All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

帝都、1月15日。真冬の夜。牡丹雪がはらはらと舞い降り、地面を厚く覆っていた。しかし、その純白も人や車に踏み固められ、見るも無残な泥雪と化している。道端には、一台の青いセダンが停められていた。純白のダウンコートに身を包んだ高宮小夜(たかみや さよ)は、花屋で買ったばかりの薔薇の花束を抱え、車へ向かいながら夫の長谷川圭介(はせがわ けいすけ)に電話をかけた。今日は、結婚八周年の記念日。彼女は早めに仕事を切り上げ、夫と二人きりのキャンドルディナーを楽しむつもりだった。結婚生活「七年目のジンクス」を乗り越え、八周年を祝うために。一度目の呼び出しに応答はなかった。続けて二度目をかけると、やがて無機質な声が響いた。「何の用だ?」小夜の笑みが翳る。それでも、努めて明るい声を作った。「約束したでしょう、今日は外で食事するって。お店の場所なんだけど……」「仕事だ。忙しい」小夜が言葉を継ぐ前に、通話は一方的に切られた。スマホを握りしめたまま、彼女は風雪の中に立ち尽くす。寒風が身に染み、胸に広がるのは苦い失望感だった。圭介は、今日が何の日か覚えていてくれたのだろうか。約束をしても、いつもこうだ。何度もはぐらかされ、理由をつけられ、二人で食卓を囲む時間さえ作ってはくれない。どっと疲れが押し寄せてきた。小夜は目を閉じ、気を取り直して息子の樹(いつき)に電話をかける。二人きりのディナーのために、あらかじめ姑に頼んで、息子を実家に預けていたのだ。キャンドルライトディナーが叶わなくなった今、あの子を迎えに行かなければ。……豪華絢爛なレストランの片隅。ひときわ目を引く美しい女性と、六、七歳ほどの少年が席についていた。少年は真新しいゲーム機に夢中で、テーブルの上で着信を知らせる画面の光に気づいていない。隣の女性は、発信者名「ママ」の文字を一瞥すると、すっと目を細め、指を滑らせて通話に応じた。そしてすぐさまマナーモードに切り替え、画面を伏せてテーブルに置いた。彼女は少年に話しかける。「樹くん、おばさんが買ってあげたゲーム機、気に入った?」電話の向こうから聞こえてきた女の声に、小夜は一瞬呆然とし、次いで背筋が凍るような悪寒を覚えた。相沢若葉(あいざわ わかば)――夫・圭介の幼馴染で、初恋の相手
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第2話

車は高級住宅街に入り、庭付き三階建ての邸宅の前で停まった。車のキーを使用人に手渡すと、小夜は足早に家の中へ入った。暖房の温かさが頬を包み、身に染みた寒さを和らげてくれる。出迎えた使用人には目もくれず、彼女は二階の寝室へ直行し、荷造りを始めた。圭介が自分の知らないところで若葉と連絡を取り合い、息子まで巻き込んでいたことを思うと、小夜の胸は激しくかき乱され、吐き気すら覚えた。この家に、一瞬たりともこの家にいたくなかった。荷物は山ほどあったが、下着と冬服を数枚、そして普段身につけている高価な宝飾品だけを選び、大きなスーツケース一杯に詰め込んだ。ベッドサイドテーブルを片付けていると、引き出しの奥から一枚のカードが出てきた。圭介のメインカードに紐づく家族カードだった。きっと、家のために親族に押し付けられた結婚だとでも思っているのだろう。圭介は彼女に対して常に厳しく、決して警戒心を解かなかった。生活費を渡されたことなど一度もない。息子には息子専用のカードがある。だが小夜には、この家族カードしか与えられていなかった。以前、恋に盲目だった頃は、彼がわざわざ家族カードを作ってくれたことを愛情の証だと信じ込んでいた。後になって、それが監視のためだったと気づいた。このカードを使えば、支出の明細がすべて圭介に通知される仕組みになっていた。とはいえ、小夜がこのカードを使うことは滅多になく、使うとしても家に必要な物を購入する時ぐらいで、普段は自分の給料でやりくりしていた。小夜の仕事も、自分で見つけたものだ。