All Chapters of すれ違う風の向こうに: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

朝香の心臓が、喉元まで跳ね上がった。診察室の外には、ファンや見物人がごった返し、窓から逃げ出すなんてとても無理だ。 あわてて研修医に「私のことを誰にも言わないで」と念を押し、そのまま病室のベッドの下に潜り込む。息を潜めたちょうどそのとき、祈人が焦った様子でドアを押し開けた。「萩野先生はどこですか?」研修医は、初めて間近で祈人の姿を見て思わず歓声を上げる。顔を真っ赤にしながら、「ここには萩野先生はいません」と口走った。「いないのか」祈人は眉をひそめ、しばらく黙り込む。 研修医はあわてて「本当にいません」と繰り返すが、その声はどこか頼りなく、どんどん小さくなっていく。緊張で頭の先までしびれるような感覚に襲われた。ベッドカバーの隙間から様子をうかがうと、祈人が自分のデスク周りをじっと観察しているのが見えた。薄明かりのなかで、祈人の目つきがいっそう鋭くなる。 どんな細かいところも見逃すまいと、隅々まで目を光らせている。張りつめた顔、かすかに結ばれた唇――その端正な顔立ちが、さらに厳しく見える。その眼差しは、まるで獲物を狙う野獣のようだ。朝香のまぶたが小さく震え、言葉にできない不安が、全身を包み込む。外では雨がしとしとと降り続いている。廊下のセンサーライトが、一つ、また一つと順に灯る。祈人の白いスニーカーが、静かにベッドへと近づいてきた。最後には、あと一歩の距離で立ち止まる。朝香の心臓が速く脈打ち、神経が極限まで研ぎ澄まされる。思わずさらに体を後ろへ引いた。そして、もう逃げ場はないと諦めて、そっと目を閉じた。 ちょうど這い出そうとしたその瞬間――人混みをかき分け、髪を乱した林田マネージャーが飛び込んできた。「祈人、どうかしてるの!?会社に何も言わずに勝手な行動して、こんな騒ぎを起こして…… このままじゃ芸能人生が終わっちゃうわよ!」林田は祈人の腕をつかみ、強引に引っ張って連れ出そうとする。だが、祈人は意地でも動こうとせず、足を床に踏ん張ったままびくともしない。林田は呆れと怒りで声を荒げる。「しっかりしてよ、祈人! 仕事を守るのと、朝香さんを見つけるのと、どっちが大事なの!?」その会話を聞いて、研修医はハッと息を呑む。その様子を見て、祈人の確信はま
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第12話

時間が止まったように、一秒一秒が、永遠のように長く感じられた。祈人は長い間迷っていたが、やがて深く息を吐き、すべての力を失ったかのように踵を返し、廊下の奥へと姿を消した。朝香はもう、祈人が自分ではなく夜音を選んでも、心を痛めたりはしなかった。北海への道中、朝香はさまざまなことを悟っていた。――人は変わるものだ。 人生が色褪せて見えるときでも、私は私だけの色を大事にしたい。この八年間、祈人を追いかけるあまり、自分自身をすっかり見失っていた。 これからはそれを取り戻し、やり直そうと心に決めていた。祈人は、もう記憶の中の人。 だから、もう執着する必要なんてない。そんな穏やかな日々が、半月ほど続いた。朝香もすっかり、祈人が自分をあきらめたのだと思っていた。金曜の午後、最後の患者を診終えて帰ろうとしたとき、由紀が「どうしても診てもらいたいという人がいます」と伝えてきた。こういうことは、病院では珍しくない。朝香は軽く微笑んで、「じゃあ中に通して」と言い、患者を迎え入れた。パソコンの画面越しに、今日のカルテを整理しながら「どこか具合が悪いんですか?」と尋ねる。しかし相手は、しばらく沈黙したままだった。不審に思い、顔を上げる。その人は帽子にサングラス、顔の半分を覆う大きなマスク、着ぶくれするほど何枚も服を重ね、まるで誰かに気づかれるのを恐れているようだった。朝香が担当しているのは神経内科。 