All Chapters of これ以上は私でも我慢できません!: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

拓海の言葉は、心晴のいちばん痛いところをまっすぐ抉った。玲奈はそれを聞いた瞬間、怒りに顔を向けて拓海を睨んだ。「須賀君、もうやめて......!」明は拓海の狙いがわかった。けれど同時に、このやり方が逆効果になりかねないことも怖かった。心晴の手はまだナイフの柄を強く握りしめている。玲奈の手からは血がぽたぽた落ち続けていた。それでも拓海は、玲奈の制止を聞かなかった。むしろ声を張り上げ、心晴に突きつける。「そのナイフを親友に向けてる暇があるなら、その時間で考えろ。どう証拠を集めるか、どうしたら和真にもっと重い判決を食らわせられるか。俺があなたなら、あいつにはとっくに冷たい鉄の手錠をはめさせてる。こんなふうに泣いて、腐って、周りを傷つけてる場合じゃない。......俺が死ぬとしても、あいつに代償を払わせてからだ」玲奈には拓海の火に油を注ぐ言い方を止められなかった。ただ不安げに心晴を見つめ、どうか今の言葉が届いてほしいと願った。拓海の言い方はきつい。でも言っていることは間違っていない。心晴は呆然として、空っぽの目で前を見つめたまま固まっていた。――けれど、耳には入ったのか。彼女はゆっくりと手を下ろしていった。玲奈はすぐにナイフを取り上げ、さっと片づけた。拓海は身を乗り出し、玲奈の血に濡れた手を握り込んだ。そのまま心晴に向かって言い放つ。「覚えとけ。生きてるから、何だってできる。死んだら――それで終わりだ」そう言うと、拓海は玲奈の手を引いて部屋を出た。玲奈はよろめきながらついていくしかなかった。拓海は立ち止まらず、エレベーターに乗せ、そのままマンションの外へ連れ出した。向かったのは診療所だった。拓海は医師に玲奈の傷の処置を頼んだ。処置室で、消毒と包帯を巻かれるたびに玲奈は眉を寄せ、痛みに耐えきれず小さく呻いた。拓海は痛みをわかっている。胸の中では心配で仕方なかった。それでも口は容赦しなかった。「自分が馬鹿やったんだ。黙って我慢しろ」玲奈は顔を上げ、むっとして言い返した。「須賀君、あなた......」拓海は視線を合わせたまま、硬い表情で言った。「誰かを守りたいなら、まず自分を守れ」玲奈は何も言えず、後ろめたさに目を
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第502話

玲奈はその言葉に返事をしなかった。二人で並んで歩いていると、前方から突然、歓声が湧き上がった。先には人だかりができ、ライトがめまぐるしく切り替わっている。何を見ているのかわからないが、皆が声を上げてどよめいている。玲奈と拓海は反射的にそちらへ近づき、人の輪の中に押し入った。エスカレーターの縁から下の河原を見下ろすと、そこには大きくて圧倒されるほどのプロポーズの舞台が設えられていた。ピンクの花の海。巨大スクリーンには思い出の記録。風に揺れる風船とリボン。そして今、主役の男が大きなバラの花束を抱え、花畑の中に立つ女の子のもとへ歩いていく。女の子が花束を受け取ると、男はマイクを手に取った。親友や家族に背中を押され、男は堂々と愛を告げた。一緒に一生を歩みたい――その決意を、まっすぐ彼女に向けて。「今日こうして君の前に立つのは、軽率だと思うかもしれない。ぎこちなくて、格好悪いと思うかもしれない。でも、今夜このチャンスを逃したくない。伝えたいんだ。君を愛してる。君と結婚して、僕たちの何でもない日々を、ずっと一緒に過ごしたい。――結婚してくれますか?」その瞬間、周囲は一斉に沸いた。「受けてあげて!」「答えて!」女の子は頬を赤らめ、囃し立てられながら、こくりと頷いた。「......うん。いいよ」男は指輪をはめ、二人は抱き合い、キスを交わした。