以前、少しでも圭介に近づきたくて、長谷川グループの技術部に履歴書を送ったことがある。一流大学でコンピュータ科学の博士号を取得した華々しい経歴にもかかわらず、あっさりと門前払いされた。面接の機会すら与えられなかった。後で分かったのは、それが圭介の指示だったということだ。長谷川グループは、彼女を受け入れない。あの時、圭介は何と言ったか。「長谷川夫人でいたいなら、家で大人しく奥様業に専念していればいい。会社のことに口を出すな」今振り返れば、この七年間、心を切り裂かれるような出来事ばかりだった。二人の間に、夫婦らしい瞬間など少しでもあっただろうか。小夜はその家族カードには手を触れず、自分の宝飾品だけを手に取った。
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第3話

早朝、携帯のアラームで小夜は目を覚ましたが、頭の芯に鈍い痛みが居座っていた。昨夜、雪の中で凍えたせいだろうか。どうやら風邪をひいてしまったらしい。ずきずきと痛むこめかみを揉みながらスーツケースを開けると、中から赤いオブジェが一つ、ころりと転がり出た。それは床の上を数回転がり、やがて静止した。赤い帽子を被った、拳ほどの大きさのロボットだった。ずんぐりとした鉄の塊のような体は、帽子以外は鈍い鉄色で、その作りは無骨で粗雑だった。これは、圭介とのささやかな結婚の記念品のようなものだった。当時、小夜と圭介は籍を入れただけで、結婚式も披露宴も行わなかった。対外的には、長谷川グループの若き当主が結婚したと公表されたのみで、その相手が誰なのかは一切明かされなかった。業界で彼女の存在を知るのは、圭介に近しい友人や家族だけだった。入籍したその夜、小夜は圭介に、ほんの少しでも自分を好きになったことはあるかと尋ねた。圭介は憎しみを宿した瞳で、この美的センスのかけらもない粗末なロボットを彼女に投げつけ、一言も発さずに部屋を出て行った。後になって小夜が詳しく調べてみると、その無骨なロボットにはAIチャットアシスタントのプログラムが内蔵されていることに気づいた。携帯のプログラムと連携させれば、送ったメッセージにロボットが音声で応える仕組みになっていた。圭介がコンピュータやAIに情熱を注いでいることを知っていた当時の彼女は、それだけで胸がいっぱいになった。この小さなロボットも、内蔵されたプログラムも、彼が自ら作ったものに違いない。彼が、自分のために手作りしてくれたのだ、と。小夜は床にしゃがみ込み、ロボットを拾い上げると、携帯を取り出して対応するプログラムを起動した。そして、七年前のあの夜と同じメッセージを送った。「私を愛してる?」赤い帽子のロボットは、新婚の夜と変わらない、感情のない冷たい機械音を発した。「愛していない」小夜の口元に、自嘲の笑みが浮かぶ。見なさい、七年も前に答えは出ていたのに、それを認めるのにこれほどの歳月を費やしてしまった。自分を辱めるためだけに、わざわざこんなロボットを作り、プログラムまで組むとは。圭介も大した男だ。実に手の込んだ嫌がらせである。ロボットはスーツケースの上に無造作に放り投げられ、
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第4話

夜、バー「蛍」。薄暗い青の照明が落ちるボックス席で、二人の美しい女性が向かい合っていた。そのうち、ショートボブの女性が、怒りを露わにしていた。「圭介の野郎、何を考えてるの! あなたを完全に馬鹿にしてるじゃない!」瀬戸芽衣(せと めい)は怒りに肩を震わせ、スマホを小夜の顔に突きつけんばかりの勢いだ。画面には、昼間世間を騒がせたあのニュースが映し出されている。「若葉と圭介の過去なんて、知らない人はいないわよ!幼馴染で許嫁だったなんて、あの業界じゃ常識でしょう。妻帯者の身でありながら、自分の会社の社長に据えるなんて。それも新設の子会社のトップに、いきなりよ?あなたを完全に舐めきってる!公衆の面前で恥をかかせているのよ!」