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人生という長い旅路に、愛の帰る場所はなく

人生という長い旅路に、愛の帰る場所はなく

By:  葉子Completed
Language: Japanese
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山崩れが起きたとき、私は久木絵梨(ひさき えり)と一緒に崖から転げ落ちた。 目の前で、彼氏は絵梨を背負ってその場を去った。 そこに取り残されたのは、私一人だった。 みんなが慌てて絵梨を病院へ運ぶ中、私のことを気にかける者は誰一人いなかった。 ようやく助け出されて病院に運ばれたときでさえ、彼氏は一度も見舞いに来なかった。 けれど、私がもう彼を愛さなくなったとき―― 彼は目を真っ赤にして泣きながら、私を愛していると言った。

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Chapter 1

第1話

山崩れのその瞬間、ちゃんと立っていた江口遥(えくち はるか)は、久木絵梨(ひさき えり)に突然腕を引かれ、バランスを崩して山の斜面を転げ落ちた。

二人の落下を、一本の木がかろうじて食い止めた。

遥は不運にも幹にぶつかり、鋭い枝が足を貫いて鮮血が噴き出した。

一方、遥の体がクッションとなった絵梨は、浅い擦り傷を数か所負っただけだった。

福西義人(ふくにし よしと)が駆けつけたときには、遥の涙はすでに止まらなくなっていた。

だが彼は遥の言葉を待つ間もなく、絵梨を背負うと、振り返ることすらせずその場を去っていった。

最初から最後まで、彼は遥に一瞥もくれなかった。

やがて遥の友人である紀昭代(きの あきよ)が観光地のスタッフを連れてようやく駆けつけ、遥は救助された。

昏睡状態から目覚めた遥は、ぼんやりとした視界の中で、ベッド脇の椅子に座る義人の姿を見た。

窓から差し込む陽光が、彼の横顔を懐かしい輪郭で縁取っていた。

一瞬呆然としながらも、心の奥に微かな喜びが走り、遥はかすかな声で希望を込めて言った。

「義人……」

彼は顔をこちらに向け、わずかに眉をひそめた。

「目が覚めたのか」

遥はうなずき、乾いた唇を舐めるようにして言った。

「水……」

義人が手を伸ばしかけたところでふとスマホに目を落とし、指を素早く動かし始めた。

重要なメッセージに返信しているようだった。

「待って、今ちょっと返信してる」

遥は足の痛みを堪えながら、彼が俯いて忙しそうにスマホを操作する姿を見つめ、不思議な違和感を覚えた。

試すように問いかける。

「誰と話してるの?そんなに大事なこと?」

義人は顔も上げず、淡々と答えた。

「絵梨が、あとで君に会いに来るって」

その名前を聞いた瞬間、遥の胸がギュッと締めつけられ、眉がぴくりと動いた。声にも冷たさが滲む。

「彼女が来て、何の用?」

義人は眉をひそめ、スマホを置いて言った。

「謝りに来るんだ。あれは彼女もわざとじゃなかった」

「わざとじゃなかった?」

義人の顔が強張り、声も冷たくなる。

「遥、彼女に悪意はなかったんだ!いつまで責め続けるつもりだ?」

遥は深く息を吸い、胸の奥の痛みが鋭く、針のように刺さるのを感じた。

目を閉じ、枕にもたれかかるようにして、冷めた口調で答える。

「好きにして。来ればいいわ」

しばらくして、病室のドアがノックされ、杖をついた細身の人影が静かに入ってきた。

絵梨は申し訳なさそうな笑みを浮かべ、目元を赤く染めながら、か細い声で言った。

「江口さん、本当にごめんなさい……全部私のせいです。私が引っ張らなければ、あんなことには……」

