All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

桐生は、正気なのだろうか?それが、小夜の脳裏に最初に浮かんだ考えだった。彼女がそう思うのも無理はなかった。彰は、長谷川家の現当主である圭介に絶対的な忠誠を誓う側近であり、幼い頃から長谷川家によって育て上げられた存在だ。その忠誠心は揺るぎなく、ただ当主一人の命令にのみ従う。長谷川家の分家の人間でさえ、彰の前では丁寧に接しなければならず、威張ることなどできない。まさに、当主に次ぐ権力者だった。当然、その権力と威光は、彼女という、いわゆる長谷川夫人よりも上だった。この七年間、圭介は彼女に氷のように冷たく、彼を不機嫌にさせようものなら、決まって彰に命じて彼女を「始末」させた。この男は、彼女に対してこれまで一度も手加減したことがなく、彼女の惨めな姿を幾度となく見てきたはずだ。それなのに、今、この態度は何だ?小夜からすれば、彰の突然の親切心など、完全におかしいとしか思えず、圭介と根は同じ種類の人間なのだ。偽善者め!猫かぶりの悪魔!小夜は片手を彰の胸に当て、冷たく言い放った。「降ろしなさい!」彰は動かなかった。「奥様、脚にお怪我を。歩けません」「あなたに頼る必要はないわ!」彰は彼女の言葉を無視し、スーツの上着で包んだ手で小夜に直接触れないようにしながら、もう片方の手でドアを開け、そのまま彼女を抱きかかえて外へ出た。小夜は怒りで胸が張り裂けそうだった。この圭介の飼い犬は、飼い主とそっくりで、人の話を聞かない!「権力を笠に着る畜生め!」小夜は外の人間に顔を見られたくなくて、顔を彼の胸の方へ向けたが、怒りが収まらず、つい罵りの言葉を口にした。不意の罵声に、彼女を抱いていた彰の動きが一瞬止まる。心臓が、どくりと一つ跳ねたかのようだった。しかし、彼はすぐに何事もなかったかのように平静を取り戻した。彰の足取りは常に安定しており、一歩踏み出すごとに、腕の中の雲のように軽く柔らかな体が微かに揺れる。淡く上品なジャスミンの香りが彼の呼吸を満たし、意識のすべてを奪っていくようだった。……小夜が強く主張したため、彰は彼女を、彼女自身が運転してきた車まで送り届け、自らは運転席に乗り込んだ。車は長谷川邸の方向へ向かう。途中、薬局の前で車を停めると、彰は車を降りて打撲に効く塗り薬を買ってきた。小夜は冷
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第42話

寝室は、小夜が前回ここを訪れた時と何ら変わりはなかった。ウォークインクローゼットには、彼女が置いていった服がいくつか残っている。その中から寝間着を二枚ほど手に取ると、小夜は浴室へ向かった。浴室の鏡の前に立ち、酒の匂いのする服を脱ぐ。小夜の肌は元々、雪のように白く、ほんのりと桜色を帯びている。しなやかで豊満な体は、豪奢なクリスタルの照明に照らされて月の光のように美しく輝いていた。しかし振り返ると、その美しさに痛々しい影が差していた。彼女の肌は柔らかく、少し触れただけで跡が残るほどだ。今やその背中には、いくつもの青痣が浮かび上がっていた。右の脹脛も、同様だった。小夜は鏡の中の自分を静かに見つめ、桜色の唇を固く引き結んだ。これが、圭介が彼女にもたらしたものだ。忘れてはならない。決して、忘れてはならない。小夜は触れるたびに走る鋭い痛みをこらえ、シャワーで体を洗い流した。湯気でのぼせたのか、頭が少しふらつく。なんとか軽くて通気性の良い寝間着に着替えた。部屋には暖房が効いており、寒くはない。寝室のベッドサイドには、未開封の塗り薬が置かれていた。千代が持ってきてくれたのだろう。小夜はふらつく足取りでそちらへ歩み寄ると、その塗り薬を躊躇なくゴミ箱へと投げ入れた。彰が買ってきたものだ。使う気にもなれないし、使うはずもなかった。小夜は棚の中を探り、使いかけの子供用の塗り薬を見つけ出した。子供がいるため、家に薬を常備しておくのが彼女の習慣だった。