芽衣の怒りは収まらない。小夜は長いまつ毛を伏せ、力なく微笑んだ。「今に始まったことじゃないわ。気にしても仕方ない」圭介を愛し、彼と結婚した瞬間から、彼女は社交界の笑いものだった。陰でどれほど嘲笑されたことか。何の取り柄もない女が、高嶺の花を手に入れたと、嫉妬と軽蔑の眼差しを浴びせられ続けた。結婚後は冷遇され、会うたびに侮られ、からかわれた。そんなことをいちいち気に病んでいたら、心はとっくに壊れている。それでも今日のニュースは、確実に胸に棘を刺した。妻である自分は、圭介に歩み寄ろうとコンピュータ科学を学び直し、必死に技術を磨いて、希望を胸に長谷川グループの門を叩いた。返ってきたのは、門前払いと、圭介からの冷笑と辛辣な言葉。一方の若葉は、帰国するやいなや長谷川グループの新設IT子会社の社長という椅子が用意され、輝かしい未来への道が敷かれた。この差は、一体何なのか。愛されているか、いないか。その境界線は、これほどまでに残酷だった。「もういいの。今夜は離婚の相談に来たんだから。あの人たちの話はやめましょう」小夜は微笑んで芽衣をなだめた。芽衣は大学時代からの親友で、弁護士として七年のキャリアを持つ、国内でも名の知れた敏腕だ。離婚案件は専門外だが、離婚を決意した小夜が真っ先に頼ったのが彼女だった。気心の知れた相手だからこそ、惨めな結婚生活の現実を包み隠さず話せる。芽衣は小夜の表情に揺らぎがないのを見て、ようやく安堵のため息をつき、スマホをテーブルに置いた。「そうね」そして、吐き
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第5話

小夜は、こんなことで路上で騒ぎを起こす気はなかった。写真を撮り終えると、彼女は芽衣の腕を引いて道の反対側に停めてある自分の車へ向かい、足早にその場を離れようとした。しかし、バーの扉を出たその瞬間、進路を阻まれた。立ちはだかったのは、冷たい顔立ちの精悍な若い男だった。黒いスーツを隙なく着こなし、その長身が威圧感を放っている。小夜は、その男を知っていた。桐生彰(きりゅう あきら)。圭介の特別補佐。幼い頃から長谷川家の援助を受けて育ち、高校時代に圭介の側近として抜擢された。圭介への忠誠心は絶対的で、彼が最も信頼を置く懐刀である。この男は誰に対しても感情を見せず、圭介の命令だけを遂行する、非情な機械のような人間だ。小夜は、この男に良い印象を抱いたことがない。このタイミングで現れたこと、そして先ほどの圭介の表情を考えれば、良からぬことであるのは明らかだった。小夜は無意識に携帯を強く握りしめた。「奥様、携帯電話をお渡しください」彰は表情一つ変えず、小夜に手を差し出した。小夜は無言で首を横に振り、携帯を渡す気がないことを態度で示すと、体をずらして圭介の方に視線を送った。彼は若葉に寄り添い、親密そうに何かを囁いている。こちらに目を向けることすらせず、その横顔には、彼女が一度も見たことのない優しい光が宿っていた。小夜はそれ以上見るに堪えず視線を逸らすと、再び彰に向き直った。その顔は、氷のように冷え切っていた。「もし、渡さなかったら?」「奥様、どうか私を困らせないでいただきたい」彰はなおも無表情のまま、プログラムされたロボットのように感情のない声で言った。「そして、ご自身のお立場も、お忘れなきよう」それは、紛れもない脅しだった。「何ですって!」芽衣が小夜を庇うように前に立ちはだかる。「往来で強盗でも働くつもり?法治国家よ、ここは!」彰は芽衣を一瞥すると、まるで人事ファイルを読み上げるかのように、淡々と彼女の経歴を口にした。「瀬戸芽衣さん。弁護士実務経験、六年五ヶ月と十八日。主に民商事訴訟、知的財産権、企業法務を専門とし、現在は国内最大手の明峰法律事務所に所属」そこで一度言葉を切ると、彼は続けた。「奇遇ですね。長谷川グループは、明峰法律事務所の主要クライアントの一つです。瀬戸さん、明峰ほど
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第6話