玲奈は河原を見下ろす場所の上に立ったまま、その光景を全部見ていた。あまりに温かい場面に、目の奥が熱くなり、涙がこぼれた。――智也と過ごした五年間の結婚生活。いつだって自分が尽くすばかりで、相手が何か驚きや儀式を用意してくれたことは一度もない。二人の関係は、持ちつ持たれつですらなかった。玲奈が泣いているのを見て、拓海が身をかがめ、耳元で言った。「何泣いてんだよ。お前が手に入れるのは、こんなもんじゃない。これよりもっといいんだぞ」玲奈は涙を拭い、踵を返して帰ろうとした。だが振り向いたその瞬間、視線が遠くの智也とぶつかった。智也は人混みの中に立ち、まるで逃がさないと言わんばかりに、玲奈を捉えていた。大勢の人を隔てて、二人の目が合った。言葉はない。玲奈の頬は涙で濡れ、目には怨みが滲んでいた。
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第503話

薫は本来、何か言うつもりだった。だが玲奈と拓海の姿が目に入った瞬間、反射的に口を閉ざした。人の流れがもう少し散ってから、薫は拓海が玲奈の腰に回している腕から視線を外し、わざと声を張り上げて智也に問いかけた。「智也さ、じゃあお前は?いつ沙羅さんにプロポーズするつもりなんだ?」智也は薫の意図をわかっていた。全部見えている。返事を待たずに、薫は畳みかけた。「もう会場の手配してるって聞いたけど?」智也はそこでようやく頷き、淡々と答えた。「......うん」声も大きくはない。けれどその「うん」は、こちら側にいる玲奈と拓海の耳にも十分届いた。薫も、智也が肯定するとは思っていなかった。だからこそ、さらに食いついた。「じゃあ、もう段取りは?いつやるんだ?」最初の一言は、確かに玲奈に対する見せびらかしのつもりもあった。だが今の二つは純粋に野次馬根性だ。智也は首を横に振った。「まだ決めてない」それを聞いて、薫は智也が本気でプロポーズを準備しているのだと悟り、勢いよく言った。「じゃあ俺が企画してやろうか?」智也は薄く笑い、断った。「いや。自分でやる」薫の胸には痛みが走った。それでも表には出さず、驚いたふりをして言った。「智也、沙羅さんに本当に優しいな。お前が誰かにこんなふうにするの、見たことない」智也は答えず、沈黙を選んだ。玲奈と拓海は並んで立ったまま、そのやり取りをすべて聞いていた。智也が黙ったのを見て、拓海が鼻で笑うように呟いた。「恥知らずって、無敵だな」薫は短気で、火がつくと早い。その言葉を聞くや否や振り向き、怒鳴りつけた。「拓海!今の、誰に言ってんだよ!」拓海は怯まない。むしろ嘲るように返した。「反応してるやつに言ってんだよ」薫は怒りで顔を歪め、袖をまくって歩み寄った。殴る気だ。拓海も一歩も引かず、真正面から立ちはだかった。肩が触れるほど詰め寄り、口元を吊り上げて吐き捨てた。「腰巾着め」薫は目を細め、危うい光を滲ませた。そして、声を低くして言った。「......死にてぇのか?」そう言うと、薫が手を出そうとした。拓海も肩を回し、拳を作った。場が一気に崩れそうになった、そのとき。玲奈
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第504話

だから当時の薫は、玲奈の親切を本気にしていなかった。ただのご機嫌取りだとさえ思っていた。けれど取り入りであれ何であれ、玲奈がかつて薫に良くしていた――それは紛れもない事実だ。薫は言葉に詰まり、智也のほうへ顔を向けた。「智也、これ......止めなくていいのか?」智也が何か言う前に、玲奈が先に言い放った。「止められるわけないでしょ。あなたと同じ。彼も、ろくな人間じゃない」薫は怒りに顔を歪め、玲奈に食ってかかった。「お前、この......」言い終える前に、智也が薫の腕を引いた。「沙羅が待ってる。お前もムキになるな。