LOGIN深沢祈人(ふかざわ きひと)の愛人になって八年。ようやく彼はトップ俳優にまで登りつめた。 だが、萩野朝香(おぎの あさか)という恋人としての存在を公表すると約束していたはずの記者会見で、祈人が発表したのは、別の女優・秋野夜音(あきの よね)との交際だった。 「朝香、俺の立場が安定したら、必ずお前と結婚する」 朝香は静かに微笑み、首を横に振った。「もういいよ」と、その声は優しくも、どこか遠かった。 後日、祈人が長文コメントで公開プロポーズをし、涙ながらに「俺と結婚してくれ」と頼んだときも、朝香は同じように微笑みながら首を振った。 十八歳の朝香は、十八歳の祈人と結婚したいと思っていた。 だが、二十八歳になった医師の朝香は、もはや二十八歳のトップ俳優・祈人と結婚する気にはなれなかった。
View Moreフォークとナイフがカチャカチャと触れ合う音だけが、静かな食卓に響いている。朝香は胸が詰まる思いで牛肉を一口飲み込み、どこか胸の奥に鈍い痛みが広がっていくのを感じた。神崎は、彼女を祈人のもとへ送り届けた。なんと、祈人が暮らしている場所は、朝香の小さな家からわずか三十分ほどの距離だった。こんなに近くにいたのに、なぜか遠く感じてしまう――そんな距離だった。朝香が戸を開けると、そこにいたのは、憔悴しきった祈人ではなく、まるで十代の頃の彼のような、静かな横顔だった。彼は初めて出会ったときと同じ服を着て、庭先でただぼんやりと座っている。庭に咲く花や草木は、朝香の家に植えてあるものとそっくりだ。唯一違うのは、庭に朝香と同じ背丈の人形が置かれていたこと――白いワンピースに高く結ったポニーテール。朝香は、夕風に揺れる人形の髪を見ていると、胸が締め付けられ、気づけば涙が溢れていた。その涙は地面にしみ込み、小さな花のように広がっていった。やがて祈人が振り返り、夢にまで見た朝香の姿を見つける。たった数歩の距離なのに、まるで二人の間には乗り越えられない海があるようだった。「ごめん、ごめん……」しゃがれた声で、祈人は子供のように繰り返し泣いた。どれだけ謝っても、もう届かない気がして――来る途中、神崎はこう話してくれた。一年半ほど前、祈人は実の母親に巨額の金を脅し取られそうになった。彼がそれを断ると、母親は「面倒を見る」と言って無理やり家に居座るようになったのだという。抑うつ症状で苦しんでいた時期、母親の言葉に騙されて、強いモルヒネ入りの薬を飲まされてしまったのだ。もっと早く十分な金を稼いで、朝香と静かに暮らしたい――そんな思いから、祈人は必死で仕事を詰め込んでいた。その一心で、無理に仕事を詰め込んだ結果、心も体も限界を迎えた。その後も、母親や夜音の巧みな誘導で、軽度の抑うつが重度になっていった。何事もないふりをしていたものの、実は薬なしでは夜を越えられないほど、心も体も追い詰められていた。祈人は、こんな結末になるとは思いもしなかった――ただ病気になっただけなのに、永遠に愛する人を失ってしまったのだ。涙を流しながらも、祈人はやっと言葉をしぼり出す。「……もう、元には戻れないのか?」
夜音の仲間たちは、約束の時間から三十分後、様々な撮影機材を持ち込み、意気揚々と現場に乗り込んだ。大勢で押しかけ、ライブ配信まで始める徹底ぶりだった。狙いは、スキャンダルの「生中継」という刺激的な話題作り。勢いよくドアを蹴破り、ライトをつけ、意気込んでベッドの布団をめくると――そこにいたのは朝香ではなく、なんと夜音本人だった。しかも、彼女は泥酔していて、服も乱れていた。その姿は、瞬く間に複数の人気ブロガーのライブ配信に映し出された。「……何がどうなってるの……?」配信を止めようとした時には、すでに何万人もの視聴者が押し寄せていた。録画やスクショはあっという間にSNSに拡散され、あらゆるネットニュースを席巻した。――向かいの部屋の前で、朝香と神崎はこのドタバタ劇を冷ややかに見守っていた。ただただ、呆れ果てて笑うしかなかった。祈人が朝香をどこかに呼び出すことはあっても、図書館だけは絶対に選ばない。なぜなら、以前、朝香が読書に夢中になって図書館に閉じ込められ、祈人が大騒ぎして救出に走ったことがあるからだ。それ以来、祈人の中で図書館は、絶対NGになっていた。夜音は自分が巧妙な罠を仕掛けたつもりだったが、その裏で神崎は彼女の動きを把握していた。 実は図書館に入る前から、神崎が外で何度も朝香を誘導していた。監視車両も隠れていたつもりだったが、とうにバレていた。朝香は薬の入った水をわざと飲み、あたかも動揺しているフリをしただけ。全て、夜音の罠に引っかかったように見せかけていただけだった。――自分では抜け目がないつもりでいたが、夜音は神崎と朝香の罠にまんまとかかった。さらに、以前無理やり祈人に発表させた「婚約発表」も、今回の事件で彼女自身の首を絞めることとなった。神崎は少し安堵したように、朝香の手をそっと握った。「君が機転を利かせてくれたおかげで助かった。もし何も気づかず罠にはまってたら……考えただけでゾッとする」朝香は得意そうな顔で、目をぱちりと瞬かせた。「いやいや、あなたもちゃんと情報を掴んでたんでしょ?私がメッセージしたら、あっという間に全部段取りできてたじゃない」神崎は照れたように鼻をこすり、「実はずっと夜音の動向をマークしてたんだ」と小声で打ち明けた。朝香が