遥の視線が冷ややかに彼女を射抜くと、絵梨はそっと目を伏せ、声がかすれた。

「あの日のこと、本当に怖くて……どうしていいかわからなかったの……あなたを傷つけるつもりなんて……」

「何が言いたいの?」

遥の声は淡々として、目にも表情にも感情はなかった。

義人はそれを聞いて眉をさらにひそめ、苛立ちを隠せない声で言った。

「遥、絵梨がこんな状況なのに、そこまで言わなくてもいいだろ?彼女だって被害者なんだぞ!」

「被害者?」

遥は思わず笑いがこみ上げてきた。だがその笑みは冷たく、胸の痛みは怒りとともにさらに深くなっていく。

「彼女はかすり傷だけど、私は足を貫かれたのよ!」

「でも、もう無事だったじゃないか」

言葉を失い、遥は何も言えなくなった。胸が重く圧迫されるようで、呼吸すらままならない。

何かを言おうとしたその時、絵梨が突然胸を押さえてぐらりと体を傾けた。

「ごめんなさい……やっぱり来るべきじゃなかったよね……」

顔が一気に青ざめ、杖を握る手が震えている。

「絵梨!」

義人はすぐに立ち上がり、駆け寄って彼女を支える。

「大丈夫か!?」

絵梨は息を荒げながら、義人の肩にもたれかかった。

「……ちょっと、目が……回って……」

義人は狼狽えた様子で、何も言わずに彼女を抱き上げた。

「医者に診てもらおう。話はもういい」

遥は彼の背中を見送りながら、唇を噛み締めた。

手をついて起き上がろうとしたその瞬間、足に巻かれた血染めの包帯が痛みを引き起こし、額に冷や汗が滲んだ。

歯を食いしばりながら、かすれた声で呼びかける。

「義人、私……」

だが彼は振り返らなかった。

絵梨を抱えたまま、遥の声も、床に滴る血の色も見えないかのように、そのまま去って行った。

病室は再び静けさを取り戻した。

遥はベッドに身を預けたまま、閉ざされたドアを見つめる。

胸が、刃物で裂かれたかのように痛む。包帯の血を見つめながら、彼女は静かに笑った。だが、その目に涙はひとつも浮かばなかった。

これで二度目だ。

今の義人の背中は、あの日、絵梨を抱えて振り返りもせずに去っていった彼の姿と、ぴたりと重なった。

かつては何よりも自分を優先してくれた人。

だが今の彼は、全力で他の誰かに手を伸ばしている。
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第1話
山崩れのその瞬間、ちゃんと立っていた江口遥(えくち はるか)は、久木絵梨(ひさき えり)に突然腕を引かれ、バランスを崩して山の斜面を転げ落ちた。二人の落下を、一本の木がかろうじて食い止めた。遥は不運にも幹にぶつかり、鋭い枝が足を貫いて鮮血が噴き出した。一方、遥の体がクッションとなった絵梨は、浅い擦り傷を数か所負っただけだった。福西義人(ふくにし よしと)が駆けつけたときには、遥の涙はすでに止まらなくなっていた。だが彼は遥の言葉を待つ間もなく、絵梨を背負うと、振り返ることすらせずその場を去っていった。最初から最後まで、彼は遥に一瞥もくれなかった。やがて遥の友人である紀昭代(きの あきよ)が観光地のスタッフを連れてようやく駆けつけ、遥は救助された。昏睡状態から目覚めた遥は、ぼんやりとした視界の中で、ベッド脇の椅子に座る義人の姿を見た。窓から差し込む陽光が、彼の横顔を懐かしい輪郭で縁取っていた。一瞬呆然としながらも、心の奥に微かな喜びが走り、遥はかすかな声で希望を込めて言った。「義人……」彼は顔をこちらに向け、わずかに眉をひそめた。「目が覚めたのか」遥はうなずき、乾いた唇を舐めるようにして言った。「水……」義人が手を伸ばしかけたところでふとスマホに目を落とし、指を素早く動かし始めた。