All Chapters of すれ違う風の向こうに: Chapter 1 - Chapter 10

26 Chapters

第1話

深沢祈人(ふかざわ きひと)の愛人になって八年。ようやく彼はトップ俳優にまで登りつめた。 だが、萩野朝香(おぎの あさか)という恋人としての存在を公表すると約束していたはずの記者会見で、祈人が発表したのは、別の女優・秋野夜音(あきの よね)との交際だった。「朝香、俺の立場が安定したら、必ずお前と結婚する」朝香は静かに微笑み、首を横に振った。「もういいよ」と、その声は優しくも、どこか遠かった。後日、祈人が長文コメントで公開プロポーズをし、涙ながらに「俺と結婚してくれ」と頼んだときも、朝香は同じように微笑みながら首を振った。十八歳の朝香は、十八歳の祈人と結婚したいと思っていた。だが、二十八歳になった医師の朝香は、もはや二十八歳のトップ俳優・祈人と結婚する気にはなれなかった。………………朝香が最後に祈人に希望を抱いたのは、「自分を恋人として公表する」と言ってくれた記者会見の日だった。 彼女は胸を高鳴らせ、花のように輝く笑顔でその時を待っていた。しかし、その場で耳にしたのは、祈人と夜音の交際発表だった。「夜音、八年間ずっとそばにいてくれてありがとう。これからの人生も、よろしく頼む」その言葉が放たれた瞬間、朝香の胸に鋭い痛みが走る。一言一言が心の奥深くに刻み込まれ、あまりにも深く重く、まるで心から血が滲み出るかのようだった。二人が知り合ったのは、まだ無名だった頃。制服姿の学生から芸能界へと進み、トラブルで一度はキャリアを絶たれかけた祈人も、やがて努力の末にトップ俳優となった。朝香はあらゆる手を尽くし、祈人の未来のために、自分を押し殺して八年間「秘密の恋人」を続けてきた。 それなのに祈人は、たった二言三言で、朝香のすべての努力を他人のものにしてしまった。 この瞬間、朝香はふいに疲れを覚えた。 彼女は携帯電話を手に取り、長い間返事を待たせていた相手に電話をかける。 「桑原(くわばら)院長、貴院で働くことをお受けします。一週間後、必ず出勤いたします」実は前年、指導教授の推薦で浜城市の有名な病院に誘われていた。しかし祈人のことが気がかりで、ずっと決断できずにいた。 仮住まいの別荘へ戻ると、朝香は落ち着いた気持ちで荷造りを始めた。 気がつけば夜も更け、荷物をまとめ終えたころには、時刻はほと
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第2話

朝香はゆっくりと目を開け、祈人をまっすぐに見つめていた。 淡い茶色の瞳は、どこまでも澄んでいて、そこに映る祈人の顔はなぜか少し歪んで見える。祈人は慌てて視線を外し、頭の中で考えていた言葉も色あせてしまう。 どこか落ち着かない様子で、そっとポケットから小さな箱を取り出した。中には、淡いパールのペンダントが静かに収められている。「朝香、これ、昨日の約束を破ったお詫びだ。お前のためにちゃんと用意してきたんだ。大人なんだから、細かいことは気にせず、許してくれよ」祈人は、甘えるように朝香の腕を軽く揺すった。 いつもなら、こんなふうに祈人がじゃれてくれば、朝香は思わず笑顔を浮かべてしまっただろう。 だが今回は、どれだけ甘えても、朝香の目にもう以前のような輝きは戻らなかった。しばらく耳を澄ませていた朝香は、目を細めて淡々と「うん」とだけ返し、体を背けてそのまま眠ろうとした。 祈人は一瞬、本当に夢の中で聞いた言葉だったのかとさえ疑った。夜音との交際発表が会社の指示で、ドラマの宣伝のためのスクリーンカップルだということも、朝香には分かっている。 でも、ただ今回は本当に心が疲れ果てていた。それだけだった。あと六日でこの場所を離れ、浜城市に向かう。その前にやるべきことを片付けなくてはならない。朝香のそっけない態度に祈人は不安を覚えたが、食事や身の回りの世話を変わらずしてくれる姿を思い出すと、その不安もすぐに消えていった。祈人は朝香の白い手を取って、自分の胸に当てる。 「朝香、夜音が前にお前をいじめたことがある。もし俺が本気であいつを好きだったとしたら、もう俺は人間じゃないだろ。信じてほしい。夜音とはただの演技だけで、本気になったことなんて一度もないんだ」かつての朝香なら、きっと素直に微笑んでくれたはずだ。 だが今回は、どこか虚ろな笑みを浮かべ、淡々とペンダントを受け取ってバッグにしまった。「ありがとう」と丁寧に礼を言いながらも、どこか距離を感じさせる態度だった。 そして祈人の真剣な眼差しを見上げた瞬間、朝香の胸には鋭い痛みが走る。 その痛みは胸の奥にじわじわと広がり、心を静かに蝕んでいった。あの頃、まっすぐに自分だけを見てくれていた少年が、名声に染まって少しずつ変わっていく――その現実を受け入れき
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第3話

