく。「ほかにご用がなければ、私はこれで失礼いたします」彩香が見送りに出ようとしたが、悠真
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