All Chapters of 恋人未満の彼と同棲生活(仮)始めます: Chapter 61 - Chapter 68

68 Chapters

11.私は全部知っている⑦

 それからの私は、どこか上の空。仕事をしていても、何度も同じところで作業の手を止めてしまっていた。『桃瀬先生が話すに値する相手だと思えば、彼も話してくれると思いますし』 忘れようとしても、竹中さんの言葉が頭から離れてくれない。(話すに値する相手……) そんな値踏みするような目を、一臣さんから向けられたことなんて一度もない。 あくまでも竹中さんが勝手に言っただけだ。 そんなの、分かってる。分かっているのに。 私は一臣さんの弟さんのことを、――もっと言えばご家族のことを何も知らなかった。 弟さんがいることも、今日竹中さんから聞かされて初めて知ったくらいだ。(私には話しても無駄だと思われてる?) 親しくなって、それほど経っていないのだ。時期尚早なだけかもしれない。 でも……。 さっきから同じことをぐるぐると考えては、自分を慰めるように教えてもらえていない理由を探している。 現に私だって、一臣さんに自分のことを全て話しているわけじゃない。 家族構成や、孝夫さんとの馴れ初め。 考えてみれば、うなちゃんとの出会いだって、話したりしていないもの。 お見合いで出会ったわけでもない限り、そういうのは少しずつ分かり合っていくものだと思う。(それに……)  誰にだって、人に話したくないことのひとつやふたつ、きっとあるはずだもの。 考えてみれば竹中さんの言い方では、弟さんのことは一臣さんにとって、言いづらい部類のことみたいに聞こえた。 だとしたら尚更。そんなことを、まだ恋人ですらない私が〝教えてほしい〟なんて思うこと自体おこがましい話なのかも?(でも……あんなふうに言うってことは……竹中さんは一臣さんからそういう話をしてもらっていたってこと……だよね?) そもそも、竹中さんと一臣さんはどのくらいの期間、お付き合いなさっていたんだろう? 付き合い始めてどのくらいで、彼から〝話すに値する相手〟だと思われたのかな……。(私は……) 一臣さんと私は、まだちゃんとお付き合いしているわけではない。 下の名前で呼び合って、触れるか触れないかの軽いキスを交わして。一線を越えそうにもなったけれど、私が孝夫さんにされたことを思い出して怖がったのに気付いた一臣さんが、待ってくれた。 もしあのまま身体の関係があったとして……『付き合おう』って言われていない間
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11.私は全部知っている⑧

 担任を持っている一臣さんは、子どもたちが下校したからといってすぐに帰れるわけではない。むしろ児童らが帰ったあとだからこそできる仕事も多いし、今日は保護者からの電話も入っていたと聞いた。(きっといつもより遅いんだろうな) そう思うと、なんだか不安に押しつぶされそうになる。「くぅーん……」 うなちゃんにペロリと頬を舐められて、私はハッとした。「ごめんね、ぼーっとしてた」 気持ちを切り替えるように、わざと明るめに声を出して立ち上がると、私はバッグを所定の位置へ置きに行く。 代わりにうなちゃんのお散歩セットを手に振り返って、 「よし。うなちゃん、お散歩行こっか」  と微笑み掛けた。「わんっ!」 〝お散歩〟という言葉はしっかり分かっているらしい。  途端うなぎが嬉しそうに尻尾を振りながら玄関へ駆けて行って、〝早く早く!〟と急かすみたいに玄関扉へ前足を掛けてから、私を振り返った。「ふふっ。すぐ行くから待って」 急かすうなぎに笑いながら、リードとハーネスを手に取る。 ブンブン振られる尻尾を横目に、私はうなちゃんによく似合う明るい色のハーネスを彼女に装着して外へ出た。「暑いね」 九月に入ったとはいえ、夕方の空気にはまだ夏の名残があった。  それでも真夏の頃に比べれば、日が傾くのも随分早くなった気がする。  暑い時分は陽が落ちてからお散歩へ行くようにしていたから、夕飯づくりの時間とお散歩の時間が今とは逆転していた。「うなちゃん、また寄り道?」 いつもの散歩道。  うなぎはあちこち匂いを嗅いでは立ち止まり、時々思い出したように私の顔を見上げる。「ふふっ。楽しいね」 無邪気なうなぎを見ていると、学校を出てからずっと胸の奥に引っ掛かっていたものが、ほんの少しだけ薄らいでいく気がした。(……今は考えるの、やめよう) 一臣さんが帰ってきたら、ちゃんと顔を見て話せばいい。  そう思いな
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11.私は全部知っている⑨