スタジオではアクションシーンの撮影準備が進んでいた。朝香は適当に隅のほうに座り、無意識のうちに祈人の姿を探していた。 だが、視線の先で祈人の向かいにいた夜音と目が合ってしまう。夜音は美しい顔に、挑戦的な笑みを浮かべている。 わざとらしく下着のストラップを直し、こちらを挑発するような目を向けてきた。 そして芝居の流れを利用し、体をくにゃりと祈人の胸元に預けていく。朝香が夜音と初めて会ったのは、一年前の病院だった。 真夜中の二時か三時頃、祈人が酔いつぶれた夜音を連れてやってきた。 夜音はまともに立てないほど酔っていて、額には血が滲む傷ができていた。ちょうどそのとき、別の患者が急変し、院内は慌ただしくなっていた。 けれど祈人は、必死の形相で「どうしても夜音を先に診てほしい」と朝香に頼み込んだ。その後、夜音は朝香の規則違反を病院に実名で通報する。それが原因で朝香は職を失い、他の病院にも雇われなくなってしまった。このとき、祈人はまだ朝香が現場にいることに気づいていない。 夜音が倒れ込んでくるのを、ごく自然な手つきで受け止めると、彼女の鼻先を愛しそうに指でなぞる。 周囲の視線も気にせず、夜音を腕に抱いてくるりと回り、祈人の瞳は星空のようにきらめいていた。「ただの仕事相手」――そう言っていたはずなのに、祈人が夜音に向けるそのまなざしは、かつて自分に向けていたものと何も変わらないように思えた。こんな場面は、以前も何度となくあった。 そのたびに朝香は悔しくて泣いて訴えたものだったが、今は静かに座ったまま、何も言わない。 祈人が驚いた顔でこちらを見ても、朝香は礼儀正しく手を振ってみせた。その瞬間、祈人の顔はさっと青ざめ、反射的に夜音を突き放す。「朝香、ここじゃ話せない。家に帰ったらちゃんと説明するから」祈人は耳元でそうささやいた。声は誰にも聞こえないほど低い。朝香は胸の奥がきゅっと痛み、無理やり笑みを作った。 自分はそこまで人目に触れさせたくない存在なのか―― 外では恋人の存在を隠し、言い訳ばかり重ねられるこの関係が、なんとも情けなく思えた。背を向けて涙をこらえ、振り返るときにはまた微笑みを装う。「大丈夫、分かってる」そう、小さな声でだけ答える。 自分で始末をつけて、静かにこ
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第4話

