All Chapters of 人生という長い旅路に、愛の帰る場所はなく: Chapter 11 - Chapter 20

24 Chapters

第11話

その日を境に、義人の「贖罪」が始まった。最初は、毎日違う花を遥の会社に届けてきた。バラ、ユリ、ヒナギク——など、どの日も同じものはなく、まるで尽きることのない謝罪の気持ちを訴えかけるかのようだった。やがて、花は高級なハンドメイドバッグ、オーダーメイドのジュエリー、限定版の香水へと変わっていった。だが、どれほど高価な贈り物でも、遥はすべて受け取りを拒否した。時にはそのまま突き返すことさえあった。この日も、遥は秘書に義人からの贈り物を返すよう指示し、オフィスを出たところで、廊下に絵梨の姿があった。「江口さん、相変わらずお高くとまっていらっしゃるんですね。福西社長がこんなに尽くしているのに、あなたは少しも感謝しないんですか?」その口調は柔らかいが、内に秘めた棘は明らかだった。「本当に彼のことを愛してるなら、彼にこんな苦労をさせるはずないでしょ」遥は冷ややかな目で彼女を見つめ、表情一つ変えずに答えた。「久木さん、今日はわざわざ愛し方を教えに来たわけ?」「ただ思っただけです。福西社長のことを大切に思っているなら、もっと優しくすべきじゃないかって。彼があなたに贈り物をするのは、それだけあなたを愛している証拠よ」絵梨は首を傾げて、無邪気なふりをしながら言った。「それに……彼、もう以前の彼とは別人みたいなのよ」遥の瞳が一瞬だけ冷え込む。「久木さん、まず第一に、私はあなたの説教なんて必要としていない。第二に、彼がどう変わろうと、あなたには関係のないこと。あなたは彼のアシスタントなんだから、自分の仕事だけしていなさい。口出しは無用よ」絵梨の顔から笑みが一瞬消えたが、すぐに楚々とした表情に戻した。「江口さん、悪気はないんです。ただ、あまりにも冷たくて……福西社長が本当に気の毒で」遥は顎を上げ、冷笑を一つ浮かべた。「気の毒?久木さん、あなたは何者?そんなことを言える立場かしら?」絵梨の顔色がサッと青ざめ、口を開けたが、言葉は出なかった。その夜、遥が帰宅したばかりの頃、昭代から電話がかかってきた。「遥!ネット見た?大変なことになってる!」遥は眉をひそめ、送られてきたリンクを開いた。動画の中、会社の休憩室らしき場所で、絵梨の声が響いていた。「江口さん、福西社長の贈り物を全部突き返したの。福西社長、この頃
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第12話

その日以来、義人は遥の要望を守り、会社に花や贈り物を届けることは一切しなくなった。だが、彼は諦めなかった。高価な贈り物や幾千もの花束では、何ひとつ取り戻せないのだとようやく悟った。遥の冷たい拒絶が、彼にそれを気づかせた。彼女が本当に求めていたのは、最初からそういうものではなかったのだ。ある晩、何気なく空っぽの書斎に入った彼は、机の上に置かれた一枚の写真に目を留めた。それは遥がタマコを抱いて笑っている写真で、柔らかな眼差しが印象的だった。彼は呆然とその写真を見つめながら、ある考えを抱いた。「彼女のために、自分の手で何かを作りたい……」義人はそっと呟いた。彼は木彫を学び始めた。道具の使い方から一つひとつ手探りで覚え、タマコに似た表情を再現するために、数えきれないほどの教本を読み、専門の職人にも指導を仰いだ。それでも慣れない手作業は思うように進まず、何度も木材を無駄にした。彼の手には細かな傷が無数に刻まれていたが、その痛みに頓着することはなかった。義人は、ひとつひとつ丁寧に磨き上げるたびに、まるで悔恨と想いをそこに注ぎ込んでいるかのようだった。幾度もの失敗の果てに、ついに完成した小さな猫の木彫は、毛並みの一本一本まで精緻に表現され、まるで生きているかのようだった。完成の日、彼はその木彫をまるで宝物のように両手で包み込み、そっと囁いた。「遥、これは僕が君のために作った。……受け取ってくれるか?」望みは薄いと分かっていながら、それでも彼は自らの手でこの想いを届けたかった。たとえ彼女がまた拒んでも、その努力を悔いることはないと決めていた。あるビジネス食事会の晩、遥は洗練されたドレスに身を包み、登場とともに会場の視線を一身に集めた。義人は遠くの片隅から彼女を見つめ、心が一瞬止まったように感じた。両手に、あの猫の木彫を抱え、彼はぎこちなく、そして少し不安げな足取りで遥へと歩み寄った。「遥、これ、僕が手作りしたんだ……受け取ってほしい」彼の声は低く、慎ましく震えていた。遥は木彫を一瞥し、冷淡な声で言った。「福西社長、そんなもの、私は受け取りません」その瞬間、場の空気が凍りついた。義人の手がわずかに震え、木彫が今にも落ちそうになった。と、そのとき、甲高い声が割って入った。「江口さん、それはあまりにも非情
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第13話