「ただいまー。……って、うなぎ! お前、今日ちょっとテンション高くね!?」 そんな声が聞こえてきて、思わず笑ってしまう。(……一臣さんだ) たったそれだけのことで、ずっと胸の中に居座っていた重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。「お疲れ様、一臣さん」 キッチンから顔を出す。「おう。ただいま、穂乃」 ――穂乃。 いつものように名前を呼ばれる。 学校では決して呼ばれない、私の名前。「あー、すっげぇいい匂いする」「今日は生姜焼きです」「マジ? メニュー聞いた途端、俄然腹減ってきた」「もう少しでできますよ」「なんか手伝う?」「大丈夫です。一臣さん、着替えてきてください」「ん。ありがとう。じゃあそうさせてもらう」 一臣さんが自分の部屋へ向かっていく。 その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。(……いつも通り) 何も変わらない。 家へ帰れば、一臣さんはいつもの一臣さんで……私を穂乃と呼んでくれる。 そして私は、ここで一臣さんの帰りを待っている。 関係は曖昧だけど、恋人に近い距離感なんじゃないかと思いたい。 竹中さんが一臣さんの昔をどれだけ知っていたとしても、今、一臣さんが〝ただいま〟と言って帰ってくる場所には、私がいるのだから。 そう思ったら、ほんの少しだけ、胸が温かくなった。***「ごちそうさま。今日の飯も最高に美味かった」「お粗末さまでした」「いや、マジで穂乃が作ってくれる料理、どれも美味いし……今日の生姜焼きもすげぇ好きな味だった!」「本当ですか?」「おう。なんか穂乃と住むようになってから飯進んで体重やべぇかも」「ふふっ、それは困りましたね」「大丈夫。その分、しっかり運動するようにするから」「はい」「あー、ところで今日、うなぎの散歩は?」「残念ながらもう済ませました」「マジかぁぁぁ」 一臣さんがガクッとうなだれて、「じゃあ、ちょっとしたら一人で走ってくるわ」とつぶやいた。「あの……ご飯は今まで通り作っても大丈夫ですか?」 一応問うたら、「当然」と即答される。「じゃあ、また作りますね」「有難う。俺も早く帰れた日は手伝うから」「はい。よろしくお願いします」 言いながらも、一臣さんはどんなに遅く帰って来た日も、洗い物はしてくださる。 孝夫さんと暮らしていたころは体調不良
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11.私は全部知っている(10)

「……マジか」 「一臣さんのせいじゃありません」 「実は途中で受け持ちクラスの保護者から電話が入ってさ。そこであの人と別れなきゃなんなかったんだ。さすがに校長か教頭にあいさつして帰ってくれたとばかり思ってたんだけど……図書室へ行ってたって知ってたら俺も後を追いかけたのに。気付かなくてすまん」  一臣さんは、やたら申し訳なさそうな顔をして頭を下げてくる。  それは、彼女が私に敵意を持っていることを知っているの前提みたいな態度に思えて――。  私はギュッと拳を握りしめた。「で?」  こちらを見つめる一臣さんの眉間に、わずかに皺が寄る。 「なんか変なこと言われたんだよな、きっと」 そんな一臣さんに、私は意を決して口を開く。「あの……、竹中さんって、一臣さんの……元恋人、なんですか?」 一瞬。  ほんの一瞬、一臣さんが黙った。 でも、否定はしなかった。 やがて、ふうっと短く息を吐く。「……ああ」 分かっていた答えだったけれど、肯定された途端、胸の奥がちくりと痛んだ。「確かに昔、ほんの一時期付き合ってたことがある」 「そう、……なんです、ね」 「……あの人が言ったのか?」 「はい」 「余計なことを……」 一臣さんが面倒くさそうに髪を掻く。「黙ってて悪かった」 「いえ!」 思わず強く否定した。「謝らないでください。そんなの、私に謝ることじゃないです」 「でも」 「本当に大丈夫です」 そこは、ちゃんと伝えておきたかった。「私にだって孝夫さんとのことがありますし。一臣さんに昔付き合っていた人がいたからって、それをどうこう言うつもりはありません」 ――言える立場でもありませんし。  その一言は寸前のところでグッと喉の奥に押し込めた。「穂乃」 「本当です」 竹中さんが元恋人だったことは、苦しい。  嫉妬していないと言った
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11.私は全部知っている(11)