重要なメッセージに返信しているようだった。「待って、今ちょっと返信してる」遥は足の痛みを堪えながら、彼が俯いて忙しそうにスマホを操作する姿を見つめ、不思議な違和感を覚えた。試すように問いかける。「誰と話してるの?そんなに大事なこと?」義人は顔も上げず、淡々と答えた。「絵梨が、あとで君に会いに来るって」その名前を聞いた瞬間、遥の胸がギュッと締めつけられ、眉がぴくりと動いた。声にも冷たさが滲む。「彼女が来て、何の用?」義人は眉をひそめ、スマホを置いて言った。「謝りに来るんだ。あれは彼女もわざとじゃなかった」「わざとじゃなかった?」義人の顔が強張り、声も冷たくなる。「遥、彼女に悪意はなかったんだ!いつまで責め続けるつもりだ?」遥は深く息を吸い、胸の奥の痛みが鋭く、針のように刺さるのを感じた。目を閉じ、枕にもたれかかるようにして、冷めた口調で答える。「好きにして。来ればい
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第2話
昭代が見舞いに来るたびに、涙ながらに謝った。「遥ちゃん、ごめんね、全部私のせい……あのとき、福西がきっとあなたを助けると思って、何も考えずについて行っちゃったの。あとで人を連れて戻ってきたとき、彼が女の子を救急車に乗せてるのが見えたの。それが遥ちゃんだと思い込んで、深く考えなかった……もっと気を配っていれば、こんなことには……!」遥はそれを聞いて、かすかに笑みを浮かべながら、昭代の頭を優しく撫でた。「あなたのせいじゃないよ。本当に」入院から一ヶ月が経ち、遥の怪我はようやく快方に向かい始めた。けれどこの一ヶ月、初日を除いて義人は一度も見舞いに来なかった。残されたのは、たった一通のメッセージだけ。【会社に急な用事があって、数日出張に行く。戻ったら会いに行くよ】だがその当日、遥は絵梨のSNSの投稿を目にする。写真の中で、絵梨は明るく微笑み、義人はその横で何かを手渡している様子だった。距離感は近く、自然で親しげ。投稿文には「社長さん、お忙しい中ご指導ありがとうございました〜」と添えられていた。昭代は写真を見て、皮肉交じりに言った。「指導って?観光のついでにキャンドルディナーもしてたんじゃないの?」遥は写真を見つめ、指先をぎゅっと握りしめたが、何も言わなかった。昭代はためらいながら尋ねた。「遥ちゃん、大丈夫?……彼の態度、どう見ても……」遥はその言葉を遮るように、平静な口調で言った。「平気」昭代が病室を後にしてから、遥はベッドにもたれ、そっと目を閉じた。退院の日、義人は自ら迎えに来た。やつれた表情を浮かべ、遥を車に乗せるときの動作は細心で、まるで壊れ物でも扱うかのようだった。しかし彼の家に着いたとたん、遥の目に飛び込んできたのは、台所で忙しくしている絵梨の姿だった。その瞬間、遥の指がわずかに震えたが、顔色は変わらなかった。絵梨は義人が好きだった。だから、住まいを移すときも彼の家の向かいに部屋を買ったという。少しでも彼に近づきたくて。今、彼の家が賑やかな雰囲気に包まれている中、自分だけが余所者のようだった。「遥、みんな君の退院をお祝いしに来てくれたんだよ」義人は優しくそう言った。だが、その言葉が終わる前に、絵梨の甘えた声がキッチンから響いてくる。「義人、調味料どこ
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第3話