一ヶ月後、遥が再び義人の名前を耳にしたのは、義人の母親からの電話だった。「遥、あの子を見に来てくれない?もう何日も食事も水も受け付けていないのよ」遥はしばらく沈黙したが、最終的にはうなずいた。義人の母親はこれまでずっと彼女に親切にしてくれていた。その気持ちを無下にはできなかった。病院に到着すると、義人の母親は彼女を抱きしめ、嗚咽まじりに言った。「顔を見るだけでいいのよ。無理は言わないから。あの子が悪かった、遥に辛い思いをさせて本当にごめんなさい……」遥は義人の母親の手をそっと撫で、しばらくの間優しく慰めた。義人の母親の気持ちが少し落ち着いたのを見計らい、病室のドアを開けた。病室にいた義人は、以前よりずっと痩せ細っていた。かつて骨張っていた指には、今や浮き上がるような静脈が走っており、点滴の針が刺さった手が痛々しく見えた。顔色も血の気を失い、見る者の胸を締め付けるようだった。ベッドのそばに立った遥は、深くため息をついた。彼女の気配を感じたのか、目を閉じていた義人がゆっくりと瞼を開けた。空虚だった瞳が彼女を認めた瞬間、突然光を宿した。「遥……」義人は苦しそうに上体を起こし、彼女の手をしっかりと握りしめた。まるで、この一瞬でさえも逃したくないかのように。「遥……夢じゃないよね。君が……君が本当に来てくれたんだ。こんな姿で……気味が悪くない?驚かせてしまった?君が僕を無視した時間……今までで一番長かった。君に会いたかった。会いたくて……狂いそうだった」その声はまるで錆びついた機械のようにかすれ、どこか不自然で、疲労と絶望に満ちていた。遥はため息をつき、義人の手をそっと払いのけた。口調は相変わらず冷静だった。「義人、あなたは今、何のためにこんなことしてるの?」その問いに義人は呆然とし、まるでその言葉に胸を突かれたようだった。うつむき、小さく口を動かす。「ただ、君に分かってほしかった……僕がどれほど後悔しているか……たくさん間違いを犯したけど……君を失いたくないんだ……」「それで?」遥は彼を真っ直ぐに見つめた。「だから自分をこんなふうに追い詰めてるの?それが愛の証明?それとも、後悔でどうしようもないってことを見せたかったの?」義人は顔を上げ、その目には痛みが滲んでいた。声は枯れ果てていたが、震えなが
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第14話