気がつくと、注文していたアフタヌーンティーがもう運ばれてきていた。朝香は先日、カフェの店主の不眠症を治してあげたばかりだった。 そのお礼として、今日限定のキャビア入りヨーグルトスコーンを、特別に祈人たちのチームに優先してもらった。 一箱八個入り。祈人が二つ、監督が二つ、アシスタントの由紀が二つ。 残りの二つは、資料の受け渡しを終えた後、自然な流れで朝香の手元に残った。思いがけず、そこで「もっと祈人の立場を考えてほしい」ときつく咎められることになった。「朝香、なんでスコーンを夜音にも持っていかないんだ?自分で食べちゃって。今、俺は夜音とペアを組んでるって分かってるよな。そういう行動、現場での俺の立場を考えたことある?」祈人は不機嫌そうに顔をしかめ、冷たい口調で朝香に当たる。 朝香は瞳がかすかに震えたが、震える手を必死で抑えて、かろうじて微笑みを作った。そのとき初めて気づいた。もう、自分は祈人の中で、好きなものを自由に食べることさえ許されないほど、価値のない存在になってしまったのだと気づいた。唇をかみしめ、涙をこらえる。 涙越しににじむ視界で、彼女は意地を張りながらも店主に追加でスコーンを二つ頼み、夜音へと差し出した。夜音が散々好き嫌いを言いながらアフタヌーンティーを食べ終えるころ、撮影チームはすでに次のロケ地へ移動していた。 距離はそう遠くない。歩いても十数分ほど。だが、ちょうど運悪く小雨が降り出す。 三人で一つだけしかない傘。祈人は当然のように朝香のバッグから傘を取り出し、得意げな顔で夜音のもとへ駆け寄ると、朝香をその場に残して、夜音と二人で一つの傘に入り歩き出した。本当は大した雨でもないのに―― 朝香の心は、雨に打たれるよりずっと冷たくなっていた。すれ違いざま、夜音が冗談めかして祈人をからかう。 「祈人さん、プライベートアシスタントを置いてきぼりにして、私だけ面倒見てていいの?もし彼女が悲しくなって帰っちゃったら、どうするの?」その皮肉交じりの言葉が、鋭いナイフのように朝香の胸に突き刺さる。祈人は少し面倒くさそうな顔をして、後ろをちらりと振り返り、どこか白けたような笑みを浮かべると、「彼女には行く場所なんてないよ。ここで仕事できてるだけでもありがたいんだ
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第5話

その場に立ち尽くして三秒――やっと朝香は悟った。この世界には、もう無条件で自分を信じてくれる人なんて誰もいない。しばらくして、椅子の背をつかみながら、朝香はゆっくりと床から立ち上がった。 歯を食いしばり、一語一語をしぼり出すように訴える。「私はやっていません。何度聞かれても、毒なんて盛っていません!」矢野マネージャーは怒りにまかせて、手に持っていた固いビジネスバッグで朝香の頭を強く殴りつけた。 その拍子に、朝香の頭が壁にぶつかり、鈍い音が響く。額から温かい血が流れ落ち、まぶたを伝って、白い服に鮮やかな赤がじんわりと滲んでいく。それでも、朝香は黙ることなく、毅然と顔を上げ、こみ上げる涙を必死に押し戻した。「医師としての誓いに従い、私は絶対に医徳を守る。誰かを救うために医者になったんです。だから、やっていないものは、やっていません!」 夜音はどんな策略で朝香を陥れることもできる。 でも、医師としての誇りだけは、決して踏みにじらせはしない。「ふざけるな、いい加減にしろよ!」矢野がシャツの袖をまくり、今にも手を上げそうになったそのとき――「やめろ!」祈人がようやく低い声で制した。「ここは病院だぞ!」――それから三時間。ようやく救急室の扉が開く。だが中で手術を受けていたのは、夜音ではなかった。慌てて病室へ駆けつけると、夜音は気だるそうにベッドでぶどうを剥いて食べていた。 大きな目で無邪気そうに「ごめんなさい」と言いながら、「胃洗浄のあと眠くなって寝ちゃった。みんなに伝えるの、うっかり忘れてたの」としれっと話す。――うっかり、だなんて。みんなが入り口で息を詰めて待っていたというのに、夜音は一言で済ませてしまう。その手口の巧妙さに、朝香は言葉を失った。徹夜明けの朝香は、まだ昼間の雨で濡れたままの服を着ていた。 体は重く、頭がぼんやりしている。病棟のベンチでしばらく休み、ようやく立ち上がろうとしたとき、アシスタントの由紀が慌てて駆け寄ってきた。「朝香さん、大変!祈人さんがエレベーターに閉じ込められてるの!お願い、助けてあげて!」助けを求められれば、医師として反射的に走り出してしまう。 足元はふわふわして、力が入らなかったが、朝香はとにかく由紀につい
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第6話