遥はラグドールを抱きしめたまま、ぼんやりと物思いにふけっていた。そこへ、台所から絵梨が出てきた。彼女は遥が猫を抱いているのを見ると、まっすぐ彼女の前まで歩み寄り、「江口さん、手を洗ってきてくださいね。もうすぐご飯ですよ」と言いながら、自然な動きで猫を彼女の腕から取り上げた。その猫は、彼女の手を嫌がることもなく、むしろ甘えるように懐へとすり寄った。その瞬間、遥の心はずしりと重く沈んだ。その猫は本来、人懐っこくない。遥でさえ、心を許させるのに随分時間がかかった。けれど今は、まるでずっと一緒にいたかのように、猫は絵梨に懐いていた。遥は、絵梨が慣れた手つきで餌と水を用意する様子を見つめながら、その瞳の温度を徐々に冷やしていった。だが絵梨はそれに気づかないふりで、どこか無邪気に誇らしげな声をあげた。「この子、本当に気難しいんですよ。でも義人がちゃんと餌のあげ方を教えてくれたから、なんとかできてるんです」遥の指先がわずかに震え、押し殺すような静かな声で言った。「その猫は、私の猫」絵梨は猫を抱いたまま、無垢な笑みを浮かべた。「そうなんですか?知らなかったな。義人、そんなこと一言も言ってなかったですよ。ただ、猫の世話を頼まれて来てるだけです」彼女は猫を見下ろしながら、愛しげにその毛並みを撫でた。「最近はすごく懐いてくれて、餌もすんなり食べてくれるんです。義人が家の鍵をくれたおかげで、出入りも楽で助かってます」その言葉に、遥の目が鋭くなった。胸の奥に重たいものがのしかかる。「鍵?いつのこと?」絵梨は笑いながら言った。「もうだいぶ前ですね。言ってなかったんですか?」少し間を置き、声を和らげた。「江口さん、気に障ったらすみません。義人、お仕事すごく忙しいでしょう?食事の時間もバラバラで、私が少しでもお手伝いできればって……」「お手伝い?」遥は皮肉めいた笑みを漏らした。ちょうどそのとき、義人が台所から現れた。二人の様子を見て、眉をひそめる。「何を話してるんだ?」絵梨はすぐに猫を下ろし、困ったような顔で義人を見つめた。「義人、何か言い方、まずかったですかね……江口さん、ちょっと不機嫌みたいで。鍵の話、しないほうがよかったか?」義人は遥に目を向けた。そこには、わずかな苛立ちがにじんでいた
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第4話
翌朝早く、義人が出勤したのを見計らい、遥は彼の家へと向かった。部屋の中は静まり返っており、そこにいたのはソファの上で丸くなっている猫だけだった。彼女の姿を見つけると、小猫はパッと飛び起きて駆け寄り、足元にすり寄ってきた。遥はしゃがみ込んでその小さな体を抱き上げ、ふわふわの毛を優しく撫でながら、静かに呟いた。「行こうか。……決めたなら、あなたにも新しい家を見つけてあげないとね」彼女は猫を連れて自宅へ戻り、スマートフォンでキャットフードや新しい猫ベッドを探し始めた。猫は彼女の腕の中でおとなしく丸まり、ときおりじっと彼女の顔を見上げる。まるで、何かを感じ取っているかのように。「やっぱり現物を見たほうがいいよね」そう呟いた遥は、猫を連れて車を出し、近くのペットショップへ向かった。店の入口には掲示板があり、その中の一枚の写真が彼女の視線を引き止めた。そこには、今まさに自分が抱いている猫が写っていた。だが猫を抱いているのは絵梨で、その隣に立っているのは義人。二人の距離は近く、自然な笑顔を浮かべながら寄り添う姿は、まるで親子三人のように温かく見えた。遥の手が無意識に強く猫を抱きしめ、猫は彼女の気配に気づいたのか、小さく鳴き声を漏らした。そのとき、店員が彼女に気づき、にこやかに話しかけてきた。「あっ、その猫……掲示板の写真の子じゃないですか?」遥は一瞬戸惑いながらも、静かに問い返した。「これ、いつの写真ですか?」店員は少し考えたあと、にこっと笑って言った。「去年の夏ごろだったかな?お二人で一緒に来てましたよ。福西さんが『うちの猫なんです、もう長い付き合いで、宝物みたいな子です』って言ってました」遥の心に、何かが重く沈み込んだ。