「違うんだ、遥……そんなふうに思ったことは、一度もない」義人の声は枯れていた。義人は頭を下げ、遥の手を強く握りしめた。彼がこんなにも低姿勢になる相手は、遥しかいなかった。「君も分かってるだろ。僕は君に嘘なんてつけないし、君も僕に嘘なんてつけない」遥が生まれてからというもの、二人は常に互いの生活に深く関わってきた。二十数年の時を共に過ごし、彼らほどお互いを理解している者はいなかった。義人は言葉を失っていた。まるで、話すという行為そのものを忘れてしまったかのようだった。遥もまた分かっていた――義人は絵梨に心を動かされたことなどなかったと。彼は絵梨のことを好いてはいなかった。だが同時に、彼女もまた知っていた。義人は絵梨といる時には「楽」なのだと。そして、自分と一緒にいる時には「疲れ」を感じているのだと。その事実こそが、義人があの山の斜面で、血まみれの自分を置き去りにして絵梨を抱えて去ったことよりも、何倍も心を引き裂くものだった。義人の感情はますます不安定になっていた。彼は遥をどうしていいか分からない様子で抱きしめ、哀しみに満ちた声で訴えた。「遥、違う、本当に違うんだ。信じてくれ、お願いだ。僕は……僕はただ、君を愛しすぎただけなんだ。怖かったんだ、君にとって僕が不完全に見えるのが……君が僕の弱い部分を見て、離れていってしまうんじゃないかって……そんなことを考えるだけで、気が狂いそうだった……」その声はすすり泣きで震え、遥の手の甲には、彼の温かい涙がぽつぽつと落ちていった。遥は深く息を吐き、そして、静かに彼の身体を押し離した。「ちゃんと治療に専念して。おばさんもおじさんも、あなたのことをとても心配してる」その声には一片の揺らぎもなかった。義人は真っ赤な目で彼女を見つめ、切実な声で彼女の手を握り返した。「遥、ちゃんと言うこと聞く。ちゃんと治すから。だから……どうか僕を見捨てないでくれないか……?」遥はしばらく黙って彼を見つめていたが、やがてその手を静かに引き抜いた。「義人、ちゃんと養生して。こんな姿、もう私に見せないで」それだけを告げると、彼女は一度も振り返らずに病室を出ていった。病室の外には、義人の母親が椅子に座って待っていた。遥を見つけると、手を軽く上げて合図し、
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第15話

その日を境に、遥は再び義人のもとを訪れることはなかった。代わりに、彼女は自らを仕事の忙しさに埋め込んだ。慌ただしくも充実した日々。多くの夜、彼女にはほとんど睡眠の時間すら残されていなかった。その夜も、遥が残業を終えた時には、すでに日付が変わろうとしていた。肩の凝りをほぐすように軽く伸びをし、バッグを手に会社のビルを出た彼女の頬を、夜風が冷たく撫でた。建物の階段に差し掛かったその時、不意に足元が滑り、バランスを崩してしまった。思わず踏み外した足に、かつて負傷した部分が鋭く痛み、顔色が一気に青ざめた。このまま転ぶ――そう思ったその瞬間、温かく力強い手が彼女の身体を支えた。「遥!大丈夫か!?」聞き慣れた声が、あからさまな焦りを含んで彼女の耳に届いた。遥が顔を上げると、義人が目の前でしゃがみ込み、彼女の腕を支えていた。彼の視線は、彼女の足元に向けられ、驚きと焦りに満ちていた。「また古傷が……痛むのか?大丈夫か……?」その声には取り乱したような震えがあった。遥は身体を支え直し、眉をひそめた。「義人、どうしてここにいるの?」義人は一瞬固まり、視線を逸らすと、やや口ごもった様子で答えた。「僕は……ただ……」彼は唇を引き結び、最後は絞るように低い声で言った。「遥、君が無事かどうか、それだけが気になって……」遥は冷ややかに笑った。「無事かどうか?私を尾行してたんじゃないの?」その言葉に、義人の表情はさらに強張り、やがてうなだれるように頭を垂れた。「そうだ。あの日、君に『ちゃんと治療に専念して』って言われてから……僕は毎日、君の会社の外で待ってた。君が中に入るのを見届けて、それから車で帰るのを……ずっと見てたんだ」遥の目が一瞬揺れたが、そのまま冷ややかに彼を見据えた。「義人、あなた……一体何をしているの?」「眠れないんだ」彼の声には、疲れと自己嫌悪が滲んでいた。「遥、眠れなくて……君が今、ちゃんと過ごせてるか、足はまだ痛むのか、仕事はきつくないか……そればかり考えてる」彼は顔を上げ、その目に浮かぶ苦悩を隠さずに言った。「母さんから聞いた。君が僕のことで、ずっと眠れなくて、睡眠薬を飲んでたって……遥、ごめん。本当に最低だよ、僕は」遥の視線には一切の揺らぎがなかっ
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第16話

