享保年間、江戸の深川。隅田川の川面に映る月が、ほのかに揺れていた。夜風がそよぐ中、川沿いの細い道には、提灯の明かりがぽつぽつと連なっている。焼き鳥の煙が漂い、脂の焼ける音がチリチリと響く。その屋台の前に立つ男が、佐久間宗太郎だった。宗太郎は30歳。町人らしい簡素な藍色の着物に身を包み、腰には筆と紙を入れた小さな袋を提げている。背はさほど高くなく、顔立ちも平凡だが、瞳だけは異様に鋭い。彼の舌は、江戸中の料理人から「鬼の舌」と恐れられ、愛されていた。宗太郎は食を愛し、その味を言葉に変えるライターだった。彼の書く評は、読む者の腹を空かせ、店の運命を変える力を持っていた。「親父、焼き鳥を二本。タレで頼む。」宗太郎が声をかけると、屋台の親父・源蔵が炭火を扇ぎながら笑顔を向けた。源蔵は50歳を過ぎた頑強な男で、顔には無数の皺が刻まれている。だが、その目は少年のようだ。焼き鳥一本で客の心を掴む、それが源蔵の誇りだった。「へい、宗太郎の旦那! 今日はどんな味が欲しいんだい?」「いつも通り、親父の魂がこもったやつをな。」源蔵は笑い、串に刺した鶏肉を炭火に置く。脂が滴り、炎が一瞬高く上がる。宗太郎は目を細め、煙の香りを深く吸い込んだ。焼き鳥の匂いは、江戸の夜そのものだった。雑多で、泥臭く、それでいてどこか温かい。源蔵が串を差し出す。宗太郎は一本を受け取り、まずタレの光沢をじっと見つめた。濃すぎず、薄すぎず、まるで琥珀のように輝いている。彼は串を口に運び、ゆっくりと噛みしめた。鶏肉の歯ごたえ、タレの甘み、炭火のほのかな苦味が、舌の上で一瞬にして調和する。宗太郎の目がわずかに見開かれた。「こいつは…まるで江戸の夜を凝縮した一品だ。」彼の言葉に、源蔵は目を輝かせた。「旦那、そりゃどういう意味だい?」「この焼き鳥はな、親父の人生そのものだ。鶏は柔らかく、でも芯がある。タレは甘いが、どこか切ない。炭火の香りは、苦労の後にある喜びだ。こんな味、江戸のどこを探してもそうそう出会えねえ。」源蔵は照れくさそうに頭をかき、しかし内心では喜びが爆発していた。宗太郎の言葉は、ただの褒め言葉ではない。彼の評は、客を呼び、店の名を上げる魔法の力を持っていた。事実、宗太郎が以前評した浅草のうなぎ屋は、彼の文章が広まった後、行列の絶えない店に変わったのだ。その夜、宗太郎は屋台の隅に腰かけ、
Last Updated : 2025-05-30 Read more