All Chapters of 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋: Chapter 41 - Chapter 50

62 Chapters

反射しない瞳

静寂が部屋を支配していた。高田は、ただ座ったまま動けなくなっていた。自分の身体が、どこか遠い場所に置き去りにされたような感覚だった。唇に残るわずかな湿り気が、時間の経過を拒んでいるように思えた。世界は静止し、けれど内側だけが絶え間なく動いている。さっきまで普通だった呼吸が、今はどうしても深く吸い込めなくなっていた。目の前には大和がいる。その存在だけが、この世界で唯一の現実だった。大和の顔がほんの少しだけ近づいて見える。照明のせいか、あるいは自分の視線がどこにも焦点を合わせられないせいか、大和の瞳にはいつもの反射がなかった。その代わり、そこには強い渇望が宿っていた。光が映らない暗い瞳なのに、なぜか惹きつけられて離せなかった。キスの余韻が、唇から頬、そして首筋へと伝播していく。皮膚が過敏に反応する。呼吸をするたび、身体の奥のどこかが熱を帯びていくのを感じた。こんな感覚は知らなかった。誰かに触れられることが、こんなにも自分を揺らすものだとは思いもしなかった。ずっと、感情は処理するものだと信じてきた。けれど今は、処理などできない波が心の底から湧き上がってくるのを、ただ感じるしかなかった。……肌が、感情に直接、触れてくる……自分の中で言葉が形を成さず、断片だけが意識の奥を浮遊していく。手帳も、ペンも、いまは思い出せなかった。触れられたままの頬から、じんわりと熱が流れ込む。心臓の鼓動が、胸の奥で暴れる。どうにか息を吸おうとするが、肺の奥にまで、その熱が染み込んでいく。大和は、ゆっくりと自分の額を高田の額へと重ねた。ごく自然な動作で、まるでそれが日常の挨拶のように、違和感なく二人の距離がゼロになった。互いの呼吸が、ほんの少しだけ交差する。吐息が混じり合い、そこだけ空気が柔らかくなったようだった。「これで、十分やろ」大和の声が、ごく低く、ほとんど囁きのように響いた。その声には、いつもの余裕や冗談っぽさはなかった。真剣で、どこか不器用な響き。触れている額から、熱が伝わってくる。言葉よりも、その体温の方が強く、高田の心に刻み込まれていく。けれど高田は、思わず小さく首を振った。ほんのわずかに。拒絶ではなく、否定でもなく、もっと他の何かを求めている自分がそこ
last updateLast Updated : 2025-07-14
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指で書かれる“存在”

寝室の空気は、居間よりもさらに静かだった。壁際の間接照明が、ごく薄く布団の上に柔らかな影を落としている。窓の外からかすかに雨の音が届く。規則的なリズムは、どこか遠い世界の出来事のようだった。高田は、布団の端に座っていた。大和の気配が、すぐ隣にあった。身体がふわふわと浮いているような感覚。現実味が薄れていく。なのに、指先の感覚だけが妙に鮮明だった。何を言えばいいのかわからない。呼吸は浅く、胸が波打っている。視線をさまよわせているうちに、自分の手がシャツの裾に触れていることに気づいた。ためらいがちに、でも確かな意志で、指先が布地をつまむ。大和がすぐ横で動きを止める。気配が張り詰めたようになった。高田は、その一瞬の空気を確かに感じた。奏多が自分を止めようとしたのだと、察する。だが、今は止まれなかった。止まったら、何もかもがまた元に戻ってしまう。もとに戻る世界には、もう帰りたくなかった。言葉が、唇の内側で震えた。絞り出すように、小さく、けれど明確に言う。「……君の体温で、もう一度、定義しなおしたい」その言葉を吐いた瞬間、胸の奥に熱が灯った。迷いは消えてはいなかった。けれど、それを上回るほどの渇望があった。触れたい、触れてほしい、いまここに確かな「自分」という存在を感じていたかった。大和はしばらく何も言わず、ただ高田を見つめていた。視線がぶつかる。そこには疑念も困惑もなかった。ただ、優しさと、ほんのわずかな苦しさのようなものが混じっていた。大和の手が、ゆっくりと高田の背に伸びた。指先が、ごく軽くシャツの裾に触れる。そのまま、布地の上から背中を撫でる。布越しの感触が、じんわりと肌に伝わる。まるで輪郭を確かめるように、指が静かに動いていく。高田は肩を震わせ、自然と目を閉じた。自分がいま何を感じているのか、まだ正確には分からなかった。ただ、心臓がひどく早く脈打ち、呼吸が浅くなっていく。そっと、シャツの裾が持ち上げられる。背中に直に指が触れる。高田の肌は白くて冷たい。そこへ、奏多の手のひらがやさしく滑る。指先が、肩甲骨のあたりからゆっくりと下りてくる。かつて傷つけられた場所に、そっと触れる。痛みの記憶が、微かに身体をよぎる。だが、その痛みを溶かすように
last updateLast Updated : 2025-07-15
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コードも、関数も、ない夜