「昔の話だ。ホント、穂乃が気にすることじゃねぇんだよ」 「でも……」 「俺の! ……問題だから」 そこで一度、言葉を切る。「穂乃まで背負う必要はない」 ――背負う必要はない。 その言葉に、胸が締め付けられた。 竹中さんには話せたことなのに、私には話せないと線引きされたようで。  それが、堪らなく辛かった。(……やっぱり私は、一臣さんにとって〝話すに値する相手〟じゃないのかな) そう思ったら、胸の奥がズキンと痛んだ。「でも、私……」 「穂乃?」 「一臣さんが苦しかったことなら、私だって……」 少しくらい、一緒に背負いたい。  そんなふうに思うのは、いけないことなのだろうか。「私だって、一臣さんのこと――」 「だから!」 思いのほか強い声に、身体がびくりと震えた。  一臣さんもハッとしたように目を見開く。 それでも、もう口から出てしまった言葉は止まらなかった。「これは俺の問題なんだよ。穂乃が背負うようなことじゃない。だから――」 一臣さんが、苦しそうに眉根を寄せる。「穂乃には関係ないんだよ」 「……」 ――関係、ない。 その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残った。「……そっか」 「穂乃?」 「そう、ですよね」 何とか笑おうとした。  ちゃんと笑えたかどうかは、自分でも分からない。「ごめんなさい。変なこと聞いて」 「いや、そういう意味じゃ――」 「ジョギング、行くんですよね?」 「あ……」 「引き止めてごめんなさい。行ってきてください」 「穂乃」 「私、大丈夫ですから」 大丈夫。 また同じ言葉を使ってしまった。  今日、何度そう自分に言い聞かせただろう。 一臣さんは何か言いたそうに私を見ていた。 だけど
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12.あか抜けた女①

 竹中亜里沙さんが学校へやってきてから、数日が経った。  あの日以来、一臣さんとの間に何かが変わったのかと聞かれたら、私はきっと首を横に振ると思う。  だって、一臣さんは今までと何も変わらないから。「ただいま、穂乃」 仕事から帰ってくれば、いつものように私の名前を呼んでくれるし、夕飯を食べれば「美味い」と褒めてくれる。  食後の片付けだって、私が何も言わなくても進んで手伝ってくれるし、うなぎとのスキンシップも相変わらず楽しそうにしてくれている。 何も変わっていない。  変わってしまったのは、たぶん私の方だ。「穂乃、今日は俺が皿、洗うよ」 そう言って、一臣さんが食卓から運んだ食器を引き取ってくれる。「あ、ありがとうございます」 「ん。じゃあ、穂乃は拭く係な」 にこっと笑ってスポンジを手に取る一臣さんを見ながら、私は小さく息を吐いた。 以前なら、こんな何気ないやり取りが嬉しかった。 一臣さんが私の名前を呼んでくれることも、当たり前のように家事を分担してくれることも。 この家で一緒に暮らしているうちに、少しずつ距離が縮まっているような気がしていたから。 だけど今は――。『穂乃には関係ないんだよ』 ふとした瞬間に、あの日の言葉が蘇ってしまう。 もちろん、一臣さんが私を傷つけようとして言ったわけじゃないことくらい、分かっている。  竹中さんとの間に何があったのかは知らないけれど、きっと簡単には話せない事情があるんだと思う。  だから、無理に聞き出そうなんて思っていない。  ただ……。(私、一臣さんのことを、どこまで知っていいんだろう) そんなことを考えるようになってしまった。 同じ家に暮らしている。  一緒にご飯を食べて、他愛のない話をして、時にはふざけ合って笑うこともある。  それに、キスだってした。  なのに私たちは、恋人同士というわけじゃない。  そのことを、あの日の一件で改めて思い知らされたような気がしていた。「……穂乃?」 「えっ?」 名前を呼ばれて顔を上げると、一臣さんが少し心配そうにこちらを見ていた。「どうした? ぼーっとして」 「あ、いえ。何でもありません」 「そう?」 そう言いながらも、一臣さんはすぐには視線を外さなかった。「あのさ、
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12.あか抜けた女②