行くぞ」薫はまだ言い足りない顔だったが、結局それ以上は口をつぐんだ。ただ去り際に、玲奈を何度も憎々しげに睨みつけた。それを見て拓海が怒鳴った。「まだ睨むなら、目ぇ抉るぞ」薫は何も言わず、鼻で笑うように一度だけ嗤った。拓海が追いかけようとすると、玲奈が慌てて手を掴んだ。「須賀君、いい。そこまでしなくて」拓海は渋々、引いた。玲奈は彼の気持ちが落ち着いたのを確かめてから言った。「帰ろう」拓海は頷いた。「......うん」――その頃。智也と薫が沙羅のもとへ戻ると、沙羅は感動の涙で頬をぐしゃぐしゃにしていた。薫はその顔を見た瞬間、さっきまでの不機嫌が嘘みたいに消えた。残ったのは、満面の笑みと露骨な憧れだけ。近づきながら、薫は泣く沙羅をからかった。「それだけで泣くのか?智也がプロポーズしたら、お前、泣いて溶けるんじゃねぇの?」沙羅は薫を振り向き、わざと怒ったふりをした。「なにそれ。私を笑うなんて」そう言いながら、沙羅は手を伸ばして薫を叩こうとした。薫が避けると、沙羅は足を踏み鳴らして言った。「......三、二......」一を数える前に、薫は観念して立ち止まった。そして言い訳を並べる。「からかったつもりなんて本当にないよ。ただ君って、いつ見ても綺麗だなって思っただけ」その言葉で沙羅の虚栄心は満たされた。彼女はわざとらしく薫の頬をつねり、軽く叱る。「口がうまいんだから」薫は痛かったはずなのに声を上げなかった。むしろ心地よさそうですらある。つねられたところがじわりと赤くなり、そ
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第505話

薫のからかいを聞いた洋は、一瞬動きを止めてから、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。皆の前で足を止めると、洋は微笑んで薫に説明した。「さっき近くをぶらっとしてたら、面白い小物を見つけて。ついでに買っただけだ」薫はそのまま洋に詰め寄り、奪い取ろうとした。洋は一歩退いてズボンのポケットをかばった。その隠し方が余計に薫の好奇心を煽る。「何だよそれ。早く出して見せろよ」洋はポケットを押さえたまま言う。「別に、大したもんじゃない」薫は胡散臭そうに目を細めた。「......なに?ほんとに意中の相手に渡すつもりなのか?」洋は鼻で笑って言った。「お前には関係ない」薫は「マジかよ」という顔で洋を見て、しつこく食いついた。「ほんとに好きな女できたのか?」聞かれるのが鬱陶しくなったのか、洋は低く短く答えた。「......うん」薫はすかさず肩を回して抱きつくようにし、勢いよく尋ねた。「誰だよ。俺、知ってる?」智也と沙羅も、その会話は耳に入っていた。智也は噂話に興味はない。だが洋が誰かを好きになったという話自体、これまで聞いたことがない。だから無意識に視線が洋へ向いた。沙羅もまた、興味深そうに洋を見た。――でも、きっと言わない。好きなのは親友の女なのだから。そう思ったそのとき、洋が薫の問いに答えた。「今はまだ言えない。口説き落とせたら、そのとき皆に言う」焦らされて、薫も深追いはしなかった。その代わり智也に向かってぼやいた。「智也、見ろよ。洋、もう隠し事する男だぞ」智也は淡く笑い、洋を見て言った。「確かに、お前が誰かを好きだなんて聞いたことがない。今回は本気で惚れたのか?」洋は耳たぶを赤くして、頷いた。「うん。......彼女、怒って悪口言うときが可愛いんだ」その言葉を聞いた瞬間、沙羅は優越感に浸っていた顔をすっと上げた。洋が言う好きな人は――自分じゃない。そんな気配が急にした。沙羅はいつもおとなしくて可愛い側で通している。人前で罵ったことなんて、どれだけあった?智也は薫のように根掘り葉掘り聞くタイプではない。洋を見て、薄く笑って言った。「おめでとう」洋は苦笑し、肩を落とした。「いや、まだだ。
