All Chapters of 人生という長い旅路に、愛の帰る場所はなく: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

山崩れのその瞬間、ちゃんと立っていた江口遥(えくち はるか)は、久木絵梨(ひさき えり)に突然腕を引かれ、バランスを崩して山の斜面を転げ落ちた。二人の落下を、一本の木がかろうじて食い止めた。遥は不運にも幹にぶつかり、鋭い枝が足を貫いて鮮血が噴き出した。一方、遥の体がクッションとなった絵梨は、浅い擦り傷を数か所負っただけだった。福西義人(ふくにし よしと)が駆けつけたときには、遥の涙はすでに止まらなくなっていた。だが彼は遥の言葉を待つ間もなく、絵梨を背負うと、振り返ることすらせずその場を去っていった。最初から最後まで、彼は遥に一瞥もくれなかった。やがて遥の友人である紀昭代(きの あきよ)が観光地のスタッフを連れてようやく駆けつけ、遥は救助された。昏睡状態から目覚めた遥は、ぼんやりとした視界の中で、ベッド脇の椅子に座る義人の姿を見た。窓から差し込む陽光が、彼の横顔を懐かしい輪郭で縁取っていた。一瞬呆然としながらも、心の奥に微かな喜びが走り、遥はかすかな声で希望を込めて言った。「義人……」彼は顔をこちらに向け、わずかに眉をひそめた。「目が覚めたのか」遥はうなずき、乾いた唇を舐めるようにして言った。「水……」義人が手を伸ばしかけたところでふとスマホに目を落とし、指を素早く動かし始めた。重要なメッセージに返信しているようだった。「待って、今ちょっと返信してる」遥は足の痛みを堪えながら、彼が俯いて忙しそうにスマホを操作する姿を見つめ、不思議な違和感を覚えた。試すように問いかける。「誰と話してるの?そんなに大事なこと?」義人は顔も上げず、淡々と答えた。「絵梨が、あとで君に会いに来るって」その名前を聞いた瞬間、遥の胸がギュッと締めつけられ、眉がぴくりと動いた。声にも冷たさが滲む。「彼女が来て、何の用?」義人は眉をひそめ、スマホを置いて言った。「謝りに来るんだ。あれは彼女もわざとじゃなかった」「わざとじゃなかった?」義人の顔が強張り、声も冷たくなる。「遥、彼女に悪意はなかったんだ!いつまで責め続けるつもりだ?」遥は深く息を吸い、胸の奥の痛みが鋭く、針のように刺さるのを感じた。目を閉じ、枕にもたれかかるようにして、冷めた口調で答える。「好きにして。来ればい
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第2話

昭代が見舞いに来るたびに、涙ながらに謝った。「遥ちゃん、ごめんね、全部私のせい……あのとき、福西がきっとあなたを助けると思って、何も考えずについて行っちゃったの。あとで人を連れて戻ってきたとき、彼が女の子を救急車に乗せてるのが見えたの。それが遥ちゃんだと思い込んで、深く考えなかった……もっと気を配っていれば、こんなことには……!」遥はそれを聞いて、かすかに笑みを浮かべながら、昭代の頭を優しく撫でた。「あなたのせいじゃないよ。本当に」入院から一ヶ月が経ち、遥の怪我はようやく快方に向かい始めた。けれどこの一ヶ月、初日を除いて義人は一度も見舞いに来なかった。残されたのは、たった一通のメッセージだけ。【会社に急な用事があって、数日出張に行く。戻ったら会いに行くよ】だがその当日、遥は絵梨のSNSの投稿を目にする。写真の中で、絵梨は明るく微笑み、義人はその横で何かを手渡している様子だった。距離感は近く、自然で親しげ。投稿文には「社長さん、お忙しい中ご指導ありがとうございました〜」と添えられていた。昭代は写真を見て、皮肉交じりに言った。「指導って?観光のついでにキャンドルディナーもしてたんじゃないの?」遥は写真を見つめ、指先をぎゅっと握りしめたが、何も言わなかった。昭代はためらいながら尋ねた。「遥ちゃん、大丈夫?……彼の態度、どう見ても……」遥はその言葉を遮るように、平静な口調で言った。