以前、荷物を持って家を出た時、養育権を取るつもりはなかったため、これらの薬は置いてきたのだ。今日、それが役に立つとは……圭介は今夜、ここで彼が帰るのを待つようにと言ったが、小夜にそのつもりはなかった。これまで、待ちすぎたのだ。以前は、彼女が家にいる限り、どんなに遅くなっても圭介の帰りを待ち、彼のために灯りを一つ残し、彼の衣類を整え、心を尽くして優しく接してきた。だが、もう待ちたくはなかった。小夜はベッドに横向きになると、そのまま眠ることにした。どうせ、一晩だけの約束だ。彼がいつ帰ってこようと、知ったことではなかった。……しかし、目を閉じて間もなく、ドアが開けられた。樹がぴょんぴょんと跳ねるように部屋に入ってくると、ベッドのそばに駆け寄り、横向きに寝ている母
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第43話

その日の夜、圭介は電話を受け、邸宅へと急ぎ戻った。千代は、怯えて泣きじゃくる樹をなだめていたが、大股で入ってきた圭介の姿を見るなり、ほっと息をついて小夜の状況を報告した。「旦那様、お医者様に診ていただきました。奥様は過労による心悸亢進で気を失われたとのことです。一度目を覚まされましたが、お薬を飲まれてまたお休みになりました」「そうか」圭介は、次に樹に目をやった。父親が玄関を入ってきてから、あれほど泣き騒いでいた樹はぴたりと静かになり、後ろめたいのか、俯いて父親の顔を見ようとしなかった。「書斎に来い」圭介は静かにそう言うと、階段を上がっていく。「坊ちゃま……」千代が心配そうに声をかけた。樹は何も言わず、千代が掴んでいた手を振りほどくと、涙で濡れた顔のまま、黙って父親の後についていった。圭介はまず、二階の主寝室へ向かった。小夜はベッドに静かに横たわり、その顔は青白く、眉間にしわを寄せて不安げに眠っている。圭介は戸口でしばらくその様子を見ていたが、すぐに踵を返した。……書斎。父と子が、一人は座り、一人は立って対峙していた。圭介は上質なスーツに身を包み、マホガニーの椅子に深く腰掛けている。片手を肘掛けに置き、その細長い指で軽く叩いていた。その顔に感情はなく、何も語らない。しかし、室内には目に見えない圧力が充満していた。やがて、樹の方が先に耐えきれなくなった。「パパ、ママが先に僕を無視したんだもん。ちょっと押しただけだよ。ママがそんなに疲れてるなんて知らなかったんだ。僕、すごく怖かったんだよ」最初のパニックが過ぎ、母親に大事がないと分かると、父親のこの態度に、樹は途端に自分が不憫に思えてきた。僕は何もしていないじゃないか!それに、ママが先に僕を無視したんだ。僕が何をしたっていうんだ!圭介は、言い訳を並べて不満げな顔をする息子を静かに見つめていた。樹が再び俯いて黙り込むまで見つめ続けると、ようやく淡々と口を開いた。「俺がお前に言いつけたことは何だ?」樹ははっとし、見上げたその幼い顔は、当惑に満ちていた。「……何のこと?」圭介は答えず、ただ黙って息子を見つめる。三十秒も経たないうちに、樹はびくりと体を震わせた。ようやく、夜に桐生が去り際に、わざわざ自分に言いつけた言葉を
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第44話

納得できない!ひいおじいちゃんの家へ行って、退屈でつまらない勉強をさせられて、できなければ竹製の物差しで叩かれる。そう考えただけで、樹は身震いした。だめだ!ひいおじいちゃんの家へ行くのだけは、絶対に嫌だ!おじいちゃんの家へ行くのもだめだ。ひいおじいちゃんが樹の面倒を見るとなれば、家中の誰も助けてはくれない。ママは助けてくれるだろうけど、ママの言うことなんて誰も聞かない。「何か、手を考えないと……」……圭介は書斎を出ると、主寝室へ向かった。ベッドのそばに腰掛け、ノートパソコンを開いて仕事を始めて間もなく、主寝室のドアが控えめにノックされた。外へ出てみると、桐生が立っていた。圭介は寝室のドアを静かに閉め、尋ねた。