症状がうまく言葉にできない患者も少なくない。彼女はやさしい声で「大丈夫、ゆっくりでいいですよ。落ち着いたら教えてください」と言い、再び資料の整理に戻った。しばらくして――朝香がカルテに目を通している間、その男は、ただ黙って朝香のことだけを見つめていた。彼女はやせ細り、すっかり日焼けしていた。 金縁の眼鏡をかけて忙しそうにしていたが、その瞳はまるで三日月のように澄んでいた。どんな小さな変化も見逃したくなくて、男はひたすら彼女を見つめていた。 ときおり朝香がちらりとこちらを見ると、考え込むふりをして目をそらす。 また彼女が視線を落とすと、男はもう一度、じっとその横顔を見つめる。自分でも気づかないほどやわらかく、深いまなざしで。気づけば、時間はかなり経っていた。 朝香はふと壁の時
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第13話

朝香は思わず顔を上げ、祈人を見つめた。 その表情には、信じられないという色が浮かんでいる。 自分の正体がバレたことに気づき、祈人の耳までが一気に真っ赤になった。朝香が無意識に一歩後ずさるのを見て、祈人の胸にチクリとした痛みが走る。「朝香、聞いてくれ。わざとつけてきたわけじゃないんだ。 ただ……ただ、お前に会いたくてたまらなかったんだ」その言葉が終わらぬうちに、誰かが朝香の横をすり抜け、彼女のバッグを奪い取った!祈人は素早く朝香の腕をつかみ、追いかけようとするのを止める。「朝香、ただのバッグだろ?欲しいなら、また俺が買うよ。 追わなくていい、危ない目に遭ってほしくないんだ」朝香は怒りで体を小さく震わせ、「患者さんのカルテが入ってるの。絶対に失くせないの!」祈人がまた彼女を止めるかと思ったそのとき、意外にも彼は短く告げた。「ここで待ってて。絶対動かないで」そう言い残すや、祈人は盗人の消えた路地へと猛然と駆けていった。朝香はその場で二時間も待つことになった。もう諦めかけて帰ろうとしたとき――灯りの下に、背の高い男の人影がゆっくりと現れる。祈人は帽子もサングラスもなくしていた。 追いかける途中で傷だらけになり、顔には生傷が残っている。 それでも朝香に近づいてくる彼の唇には、うっすらと笑みが浮かんでいた。祈人はバッグと、取り戻したカルテを誇らしげに朝香へ差し出す。――整った眉と深いまなざし、その横顔は初めて出会ったときと同じだ。祈人自身は、ただ「朝香に川辺で助けられた」としか思っていなかった。だが実は、朝香はずっと前から彼に恋心を抱いていた。――高校三年の夏、祈人は他県から転校してきた。 ある日、投げたやりが顔に当たりかけ、朝香は医務室で目を覚ました。スニーカーのつま先を貫いたのは、祈人のやりだった。 朝香は悔しさと怒りにかられて靴をつかみ、そのまま祈人の後頭部めがけて投げつけた。祈人はぱっと振り返り、絶妙なタイミングで頭をそらしてかわした。真っ黒な瞳、通った鼻筋、薄い唇―― なんてことのないしぐさなのに、祈人がやると妙に様になっていて、朝香は思わず見とれてしまった。気づけば、そのとき朝香はもう祈人に惹かれていた。祈人は、いつもの調子で朝香のバッグを肩に
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第14話

朝香の応急処置で、祈人はすぐに意識を取り戻した。 彼女は玄関のドアを大きく開け、「もう帰って」と無表情で促す。 その目は氷のように冷たく、感情の色がまったく見えなかった。祈人の喉はからからに乾き、一歩間違えれば全てが崩れる――祈人は、全てを失いかねない焦りに、心がざわめいた。喉仏が揺れ、祈人は哀しげな眼差しで朝香を見つめた。 「朝香、今夜だけでいい。 泊めてくれないか。……俺、仕事も失って、行くところがないんだ」だが、朝香はその言葉に冷ややかに笑った。「冗談でしょ、祈人さん。 地下鉄のあちこちに、あなたのポスターが貼ってあるのに。 