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第506話

沙羅はわざと何気ないふりをして、洋の腕にそっと触れた。誰かが触れたのに気づいた洋は、慌てて顔を向ける。相手が沙羅だとわかると、反射的に少し横へ身をずらした。同時に声を落として釘を刺す。「沙羅さん、今、俺に触ったでしょ。智也が見たら、絶対ヤキモチ焼くよ」沙羅は洋を見て、一瞬きょとんとした。それから遅れて状況を飲み込み、小さく返す。「あ......ごめん」洋は沙羅を見ようともせず、淡々と言った。「別に、大丈夫」そう言うと、さらに距離を取った。その瞬間、沙羅は確信した。洋が言っていた好きな人は、自分ではない。プロポーズ会場は大いに盛り上がり、智也でさえ、その甘い空気に自然と浸っていた。四人のうち、考えが別の方向へ飛んでいたのは沙羅だけだ。風船が空へ舞い上がったあと、智也はふと沙羅の姿を探し、片隅で沈んでいる彼女に気づく。近づいて声をかけた。「具合、悪いのか?」問いかけに、沙羅は横顔を向け、無理に笑みを作って答える。「ちょっとね」智也は彼女の腕を取った。「外は寒い。帰ろう」沙羅は頷く。「うん」そうして智也は沙羅を連れ、人混みの外へ歩き出した。薫には、もう見物を続ける気分などなかった。沙羅が智也と帰った途端、胸が沈んでしまう。ただ一人、洋だけがそのロマンチックさに完全に浸っていた。いつか自分も、心から愛する女の子にプロポーズする場面を――そんなふうに想像してしまうほどに。智也は車で小燕邸へ戻った。車を停めて降りたそのとき、門の角から黒い影が飛び出してきた。智也が反応する間もなく、相手は彼の両腕を強く掴み、怯えた声で震えながら言う。「兄貴......須賀拓海は、あいつは狂ってる。真嶋......真嶋が......」そのとき、助手席から沙羅が降りてきた。ドアが閉まると同時に、彼女は影に向かって探るように呼んだ。「涼真......?」涼真はその声を聞いた瞬間、ほとんど反射で光の届かない陰へ戻った。今の自分はみっともなさすぎる。女神にこんな姿を見られたくなかったのだ。沙羅は首をかしげ、さらに近づこうとする。「涼真、どうしたの?」涼真は壁に顔を向けたまま、片手を沙羅のほうへ差し出して制し、同時に言った。「沙羅
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第507話

智也の叱責を聞いた涼真の胸は、どさりと沈んだ。涼真は慌てて言い訳する。「兄貴、俺だって知らねぇよ......拓海が、玲奈を命より大事にしてるなんて、誰がわかるんだよ」智也は淡々とした顔のまま涼真に言った。「他人ですら、あいつをそこまで大事にしてる。なのにお前は?玲奈は五年間、お前の義姉だった。そんな相手を、殴らせたのか」その言葉に涼真は石みたいに固まった。呆然と智也を見つめる。しばらくして、涼真は冷笑した。「それ、兄貴が教えたんだろ?兄貴だって、いつ玲奈を大事にした?兄貴が一度でもあいつを気にかけてたら、俺も薫も、あんな態度にはならなかった。結局、元凶は兄貴じゃねぇの?」涼真の言葉は針みたいに、智也の心に深く刺さった。智也は少し黙ってから言う。「......少なくとも、俺は手を上げたことはない」涼真はさらに大きく笑った。「殴ってないって、そんな偉いのか?兄貴の冷たさと無視のほうが、人を殺す刃だろ。昔は笑って、騒いで、俺たち家族の周りをくるくる回ってた玲奈を、兄貴が少しずつ殺したんだよ」智也の中で、理由のわからない怒りが湧いた。彼は涼真を睨みつけ、低く吠える。「降りろ。学校に帰れ」今の涼真には、智也への恐れなどなかった。吐き捨てる。「玲奈が兄貴を好きになったこと――それが、あいつの人生で一番の愚かさだ」そう言い残し、涼真は車を降りた。去り際、車のドアを乱暴に叩きつける。「バンッ!」