「どうした?」「旦那様、先ほど相沢様からお電話が。旦那様にご連絡がつかなかったため、こちらへかけてこられました」圭介は主寝室に入ってから携帯をマナーモードにしていたため、気づかなかった。彼は特に説明もせず、何気なく尋ねる。「何の用だ?」彰はわずかに間を置いた。「坊ちゃまの件です。旦那様が坊ちゃまを大旦那様の元へお送りになると知り、恐ろしくなったのでしょう。相沢様に助けを求め、しばらく相沢様のお宅に泊めてほしいと……旦那様、いかがいたしましょう。お断りしますか?」圭介はふっと笑った。「なぜ断る?あれだけ必死なのだからな」彰は表情を変えなかったが、その声にはわずかな躊躇いが滲んだ。「本当に坊ちゃまをあちらへおやりになるのですか。あまり、よろしくないのでは」圭介は彼を一瞥し、その妖艶な切れ長の目を深くした。「あいつ自身が決めたことだ。長谷川家の子供である以上、自分で決めたことの結果は、自分で引き受けるべきだと知るべきだ」「はっ」彰はさらに尋ねた。「では、坊ちゃまのお側には、何名ほど付けますか?」「少なければ少ないほどいい。いなくても構わん」彰は一瞬、息をのんだ。樹は、長谷川家の次代の跡継ぎなのだ。彼が躊躇していると、圭介が嘲るような笑みを浮かべてこちらを見ているのに気づいた。「小さな痛みを経験しなければ、いずれ大きな痛手を負うことになる。それに、俺と奥さんはまだ若い」圭介の言葉に込められた意味は、あまりにも明白だった。跡継ぎには試練が必要であり、子供
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第45話

長谷川父子が引き起こした一幕を、小夜は昏睡したまま知る由もなかった。その眠りは、決して穏やかなものではなかった。朦朧とする意識の中、夢で彼女は数年前の大学時代へと再び戻っていた。あの頃の彼女と圭介はもっと若く、青春の輝きに満ちていた。大学の階段には、さんさんと陽光が降り注いでいた。青年時代の圭介は、爽やかなスポーツウェアに身を包み、眩い光の中に立っていた。その全身から、隠しきれない気品が輝きを放っている。彼は身を屈め、洗い立ての黒い短髪から冷たい水滴がこぼれ落ちる。その妖艶な切れ長の目は涼やかで、階段の下に立つ、戸惑いと羞恥に染まる少女に問いかけた。それは、少女時代の小夜だった。「俺のこと、好きなの?……どれくらい?」その声にはまだ青さが残り、語尾はわずかに上がり、どこか冷たさを帯びていたが、少女の小夜の心を熱く焦がした。その熱は、彼女の青春そのものだった。「好き……すごく、好き」過去の自分がそう答えるのを聞いた瞬間、夢の世界は反転した。新婚の夜。圭介は赤い帽子のロボットを彼女に投げつけ、憎しみに満ちた目で一瞥すると、乱暴にドアを閉めて出て行った。ロボットが吐き出す冷たい機械音と、圭介特有の低い声が重なり、鋭い刃となって小夜の胸に突き刺さった。「高宮小夜、俺は永遠にお前を愛さない!」揺れ動く不安な夢は、その瞬間、終わりを告げた。……小夜が目を開けると、まだ頭が少し痛み、ぼやけた視線の先に、見慣れた人影が揺れていた。頭はまだ朦朧として、夢と現実の区別がつかない。彼女は目の前で揺れる見慣れた人影をただ見つめ、呆然と口を開いた。「長谷川さん、もう、あなたを愛してない」誰かに答えるように、そして自分に言い聞かせるように、彼女はもう一度繰り返した。「もう、愛してない」その時になって、小夜は初めて気づいた。この言葉が、これほどたやすく口から出てくることに。長谷川圭介に長年抱き続けた恋心は、ついに、ここで終わりを告げたのだ。言いようのない、解放感があった。小夜がぼんやりと考えていると、目の前の人影が不意に近づき、はっきりとした輪郭を結ぶ。次の瞬間、彼女はベッドに押し倒されていた。薄い寝間着越しに、男の熱い体温が伝わってくる。確かな感触と温度に、小夜ははっと意識を取り戻した。
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第46話