絵梨は会社を解雇された後も諦めきれず、何度も義人の会社を訪れた。そしてある日、ついに彼女は彼の前に立ちはだかった。「福西社長、どうしてもお話したいことがあるんです」その声には悔しさと未練がにじみ、目には強い執着が浮かんでいた。義人は足を止め、目には冷淡さを湛えつつも、あくまで礼儀正しい口調で応じた。「久木さん、何かご用ですか?」絵梨は深く息を吸い込み、抑えていた感情をついに爆発させた。「福西義人!私は一体どこがダメだったの?あなた、前に言ってたでしょう?江口よりも私の方が気が利いて、優しいって……!」義人の眉がわずかにひそめられ、冷たさが目に浮かんだ。「絵梨、君が遥に支援されていたからこそ、私は君を傍に置いただけだ。それがなければ、私は君に目もくれなかった。君が思い込んでいる『気配り』や『優しさ』など、全ては君自身の幻想だ」「なに?」絵梨の顔色が一瞬で青ざめ、震える声で呟いた。「こんなに努力してきたのに……あなたにとって全部無意味だったの……?」義人は冷ややかに彼女を見つめ、容赦のない声で続けた。「遥の優しさは、彼女の選んだ生き方だ。それを真似たところで、君が彼女の代わりになれるわけではない。君は、いったい何様のつもりだ?」絵梨の体がわずかに揺れ、涙が頬を伝って落ちた。彼女は歯を食いしばり、押し殺した声で叫んだ。「福西……あなた、きっと後悔するわ!江口なんて、あなたには……」「やめろ」義人の声は一気に冷え込み、まるで鋭い刃のようだった。「彼女の価値を決める権利は、君にはない」彼は一段と鋭い視線を向け、断言した。「久木、今後二度と私の前に現れないでくれ。そして遥の前にも。彼女の平穏を、これ以上乱さないでくれ」絵梨は手をぎゅっと握りしめ、目に憎しみを滲ませながら、唇を噛み締めてその場を去った。数時間後、義人のスマートフォンに、見知らぬ番号から電話がかかってきた。電話口の相手は、絵梨の弟・和朗だった。その声には皮肉な響きが満ちていた。「福西社長、うちの姉が家で酔っ払って大騒ぎしてるんですよ。死ぬとか言い出して手がつけられない。福西社長しか止められないそうです。見捨てるってんなら、いざって時の世間の目が怖くないんですか?」義人はその言葉に鼻で笑い、低く冷ややかに言い放
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第17話

翌日、遥がマンションの前を通りかかると、数人の住人たちが何やら話し込んでいた。「昨夜、怪しい男が車に何か仕掛けようとしてるのを見つけたんだってさ」警備員が舌打ちしながら言った。「まったく、大胆にもほどがあるよ。住人たちが協力してそいつを捕まえて、思いきり殴って警察に通報したらしい。これからはもっと注意しないとな」遥はその会話を何となく聞き流し、特に気にも留めなかった。こうした防犯系の話はマンションでは珍しくない。ちょうどそのとき、彼女の携帯が鳴った。義人からの電話だった。「遥、今どこにいる?」電話の向こうから焦りを含んだ声が聞こえてきた。遥は眉をひそめ、冷淡に答えた。「何が言いたいの?」「最近、そっちのマンションがあまり安全じゃないみたいだ。特に車の周囲には気をつけて。僕が人を手配して、陰ながら守らせる」「義人、それがあなたに何の関係があるの?まさか、昨夜の騒動って……あなたが関わってるの?」電話の向こうが一瞬静まり返った。しばらくして、彼の低い声が返ってきた。「……ああ。昨日、君のマンションに行ってた」遥の表情が凍りついた。「あなた、一体何が目的なの?」「遥、僕は久木絵梨の弟、久木和朗が、君の車の周りをうろついているのを見かけたんだ。何かしようとしてるように見えたから、止めようとした」義人の声には疲れがにじんでいた。「その後、他の住人たちに見つかって、大騒ぎになった。でも大丈夫、僕がちゃんと処理する。ただ、君が心配なんだ」遥は無言で電話を切った。数日後、仕事を終えて帰宅した遥は、自宅前に立つ絵梨を見つけた。彼女の顔は蒼白で、目には懇願の色が浮かんでいた。「江口さん……」絵梨は駆け寄り、今にも泣き出しそうな声で言った。「お願いです、弟を助けてください……」遥は冷ややかに彼女を見つめたまま、ドアを開けることはなかった。「助ける?あなたたちがやってきたことを考えて、それでも私が見逃すべきだって?」「彼は……彼はただ私のことを思って、やっただけなんです……あなたの車に手を出したのは間違いでした。でも彼は、本当に私のことが心配で……」絵梨の目から涙が次々と零れ落ちた。「どうか、彼の将来を壊さないでください。まだ若いんです……人生を終わらせたくない……」遥の
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第18話