という大きな音に、車内の智也は思わず肩を震わせた。涼真への態度はきつかったが、それでも智也は勝に電話をかけた。勝が出ると、智也は命じた。「涼真と拓海を見張れ。拓海が何か動いたら、全部把握しろ。涼真に手を出させるな」「承知しました、社長」通話を切ると、智也は車を走らせて小燕邸へ戻った。その夜、智也が眠りに落ちると――夢に玲奈が出てきた。結婚してからこれまで、玲奈に関する夢を見たことなど一度もなかった。これが、初めてだった。夢の中の玲奈は、いつも熱のこもった笑顔を浮かべ、送ってくるメッセージも愛情に満ちている。「智也、この色、私に似合う?」「智也、このヘアゴム可愛い?」「智也、さっき下で隣の猫ちゃんに会ったの。
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第508話

智也が残業していると、玲奈は書斎にそっと入ってきて、温かい牛乳を差し出しながら言った。「無理しないで。続きは明日でいいよ」愛莉が生まれてからは、智也の仕事や休息の邪魔にならないようにと、玲奈は愛莉を連れて一階で寝起きするようにさえした。夜のことでも、玲奈はいつも必死だった。智也が不快にならないように、満足できないのではないかと怯えるように。だから事後には、ティッシュで彼の体を拭きながら、甘えるように腕の中へ潜り込み、こう尋ねた。「智也......気持ちよかった?」たいていそのとき、智也は煙草に火をつける。ベッドのヘッドボードにもたれて――仕事のことを考えているのか、沙羅のことを考えているのか。とにかく、智也はその問いに答えたことがない。玲奈は、毎回その後も一、二日痛みが残った。それでもいつだって、智也の感覚を最優先した。自分がつらくても合わせ、彼が違う感覚を味わえるように振る舞った。そんな夢を見ているうちに、智也はまるで水の底に沈んでいくようだった。水面に浮かび上がりたいのに、指一本動かせない。夢の中で必死にもがき、息さえ苦しくなった、そのとき――智也ははっと目を開けた。胸を圧する重さは、ゆっくり薄れていく。だがなぜか、心の中はぽっかりと空洞だった。智也は無意識に、隣へ手を伸ばす。そこは空っぽで、冷たかった。玲奈と同じベッドで眠った時間は多くない。それでも今夜は、理由もなく喪失感が胸を刺した。部屋は暗い。智也は目の前の虚ろな闇を見つめ、胸に詰まった息がどうしても抜けない。寝返りを打つと、スマホの画面がふっと光った。抑えきれない重苦しさに押され、智也はスマホを掴むと、迷いなく玲奈へ電話をかけた。二回鳴っただけで、向こうが出る。深夜二時なのに、あまりにも早い。智也は特に疑わず、声を落として尋ねた。「......起きてた?」玲奈の声は冷たく、距離があった。「何か用?」以前の玲奈とは別人みたいだった。智也は軽く咳払いしてから言った。「いつ戻る?一緒に......飯でも食わないか」玲奈は即答で拒んだ。「いらない」智也は焦って続ける。「愛莉が、雪を見に行こうって誘ってる。雪で遊びたいって」智也の意図は玲奈には
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第509話

玲奈はスマホを置くと、すぐに心晴の様子を見に行った。心晴はまた悪夢に襲われ、胸が裂けるような言葉をうわごとのように繰り返している。玲奈は何度も彼女の髪を撫で、そっと宥め続けた。しばらくしてようやく、心晴の呼吸が落ち着いてくる。心晴が再び眠りについたのを確かめてから、玲奈はスマホを手に取った。――そこで初めて気づく。智也からの通話が、まだ切れていない。しかも通話時間は二十分以上と表示されていた。玲奈は一瞬固まり、声をひそめて恐る恐る呼んだ。「......智也?」電話の向こうでは、智也がずっとスマホを耳に当てたままだった。玲奈の声が聞こえた途端、ほとんど反射で答える。「うん。