小夜は、もつれた糸を断ち切るように、早く離婚して新しい人生を始めたかった。圭介の視線は、小夜の豊満で完璧な体をなぞり、やがてその背中に広がる大きな青痣に留まった。途端に、先ほどまであったはずの情欲は跡形もなく消え失せていた。圭介はベッドサイドテーブルから薬を取り出すと、彼女を引き寄せて優しく言った。「薬を塗ってやる。まだ痛むか?」小夜は差し伸べられた手を払い除け、冷笑を浮かべてその仮面を剥ぎ取った。「七年間、一度だって優しくしてくれたことなんてなかったくせに。今さら、何の意味があるっていうの?」この七年間、彼が自分にどう接してきたか、記憶喪失でもない限り忘れるはずがない。一つ一つの出来事が失望の連続で、彼女の真心はとうの昔に踏みにじられ、血の欠片すら残っていなかった。今になって、愛情深いふりなど、片腹痛い。……小夜の瞳には苛立ちが満ち、かつて彼に向けられたような愛情の光は、もうどこにもなかった。圭介は、決意に満ちた瞳で自分を見つめる女を、その深く、底の知れない妖艶な切れ長の目で見つめ返した。二人は無言で対峙し、次の瞬間、小夜は力ずくで彼の腕の中に引き寄せられた。圭介は強すぎず弱すぎない力で腕の中の女を抑えつけると、その薄く繊細な背中に、そっと薬を塗り始めた。彼の動きに合わせて、彼女の肩甲骨が微かに震える。照明の下で、それはまるで羽ばたく蝶のようで、今にもふわりと飛び去ってしまいそうだった。圭介は無意識のうちに、彼女を抑える腕の力を強めた。腕の中の温かく柔らかな感触に、彼は正常の男として、すぐに反応してしまった。その瞳の色が、一段と深くなる。その変化に気づいた小夜の胸に、怒りの炎が燃え上がった。「長谷川圭介、ふざけないで!放しなさい!」「動くな」圭介はたやすく彼女を腕の中に閉じ込め、薬を塗る手は平然と動かしながらも、その声は濃く掠れていた。まるで何かを堪えるように、彼は言った。「怪我をしているから、今日は何もしない。だが、これ以上動くなら……」彼はそれ以上言わなかったが、その体の反応が、何より雄弁に小夜を脅していた。この、人でなし!……薬を塗り終えると、小夜は素早く寝間着に着替え、布団の中に潜り込んだ。彼女は、今夜の目的を忘れてはいなかった。「長谷川さん、離婚は私たち二人の
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第47話

相沢家の屋敷。早朝から、若葉たち一家三人はダイニングで朝食をとっていた。「あの子はまだ起きてこないの?朝食はいいのかしら?」容子は優雅に朝食を口に運びながら、隣で同じように優雅に食事を進める若葉に尋ねた。彼女が言っているのは、樹のことだ。昨夜、圭介が直接、息子をこちらに預けていった。彼らは少なからず驚いたが、すぐに受け入れた。圭介のこの信頼に満ちた行動は、彼らにとって好都合だった。「お母様、放っておいて大丈夫ですよ」若葉は意に介さない様子で言った。「昨夜は徹夜でゲームをしていたみたいで、朝は起きられないでしょう。目が覚めたら、使用人に食事を用意させますから」容子は娘に釘を刺した。「あなたも少しは気を配りなさい。圭介には今、あの子しかいないのだから。あまりぞんざいには扱えないわよ」「分かっています」若葉は微笑み、その艶やかな瞳をきらめかせた。「樹くんは今、私にとても懐いていて、あの母親のことなど、とうに超えています。あの子は長谷川家の次期後継者という立場ですし、その身分は重要です。彼を掌握し、圭介の私への想いを加えれば、長谷川家を手に入れるのも、もう時間の問題ですわ」哲也はコーヒーカップを置き、厳しい顔で言った。「だが、所詮は他人の産んだ子だ。お前が圭介と結婚してから……いや、今からでも妊娠する方法を考えろ。自分の腹を痛めて産んだ長谷川家の後継者こそが、本当にお前のものになる。そうなれば、あの樹という子は、もう用済みだ」若葉は目を伏せ、小さく頷いた。「はい、お父様」「圭介のことは、本当に掌握できているんだろうな?」