朝香はようやく悟った――由紀はだまされていたのだ。 祈人がエレベーターに閉じ込められているなんて、最初から嘘だった。唯一の救いは、アシスタントの由紀が外で助けを呼んでくれるはずだということだった。 だが次の瞬間、外から由紀のうめき声が何度か響き――それきり、ぴたりと音が途絶えた。 辺りは死んだような静寂に包まれ、朝香は力なく壁にもたれかかった。朝香は力なく壁にもたれかかる。 頭がぼうっと熱く、視界は暗く霞む。全身が冷え切り、膝ががくがくと震えて、思うように動けない。深夜の霊安室には、言葉にできないほどの不気味な気配が漂う。 闇の中から無数の目が自分を見ているような錯覚に襲われ、腐敗した遺体の臭いに、胃がひっくり返る思いがする。冷たい風が何度も吹き抜け、どこかからかすかな声のようなものまで聞こえてくる。心臓が激しく波打ち、神経は張り詰めた糸のようになっていた。どれほど時間が過ぎたかわからない。まるで永遠のように感じたそのとき――微かに誰かの呼ぶ声が届いた。「朝香、地下二階にいるのか?」祈人の声だ!思わず心臓が跳ね上がり、朝香は叫びそうになるのを慌てて口を押さえた。 ほとんど泣き声で、切羽詰まった声を絞り出す。「祈人、私はここ!早く助けて!」これほど必死に、祈人にそばに来てほしいと願ったことはなかった。祈人が自分の声を聞いたのは間違いない。だが、扉の方へ駆け寄ろうとした祈人は、突然現れた夜音の声に足を止められる。「祈人さん、何してるの?今日の撮影、すごく大事なシーンなのよ。今すぐメイクに行かないと間に合わなくなるわ」扉の隙間から、祈人が夜音の手を強く振り払うのが見えた。「朝香がまだ中にいる。俺はまず彼女を助ける」まぶたが重く、意識も遠のきそうになったが、その一言で朝香は少しだけ楽になった。喉が焼けつくように渇き、しゃがれ声で必死に叫ぶ。「祈人、私はここ!ここにいる!」二十歩、十歩――祈人が近づいてくる。あと五歩。朝香の胸に、不思議な安堵の気持ちが湧き上がった。――しかし、夜音はしなやかに祈人の腰に腕を絡め、ささやきかける。「祈人さん、本当にそれでいいの?アシスタントひとりのために、監督を怒らせる気?せっかく苦労して手に入れた今のポジ
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第7話

この喧嘩のあと、祈人は初めて家に戻らず、一晩を外で明かした。「どれだけ遅くなっても必ず帰る」と交わしていた約束も、すっかり忘れてしまっていた。祈人は泥酔したまま夜音に家まで送り届けられ、首筋や胸元には無数の赤い痕が残っていた。朝香が祈人を支えようと近づくと、夜音はあわててシャツの襟を直す。 焦って見せかけてはいるが、実際はわざとらしく胸元のキスマークを隠し、朝香の目を引こうとしているのが見え見えだった。 祈人の視線の届かないところで、夜音は意味深な微笑みを浮かべる。酔い潰れた祈人を寝かしつけると、夜音は口紅を取り出して鏡の前で化粧直しを始めた。 まるで自分が本命だと宣言するかのように、「私と祈人さんはもともと婚約してて、親同士が話し合って公式に発表することになったの」と言い放つ。「祈人さんが世間から干されてた三年間、誰もそばにいなかったのが幸いだったわ。もし他に誰かいたら、私にこんな幸運は回ってこなかったかも。そう思わない?朝さん」胸の奥をきつくわしづかみにされるような痛みに、朝香はしゃがれ声で問い返した。「……それ、祈人が自分で言ってたの?」夜音はその大きな瞳を揺らしもせず、はっきりとうなずいた。「そうよ。祈人さんが、『この数年、どうしても夜音のことが心から離れなくて、それがなければとっくに諦めてた』って」心臓を鋭くえぐられたような痛みが走り、朝香はその場に立ち尽くした。それなら、この八年間、祈人を支え続けた自分は――一体、何だったのだろう。 ただの冗談、笑い話のようなものだったのか。これまで夜音とのいさかいで気まずくなったときは、いつも朝香が折れて祈人を慰めてきた。 でも今回は、もう自分を犠牲にしてまで関係を修復したいとは思わなかった。すると、今度は祈人のほうから、珍しく自分から歩み寄ってきた。 けれど彼が手渡してきたのは、今にも枯れそうな野花一輪――それを朝香の耳元に挿し、「お前に一番似合う」と満面の笑みで褒めそやす。朝香は、指が掌に食い込むほど拳を握りしめて、かすかに苦い笑みを浮かべた。夜音には九千九百九十九本のバラを贈り、朝香には道端で摘んだ一輪のしおれた野花。「お前は特別だから、こういう花じゃなきゃ似合わない。 他のありきたりなものなんて、
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第8話