「平気」昭代が病室を後にしてから、遥はベッドにもたれ、そっと目を閉じた。退院の日、義人は自ら迎えに来た。やつれた表情を浮かべ、遥を車に乗せるときの動作は細心で、まるで壊れ物でも扱うかのようだった。しかし彼の家に着いたとたん、遥の目に飛び込んできたのは、台所で忙しくしている絵梨の姿だった。その瞬間、遥の指がわずかに震えたが、顔色は変わらなかった。絵梨は義人が好きだった。だから、住まいを移すときも彼の家の向かいに部屋を買ったという。少しでも彼に近づきたくて。今、彼の家が賑やかな雰囲気に包まれている中、自分だけが余所者のようだった。「遥、みんな君の退院をお祝いしに来てくれたんだよ」義人は優しくそう言った。だが、その言葉が終わる前に、絵梨の甘えた声がキッチンから響いてくる。「義人、調味料どこ
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第3話

遥はラグドールを抱きしめたまま、ぼんやりと物思いにふけっていた。そこへ、台所から絵梨が出てきた。彼女は遥が猫を抱いているのを見ると、まっすぐ彼女の前まで歩み寄り、「江口さん、手を洗ってきてくださいね。もうすぐご飯ですよ」と言いながら、自然な動きで猫を彼女の腕から取り上げた。その猫は、彼女の手を嫌がることもなく、むしろ甘えるように懐へとすり寄った。その瞬間、遥の心はずしりと重く沈んだ。その猫は本来、人懐っこくない。遥でさえ、心を許させるのに随分時間がかかった。けれど今は、まるでずっと一緒にいたかのように、猫は絵梨に懐いていた。遥は、絵梨が慣れた手つきで餌と水を用意する様子を見つめながら、その瞳の温度を徐々に冷やしていった。だが絵梨はそれに気づかないふりで、どこか無邪気に誇らしげな声をあげた。「この子、本当に気難しいんですよ。でも義人がちゃんと餌のあげ方を教えてくれたから、なんとかできてるんです」遥の指先がわずかに震え、押し殺すような静かな声で言った。「その猫は、私の猫」絵梨は猫を抱いたまま、無垢な笑みを浮かべた。「そうなんですか?知らなかったな。義人、そんなこと一言も言ってなかったですよ。ただ、猫の世話を頼まれて来てるだけです」彼女は猫を見下ろしながら、愛しげにその毛並みを撫でた。「最近はすごく懐いてくれて、餌もすんなり食べてくれるんです。義人が家の鍵をくれたおかげで、出入りも楽で助かってます」その言葉に、遥の目が鋭くなった。胸の奥に重たいものがのしかかる。「鍵?いつのこと?」絵梨は笑いながら言った。「もうだいぶ前ですね。言ってなかったんですか?」少し間を置き、声を和らげた。「江口さん、気に障ったらすみません。義人、お仕事すごく忙しいでしょう?食事の時間もバラバラで、私が少しでもお手伝いできればって……」「お手伝い?」遥は皮肉めいた笑みを漏らした。ちょうどそのとき、義人が台所から現れた。二人の様子を見て、眉をひそめる。「何を話してるんだ?」絵梨はすぐに猫を下ろし、困ったような顔で義人を見つめた。「義人、何か言い方、まずかったですかね……江口さん、ちょっと不機嫌みたいで。鍵の話、しないほうがよかったか?」義人は遥に目を向けた。そこには、わずかな苛立ちがにじんでいた
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第4話

翌朝早く、義人が出勤したのを見計らい、遥は彼の家へと向かった。部屋の中は静まり返っており、そこにいたのはソファの上で丸くなっている猫だけだった。彼女の姿を見つけると、小猫はパッと飛び起きて駆け寄り、足元にすり寄ってきた。遥はしゃがみ込んでその小さな体を抱き上げ、ふわふわの毛を優しく撫でながら、静かに呟いた。「行こうか。……決めたなら、あなたにも新しい家を見つけてあげないとね」彼女は猫を連れて自宅へ戻り、スマートフォンでキャットフードや新しい猫ベッドを探し始めた。猫は彼女の腕の中でおとなしく丸まり、ときおりじっと彼女の顔を見上げる。