聞いてる」その声には、どこか柔らかさが滲んでいて、玲奈は戸惑った。見知らぬものに触れたような、ふわりとした眩暈がした。けれどすぐに玲奈は言う。「用がないなら、切るよ」切られるのが怖いのか、智也が慌てて言った。「......ちゃんと一緒に飯を食ったの、もうずいぶん前だろ」だがその言葉が終わるより早く、スマホの向こうはツーツーという無機質な音に変わった。玲奈は電話を切ってスマホを下ろした。智也が何か言っていたことだけはわかったが、内容を聞き取る気にもならなかった。彼女はちゃんと聞いていない。ただ、向こうが喋っているのを知っていただけだ。智也はベッドに横向きのまま、通話が切れて暗くなった画面を見つめた。頭の中がぼんやりして、思考がどこへ飛んだのか自分でもわからない。気づけば、メッセージ履歴を開いていた。玲奈とのトーク画面。上へ遡れば、彼女の「好き」が、びっしり詰まっている。それを見れば見るほど、智也は思った。玲奈は変わってしまった。昔は、彼が少し咳をしただけで、夜中でも起きて梨湯を煮てくれた。それが今は――「会いたい」と言っても、何の反応もない。胸が重く、眠れそうになかった。智也は起き上がり、愛莉の部屋へ向かった。部屋に入ると、愛莉は目を開けた。智也を見ると、眠たげに目をこすって呼ぶ。「......パパ?」智也はベッドの端に腰を下ろし、愛莉の頬を軽く撫でた。「パパ、ひとつ聞いてもいいか?」愛莉はこくりと頷く。「うん。なに?」智也は少
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第510話

智也が階下へ降りたときには、すでに祖父がリビングに座っていた。宮下が朝食を用意し、祖父は朝食を取りながら朝刊を読んでいる。祖父の世代は、電子機器でニュースを見るのを好まない。朝刊を読むことは、彼にとって毎日欠かせない習慣になっていた。二階からの物音に気づくと、祖父は眼鏡を押し上げて顔を上げた。智也だとわかると、すぐに声をかける。「こっちへ来い。話がある」智也は短く返事をして、ダイニングへ向かった。席につくと、祖父は新聞をめくりながら、いかにも気にしていないふりで尋ねる。「玲奈さんは......もうずいぶん帰ってないんだろう?」智也は粥を口に運びながら、低く答えた。「......うん」それを聞くと、祖父は新聞を畳み、智也に顔を向ける。「どうであれ、家には戻るべきだろう」そう言ってから、祖父は続けた。「私は年寄りだ。怒る権利すらないのか?」祖父はずっと、玲奈が家に戻らない理由を――自分が見舞いに行かなかったせいだと思っていた。玲奈が子どもを堕ろしたと知った瞬間、祖父は確かに腹を立てた。今でもその怒りは消えていない。だが、退院しても玲奈が小燕邸に戻ってこないとは思わなかったのだ。智也は祖父の言葉を聞いても説明はせず、淡々と言った。「......わかった」怒りが落ち着くと、祖父は結局ため息混じりに言う。「今夜、連れて帰ってこい。一緒に飯を食う。話がある」智也は味噌汁を一気に飲み干し、祖父の言葉がちょうど終わったところだった。口を拭くと立ち上がり、頷く。「うん。夜、迎えに行って連れてくる」……その日の午後五時半。智也の電話が、玲奈のスマホに入った。着信表示を見た瞬間、玲奈は頭が真っ白になった。彼女はキッチンで片手がふさがったまま野菜を洗っていて、、電話に出る余裕がない。出なくていい――そう思った。だが直後、また着信音が鳴る。今度も智也からだった。少し考え、玲奈は手を服で拭いてから電話に出た。智也の落ち着いた声が耳に届く。「まだ仕事終わってないのか?」――仕事?玲奈は数秒、呆けた。そして嘲るように言う。「私、そもそも仕事してないけど。終わるも何もないでしょ」智也は訝しむ。「じゃあ...
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