All Chapters of 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった: Chapter 31 - Chapter 40

「ママ、いつ帰ってくるの？」夜の闇の中、車はゆっくりと進む。樹の、まだあどけない声が携帯から聞こえてきた。小夜は淡々と答えた。「ママは用事があるから、帰らないわ」「そっか」樹は少しがっかりした様子だったが、すぐにまた尋ねた。「じゃあ、ママ、ここ数日は帰ってくる？」小夜は二秒ほど黙り、唇をきゅっと結ぶと、心を鬼にして言った。「ママ、最近ずっと忙しいから時間がないの。しばらくはパパと一緒にいてちょうだい」「うん、分かった」樹はしょんぼりと言った。「じゃあママ、帰ってきたら絶対電話してね。僕、ママに会いたくなるから」「……うん」樹が電話を切った後、小夜は画面が暗くなった携帯を見つめた。濃いまつ毛が微かに震え、ハンドルを握る手にはずっと力が入っていた。樹がこんなふうに電話をかけてきて、会いたいと言ってくれたのは、本当に久しぶりだった。この一年以上で、初めてのことだ。……長谷川邸。樹は電話を切るや否や、顔に浮かんでいた僅かな落胆の色を綺麗さっぱり消し去り、上機嫌で若葉に電話をかけた。「若葉おばさん、言われた通りにママに電話して聞いてみたよ」相沢家の屋敷。若葉は電話に出ると、両親と話していた圭介に目配せをし、そっと脇へ逸れて電話に出た。「樹くん、いい子ね。ママ、何て言ってた？」「ママ、今夜は帰らないって。ここ数日も、ずっと帰らないって言ってた！」若葉は唇の端を吊り上げて、声もなく笑った。高宮小夜も、なかなか物分かりがいいじゃない。永遠に帰ってこなければいいのに。圭介から、ずっと遠くにいればいい。あの二人が離婚すれば、相沢家が長谷川家と結ばれる。そうすれば、すべてが自分のものになる。「若葉おばさん？」若葉が物思いに耽って黙り込んでいると、携帯から樹の不思議そうな声が聞こえてきた。「ごめんなさい、樹くん。おばさん、ちょっと立て込んでて」若葉は適当にごまかした。樹は嬉しそうに言った。「ううん、大丈夫だよ、若葉おばさん。それとね、おばさんの言う通り、ママに言っておいたんだ。今度帰ってくる時は、先に電話してくれるって。そしたら若葉おばさんに教えるから、その時はちゃんと話して仲直りしてね。僕、若葉おばさんのこと大好きだから、ママとずっと気まずいのは嫌なんだ」「あり

興光コンサルティング、技術部。「チームリーダー、本当に辞めちゃうんですか？リーダーみたいな良い上司、なかなか出会えませんよ」「そうですよ、リーダー。あまりに突然すぎます！」「辞めないわけにはいかないんですか……」小夜が会議を終えるや否や、部署の中でも特に親しかった部下たちが彼女を取り囲み、口々に退職のことを尋ねてきた。彼女は仕事中は厳格で真面目だが、気性はさっぱりしており、怒るとしても仕事に関することだけ。公私の別ははっきりしていた。プロジェクトの進行中や完了後には、個人的に部下にボーナスを出したり、食事に連れて行ったり、会社に賞与や旅行などの福利厚生を申請したりもした。仕事が順調に進んでいる限り、休暇の調整にも寛容で、職場の雰囲気は比較的自由だった。それに加え、彼女自身の技術力が高いため、部下たちも皆、心から彼女を慕っていた。そんな彼女が辞めるとなれば、彼らが名残惜しむのも当然だった。「安心して。後任は、私がちゃんと見極めた良い人だから」役職を離れ、会議も終わった今、小夜はいつも保っていた厳しい表情を緩め、その顔には笑みが増えていた。元々美しい彼女が笑うと、その輝きは眩いばかりだった。技術部には男性社員が多く、彼らは大げさに嘆いてみせた。「以前はリーダーの美しいお顔を拝めるのが、コーディングやバグ修正のモチベーションだったのに……リーダーが辞めちゃったら、もう仕事に身が入りませんよ」数少ない女性社員も、それに便乗して囃し立てる。小夜はわざと真顔を作った。「何よ、あなたたち、顔を見て仕事してたってわけ？」一同は慌てて言った。「いえいえ、とんでもないです」長年の上司としての威厳は健在で、彼女が真顔で厳しくなると、誰もふざけることはできなかった。輪になって集まる、長年共に働いてきた同僚たちを見て、小夜の胸には感慨と、わずかな名残惜しさが込み上げた。コンピュータ業界を心から愛しているわけではないが、ここで過ごした年月と経験は本物で、確かに心血を注いできたのだ。小夜は笑って言った。「分かった、分かったわ。今夜、最後にみんなで食事に行きましょう。ここは私に奢らせて」「だめですよ！いつもリーダーが先に支払いを済ませちゃうじゃないですか。こんな時くらい、私たちにやらせてください