哲也は眉をひそめ、厳しい表情で尋ねた。「最近、こちらに泊まることも減っているようだが」「お父様、ご心配なく」若葉は自信に満ちていた。「私と彼は、幼い頃からの長い付き合いです。彼も私を信頼してくれています。帰国してすぐに私のために子会社を設立してくれましたし、今ではお子さんまでこちらに預けている。すべて、時間の問題ですわ」「それでも、急ぐに越したことはない」哲也はそう促し、続けた。「そうだ、お前、少し前に圭介のためにA国のAIの天才、『雲山』と連絡を取ろうとしていると言っていなかったか?」「はい」「彼は帰国するのか?成算はあるのか?」
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第48話

「私が当時海外にさえいなければ、小夜なんかに、あの隙を突かれることもなかったのに!私の縁を奪い、社交界で長いこと私を笑いものにした。今回帰国したのは、あの女を楽にさせるためじゃない。彼女が奪ったものすべて、一つ残らず取り返してみせる。あの女が大切にしているものを、すべて粉々にして、生き地獄を味わわせてやるわ!」そこまで言うと、若葉は再び、嘲るような笑みを浮かべた。「七年もあったのに、圭介の心を掴めないなんて。あの女が産んだ子も、誰かにちょっと誘われただけですぐに靡いて。卑しい女は、しょせん負け犬ですね」容子は、娘の整った美しい顔を撫で、優しく慈愛に満ちた笑みを浮かべた。「その通りよ。私の若葉は、あの小夜なんかより百倍も千倍も綺麗で、能力もあるもの。あんな女、赤子の手をひねるようなものよ」「お母様」若葉は母の手にすり寄り、甘えて頼り切った様子を見せた。……竹園。小夜は丸一日休んで、ようやく脹脛の痣も少しは良くなり、歩くのには支障がなくなった。彼女は早朝から家を出て、国際空港へと向かった。今日、大叔母が帰国するのだ。事前に、空港まで迎えに来るようにと連絡があった。家を出る時、向かいの家に大きなトラックが何台も停まり、作業員がひっきりなしに新しい家具を運び入れたり出したりしているのが見えた。海外から帰国したという、新しい隣人がもうすぐ入居するのだろう。小夜はそのことを特に気にも留めず、車を国際空港へと走らせた。ところが、国際空港の貴賓出入口に着いた途端、彼女は予想外の人物を目にした。宗介が、後ろ姿や身なりからして見るからに身分の高そうな中年の男女を見送って、そこに立っていたのだ。相手も、彼女に気づいた。二人を見送った後、宗介がこちらへ歩み寄り、穏やかな声で挨拶をした。「高宮さん、こちらへは、どなたかお迎えに?」小夜は頷き、何気なく言った。「ええ、家の者を」「奇遇ですね」宗介は笑った。「私も今、家の者を見送っていたところです。これからは国内に定住しますので、長年苦労してきた両親も、ようやく羽を伸ばして海外旅行へ行けるというわけです」小夜はわずかに眉をひそめた。この話は以前、天野家の宴に参加した際、宗介が弟を脅す時に口にしていたのを覚えている。これからは国内の天野家の事業も、弟
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第49話

小夜の目は、近づいてくる老婦人の姿に釘付けになっており、宗介の問いかけは耳に入らなかった。人混みの中でもひときわ強いオーラを放つその老婦人も、こちらに気づいたようだった。彼女は足を止め、そばにいた人物に二言三言告げると、すぐにスタッフがメディアの群れを制止し、撮影を禁じた。集まっていた人々は戸惑ったが、老婦人の威光を前に、それ以上近づこうとする者はいなかった。老婦人は後ろの人だかりを振り切ると、大股で小夜の方へと歩み寄ってきた。小夜もすぐに駆け寄ったが、その瞳には喜びの光と、久しぶりの再会に対する気後れのようなものが混じり、一瞬、声をかけるのをためらった。老婦人は近づくと、顔にかけていたサングラスをそっと外し、目の前の姪孫をじっと見つめた。しばらくして眉をひそめると、小夜の頭をくしゃりと撫で、その口調には不満と、隠しきれないいたわりが滲んでいた。