「にゃあ〜」二匹の三毛猫――みたらしともなか――が、元気よく夜音の元へと駆け寄った。 しかし夜音は思わず悲鳴をあげ、顔色を変えて祈人の胸にしがみつく。そのくせ、朝香の目を盗んで猫のお腹を蹴り飛ばすという卑劣な真似までした。「夜音さん、何してるの!?」怒りを抑えきれず、朝香は夜音に向かって怒鳴った。この子たちは、朝香が十年も大切に育ててきた猫だ。祈人と出会うよりも前から、ずっと一緒にいた家族同然の存在―― みたらしももなかも臆病な性格で、普段は知らない人に寄っていくことなんてない。でも今日は、夜音が朝香のパジャマを着ていたせいで、興味を持って近づいただけだった。祈人も、彼らが人に危害を加えるはずがないことを知っている。 それでも彼は、きつい表情で「猫は外に出してくれ」と声を荒げた。夜音は猫たちを睨みつけ、その瞳に暗い憎しみを滲ませる。「祈人さん、この二匹、本当に厄介だわ。 朝香さんに頼んで、毒餌でも買わせておいてよ。寝るときにうるさいし、まとめて始末しちゃえばいいのに」「そんなの絶対にダメ!」朝香は猫を庇い、目を真っ赤にして夜音をにらみ返す。「私が生きている限り、絶対にこの子たちに指一本触れさせない!」パジャマやコップのことで夜音と争うつもりはなかったが、この猫たちだけは、誰にも傷つけさせない――そう強く心に決めていた。嫌な予感が胸をよぎり、朝香はその夜すぐにペットの輸送業者に連絡を取った。 だが翌朝目を覚ますと、猫たちの姿が消えていた。頭の中に警鐘が鳴り響き、朝香は別荘の隅々まで必死に探し回る。だがどこにも見当たらない。焦りで胸が押しつぶされそうになりながら歩き回っていると、最上階から悲痛な猫の鳴き声が聞こえた。朝香の全身が一瞬で強張る。 慌てて屋上へと駆け上がると、そこには――夜音が、やかんの熱湯を片手に、みたらしともなかに浴びせかけていた。二匹の猫は全身を震わせ、苦しげに身をよじって、やがて力なく床に倒れ、呼吸もかすかになっていく。朝香はその場に崩れ落ちそうになるが、矢野マネージャーに無理やり押さえつけられ、動けなくなった。夜音は瀕死の猫たちを片手でぶら下げ、屋上の手すりにまたがる。 一歩踏み出せば、すぐにでも転落しそうな状態だった。振り返
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第9話