まるで、何かを感じ取っているかのように。「やっぱり現物を見たほうがいいよね」そう呟いた遥は、猫を連れて車を出し、近くのペットショップへ向かった。店の入口には掲示板があり、その中の一枚の写真が彼女の視線を引き止めた。そこには、今まさに自分が抱いている猫が写っていた。だが猫を抱いているのは絵梨で、その隣に立っているのは義人。二人の距離は近く、自然な笑顔を浮かべながら寄り添う姿は、まるで親子三人のように温かく見えた。遥の手が無意識に強く猫を抱きしめ、猫は彼女の気配に気づいたのか、小さく鳴き声を漏らした。そのとき、店員が彼女に気づき、にこやかに話しかけてきた。「あっ、その猫……掲示板の写真の子じゃないですか?」遥は一瞬戸惑いながらも、静かに問い返した。「これ、いつの写真ですか?」店員は少し考えたあと、にこっと笑って言った。「去年の夏ごろだったかな?お二人で一緒に来てましたよ。福西さんが『うちの猫なんです、もう長い付き合いで、宝物みたいな子です』って言ってました」遥の心に、何かが重く沈み込んだ。去年の夏。その言葉に思い当たる記憶があった。その頃、彼女は仕事で海外にいて、日中は目が回るほど忙しく、夜は寂しさで眠れなかった。あまりに恋しくなって、義人に「猫を抱いてる写真を送って」とお願いしたのだ。少しでも一緒にいる気持ちを感じたくて。だが彼の返答は――「猫を抱く?……何言ってんだ。出張中だって言ってるだろ、そんなくだらないことに構ってる暇ないんだよ。君さ、もうちょっと大人になれないの?いつまで子供みたいなこと言ってるんだよ」そのとき彼は、確
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第5話

遥は猫を手放したその足で、静かに実家へと戻った。江口家の別荘は昔と変わらず、豪奢で気品に満ちていた。その隣には福西家の家があり、二人は幼い頃からの隣人、いわゆる「幼なじみ」だった。周囲の誰もが知っていた。遥は義人に溺愛され、誰よりも大切にされてきた存在だった。物心ついた頃から、遥が一番好きだったのは義人。母の話によれば、まだ赤ん坊だった遥がお祝いの「選び取り」で一目散に義人のもとへ這って行き、しっかり抱きついて離れなかったという。その時、義人はまだ五歳。座ったまま、遥を抱きしめ、まるで爆弾を扱うかのように一切動けずにいたらしい。あの義人が、人生で初めて「緊張の面持ち」を見せた瞬間だったと、家族はいまでも笑って語る。彼女が初めて発した言葉も、「ママ」でも「パパ」でもなく、「おにいちゃん」だった。そのせいで両親はしばらく拗ねていたらしい。この家に戻ってくるたび、遥は義人を思い出す。思い出すのは、幼い頃から積み重ねてきた温かい記憶のかけらたち――娘の突然の帰省に、両親は驚きつつも、嬉しさを隠せない様子だった。夕食の席には、彼女の好きな料理がずらりと並び、食卓は和やかに賑わった。だが、遥の表情はどこか遠くを見つめているように沈んでおり、終始ほとんど言葉を発さなかった。夕食後、彼女は静かに書斎へ向かい、父親のもとを訪れた。「言ってごらん。帰ってきてからずっと浮かない顔してる。外で何かあったんだな?」父は椅子にもたれながら、軽い口調でそう言ったが、その目には娘を気遣う鋭い視線が宿っていた。遥は無言のまま、鞄から一枚の写真を取り出し、机の上に置いた。それは、義人と絵梨が肩を寄せ合い、猫を抱いて微笑んでいる写真だった。一目で、ただの知人同士とは思えないほどの親密さが伝わる一枚だった。さっきまで笑顔だった父の顔が、一瞬で固まった。義人が誰かに「特別」になる――それは江口家にとっても、遥にとっても初めてのことだった。そして遥は、小さな頃から自分の「もの」を誰かに奪われるのが何よりも許せない子だった。玩具であれ、服であれ、そして――人の心であれ。父はゆっくりと顔を上げ、まっすぐ娘を見つめた。「で、どうする?」遥は視線を落とし、淡々と、しかし確かな声で答えた。「婚約を解消