本当に『帰る場所がない』なんて言うつもり?それに、その見た目なら道ゆく誰かにでも声をかければ、喜んで泊めてくれるはずよ」核心を突いた朝香の言葉に、祈人は返す言葉もなく、ただ胸に苦い思いがつまる。目を閉じ、震える声で、「……でも、お前は、もう俺のことを受け入れてくれないんだな」と言った。その瞬間、朝香の中にもどうしようもない嫌悪感が込み上げ、それまで抑えていた言葉が、次々と口から飛び出した。「どうして私があなたを受け入れなきゃいけないの? 私の猫を殺したのはあなたでしょ。 私が冷たい霊安室に閉じ込められたときも、あなたは何もしてくれなかった。 何度も私を疑い、裏切り、結局はあなたの都合のいいように利用しただけじゃない!」朝香が一歩近づくたび、祈人は一歩ずつ後ずさり、やがて壁際まで追い詰められる。 逃げ場を失った祈人は、引き締まった顔に深い悲しみの色を落とし、小さく肩で息をしながら、胸の前で両手をぎゅっと握りしめていた。朝香は、同情の色を見せることはなかった。 だが、祈人の症状はみるみる悪化していく。 体が思わず小さく縮こまり、手足も激しく震え始めた。 彼は両手でこめかみを必死に押さえ、朝香の前でだけは発作を起こすまいと、なんとかこらえようとする。 しかし、そんな努力も虚しく、こめかみや手の甲の血管が浮き上がり、ついには下唇を噛みすぎて血が滲んでいた。 呼吸もどうにも抑えがきかず、苦しそうな息遣いが続く。 ――本当に具合が悪いんだ。演技じゃない。 朝香ははっきりと確信した。だが、祈人は薬を持っていなかった。 朝香は「
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第15話

朝香は怒りのあまり、かえって笑みを浮かべた。 「彼が私を裏切ったのが先で、私の猫を死なせたのも彼。 私が復讐しないだけでも十分だと思ってる。 今さらどの面下げて、私に助けを求めるつもりなの?」由紀は肩をすくめて、ため息をついた。 「信じていただけないかもしれませんが、祈人さん、この半年、本当に大変だったんです」朝香のまなざしには、微笑みの影すらなく、冬の冷たい風のような厳しさだけが漂っていた。「それは彼自身が招いたことよ。私にはもう、何の関係もない。 私は義務もないし、猫を殺した人間を助けたいとも思わない」そんなある日、病院で全体会議があり、最近、望月市で新しい投資プロジェクトが始まったことが発表された。 現地で医師が必要とされていて、お正月を挟むため多くの同僚が参加を渋っていた。 独り身の朝香は、ためらわず引き受けた。しかし、現地に着いてみると、その投資プロジェクトの正体はなんと時代劇の撮影現場。 そしてそこには、祈人の姿もあった!騙されたと悟った朝香は、怒りにまかせて現場を出ようとした。 だが、そのとき背後から叫び声が響く。「誰かがケガをした!お医者さん、どこにいますか!」ワイヤーアクションの練習中に、若いエキストラが落下したのだ。 幸い、朝香の素早い処置で大事には至らず、しばらく休めば回復するとの診断だった。「それでも帰るつもり?」 祈人は時代劇の衣装に身を包み、白い衣が雪のように映え、端正な顔立ちでそこに立っていた。 まるで一本の若竹のように、凛とした佇まいだった。朝香は指先を止め、軽く首を振った。 「残るわ」とだけ告げる。祈人の顔には安堵と喜びが隠せなかった。 「よかった……!朝香、ありがとう。 残ってくれて本当にうれしい」しかし、朝香はすぐに首を振って否定した。 「あなたのためじゃない。ここにいるみんなや、自分自身のためよ」 撮影は三ヶ月ほど続く予定だった。ただの仕事―― 朝香はもう、仕事から逃げるつもりはなかった。腹が立ったのは、祈人が病院と通じて、真実を隠していたことだ。誰かを助けるときの朝香の優しい眼差しも、今回は次第に冷ややかさを帯びていった。 その冷たさは、祈人の心の奥底にまでじわりと染み込んでいく。祈人の胸は