去年の夏。その言葉に思い当たる記憶があった。その頃、彼女は仕事で海外にいて、日中は目が回るほど忙しく、夜は寂しさで眠れなかった。あまりに恋しくなって、義人に「猫を抱いてる写真を送って」とお願いしたのだ。少しでも一緒にいる気持ちを感じたくて。だが彼の返答は――「猫を抱く?……何言ってんだ。出張中だって言ってるだろ、そんなくだらないことに構ってる暇ないんだよ。君さ、もうちょっと大人になれないの?いつまで子供みたいなこと言ってるんだよ」そのとき彼は、確
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第5話
遥は猫を手放したその足で、静かに実家へと戻った。江口家の別荘は昔と変わらず、豪奢で気品に満ちていた。その隣には福西家の家があり、二人は幼い頃からの隣人、いわゆる「幼なじみ」だった。周囲の誰もが知っていた。遥は義人に溺愛され、誰よりも大切にされてきた存在だった。物心ついた頃から、遥が一番好きだったのは義人。母の話によれば、まだ赤ん坊だった遥がお祝いの「選び取り」で一目散に義人のもとへ這って行き、しっかり抱きついて離れなかったという。その時、義人はまだ五歳。座ったまま、遥を抱きしめ、まるで爆弾を扱うかのように一切動けずにいたらしい。あの義人が、人生で初めて「緊張の面持ち」を見せた瞬間だったと、家族はいまでも笑って語る。彼女が初めて発した言葉も、「ママ」でも「パパ」でもなく、「おにいちゃん」だった。そのせいで両親はしばらく拗ねていたらしい。この家に戻ってくるたび、遥は義人を思い出す。思い出すのは、幼い頃から積み重ねてきた温かい記憶のかけらたち――娘の突然の帰省に、両親は驚きつつも、嬉しさを隠せない様子だった。夕食の席には、彼女の好きな料理がずらりと並び、食卓は和やかに賑わった。だが、遥の表情はどこか遠くを見つめているように沈んでおり、終始ほとんど言葉を発さなかった。夕食後、彼女は静かに書斎へ向かい、父親のもとを訪れた。「言ってごらん。帰ってきてからずっと浮かない顔してる。外で何かあったんだな?」父は椅子にもたれながら、軽い口調でそう言ったが、その目には娘を気遣う鋭い視線が宿っていた。遥は無言のまま、鞄から一枚の写真を取り出し、机の上に置いた。それは、義人と絵梨が肩を寄せ合い、猫を抱いて微笑んでいる写真だった。一目で、ただの知人同士とは思えないほどの親密さが伝わる一枚だった。さっきまで笑顔だった父の顔が、一瞬で固まった。義人が誰かに「特別」になる――それは江口家にとっても、遥にとっても初めてのことだった。そして遥は、小さな頃から自分の「もの」を誰かに奪われるのが何よりも許せない子だった。玩具であれ、服であれ、そして――人の心であれ。父はゆっくりと顔を上げ、まっすぐ娘を見つめた。「で、どうする?」遥は視線を落とし、淡々と、しかし確かな声で答えた。「婚約を解消
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第6話
夜が更けた頃、遥のもとに義人から電話がかかってきた。彼の声には、焦りが滲んでいた。「遥、タマコちゃんがいなくなった!会社から戻ってきたら、家の中にいなくて……」「他人にあげたわ」遥の冷えきった声が、彼の言葉をさえぎった。一瞬の沈黙ののち、電話越しに苛立ちを含んだ女の声が響く。「江口さん、それはあんまりじゃないですか!?どうして勝手にタマコちゃんを他人にあげたりするんですか?あなたって、本当に無責任ですね!」絵梨の声だった。「ずっと一緒にいたのに、少しも情がわかなかったんですか?どうして、あんな簡単に手放せるんですか?」遥は震える手でスマホを握りしめた。