エンラフ・クラブの二階にある、豪華で広々とした個室。そこには、スーツや華やかなドレスに身を包んだ十数人の若い男女が集まっていた。人々の中心には、圭介と若葉が寄り添うように座っている。この部屋にいる若きエリートたちは、皆、圭介の幼馴染であり、若葉の幼馴染でもあった。幼い頃から共に遊び育った、気心の知れた仲間たちだ。自然と会話も弾み、話題は多岐にわたる。「圭介、お前が最近立ち上げたっていうテクノロジー子会社、ヴァルテックだっけか。どうなんだ、技術チームはもう決まったのか？」圭介の隣に座る、精悍な顔つきの男――柏木翔（かしわぎ しょう）が、手の中のグラスを回しながら尋ねた。その一言に、皆の好奇の視線が圭介へと集まる。長谷川グループは重工業のコングロマリットだ。帝都で他の追随を許さないばかりか、世界の重工業分野においてもトップクラスに君臨し、その影響力は世界中に及ぶ。そんな巨大で歴史あるトップ企業が、これまで全く手を出してこなかったAIテクノロジー分野への進出を突然発表したのだ。市場やメディアが密かにその動向を窺っているだけでなく、長谷川家の内情を多少なりとも知る友人たちにとっては、なおさら興味深い話だった。かつて圭介がコンピュータの天才だったことを、彼らは知っている。しかし、長谷川家の年長者たちは、彼がコンピュータに夢中になって家業の継承を疎かにすることを快く思わず、大学時代、彼にコンピュータを諦めさせ、金融経済学を専攻するよう強要した。当時の圭介も、相当な意地と気概を見せた。彼は何も諦めず、一気にコンピュータの博士号まで取得し、同時に金融経済学も修め、二つの博士号を持って卒業した。それなりの研究成果も上げていた。しかし、それでも家の年長者たちが首を縦に振ることはなかった。七年前、まだ力の弱かった彼は、無理やり結婚させられ、家業を継がされた。七年後、彼は苛烈な手段で、周囲の雑音をものともせず、取締役会の過半数の議決権を掌握し、父親を失脚させ、かつて諦めざるを得なかったコンピュータの分野に、再び足を踏み入れたのだ。ここにいる幼馴染たちは、皆その経緯を知っている。長谷川圭介は、彼らのコミュニティの中でも群を抜いて非情な男だった。その手段は苛烈で、行動は冷徹かつ残酷。それは他人に対してだけでなく、自分自身に対し