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第16話

【監督、萩野先生を現場から追い出すべきです!】 【こんな人がいたら、作品自体が台無しになりますよ】朝香は、グループチャットに自分へ向けられた「出ていけ」の嵐を、淡々と眺めていた。 こういう時、祈人はやっぱり何も言わない。 まるで他人事のように、黙って事態の推移を見ているだけだった。アシスタントの由紀が、朝香のために不満をぶつけた。「祈人さん、どうして何も言わないんですか?少しくらい事実を説明してくれてもいいのに……」かつて芸能界に返り咲く前の祈人なら、真っ先に朝香をかばって立ち上がってくれただろう。でも今は、利益が第一。もう、かつてのように、朝香のために何もかも投げ出せる祈人じゃなくなっていた。――人の心なんて、昔からそういうものかもしれない。けれど、朝香はもう怒りすら感じず、口元にかすかな笑みを浮かべた。 その笑顔を見て、由紀は思わず身震いした。「朝香さん、どうしてこんなついてないことばかり……せっかく現場に入ったばかりなのに、こんなひどい目に遭うなんて」朝香はすぐに笑みを引っ込め、ゆっくりとミルクティーを口にした。 潤んだ瞳には静かな光が宿っていた。「本当に不運なのは、こんなことで騒いでいる連中の方よ」案の定、数日後、監督は騒ぎを起こした数人に向かって、「全員現場から出ていけ」と通告した。「ほんの数人のせいで、この現場が台無しになるなんて、絶対に許さない。 私は負けないよ――そんなことでくじけたりしない」朝香は、わざわざ経理の窓口で、その人たちがやって来るのを待った。 皆、不満げな顔をしていて、朝香は思わず吹き出してしまう。わざとらしくため息をつきながら、少し皮肉に言う。「まったくね、人に利用されてることにも気づかずに……せっかく頑張ってきたのに、ドラマが放送されても、もうあなたたちにボーナスはないんだよ?」その一言で、彼らの顔色は真っ青になった。 朝香が監督に頼んで警察沙汰にしなかったことを知ると、一転して感謝の言葉を口にし、夜音に指示されていたことを証明するチャットのやりとりも、ためらいなく差し出した。「すごいね朝香さん、これで夜音さんの本性をみんなに見せてやれる!」由紀はすっかり朝香に感服している。だが朝香は首を横に振る。 「
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第17話

朝香は指先にぎゅっと力を込め、黙っていた。「道、変えようか?」神崎が、彼女の様子を見て気遣う。だが、夜音は、わざと二人に見せつけるようにこの場面を仕組んだのだろう。朝香が取り乱す姿を見たかったはずだ。しかし、その思惑は外れる。「逃げる必要なんてないわ。まっすぐに過去と向き合ってこそ、新しい人生が始まるから」朝香は静かに、だがはっきりと答えた。神崎は驚いたように眉を上げ、その瞳に一瞬、感嘆の色を浮かべる。そのとき、祈人も二人に気づいたようだ。振り返った祈人の視線の先には、うつむいて去っていく朝香の姿があった。祈人は息を呑み、思わず夜音を乱暴に突き放す。夜音は唇を噛みしめ、どうにか平静を装おうとするが、引きつった笑みが浮かぶ。慌てて駆け寄ってきた祈人は、朝香の前で必死に説明しようとした。「朝香、違うんだ。今日、夜音に別れ話をしに来たんだ。まさか突然キスされるなんて思わなくて、驚いて反応できなかっただけなんだ」だが、朝香はその説明を一切聞こうとせず、冷ややかな目で祈人を一瞥し、まるで自分にとって無関係な存在であるかのように通り過ぎていく。神崎は小さく息をつき、わざとらしく祈人を横目でにらむ。普段は飄々とした表情なのに、今は明らかに敵意と警告が宿っていた。堂々と朝香の腰に手を回し、そのまま二人で歩き出す。祈人はその場に立ち尽くし、全身を震わせていた。夜音は泣きそうな顔で祈人の袖をつかみ、「祈人さん、お願い、夜道が怖いから送って」とすがりつく。