「神崎社長、離婚協議書の用意ができました。今すぐお持ちしましょうか?」書斎は静まり返り、しばらくして神崎天音(かんざき あまね)は答えた。「とりあえず、そのままにしておいて」電話を切り、書斎を出ると、一条拓也(いちじょう たくや)がスマホをいじっていた。「拓也」離婚するにしても、天音は拓也ときちんと話し合いたいと思っていた。自分の結婚生活に、最後の努力をしてみたかったのだ。何しろ、彼女は人生の半分近くもの間、拓也を深く愛し続けてきたのだから。拓也は振り返って、「天音、ご飯はまだ?」と尋ねた。天音は仕方なくキッチンに向かった。ぼんやりしていたせいで熱い油に手をはねられてしまった。とっさに避けようとした拍子に、隣にあった茶碗にもぶつかった。パリン――部屋にはっきりと茶碗の割れる音が響いた。天音の心臓がドキッと高鳴った。案の定、次の瞬間、拓也が飛び込んできた。床に散らばった破片の模様を見ると、彼は目を大きく見開き、怒鳴った。「誰がお前にこの茶碗を使うことを許可したんだ!不器用にもほどがあるだろう?!」怒鳴り終えた拓也の瞳には、既に赤みが差していた。それを見た天音は、まるで自分が壊したのは誰かの命そのものだったかのような錯覚に陥った。この光景を見て、天音の心は複雑な気持ちでいっぱいになった。茶碗が高価だからではなく、鈴木梨花(すずき りか)が買ったものだからだとわかっていた。「ごめん」天音は唇を噛みしめ、かがんで割れた茶碗の破片を拾おうとしたが、拓也は彼女を突き飛ばした。「出て行け、今は顔も見たくない」彼はドアを指さし、天音の手の火傷には全く気づいていなかった。抑えきれない失望はもうどうにもならず、出て行く前に、天音は足を止め、静かに言った。「拓也、ただの茶碗よ」キッチンには梨花のラベルが貼られた物がたくさんあり、この茶碗だけが特別ではない。しかし、拓也はそれを受け入れることができず、ましてや天音がそんなことを言うなんて信じられなかった。「ただの茶碗だと?どういう意味だ?」彼は驚きと怒りで震えた。「これは十年前の8月23日に梨花とT町へ旅行に行った時に、一緒に選んで買ったものなんだぞ。天音、わざとなのか!」天音は目を閉じ、ふと深い無力感に襲われた。梨花のことに触れるたびに、拓也は感情
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