春の午後、陽射しはまぶしく、春の日差しが雪の上に降り注ぎ、目を開けていられないほどの眩しさだった。夜音の声はしだいに嗚咽まじりになっていく。それに対し、朝香の表情はどんどん険しくなっていった。――まさか、こんなことになるなんて。頭の中では、これまでのささいな出来事が次々と蘇る。夜音が現れてからというもの、祈人は毎晩家には帰ってきていたものの、必ず部屋を別にして、朝香にはまったく触れようとしなかった。朝香はてっきり、祈人の心が離れたせいだと思っていた。でも――もしかしたら、発作で苦しむ自分の姿を見せたくなくて、わざと距離をとっていたのかもしれない。スマホのパスワードを変えたのも、朝香にカルテや受診履歴を見られたくなかったからだろうか――?それらを考えていると、朝香は胸が波打つように激しく高鳴るのを感じた。冷静を装ってはいるものの、その瞳には確かな動揺がにじむ。朝香は机の端を握る指が白くなるほど力が入り、ふと気がつくと、胸が締めつけられて息苦しくなっていた。まるで誰かに胸元を強く押さえつけられているようで、一瞬たりとも呼吸ができない――そんな感覚だった。「落ち着いて。とりあえず、水を飲んで」珍しく夜音が、柔らかい口調で声をかけてきた。動揺したままの朝香は、手を震わせながら水を口に含む。夜音の顔からは、やがて感情の色が消え、代わりに複雑な陰りがさしていった。その瞳の奥には、蛇のような冷たい光が静かに揺れている。「明日、祈人さんは海外に行くの。今夜が、彼に本当のことを伝えられる最後のチャンスよ」夜音はテーブルにカードキーを置き、ため息をついたふりをしながら続ける。「祈人さんは、まだあなたのことを忘れられずにいるの。でも私は、自分のお腹の子の父親が、他の女を想い続けたまま生まれてくるなんて、絶対に許せない。だから、お願い。今夜、ちゃんとけじめをつけて」夜音は愛想よく微笑んで「それじゃ、よろしくお願いします」とだけ言うと、すぐに席を立った。ドアを出る間際、わざわざ振り返り「ねえ、神崎さんには絶対に内緒にしてね」とくぎを刺すことも忘れなかった。腰をくねらせながら去っていく夜音は、すぐさま図書館の前で待っていたワゴン車に乗り込んだ。ドアが閉まるや否や、サングラスを外して鏡
祈人の胸の奥には、悔しさと哀しみが静かに広がっていった。まるで冬の川が静かに水かさを増していくように、その瞳からは光が失われていく。かつて夜音と抱き合っていたとき、朝香が味わったあの胸を裂くような痛みを、今の彼は身をもって知ることとなった。猫を連れて朝香の後を追いかけていくと、冬の冷たい風の中、朝香と神崎が寄り添い歩く姿が見えた。神崎の手が朝香の手をしっかりと握っている。それは、祈人にはもう二度と手に入らない温もりだった。胸の奥が苦しくなり、息をするのもつらい。「朝香、猫はお前が受け取ってくれ。思い出として、そばに置いてほしい」そう言って何度も差し出す祈人に、朝香は決して受け取ろうとはしない。言い合いになっているうちに、危うく車にぶつかりそうになった朝香を、神崎がすばやく引き寄せた。とうとう堪えきれなくなった神崎は、祈人の顔面めがけて拳を振り下ろす。「人の話が聞こえないのか!?朝香が嫌がることを無理やり押し付けてばかりいるから、こうして大事な人を失うんだ」普段はおちゃらけている神崎も、このときばかりは容赦なく祈人に強烈な拳を叩き込んだ。祈人は転がるように倒れ、猫の入ったケージを抱えながら地面で苦笑いを浮かべる。「神崎、お前こそ自分のことで精一杯なのに、朝香を守れると思っているのか?」弱々しく立ち上がり、口元の血を拭うと、再び神崎に向かっていく姿は、まるで何かにすがりつくようだった。しかし、そのとき朝香が静かに口を開いた。「夜音さんがあなたに渡した鎮痛剤、もう飲まないで。その薬には依存性の強い成分が入っている。飲み続ければ体を壊すだけよ」祈人が倒れ込んで家で苦しんでいたあの日から、朝香は薬のことをずっと気にしていた。あるとき薬の瓶にラベルがなく、不審に思い、知り合いの検査機関に成分分析を依頼した結果、その薬には強いモルヒネが含まれていることがわかった。祈人の目の奥から、さらに光が失われる。朝香の言葉は、彼の胸を鋭く貫き、痛みだけが残った。冬の終わり、雪混じりの風が彼のマフラーをはためかせる。その姿は、どこまでも儚く、孤独だった。やがて、祈人の嗚咽が冷たい風に混じり、まるで迷子の子犬のようにかすかに響く。やがて撮影も終わりに近づく頃、祈人は突然SNSで夜音との
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