車に戻ると、芽衣の怒りはまだ収まりそうになかった。小夜が俯いて携帯を操作しているのを見て、彼女が落ち込んでいるに違いないと思い込み、たまらずその体を抱きしめた。「小夜!大丈夫よ、私がいるから」不意に抱きしめられ、小夜は感動と可笑しさがこみ上げたが、次の瞬間、強く押さえつけられた肩甲骨に痛みが走り、思わず小さな呻き声が漏れた。「どうしたの?!」結婚して以来、小夜が泣くのを見たことがなかった芽衣は、ひどく狼狽えた。小夜は痛みに眉をひそめる。「ううん、肩が少し……」芽衣ははっとした。先ほど桐生彰が腕を伸ばして遮ったのが、ちょうど小夜の肩甲骨のあたりだったことを思い出す。車内は暖房が効いていた。芽衣は遠慮なく小夜の服の襟元をぐいと引き開けると、その下の肌を見て、途端に目が赤くなった。小夜の肩甲骨のあたりは、痛々しいほど青紫色に腫れ上がっていた。彰は武術の心得がある。元々の腕力に加え、抵抗する小夜を抑え込むために相当な力を込めたのだろう。そのせいで、くっきりと痣になってしまっていた。小夜の肌は雪のように白い。少しぶつけただけでも跡が目立つが、これほどの痣は痛々しいことこの上ない。「あのクソ野郎ども……!人のことなんだと思ってるのよ!」芽衣は怒りでどうにかなりそうだった。当の小夜がまだ何も言わないうちから、彼女の方が悔し涙をぽろぽろとこぼし始める。「大丈夫、大丈夫よ。薬を塗ってしばらくすれば治るから」小夜は芽衣をなだめたが、彼女がまだひどく悲しそうな顔をしているのを見て、携帯電話を取り出し、その画面を振って見せた。「ほら、これを見て」芽衣は涙の滲む目で訝しげに画面を覗き込み、すぐにその目を輝かせた。驚きと喜びが入り混じった声が漏れる。「写真、消されたんじゃなかったの?」携帯の画面には、先ほど桐生が見ている前で削除したはずの、長谷川圭介と相沢若葉の親密な写真がはっきりと表示されていた。小夜は襟元を直し、悪戯っぽく笑った。「私が何をやってきたか、忘れた?」圭介のためにコンピュータ科学を学び始めたとはいえ、彼に見下されながらも、彼女は真剣に学んできた。その実力は、もはや専門家レベルだ。写真の復元など、お手の物だった。芽衣は一瞬きょとんとし、すぐに合点がいった。「あ、そっか!あんた、マジで凄
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第7話

若葉の声が聞こえた途端、樹の目はぱっと輝いた。「若葉おばさん!若葉おばさん!」彼は大声で若葉の名を呼ぶと、拗ねたように言った。「パパは嘘つきだ!約束を守らないんだもん。もう知らない!若葉おばさん、パパが僕をいじめるんだ!」しまいには、若葉に告げ口まで始めた。電話の向こうの若葉は樹の声を聞くと、圭介から電話を代わり、優しく彼をなだめた。わざと怒ったふりをして圭介の悪口を並べ立て、週末に一緒に遊んでゲームをすることを約束すると、樹はようやく機嫌を直して笑い出した。やはり、若葉おばさんの言うことは効果てきめんだ。これまで、パパに叱られたり、嫌なことをされたりしても、ママに言いつけたところで全く意味がなかった。パパはママの言うことなど、これっぽっちも聞かないのだから。しばらくして、樹は名残惜しそうに電話を切った。電話を切った後、彼はふと圭介が先ほど言っていたことを思い出した。ママが出張から帰ってきた、と。じゃあ、今夜帰ってくるということか?だめだ、だめだ。ママが帰ってきたら、また自分を管理しようとして、ゲームの時間も制限するに決まってる。うるさくてかなわない!パパだってママと一緒にいるのが好きじゃないくせに、どうしていつも僕をママのそばにいさせようとするんだ。パパなんて嫌いだ!言うことなんて聞いてやるものか。おばあちゃんの家に行こう。そうすれば、ママが帰ってきても顔を合わせなくて済む。樹はすぐにベッドから這い出すと、おぼつかない手つきで服を着替え、ゲーム機を抱えて階下へ降り、千代の部屋のドアを叩いた。