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8.桃瀬穂乃として①

 私は今日から、名実ともに〝桃瀬穂乃〟として歩き出す。 そう心の中で言い切ったはずなのに、玄関で靴を揃える指先が、わずかに震えていた。 私の帰宅を察知するなり走り出てきた愛犬うなぎが、足元にぴたりと寄り添う。動物特有のあたたかな体温が、じんわりと伝わってくる。 温度差のせいかな。 眼鏡のレンズが曇って、視界が白くかすんで見えた。「ワンっ」「ただいま」 声は、思っていたよりも穏やかだった。 奥から梅本先生が顔を出す。「お帰り。……雨、ひどかったな」「はい。少しだけ……濡れちゃいました」 髪先から雫が落ちるのを見て、梅本先生が短く息を吐く。「眼鏡、曇ってんじゃん」「外、結構寒かったので」「そうか。風呂、沸いてるから入って来いよ」「……え?」「雨だしな。濡れて帰るだろうと思って沸かしといた」 何気ない言い方。 特別なことみたいにしない。 それが余計に胸に響いた。「ぼんやりしてないで入って来い。熱、ぶり返したら困るだろ?」 ――梅本先生は覚えてくださっている。 私が風邪を引いていたことも。 体力がまだ戻りきっていないことも。「……ありがとうございます」 お礼を言う私に、梅本先生はそれ以上何も言わない。 バスタオルと……いつの間に用意してくれたんだろう? 女性ものの部屋着を手渡してくる梅本先生の手元を、私は茫然と見つめた。 ここは、仮の居場所のはずだった。 なのに――。 あまりの至れり尽くせりぶりに、差し出された布物を受け取れずにいたら、促すように声を掛けられる。「桃瀬先生」 呼ばれて、私はわずかに顔を上げて彼を見やった。 いつもと同じ呼び方。 なのに、どこか違って感じられてしまうのは何故だろう?「……はい」「遠慮すんな」「……え?」 突然の脈絡のない言葉に、タオルと着替えを受け取らないことを言われているのかと思ったら、続く言葉でどうやらそうではないと悟った。「ここに帰ってくんの、遠慮しなくていい」 胸の奥が、ひくりと揺れた。 言葉が追いつかない。 梅本先生が一歩、近づいてくる。 近い。 けれど決して身体は触れ合わない距離。「ほら」 差し出されたタオルを受け取ろうとして、指先が触れる。 ほんの一瞬。 けれど、確かに。 逃げようと思えば逃げられた。 でも、私
last updateDernière mise à jour : 2026-02-22
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