しかし、祈人は神崎への嫉妬と怒りに駆られ、夜音の言葉に冷たく返す。「暗いのが怖いなら、最初から一人で来なければよかっただろ?」夜音はしばらくの間、現場に張りついて朝香を監視していた。「警告しておくわ。祈人さんのことは諦めなさい。私がほしい男は私のもの。他の女なんかに渡さない」朝香は鋭い視線を夜音に向け、冷たく言い放つ。「あなたの男なんて、私には必要ない。ゴミはゴミ箱に入れておけばいいのよ」「なっ……!」夜音が思わず手を振り上げるが、朝香は素早くその手首をつかみ、軽く力を入れると、夜音は痛みに顔をゆがめて身をかがめる。その声が現場中に響き、監督が怒りをあらわにして「いい加減にしろ、騒ぐなら現場から出て
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第18話

三日後、大規模な爆破シーンの撮影があった。 祈人は監督の前で、わざと夜音に「今日は午後、現場に来なくていい」と伝えていた。 スタッフたちが忙しく現場の準備を進めていると、朝香は爆破ポイント付近で、妙に落ち着きのない群衆エキストラを見つける。 「監督、あの人が何か細工をしているみたいです!」 夜音は平然とした顔で言い訳する。 「私は何もしていません。ただのエキストラですよ」 調べてみても、実際に何の異常も見つからなかった。夜音は勝ち誇ったように口元をつり上げ、朝香を小馬鹿にした目で見てくる。 「朝香さん、被害妄想なんじゃないですか?心が汚れている人には、何もかもが疑わしく見えるものですよ」朝香は夜音がこんなにあっさり引き下がるとは思えなかったが、本番の撮影は何事もなく進んだ。 最後の爆破ポイントが無事に終了し、張りつめていた気持ちがようやく緩む。 ふと見上げると、頭上の簡易シャンデリアがギシギシと不気味な音を立てて、今にも落ちそうに揺れていた。 「危ない!」 祈人は迷うことなく、朝香の方へ飛び込んできた。 次の瞬間、「ガシャーン!」という轟音とともに、医療救護テントの真上にあった天井が崩れ、大きな穴を開けた。 もし祈人が朝香を突き飛ばしていなければ、どうなっていたか想像もできない。 二人は震えながらなんとか立ち上がり、急いで駆け寄ってきた神崎に「大丈夫」と首を振ってみせる。 神崎は夜音を鋭く睨みつけた。 夜音は一見動揺しているようだったが、その瞳の奥にはなおも邪悪な光が宿っている。 朝香の警戒心はますます強くなった。そのとき、地面から露出した導火線が視界に入る。 「……不発弾?いや、まさか!」 脳裏をよぎるのは、夜音が爆破ポイント付近で不審な動きをしていた場面だった。 もしや、夜音の仕業はこっちだったのか…… 「伏せて!」 とっさに、朝香は神崎の手を引き、地面に身を伏せる。 だが、その叫び声を聞きつけて、ある人が朝香をかばうように体を投げ出した。「ドン!」 至近距離で爆発音が轟き、朝香の耳はしばらく聞こえなくなる。 激しい衝撃で頭がしびれ、何も考えられなくなった。 神崎の声でようやく意識が戻ると、聞こえてきたのは夜音の絶叫だった。 夜音は半ば
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第19話

祈人は何も言わず、じっと朝香を見つめていた。 赤く充血した瞳が、淡い灯りの下で光っている。 二人はしばらく無言で立ち尽くしたままだった。ふいに、祈人の脳裏に昔の楽しかった日々がよみがえる。 一緒に釣りをして、ようやく一匹釣れたと思ったら、大物に引っ張られて池に落ちそうになったこと。 街の屋台で値切り合戦したこと。 三百円の小物を、真剣な顔で「千円で三つ、売ってくれないか」と交渉したこと。そんな思い出を話しながら、祈人はふっと笑った。 その顔には、まぶしいほど明るい笑みが広がる。「朝香、お前がそばにいてくれたこの数日が、この半年でいちばん幸せだったよ」恋しさを隠しきれない目で、朝香をじっと見つめながら、ぽつりとつぶやく。