叩き起こされた千代は、この家の若君がまた何を騒いでいるのかと訝しみながらも、眠気をこらえて運転手を呼び、真夜中に彼を長谷川本家へと送り届けた。……小夜は、長谷川家で真夜中に繰り広げられたこの一幕を知る由もなかった。たとえ知っていたとしても、もう何も感じなかっただろう。長年の失望は積もり積もって、彼女の心はとうに麻痺していた。どのみち離婚は決めたし、養育権も放棄するつもりだ。翌日、小夜は習慣で早起きした。まずパソコンで最新のファッションウィークの動向をチェックし、出社する際に会社のビルの一階で朝食を済ませた。あの父子のために早起きして栄養の整った朝食を作る必要もなくなり、ここは仮住まい
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第8話

アトリエ徒花の、もう一つの部屋へ。小夜は足を踏み入れ、照明をつけた。そこには、京繍が施された濃紫の男性用スーツが置かれていた。ある大口顧客からのプライベートオーダーメイド品だ。この顧客は素性が知れず、オーダーメイドでありながら、小夜は今に至るまで本人と顔を合わせたことがない。相手はただ使いの者をよこし、採寸データと好みのスタイルを記したメモを渡してきただけだった。……その体型は、なかなか見事なものだったが。もし親友からの特別な口利きでなければ、小夜も最初はこの仕事を受けるのを躊躇しただろう。しかも、相手は破格の報酬を提示してきた。手付金だけで二千万円という金額が、その証だった。だからこそ、彼女はこの依頼をことのほか重視していた。小夜がこれまで手掛けた中で、最大の取引であり、キャリアにおける飛躍的な一歩となるはずだったからだ。この礼服は、あと数日で納品となる。今は最終的な仕上げと検品がわずかに残っているだけだ。小夜は、この週末二日間はここで仕上げ作業に専念するつもりだった。その夜、小夜はアトリエに泊まり込んだ。……翌日、小夜はアトリエで礼服の仕上げ作業と、これまでの作品をまとめたポートフォリオの作成に没頭した。知らず知らずのうちに、時間は過ぎていった。夜になって芽衣から食事の誘いの電話が入り、そこでようやく自分が空腹であることに気づいた。立ち上がった途端、ふらりと眩暈がした。携帯していた飴を口に含み、小夜は車を走らせて芽衣が予約した料亭へ向かった。車を停め、降りようとしたところで、その動きがぴたりと止まった。斜め前方の少し離れた場所に、見慣れた車が停まっていた。すぐに、若葉と圭介が車から降りてくるのが見えた。あまりの偶然に言葉を失う間もなく、息子の樹までが車から降りてきて、ぴょんぴょんと跳ねながら若葉の胸に飛び込んでいく。その様子は、ひどく親密だった。小夜は喉が詰まるのを感じ、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。電話越しに声を聞くのと、こうして目の当たりにするのとでは、衝撃の度合いがまるで違った。胸の奥からせり上がってくる吐き気をこらえ、彼女は震える手で車の窓をわずかに下げた。樹の、まだ幼い声が車内に流れ込んでくる。「若葉おばさん、どうして答えてくれないの?もう国に帰ってきたのに、どうして
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第9話

小夜と芽衣は食事を終え、しばらく語らってから店を出た。二人が席を立つ間際も、向かいの個室からはまだ微かに楽しげな声が漏れ聞こえてくる。とりわけ、樹の子供らしい無邪気な笑い声が、やけに耳についた。その声に、芽衣は心配そうに小夜の顔を盗み見る。彼女の表情に変わった様子がないことに安堵しつつも、胸の内の懸念は少しも晴れなかった。この親友が抱える問題は、もはや夫婦関係だけではない。先ほど店に入ってくる彼らを見た時の、自分の息子が相沢若葉にあれほど懐く光景。それは、尋常ではなかった。どうりで、小夜が離婚の話を持ち出した時、あっさりと養育権を放棄すると言ったわけだ。当時、芽衣は深くは尋ねなかったが、心当たりはあった。