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第6話

夜が更けた頃、遥のもとに義人から電話がかかってきた。彼の声には、焦りが滲んでいた。「遥、タマコちゃんがいなくなった!会社から戻ってきたら、家の中にいなくて……」「他人にあげたわ」遥の冷えきった声が、彼の言葉をさえぎった。一瞬の沈黙ののち、電話越しに苛立ちを含んだ女の声が響く。「江口さん、それはあんまりじゃないですか!?どうして勝手にタマコちゃんを他人にあげたりするんですか?あなたって、本当に無責任ですね!」絵梨の声だった。「ずっと一緒にいたのに、少しも情がわかなかったんですか?どうして、あんな簡単に手放せるんですか?」遥は震える手でスマホを握りしめた。胸の奥が荒れ狂い、押しつぶされそうになる。なぜ彼女が義人の携帯でこんなふうに怒鳴っているのか。なぜその傍に義人がいて、何も言わずに黙って聞いているのか。それ以前に――なぜ、この時間にまだ彼と一緒にいるのか。「もういい、絵梨」義人の声がようやく聞こえた。だがその口調は、困ったように優しく、彼女を咎めるものではなかった。「そんなに好きなら、新しい子をまた買ってあげるよ」その瞬間、遥は躊躇なく通話を切った。そして洗面所に駆け込み、胃の奥が捩じれるような苦しみに襲われ、嘔吐してしまった。冷たい洗面台に身を預け、ようやく呼吸が落ち着く頃には、涙も枯れていた。彼女はスマホを手に取り、義人のすべての連絡先をブロックした。遥の様子を察して、昭代が「気分転換しよう」と無理やり連れ出してくれた。天気は快晴、街は人々で賑わい、太陽の光がやわらかく差し込む穏やかな午後だった。昭代は昔からおしゃれ好きで、ジュエリーに目がなかった。ふたりは高級ジュエリー店に入り、陳列された輝くアクセサリーを見ているうちに、遥の心も少しだけ和らいだ。遥にとって宝石は特別なものではない。江口家の一人娘として、贅沢は日常だった。子供の頃は義人がよく可愛い小物を贈ってくれたし、大人になってからは、数千万円相当のジュエリーを何度もプレゼントされた。そのすべてが、愛の証だと信じていた。だが、今ではその記憶も、胸の奥に苦い味を残すばかりだった。買い物を終えたふたりが帰ろうとしたとき、昭代がふと足を止め、低い声でつぶやいた。「あれって、福西じゃない
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第7話

義人と絵梨のもとを離れたあと、遥と昭代は江口家が経営する店に移動することにした。だが、そこでも思わぬ人物と遭遇することになる。「遥、お前、なんでここにいるんだ?」遥が顔を上げると、現れたのは絵梨の弟である久木和朗(ひさき かずろう)だった。彼女はわずかに眉をひそめたが、何も答えず無視した。無視された和朗は途端に不機嫌な顔になり、いきなり遥の手首を掴もうと手を伸ばした。その瞬間、そばにいた昭代が素早く彼の腕を掴み、冷ややかな視線を向けて問い詰めた。「何する気?」和朗は一瞬動きを止めたが、すぐに手を振りほどき、露骨に不快そうな顔を浮かべた。「江口、お前みたいな金持ちのお嬢様は、人を見下すことしかできねぇのか?ただ挨拶しただけで無視かよ」遥は彼を見上げ、冷たく言い放った。「あんたに応える義理なんかない。自分を何様だと思ってるの?」彼女の態度に店員がすぐに駆け寄り、丁寧ながらも毅然とした口調で言った。「申し訳ありませんが、当店ではお引き取り願います」周囲の客たちの視線が集まる中、和朗は顔を真っ赤にしながらも遥に近づこうとしたが、入口に立っていた警備員にしっかりと遮られた。「江口、人にここまで恥をかかせるなんて最低だな!」怒りで顔を歪めた和朗は声を荒げた。「そりゃあ義人兄さんが『お前は扱いにくい、典型的なワガママ姫だ』って言ってたのも納得だぜ!」この言葉を聞いた昭代は驚いて遥の顔を見た。だが遥はかすかに首を振って彼女を落ち着かせ、手を軽く叩いて慰めると、冷ややかな目で和朗を見据えた。