 それからも、一臣さんとの関係は変わらなかった。  相変わらず優しくしてくれるし、私もできるだけ今まで通りに接するようにしている。  ただ、ふとした瞬間に、あの日の言葉を思い出してしまうことだけは、どうにもならなかった。 そんな日々が続くうちに、九月のお給料日がやってきた。  仕事を終えてスマートフォンで銀行口座の残高を確認した私は、思わず頬を緩めてしまう。(……ちゃんと入ってる) もちろん、お給料が振り込まれるのは初めてのことじゃない。  だけど、以前とは違う。 孝夫さんと結婚していた頃、私のお給料はすべて孝夫さんが管理していた。  生活費も貯金も、全部任せておけばいいと言われて、私は自分で稼いだお金を自由に使うことが出来なかった。 離婚してから振込先を変更してもらい、今では働いた分のお金を自分で管理できる。 当たり前のことなのかもしれないけれど、まだそのことに慣れていない私にとっては少し不思議で……同時に、とても嬉しいことだった。 もちろん、全部を好き勝手に使うつもりはない。 一臣さんの家でお世話になっている以上、本当は家賃や光熱費も折半すべきだと思っている。  でも、一臣さんは決してそれを許してくれなかったから、私はせめて……と頼み込んで、食費だけは出来るだけ負担させてもらっていた。(でも、いつか……) 一臣さんに大きなお返しが出来るように、少しずつでも貯金している真っ最中だ。 それに、うなちゃんのためにも必要なお金は取っておかなくちゃ。 動物を飼うということは、その子の一生に責任を持つということだ。  病気や怪我をすればちゃんと動物病院へ連れて行きたいし、フードやおやつだって買ってあげたい。  お金はいくらあっても、多すぎて困るということはないと思う。 そもそも、あのマンションを出た時、私は自分の荷物をほとんど持ち出せなかった。  洋服はもちろん、うなちゃんの飼育用品さえ、ろくに持ってこられなかったのだ。  そんな私たちのために、一臣さんは色々なものを買い揃えてくれた。  うなちゃんのベッドや食器、お散歩用のリードに、おもちゃまで。 私の洋服についても、何度か一緒に買いに行こうと誘ってくれたけれど、さすがにそこまで甘えるわけにはいかなくて。  それだけは、ずっとお断りしていた。  だから今まで、足りない
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12.あか抜けた女③

聞き覚えのある声だった。 けれど、まさかこんなところで聞くとは思っていなかった声でもある。 恐る恐る振り返った私は、そこに立っている男性を見て、思わず息を呑んだ。 「……孝夫さんっ」 そこにいたのは、元夫の〝杉岡孝夫〟だった。 最後に顔を合わせたのは、離婚の手続きをした頃だっただろうか。 彼は以前と同じようにスーツを着ていたけれど、どことなくくたびれて見えた。 シャツには以前のようなパリッとした張りがなく、ジャケットやネクタイにもところどころ皺が寄っている。 結婚していた頃は、私が毎晩欠かさずシャツにアイロンを掛けていたし、スーツは定期的にクリーニングに出していた。 それこそネクタイの手入れに至るまで、すべて私の仕事だった。 孝夫さんは、そういうことを自分では一切しない人だったから……。 (……もしかして、困ってる?) そんなことを考えてから、私は慌ててその思いを打ち消した。 私と孝夫さんはもう夫婦じゃない。 今さら私が気にすることじゃなかった。 それよりも気になったのは、私を見る孝夫さんの表情だった。 「……本当に、穂乃か?」 「……? そうです……けど……」 「いや、お前……」 孝夫さんは何か言いかけて口を閉じると、私を上から下まで眺めた。 その視線が妙に居心地悪くて、思わず買い物袋を身体の前に持ってくる。 「眼鏡は?」 「コンタクトにしました」 「へえ……」 孝夫さんは感心したように声を漏らすと、今度は私の顔をじっと見つめた。 「お前って、そういえば眼鏡外すとそんな顔だったよな……」 「……え?」 「いや、眼鏡外したら随分印象が違って、可愛くなるじゃん? ってびっくりしてさ。……化粧も変えた?」 「変えたりはしてない……です、けど……」 「ふうん、そうなんだ。ホント、前からそうしてりゃよかったのに」 その言葉に、私は思わず瞬きをした。 ――前から、そうしていればよかった? 確かに、結婚していた頃の私は今ほど身なりに気を遣っていなかった。 でも、それは孝夫さんが、私がお洒落をすることを許してくれなかったからでもある。 少し明るい色の服を着れば、年齢を考えろと呆れられた。 美容院へ行きたいと言えば、そんなこと
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