結婚してからの数年間、小夜はよく樹を連れて遊びに来ては、樹に自分のことを「第二のママ」と慕ってもらいたい、などと話していたのに。それが、ここ一年ほど、ぱったりと樹を連れてこなくなった。尋ねても、「勉強が忙しいから」と答えるだけ。今思えば、あの子はその頃からもう、母親である小夜に心を開かなくなっていたのだろう。しかし、小夜が自ら話したがらない以上、芽衣もそれ以上は聞けなかった。子供のことは、あまりにも彼女の心を抉るに違いないからだ。そもそも、小夜が圭介と結婚した時から、芽衣は賛成しかねていた。結婚前も後も、圭介は一度も小夜の交友関係に顔を出さず、彼女の世界に全く関心を示さなかった。自分なら、恋人ができたら、一番の親友に紹介して一緒に食事でもしたいと思う。だが、圭介は小夜の友人たちと一切関わろうとしなかった。結婚して七年、帝都で一番の親友である自分ですら、プライベートな場で圭介に会ったことは一度もないのだ。まあ、それくらいならまだ理解できた。結婚は、夫婦二人の問題なのだから。それに、相手はあの長谷川グループの現当主。学生時代から有名人で、グループを継いで七年で父親を追い落として実権を握った。冷酷非情で知られ、今またAI分野へ大胆に進出するなど、その手腕はまさに冷徹で、迅速果断そのものだった。そんな、腹の底が読めない、人を寄せ付けない高嶺の花を、親友が大学時代に射止めたと聞いた時は、心底驚いたものだ。当時は賛成できなかったが、圭介が自分たちのような小さなコミュニティを見下しているだけならまだいい、小夜
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第10話

小夜ちゃん?まあ、間違いではないのかもしれない。若葉と圭介は同い年で、自分は一つ年下。大学でも圭介は一学年上の先輩だった。だからといって、彼女とそんな親しげに呼び合うような間柄だったかしら?小夜は若葉が差し出した手を、ただ黙って見つめ返した。目の前にいるこの人たちに、話すことなど何もなかった。「まだ仕事中ですので、お構いなく」小夜は淡々と告げた。その声には、明らかな拒絶が滲んでいた。若葉は気まずい素振りも見せず、差し出した手を自然に動かすと、小夜の目の前で樹の頭を優しく撫でた。「私たちも、もう何年も会っていなかったわね。前に樹くんから、あなたの辛い料理は絶品だって聞いたわ。私も辛いものが大好きなの。いつかお宅にお邪魔したいと思ってたのよ」そこまで言うと、彼女は圭介の方を向いて甘く微笑んだ。「圭介もいいって言ってくれたし、ちょうど今日なら時間があるんじゃないかしら。あなたがお仕事終わったら、一緒に帰りましょう?」帰る?どこへ?この家の主は、まだ私よ!小夜が断りの言葉を口にする前に、樹が彼女の腕を掴んで揺さぶった。「そうだよ、そうだよ!ママの辛い料理、すっごく美味しいんだ。僕も食べたいな。若葉おばさんがせっかく遊びに来てくれるんだから、今夜は絶対それがいい!」小夜は息が詰まり、顔に浮かべた笑みが引き攣りそうになる。樹には失望していた。しかし、母として、子供の願いを無下にはできない。だが、自分の心を殺してまで応える義理はなかった。小夜は深呼吸すると、礼儀正しく、申し訳なさそうな笑みを浮かべ、テーブルの向かい側で息を殺している風間に言った。「風間さん、大変申し訳ありません。こちらで少々込み入った話がありまして。本日は一度お戻りいただけますか。後ほど、改めてお電話いたします」こんな醜態を、これ以上見せるわけにはいかない。まずは人払いしなければ。風間は、天の助けとばかりに安堵した。ここの雰囲気はあまりにも息が詰まる。自分がとんでもない修羅場に巻き込まれていることだけは、ひしひしと感じていた。小夜の言葉を聞くや、履歴書もそのままに、鞄を掴んで逃げるように去っていった。カフェには他に客もほとんどおらず、席も隅の方だった。風間が去ると、圭介と若葉はごく自然に席に着いた。樹は小夜の隣に座り、なお
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