「和朗、自分が義人じゃなかったら、私に会う資格すらあると思ってるの?」和朗は顔色を失ったが、それ以上近づくことはできず、店員と警備員に追い出される形となった。彼は何かぶつぶつと悪態をつきながら店を後にした。家に戻った遥のスマホに、見知らぬ番号からのメッセージが届いた。開くと、そこには一本の動画が添付されていた。映像はバーのような場所で、隠し撮りされたものらしく、撮影アングルは低く、見つからないよう配慮されていた。画面の中に映っていたのは、他でもない義人だった。「義人、それ江口さんからの電話か?どうして出ないんだか?」隣にいた絵梨がそう尋ねる。二人の距離はとても近く、肩が触れ合いそうな
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第8話

「解消って?」義人が勢いよく立ち上がり、声には明らかな動揺が滲んでいた。「遥、君……僕たちの婚約を取り消すって言ってるのか?」その声はかすれていて、どこか必死だった。「そんな冗談、やめてくれよ……機嫌が悪いのはわかるけど、こういうことは冗談にしていいことじゃない」彼は遥の手を強く握り締めた。その力の強さに思わず痛みが走る。義人の目には不安と困惑が浮かんでいた。「絵梨はただ……」彼の言葉は、遥の冷たい声に遮られた。「義人、この件に関して、説明は必要ないわ」彼女は力を込めて手を振りほどき、義人の父親の方を向いて、感情のこもらない静かな声で告げた。「おじさん、婚約は解消してください」義人の父親は複雑な表情で小さくため息をついた後、重い声で応じた。「わかった」「わかったって、どういう意味だよ!」義人はその言葉に反応し、感情を爆発させた。「僕は認めない!遥、こんなの冗談だろ?お願いだから、こんなこと言わないでくれ……僕、本当にもう耐えられない!」その時、傍らに立っていた絵梨が口を開いた。彼女の声は柔らかく、どこか涙を含んだような響きを帯びていた。「江口さん、誤解しないでください。福西社長は本当に、私のことをただの同僚として見てるだけで……話していたのも仕事のことで……」「黙りなさい!」義人は突然振り返り、鋭い視線で彼女を睨みつけた。声は冷えきっていて、有無を言わせぬ威圧がこもっていた。「お前に話す資格があると思っているのか?」絵梨は言葉を失い、目には涙が溢れそうになっていた。「福西社長、私はただ……ご説明を……」その光景を見ていた遥は、鼻先で笑ったような冷たい声で言った。「久木さん、ここは江口家と福西家の問題よ。あなたのような部外者が口を挟む権利なんてある?それとも……自分の立場を勘違いしてるのかしら?私を諭すなんて、何様のつもり?」絵梨の顔は一瞬で青ざめ、何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。「出ていけ」義人の声は氷のように冷たかった。彼は絵梨に一瞥もくれず、ただ遥のことだけを見つめていた。「福西社長……」絵梨は名残惜しそうに彼を呼び、喉の奥が詰まったような声を漏らしたが、義人は一歩も動かず、振り返ることもなかった。「出て行けと言ってるんだ
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第9話

遥の母親は帰宅してから心配そうに言った。「今夜は、母さんが一緒に寝てあげる」その言葉を聞いた遥の父親は、露骨に顔をしかめ、明らかに不満げな表情を浮かべた。遥は珍しく笑みを見せ、得意げに父に変顔をしてみせると、母の腕を取り、そのまま部屋へと戻っていった。夜更け、彼女が布団に入っても、隣からは母の規則的な寝息が聞こえるだけだった。だが遥の目は、まっすぐ天井を見つめたまま閉じられない。あの山の出来事以来、彼女の眠りはすっかり浅くなり、夜通し眠れないことも珍しくなかった。窓の外では、突然激しい雨が降り始め、低くうなるような雷鳴がそれに重なった。彼女はゆっくりとベッドを抜け出し、バルコニーへ向かった。