若葉の声に、個室内の誰かが声もなく笑った。誰も、小夜を長谷川夫人として扱ってはいない。この手の人間はいつもこうだ。小夜も、彼らをまともに相手にする気などなく、その存在を無視して、ただ圭介を真っ直ぐに見据えた。口を開かず、ただ見つめている。圭介が、わざと自分をここに呼びつけたのだと分かっていた。個室でのこの一幕は、全て自分を辱め、不快にさせるための芝居なのだと。しかし、もう彼女は意に介さなかった。騒ぎは起こしたくない。あまりに品がなく、見苦しいからだ。「長谷川さん、私が何故ここに来たか、お分かりでしょう。もし話す気がないのなら、私たち……もう、これで終わりにしましょう」刺し違える覚悟だった。自分が損をすることは我慢できる。耐えることもできる。しかし、自分のせいで親友が損をし、辱められ、脅されることだけは、我慢ならなかった。彼女、高宮小夜が今日あるのは、その血肉を喰らわんばかりに憎む家族のおかげではない。全て、支え続けてくれた友人たちのおかげなのだ。もし圭介が友人を盾に脅してくるのなら、刺し違えてでも戦うつもりだった。長谷川家の絶大な権力には敵わない。だが、追い詰められれば、圭介に一矢報いることくらいはできる。全てを投げ打つ覚悟さえあれば！小夜は立ったまま動かなかったが、その靴のつま先だけが、僅かに外側を向いた。……圭介の妖艶な切れ長の目が陰り、その冷徹な顔が沈んだ。個室内は、静まり返っている。彼は入り口に立つ、純白のダウンジャケットに身を包んだ小夜を見つめた。自分を冷ややかに見つめるその瞳には、獰猛なまでの決意が宿っている。それを見て、圭介は不意に笑みを漏らした。数日会わないうちに、随分と気性が荒くなったものだ。彼を、脅すとはな。若葉はしびれを切らし、入り口に立つ桐生を再び急かした。「桐生、あなた、まだ突っ立って何をしているの。早く、あの人を追い出してちょうだい！」彰は、微動だにしなかった。彼は、圭介ただ一人の命令しか聞かない。たとえ長谷川家の正妻であろうと、彼に指図する権利も資格もない。ましてや、まだ長谷川家の人間ですらない、この相沢若葉に、そんな資格があろうはずもなかった。若葉は、自分の言葉が無視されたことに屈辱を感じ、圭介の手を掴むと、怒りと悔しさを滲ませ

重い喘ぎ声が、豪奢な個室に響き渡る。小夜はぐったりと力が抜け、クリスタルテーブルに倒れ込んでいる。雪のような純白なセーターは乱れ、背中の痛みから、その美しい切れ長の瞳は潤んでいた。彼女はかろうじて意識を保ち、自分に覆いかぶさる、情欲に乱れた男を見つめていた。圭介の、仕立ての良い高価な黒いスーツも同じように乱れている。彫りの深いその顔には抑えきれない情欲が浮かび、彼女の顔のすぐそばで、熱く湿った呼吸が、その白くきめ細やかな頬を焼く。男の、獰猛で妖艶な切れ長の瞳もまた潤み、魂を奪うほどの光を放っていた。もし以前の彼女なら、きっとその色香に惑わされ、溺れていたことだろう。認めざるを得ない。長谷川圭介は、たやすく人の心をかき乱し、夢中にさせるほどの、美しい顔立ちをしている。しかし、今の彼女にとって、その顔にもう何の魅力も感じなかった。おそらく、背中が痛みすぎたせいだろう。その痛みが、彼女を現実に引き戻した。「奥さん」圭介はそっと体を沈め、すっと通った鼻筋を彼女の頬に押し当てる。喘ぎ混じりの低い囁き声と、耳をくすぐる温かい呼吸。「最近、少し甘やかしすぎたか？今夜、俺を脅しに来るとはな。随分と、威勢がいいじゃないか」「……っ、痛い」小夜は耳を強く噛まれ、その敏感な痛みに、息をのんで呻き声を上げた。「奥さん、さあ、続けろ。どうすれば俺が喜ぶか、分かっているだろう」圭介は動きを止め、腕の中で乱れ、ぐったりとしている彼女を見下ろす。その妖艶な瞳を気だるげに細め、嘲るように言った。「俺に会いに来たのは、これが目的だったんだろう？」小夜は唇を固く噛み締め、動かなかった。圭介が何を言いたいのか、彼女には分かっていた。今日、友人を助けてもらうために彼に会いに来たのだ。物乞いには、物乞いの態度というものがある。これは、取引なのだ。頭では分かっていても、屈辱でしかなかった。そして、これほどまでに痛感したことはなかった。圭介の心の中に、自分は存在しない。七年間の夫婦生活に、情などひとかけらもなかったのだと。この七年間は、圭介にとって何だったのだろう。問うまでもなく、小夜には答えが分かっていた。無理やりさせられた結婚。それは、かつて力が弱かった頃の、彼、長谷川圭介の弱さの証明であり、恥辱なのだろう。彼女は