絵梨は突然、狂気じみた笑い声を上げた。「そうよ、私はわざとあんたを利用して義人に近づいたの!彼の目にはあなただけしか映ってない!私、彼を何年も好きだったのに、一度も振り向いてくれなかった!どれだけ嫉妬したか分かる?嫉妬で気が狂いそうだった!どうして彼はいつまでもあなたばかりを気にかけるの!?私の名前だって、彼が覚えてるのはあんただからよ!」遥はその言葉に眉をひそめた。「あなた、義人のことをそんな前から?以前から知ってたの?」「高校時代、県内の大会で義人に出会ったの。その瞬間から彼のことが好きだったのよ!それ以来、ずっと彼を追いかけてた!あなたなんか彼にふさわしくない!」遥はそれを聞いて、ふっと冷たい笑みを浮かべた。「ふさわしくない?絵梨、私たちの関係をあなたが判断できると思ってるの?あなたの判断なんて、ただの妄想よ」その言葉に、絵梨の顔色はみるみる青ざめ、声がひときわ高くなった。「そうよ、私は資格なんてないかもしれない。でも少なくとも、彼と私は対等だった。でも彼とあなたは?あなたはただの高慢なお嬢様で、彼の好意を当然のように無駄遣いしてきただけ!」遥の笑みはさらに冷ややかになった。「無駄遣いって?絵梨、自分を買いかぶりすぎじゃない?彼が本当にあなたを好きなら、どうして何年経っても一度もあなたに目を向けなかったの?」「それはあんたが邪魔だからよ!!」絵梨は追い詰められたように叫び声を上げた。「彼はいつもあんたのまわりをぐるぐるして、誰もが『お似合いのふたりだ』って言ってた!でも彼は私の前では違うのよ、私の前では気を抜いて、笑ってくれるの!――あんたなんていなければよかったのに」その瞬間、遥が何か言おうとしたとき、背後から突然冷たい風が吹き抜け、誰かの手が口と鼻をふさいだ。遥は激しくもがき、叫ぼうとしたが、声は喉に押し込められ、両手を振っても振りほどけなかった。視界がぐるぐると回り、彼女の身体は無理やり車の中へと引きずり込まれ、街灯の光が断続的に彼女の顔を照らした。再び目を覚ましたとき、彼女の顔を打ったのは、鋭い海風と塩の匂いだった。気づけば遥は、石橋の柱に後ろ手に縛り付けられていた。手首に食い込む麻縄の痛みが鋭く、潮水はすでに腰の高さまで達していた。全身が冷え切り、衣服の中
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第19話