何日も朝香の姿を見かけなかった。 広い別荘は、どこまでも静まり返り、人の気配がまるで感じられない。祈人は撮影現場にいても、どこか心ここにあらずだった。身近にあの温かな存在がいなくなったことで、心の一部がぽっかりと空いてしまったような感覚に陥る。 週末になっても、夜音がわざとらしく露出の多い新しいパジャマで、祈人の前を派手に歩き回っても、何も感じなくなっていた。「祈人さん、まさかあのどうでもいい朝香のこと、まだ引きずって落ち込んでるんじゃないでしょうね?」夜音は色っぽく祈人の胸元にもたれかかり、指先で肌をなぞって誘惑する。以前なら、こんなふうに甘えられれば、祈人はあっという間に彼女をベッドに連れ込んでいたはずだ。 だが今は、まるで興味を失ったように、きれいに畳まれた衣服をぼんやりと眺めながら、ふと思いついたように尋ねた。「朝香は、きっと帰ってくるよな?」夜音は不機嫌そうに彼をにらみつけた。「人は上を目指すものよ。朝香さんだって、どうせ他の男と楽しくやってるに決まってるわ。彼女のことなんて、放っておけばいいのよ」「やめろ!」祈人は珍しく、夜音にきつく怒鳴った。その瞳には、怒りの炎がちらついている。「もう一度でも朝香を悪く言うようなら、今すぐ出ていけ」洗面所で顔を洗い、少しだけ気分を落ち着かせてから、つい習慣で呼びかけてしまう。「朝香、タオルを取ってくれ」返ってきたのは、水滴が静かに落ちる音だけだった。何とも言えない感情が胸の奥で渦巻く。 自分でも説明できない空虚さが広がるばかりだ。祈人は、あのキラキラと輝く朝香の瞳を思い出す。初めて出会ったとき―― 斜めから差し込む陽射しが、朝香の淡い琥珀色の瞳を優しく照らしていた。 その透明で澄んだまなざしが、荒れていた祈人の心を不思議と落ち着かせてくれた。今、朝香を失った祈人は、心の拠り所を失った子どものようだった。何度も部屋の中をうろうろと歩き回り、何をする気にもなれず、ただ落ち着きなく時間だけが過ぎていく。電話はつながらず、メッセージも既読にならない。祈人はたまらず、朝香の部屋に向かった。そこには、朝香の気配が完全に消えていた。祈人がプレゼントした服やアクセサリー、バッグは、全てきちんと整頓されてク
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第10話

浜城市に来てから最初の五か月、朝香は一晩たりとも安眠できなかった。夜、目を閉じるたび、みたらしともなか――あの二匹の三毛猫が死の間際に見せた、絶望と苦しみに満ちた瞳が頭から離れない。昼間は何もなかったかのように診察室で患者を迎えていても、夜になると、泣きすぎて体がしびれるほど涙を流した。一週間だけ休みを取って、北海へ一人旅に出かけた。 一人で食事をし、観光地を歩き、気の向くままに時間を過ごす。北海の空港は決して大きくないが、その日はなぜか人でごった返していた。誰か偉い人でも来ているのかと、あまり気にせずにいたが―― 保安検査を終えたその瞬間、ロビーにいた人々が一斉にざわめき立つ。「祈人さまが来た!」その声が聞こえた瞬間、朝香の全身が凍りついた。人々は一斉に出口へ走っていく。朝香だけが場違いなほどじっと立ち尽くし、押し寄せる人の波と鮮やかな対比をなしていた。VIP出口の前に、祈人が無言で立っている。高い鼻梁と深い目元、整った顔立ちにはどこか冷たい影が落ちている。厳しいまなざしで群衆を一人ひとり見渡し―― 探している人が見つからないとわかると、ほんの一瞬、失望の色が浮かぶ。それでも諦めず、空港内をくまなく見て回る。朝香は心臓が跳ねるのを感じ、すぐに悟った。――祈人が探しているのは、自分だ。祈人の視線がこちらに届く直前、朝香は素早くしゃがみ込み、あわててスーツケースで体を隠す。北海の冬は風が強い。帽子にマフラー、マスク、そして今まで一度もかけたことのない金縁の眼鏡まで着け、母親ですら気づかないほど変装していた。それでも祈人の熱い視線が何度も朝香の方へと向けられるのがわかる。最初は緊張と疑念、そして戸惑い、やがて探るような目つきと、失望の色に変わっていく。最後は違うと判断し、不本意そうに視線を外した。由紀に急かされて外へと向かう祈人。このままでは空港が混乱すると知りつつも、何度も名残惜しそうに振り返った。ほんの少しでも似ていると、心がざわついてしまう―― 自然とその姿を追いかけたくなり、つい足が向かってしまう。だが階段を下りるわずかな間に、朝香の姿は跡形もなく消えていた。悔しさと空虚感が胸を満たす。そのわずかな一瞬が、祈人を何度も夜も眠れぬほど苦しめた。彼
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