そして思いがけず、下に立っている義人の姿を見つけた。彼は雨に濡れながら立ち尽くしていた。細い肩は孤独そのもので、まるで雨に溶け込むようだった。遥の脳裏に、幼い頃の思い出が蘇る。雷が鳴るたびに、彼女は泣きながら義人のもとへ駆けていった。彼はいつも優しく彼女を抱きしめ、明かりを灯し、小さな声で物語を語ってくれた。やがて彼女は安心し、眠りについた。大きくなってからは、一緒に眠ることはできなくなったが、彼は電話をかけてくれたり、ベッドの傍で話し相手になってくれたりした。ふいに轟く雷鳴が彼女を現実に引き戻した。遥は思わず肩をすくめたが、不思議と恐怖は感じなかった。義人は何かを感じ取ったのか、ふと顔を上げ、彼女の方を見た。だが、ガラスは片面仕様で、彼には遥の姿が見えない。遥はそっと腰を下ろし、膝を抱えながら、ぼんやりと過去の出来事を思い返していた。義人は、遥の人生においてあまりにも大きな存在だった。この二十数年、彼女の記憶には常に義人の姿があった。両親は忙しく、彼女の傍にいたのは義人の方が多かった。保護者会にも、両親が来られない時は必ず義人が来てくれた。遥と義人は小学校も中学校も同じだった。彼女がいちばん恐れていたのは、義人と一緒に帰る道で先生に会うことだった。いたずらをすれば、先生はきまって義人に真剣な顔で報告し、義人は黙って彼女に書き取りの罰を与えた。だが遥はすぐに泣き出し、義人は最後にはいつも根負けしてしまった。書き取りは江口家のしつけの一つだったが、大抵の場合、義人がこっそり
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第10話

翌日の朝、遥が目を覚ましたとき、母親は毛布で二人を包み込んでいた。母の肩に寄り添って眠っていた遥は、そっと動いたその腕に気づき、まどろみの中から目を開けた。「この歳になると、こんな寝方じゃ身体が痛くなるわ。さあ、起きて朝ご飯食べましょ」母親は笑ってそう言った。遥も笑い、母の肩に甘えるように頭をこすりつけて返事した。「うん」服を着替えて外に出ると、庭先で義人の姿を見つけた。その顔色はひどく悪く、明らかに一晩中雨に打たれたせいで血の気が失われていた。「遥……」彼の声はかすれて疲れきっていた。「昨日、なんで電話に出てくれなかったの?雷が鳴ってたけど、怖くなかった?ちゃんと休めた?」遥は静かに彼を見つめ、淡々とした声で言った。「義人、私はもう子供じゃない」雷が怖かったのは、幼い頃の話。あのときは、ただ彼の声が聞きたかっただけで、話すきっかけが欲しかっただけだった。でも、今はもうそんな理由もいらない。義人は彼女の言葉の裏にある意味を、すぐに悟った。彼女はもう、自分を諦めたのだと。彼の顔色はさらに悪くなり、その体は今にも倒れそうだった。目は赤く、見る者の胸を痛めるほどだった。遥は思わず目をそらし、踵を返して立ち去ろうとした。義人は彼女の手を掴んだ。指先はわずかに震え、温かい涙が彼女の手の甲に落ちた。遥は少し驚いた。義人が涙を見せるのは、これが初めてだった。だが、彼女はゆっくりと手を引き抜き、目は冷たく、感情のない光を宿していた。「義人、私がどういう性格か、あなたが一番知ってるでしょう」その言葉には、かつての彼女らしい決意が込められていた。遥は、決して自分を犠牲にするような人間ではなかった。義人は嗚咽を堪えきれず、口を動かそうとするも、言葉が出てこなかった。「福西義人、これで終わりよ」遥の声は、波一つない湖のように静かだった。そう言い残し、彼女は背を向け、そのまま立ち去った。翌朝、外出の準備をして玄関を開けたとき、遥は思わず立ち止まった。そこには、タマコが静かに伏せていた。彼女の姿を見るとすぐに立ち上がり、足元に頬をすり寄せてきた。小さな猫の隣には、一通の美しい封筒が置かれていた。彼女はタマコを抱き上げ、封筒を開けて中の手紙を読んだ。【遥、僕がたくさ
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