「いっそ、ずっと怪我してればよかったな」その言葉に、朝香は少し呆れて何も返さず、ただ黙って祈人を見つめる。目の前でやつれきった男を見ていると、ふいに何年も前のことが頭をよぎる。夜、祈人と歩いていたとき、靴ひもがほどけた朝香に、祈人がしゃがんで結んでくれたこと。 思いつきで彼の顎を指で持ち上げて、「あんた、気に入った。私の犬になりなさいよ」とからかったこと。祈人はきょとんとした後、そっと朝香の手を取って軽くキスをした。「喜んで、仕えます」月明かりの下、祈人は子どものような笑顔でこちらを見つめていた。あの目には、まるで夜空に広がる天の川のようなきらめきがあった。 朝香は、いったい星がいくつ見えていたのだろうと思いながら、胸が波打つのを感じていた。でも、すぐに現実に戻る。 拳を握りしめ、険しい顔で祈人を睨みつけた。「……どういう神経してるのよ。ずっと怪我してたいなんて」祈人は口元を耳まで引き上げて、満足げに笑う。 朝香にこうして呆れられるのが、どこか心地よいらしい。横になった姿勢を変え、片手で頬杖をつきながら、相変わらず朝香をじっと見つめている。 どれだけ見ていても、見足りないとでも言いたげな眼差しだった。朝香は熱いお茶をひと口すすり、ふと顔を上げると、神崎の気だるげな目線とばったり目が合った。 彼女は一瞬ぎょっとして動きを止め、目の奥に一瞬、明るい光がよぎる。 小さな声で「いつ来たの?」とたずねる。祈人はわずかに口元をゆるめ、まるで本
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第20話  

夜音は、一瞬、目を逸らす。 けれどすぐに、あの傲慢な態度を取り戻した。「朝香さん、嘘ばかり言わないでよ。私は祈人に本気だけど、彼を傷つけたことなんて一度もない」神崎はその言葉を受けて、淡々とした口調で応じる。「朝香さんは、あなたが祈人を傷つけたなんて一言も言ってないぞ」夜音は、祈人に毛布をかける手を一瞬止め、わざとらしくベッド脇の整理を続ける。「何のこと?全然分からないんだけど」ベッドに横たわる祈人は、唇が青白くなり、その瞬間、心の中で答えを見つけてしまったように、夜音から目を逸らした。朝香は小さく笑う。「本気って……本気で祈人を利用して、私を消そうとしたの?」場の空気が一気に張り詰め、最も動揺したのは夜音だった。 夜音は、その場で凍りついた。陰謀がばれた動揺を隠しきれず、顔が歪むが、必死で否定を続ける。「朝香さん、警告しておくけど、デタラメを言ったら許さないから!証拠がないなら訴えるよ!」祈人は唇をきつく結び、冷たい声で問う。「本当にお前がやったのか?」夜音は視線を泳がせ、苛立って立ち上がる。 その目で朝香を睨みつけるが、祈人が振り向く直前に無垢を装い、朝香の袖口をそっと引いた。「朝香先生、祈人が私のことを好きだからって、そんな嘘はやめてよ。それに……神崎さんが機嫌を損ねてもいいの?二人を手玉に取るなんて言われたくないでしょ?」神崎は、呆れたように肩をすくめて答えた。「朝香さんは、夜音さんが祈人を傷つけたとは一言も言ってないぞ。頭の悪いヤツは騙せても、俺はそうはいかない」指先でこめかみをとんとんと叩き、にやりと反撃する。「俺はまともだから、あなたみたいなのには引っかからない」その物言いはどちらにも刺さり、祈人は悔しそうに唇を噛みしめた。夜音は用心深く、現場で仕掛けをした男を海外逃亡させたつもりだった。 だが、その男は数日遊び回った末に警察の一斉摘発で逮捕され、夜音の指示もすべて明るみに出ることとなった。朝香は神崎にお茶を注ぎ、微笑む。だがすぐに表情を引き締め、夜音を見据えた。「結局、自業自得ってことよ。証拠もあるし、警察に協力してもらうつもりだから。SNSにも証言を公開するから、覚悟しておいて」夜音は怯え、言葉を失った。 だが
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