胸の奥が荒れ狂い、押しつぶされそうになる。なぜ彼女が義人の携帯でこんなふうに怒鳴っているのか。なぜその傍に義人がいて、何も言わずに黙って聞いているのか。それ以前に――なぜ、この時間にまだ彼と一緒にいるのか。「もういい、絵梨」義人の声がようやく聞こえた。だがその口調は、困ったように優しく、彼女を咎めるものではなかった。「そんなに好きなら、新しい子をまた買ってあげるよ」その瞬間、遥は躊躇なく通話を切った。そして洗面所に駆け込み、胃の奥が捩じれるような苦しみに襲われ、嘔吐してしまった。冷たい洗面台に身を預け、ようやく呼吸が落ち着く頃には、涙も枯れていた。彼女はスマホを手に取り、義人のすべての連絡先をブロックした。遥の様子を察して、昭代が「気分転換しよう」と無理やり連れ出してくれた。天気は快晴、街は人々で賑わい、太陽の光がやわらかく差し込む穏やかな午後だった。昭代は昔からおしゃれ好きで、ジュエリーに目がなかった。ふたりは高級ジュエリー店に入り、陳列された輝くアクセサリーを見ているうちに、遥の心も少しだけ和らいだ。遥にとって宝石は特別なものではない。江口家の一人娘として、贅沢は日常だった。子供の頃は義人がよく可愛い小物を贈ってくれたし、大人になってからは、数千万円相当のジュエリーを何度もプレゼントされた。そのすべてが、愛の証だと信じていた。だが、今ではその記憶も、胸の奥に苦い味を残すばかりだった。買い物を終えたふたりが帰ろうとしたとき、昭代がふと足を止め、低い声でつぶやいた。「あれって、福西じゃない
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第7話
義人と絵梨のもとを離れたあと、遥と昭代は江口家が経営する店に移動することにした。だが、そこでも思わぬ人物と遭遇することになる。「遥、お前、なんでここにいるんだ?」遥が顔を上げると、現れたのは絵梨の弟である久木和朗(ひさき かずろう)だった。彼女はわずかに眉をひそめたが、何も答えず無視した。無視された和朗は途端に不機嫌な顔になり、いきなり遥の手首を掴もうと手を伸ばした。その瞬間、そばにいた昭代が素早く彼の腕を掴み、冷ややかな視線を向けて問い詰めた。「何する気?」和朗は一瞬動きを止めたが、すぐに手を振りほどき、露骨に不快そうな顔を浮かべた。「江口、お前みたいな金持ちのお嬢様は、人を見下すことしかできねぇのか?ただ挨拶しただけで無視かよ」遥は彼を見上げ、冷たく言い放った。「あんたに応える義理なんかない。自分を何様だと思ってるの?」彼女の態度に店員がすぐに駆け寄り、丁寧ながらも毅然とした口調で言った。「申し訳ありませんが、当店ではお引き取り願います」周囲の客たちの視線が集まる中、和朗は顔を真っ赤にしながらも遥に近づこうとしたが、入口に立っていた警備員にしっかりと遮られた。「江口、人にここまで恥をかかせるなんて最低だな!」怒りで顔を歪めた和朗は声を荒げた。「そりゃあ義人兄さんが『お前は扱いにくい、典型的なワガママ姫だ』って言ってたのも納得だぜ!」この言葉を聞いた昭代は驚いて遥の顔を見た。だが遥はかすかに首を振って彼女を落ち着かせ、手を軽く叩いて慰めると、冷ややかな目で和朗を見据えた。「和朗、自分が義人じゃなかったら、私に会う資格すらあると思ってるの?」和朗は顔色を失ったが、それ以上近づくことはできず、店員と警備員に追い出される形となった。彼は何かぶつぶつと悪態をつきながら店を後にした。家に戻った遥のスマホに、見知らぬ番号からのメッセージが届いた。開くと、そこには一本の動画が添付されていた。映像はバーのような場所で、隠し撮りされたものらしく、撮影アングルは低く、見つからないよう配慮されていた。画面の中に映っていたのは、他でもない義人だった。「義人、それ江口さんからの電話か?どうして出ないんだか?」隣にいた絵梨がそう尋ねる。二人の距離はとても近く、肩が触れ合いそうな