「まあ、なんて痩せちゃって。あいつは、あんたの面倒をどう見てたのよ!」久しぶりに頭に感じる温かい感触に、小夜は鼻の奥がつんとなり、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死でこらえ、声を詰まらせながら呼びかけた。「大叔母様」たったその一言を口にしただけで、もう言葉が続かなかった。次に何か言えば、その場で泣き崩れてしまいそうだった。本当に、あまりにも長い間、大叔母に会っていなかった。募る思慕と、この数日間で積み重なった感情や悔しさが、胸を締め付けて痛んだ。自分の姪孫のことは、自分が一番よく分かっている。その様子を一目見て、この数年間、彼女が決して良い暮らしをしていなかったことを、老婦人は察した。彼女はため息を一つつき、小夜の頭をぽんぽんと叩いた。「車の中で話しなさい」小夜が「はい」と頷き、大叔母と共に行こうとした、その時。宗介が歩み寄ってきた。彼は目の奥に湧き上がる驚きを隠し、老婦人に向かって手を差し伸べ、礼儀正しく言った。「高宮先生、初めまして。私、天野家の長男、天野宗介と申します。両親からお噂はかねがね伺っておりました。年初に帰国して以来、ご挨拶に伺う機会を探しておりました」高宮珠季(たかみや たまき)は、身内以外にはひどく冷淡な顔つきになり、宗介を一瞥すると、淡々と頷いた。「あなたのことは知っているわ。稀に見る若き俊才で、ここ数年は海外でずいぶん活躍し
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第50話

「デザインを捨てずに、自分のアトリエまで開いたと言っていたじゃないか。直接あんたのアトリエへ行きなさい。この数年で腕が鈍っていないか、見せてもらうわ」珠季は昔から迅速果断な性格で、車に乗るなり本題に入った。「はい」小夜は頷き、車を発進させた。車が走り出すと、バックミラーに黒い車が二台、後をつけてくるのが見えた。「気にしなくていいわ。あれは私のスタッフの車よ。ついてこさせる必要があるの」珠季はそう説明した。小夜は頷き、それ以上は気にしなかった。車内は、再び静寂に包まれた。珠季が小夜の結婚と、才能を無駄にする行為に反対していたこと、そして叔母と姪、二人とも頑固な性格だったことから、一度こじれて七年近くも会っていなかった。何を話せばいいのか、お互いに分からなかったのだ。……しばらく車を走らせた後、珠季が不意に口を開き、沈黙を破った。「あんた、あの天野宗介とはどういう関係なの?」小夜は大叔母の第一声がその質問だとは思わず、数秒固まってから、パーティースーツの件を説明した。「一度、パーティースーツをオーダーしてくださったんです。それで、あちらの宴に一度参加しただけで、それ以上の接触はありません。親しくはないです」「そう。親しくないなら、それでいいわ」大叔母のその様子に、小夜の胸に不安がよぎった。「あの人、何か問題があるんですか?」珠季は彼女を一瞥すると、隠すこともなく、きっぱりと言った。「彼個人に問題があるんじゃない。天野家そのものに、問題があるのよ」「え?」小夜は、意外な表情を浮かべた。「あんた、天野宗介がこの数年、どうして海外にいたと思う?」珠季は冷笑した。「あの天野家は、先祖代々ろくなもんじゃない。事業のほとんどが裏社会と繋がりがあるのよ。まあ、この代で有能な若造が一人出たのが、せめてもの救いだけどね。天野宗介は、この数年ずっと、そういった問題のある事業を水面下で海外に移して、国内の事業を少しずつクリーンにしようとしてきたのよ」小夜はそのような事情に詳しくなく、聞いてひどく驚いた。先日、宗介にオーダーメイドのパーティースーツを届けた時、彼の体から漂った血の匂いを思い出し、背筋が凍る。やはり、あの時の嗅覚は間違っていなかった。この天野家は、本当に問題がある。驚き
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