遥が再び目を覚ましたとき、そこは明るい病室だった。頭はぼんやりと重く、喉の奥は火傷でもしたかのようにひりついていた。「遥!」切羽詰まった声が耳に届き、意識が少しずつ現実へと引き戻される。両親がベッドの傍に付き添っていた。母親の目はすっかり涙で腫れ、父親の眉間には怒りと不安が滲んでいる。以前よりもずっと憔悴して見え、特にこめかみの白髪が胸に刺さった。「お母さん、お父さん……」声を出そうとしたが、掠れた音しか出ず、まるで壊れた扇風機のようだった。母親は彼女の手をぎゅっと握りしめ、涙をぽろぽろこぼしながら言った。「遥……あんた、私たちをどれだけ心配させたか分かってるの?もしあのままあなたに何かあったら、私たち……」父親は何も言わず、険しい表情で病室の外を睨んでいた。「あの女のことは、もう警察に通報させた。絶対に責任を取らせる」遥はかすかに首を振り、苦笑を浮かべながらかすれた声で言った。「ごめんなさい……心配かけて……」頭の中では、絵梨の正体を暴こうと危険を冒したあの日の出来事が、何度もフラッシュバックしていた。そのせいで両親にこんな姿を見せることになったと思うと、胸が痛んだ。母親の手をぎゅっと握りしめ、小さくつぶやいた。「こんなことになるって分かってたら……絶対に、あの人に関わったりしなかったのに……」母親の目からは再び涙があふれ、嗚咽混じりに訴えるように言った。「もうこれ以上、そんな人たちのことで傷つかないで……お願いだから、自分を大切にして。あなたの命が、何より大事なのよ……」遥は力強くうなずいた。母の掌から伝わる温もりが、凍えていた心を少しだけ溶かしてくれた気がした。これからは、絶対に、自分のせいで誰かが傷つくようなことはしない。そのとき、そばにいた昭代が、目を真っ赤に腫らしながらも言葉を続けた。「久木絵梨は、もう警察に捕まったわ。あの弟と一緒に。あの二人……逃げられない」彼女は涙を拭いながら続けた。「実はね……久木絵梨って、本当に精神的にちょっとおかしいの。欲しいと思ったものは、絶対に手に入れないと気が済まないの。高校のとき、ある子と成績が接戦で、推薦枠を争ってたらしいの。でもあの人、その子を仲間外れにして……その子、結局、退学しちゃったって。受験もできなかった
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第20話

遥は病室の扉をそっと押し開けた。ベッドに横たわる義人は、目を閉じたまま、顔色は雪のように白く、かつての面影が薄れてしまうほど痩せ細っていた。本来整った端正な顔立ちは、今や見る者の胸を締め付けるほど弱々しい。昭代は、義人が目を覚ます可能性は極めて低いと話していた。医者も最悪の事態を想定し始めていた。それでも遥は諦めなかった。ほぼ毎日、病院に足を運び続けた。ある日はただ静かにベッドの傍に座っていた。またある日は、まるで昔の穏やかな日常のように、一日の出来事を彼に語って聞かせた。彼の蒼白な顔を見つめながら、ふと、幼い頃の記憶が蘇ってくる。あの頃、彼女はまだ五歳。冬に高熱を出し、意識が朦朧としていて、注射すら拒んでいた。義人は彼女の枕元に立ち、厳しい口調で言った。「遥、駄々をこねるな。そんなことしてたら、脳までやられるよ!」そう言いながら、三歳年上の彼は小さな彼女を抱き上げ、ソファに座り、ハンカチで額の汗を拭ってくれた。言葉はきつくても、その手は驚くほど優しかった。その晩、彼はずっと彼女を抱きしめたまま、夜を明かした。遥は小さく微笑んだ。あの頃の義人は、いつも怒りながらも、最後には必ずこう聞いてくれた。「痛かったか?次からちゃんとするか?」十代になってからも変わらなかった。ある日、二人で出かけたとき、彼女は転んで膝を擦りむいた。義人は驚いて、「動くな」と言いながらすぐに背負い、病院まで駆けていった。彼女は彼の背中で泣きじゃくり、「痛い、痛い」と繰り返した。彼は怒ったように言った。「また泣いたら、置いていくよ!」けれど結局は急患室まで抱いて連れて行き、診察中も終始手を握って離さなかった。「気をつけろよ。遥がまた怪我したら……僕だって辛いんだ」その言葉は、ずっと胸の奥に残っている。またある日は、彼女が宿題を嫌がって駄々をこね、「一緒にアニメを観たい」と無理を言った。彼は仕方なく隣に座って一話分付き合ったが、ふと彼女が振り向いたときには、既に宿題をすべて代わりにやってしまっていた。彼女は怒って足を踏み鳴らし、「もう絶対に話しかけないから!」と叫んだ。そんな彼女を見て義人は真剣な顔で言った。「話してくれないなら、僕はずっと機嫌を取るしかないだろ」目の前の義人と
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