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第8話
「解消って?」義人が勢いよく立ち上がり、声には明らかな動揺が滲んでいた。「遥、君……僕たちの婚約を取り消すって言ってるのか?」その声はかすれていて、どこか必死だった。「そんな冗談、やめてくれよ……機嫌が悪いのはわかるけど、こういうことは冗談にしていいことじゃない」彼は遥の手を強く握り締めた。その力の強さに思わず痛みが走る。義人の目には不安と困惑が浮かんでいた。「絵梨はただ……」彼の言葉は、遥の冷たい声に遮られた。「義人、この件に関して、説明は必要ないわ」彼女は力を込めて手を振りほどき、義人の父親の方を向いて、感情のこもらない静かな声で告げた。「おじさん、婚約は解消してください」義人の父親は複雑な表情で小さくため息をついた後、重い声で応じた。「わかった」「わかったって、どういう意味だよ!」義人はその言葉に反応し、感情を爆発させた。「僕は認めない!遥、こんなの冗談だろ?お願いだから、こんなこと言わないでくれ……僕、本当にもう耐えられない!」その時、傍らに立っていた絵梨が口を開いた。彼女の声は柔らかく、どこか涙を含んだような響きを帯びていた。「江口さん、誤解しないでください。福西社長は本当に、私のことをただの同僚として見てるだけで……話していたのも仕事のことで……」「黙りなさい!」義人は突然振り返り、鋭い視線で彼女を睨みつけた。声は冷えきっていて、有無を言わせぬ威圧がこもっていた。「お前に話す資格があると思っているのか?」絵梨は言葉を失い、目には涙が溢れそうになっていた。「福西社長、私はただ……ご説明を……」その光景を見ていた遥は、鼻先で笑ったような冷たい声で言った。「久木さん、ここは江口家と福西家の問題よ。あなたのような部外者が口を挟む権利なんてある?それとも……自分の立場を勘違いしてるのかしら?私を諭すなんて、何様のつもり?」絵梨の顔は一瞬で青ざめ、何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。「出ていけ」義人の声は氷のように冷たかった。彼は絵梨に一瞥もくれず、ただ遥のことだけを見つめていた。「福西社長……」絵梨は名残惜しそうに彼を呼び、喉の奥が詰まったような声を漏らしたが、義人は一歩も動かず、振り返ることもなかった。「出て行けと言ってるんだ
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第9話
遥の母親は帰宅してから心配そうに言った。「今夜は、母さんが一緒に寝てあげる」その言葉を聞いた遥の父親は、露骨に顔をしかめ、明らかに不満げな表情を浮かべた。遥は珍しく笑みを見せ、得意げに父に変顔をしてみせると、母の腕を取り、そのまま部屋へと戻っていった。夜更け、彼女が布団に入っても、隣からは母の規則的な寝息が聞こえるだけだった。だが遥の目は、まっすぐ天井を見つめたまま閉じられない。あの山の出来事以来、彼女の眠りはすっかり浅くなり、夜通し眠れないことも珍しくなかった。窓の外では、突然激しい雨が降り始め、低くうなるような雷鳴がそれに重なった。彼女はゆっくりとベッドを抜け出し、バルコニーへ向かった。そして思いがけず、下に立っている義人の姿を見つけた。彼は雨に濡れながら立ち尽くしていた。細い肩は孤独そのもので、まるで雨に溶け込むようだった。遥の脳裏に、幼い頃の思い出が蘇る。雷が鳴るたびに、彼女は泣きながら義人のもとへ駆けていった。彼はいつも優しく彼女を抱きしめ、明かりを灯し、小さな声で物語を語ってくれた。やがて彼女は安心し、眠りについた。大きくなってからは、一緒に眠ることはできなくなったが、彼は電話をかけてくれたり、ベッドの傍で話し相手になってくれたりした。ふいに轟く雷鳴が彼女を現実に引き戻した。遥は思わず肩をすくめたが、不思議と恐怖は感じなかった。義人は何かを感じ取ったのか、ふと顔を上げ、彼女の方を見た。だが、ガラスは片面仕様で、彼には遥の姿が見えない。遥はそっと腰を下ろし、膝を抱えながら、ぼんやりと過去の出来事を思い返していた。義人は、遥の人生においてあまりにも大きな存在だった。この二十数年、彼女の記憶には常に義人の姿があった。両親は忙しく、彼女の傍にいたのは義人の方が多かった。保護者会にも、両親が来られない時は必ず義人が来てくれた。遥と義人は小学校も中学校も同じだった。彼女がいちばん恐れていたのは、義人と一緒に帰る道で先生に会うことだった。いたずらをすれば、先生はきまって義人に真剣な顔で報告し、義人は黙って彼女に書き取りの罰を与えた。だが遥はすぐに泣き出し、義人は最後にはいつも根負けしてしまった。書き取りは江口家のしつけの一つだったが、大抵の場合、義人がこっそり
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第10話
翌日の朝、遥が目を覚ましたとき、母親は毛布で二人を包み込んでいた。母の肩に寄り添って眠っていた遥は、そっと動いたその腕に気づき、まどろみの中から目を開けた。「この歳になると、こんな寝方じゃ身体が痛くなるわ。さあ、起きて朝ご飯食べましょ」母親は笑ってそう言った。遥も笑い、母の肩に甘えるように頭をこすりつけて返事した。「うん」服を着替えて外に出ると、庭先で義人の姿を見つけた。その顔色はひどく悪く、明らかに一晩中雨に打たれたせいで血の気が失われていた。「遥……」彼の声はかすれて疲れきっていた。「昨日、なんで電話に出てくれなかったの?雷が鳴ってたけど、怖くなかった?ちゃんと休めた?」遥は静かに彼を見つめ、淡々とした声で言った。「義人、私はもう子供じゃない」雷が怖かったのは、幼い頃の話。あのときは、ただ彼の声が聞きたかっただけで、話すきっかけが欲しかっただけだった。でも、今はもうそんな理由もいらない。義人は彼女の言葉の裏にある意味を、すぐに悟った。彼女はもう、自分を諦めたのだと。彼の顔色はさらに悪くなり、その体は今にも倒れそうだった。目は赤く、見る者の胸を痛めるほどだった。遥は思わず目をそらし、踵を返して立ち去ろうとした。義人は彼女の手を掴んだ。指先はわずかに震え、温かい涙が彼女の手の甲に落ちた。遥は少し驚いた。義人が涙を見せるのは、これが初めてだった。だが、彼女はゆっくりと手を引き抜き、目は冷たく、感情のない光を宿していた。「義人、私がどういう性格か、あなたが一番知ってるでしょう」その言葉には、かつての彼女らしい決意が込められていた。遥は、決して自分を犠牲にするような人間ではなかった。義人は嗚咽を堪えきれず、口を動かそうとするも、言葉が出てこなかった。「福西義人、これで終わりよ」遥の声は、波一つない湖のように静かだった。そう言い残し、彼女は背を向け、そのまま立ち去った。翌朝、外出の準備をして玄関を開けたとき、遥は思わず立ち止まった。そこには、タマコが静かに伏せていた。彼女の姿を見るとすぐに立ち上がり、足元に頬をすり寄せてきた。小さな猫の隣には、一通の美しい封筒が置かれていた。彼女はタマコを抱き上げ、封筒を開けて中の手紙を読んだ。【遥、僕がたくさ
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