布団のなかは、どこまでも静かだった。外の雨音も、空調の微かな低い唸りも、遠い世界の出来事のように感じられる。重なり合う布地と肌のあいだに、静かな熱がじわじわと広がっていく。高田は、ほとんど夢の中のような感覚で大和の胸元に顔を埋めていた。ふたりの身体は、無理なく寄り添っている。緊張や戸惑いよりも、ただ不思議な落ち着きがそこにあった。唇が触れ合うたび、心臓が何度も跳ねた。けれど怖くはなかった。むしろ、少しずつ身体の内側がやわらかく解かれていく感覚があった。大和の指先は乱暴に動くことなく、高田の髪や額を優しくなぞっていく。二人の呼吸が重なり合うたび、空気が少しだけ揺れる。熱がゆっくりと増していく。高田は、そのたび自分の身体が何か新しい形に作り変えられていくような気がした。大和のシャツが高田の手の中で滑り落ちていく。自分から脱がせているつもりはなかったが、いつのまにか指先が布を辿っていた。大和の肩越しにシーツが波打ち、静かな音だけが部屋に溶けていく。高田は、自分のシャツも知らぬ間に脱げていたことに気づく。大和の指が、そっと肩を撫でている。脱がされているのではない。自然と、余計なものがはがれていく。守ろうとしていた殻も、気づけばひとつずつ外されていた。唇が、もう一度触れ合う。今度は先ほどより深く、熱い。大和の腕が高田の背を抱き寄せる。肌が直接重なり、鼓動と呼吸が混ざり合う。触れ合うたび、言葉にならない感情が身体を駆け抜ける。高田はその感覚に、ただ溺れるしかなかった。身体の奥から、何かがゆっくりと湧き上がってくる。ふたりの体温が、布団のなかに満ちていく。時折、大和の唇が首筋をなぞる。高田は、唇が触れるたびに小さく震える。けれどその震えは、不安や恐れではなかった。むしろ心地よい緊張と、満たされることへの渇望が入り混じっていた。大和の手が、ゆっくりと腰にまわる。高田は、その手の動きに身を委ねる。自分から何かを求めることは、まだ難しかった。けれど、受け入れることはできた。大和の手が背中をなぞり、腰を撫で、脚へと流れていく。ひとつずつ、丁寧に触れていくたび、高田の中の壁が静かに崩れていく。呼吸が浅くなる。大和が、そっと高田の耳元に顔を寄せた。息がかかる。その熱が、鼓膜を震わせ、全身に伝
last updateLast Updated : 2025-07-16
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ログのない夜

窓の外が淡いグレーに染まり始めていた。夜はもう終わろうとしている。高田は、ぼんやりと天井を見上げながら、微かな寒さを肩で感じていた。大和の腕の中で横になっている自分の背中には、まだ確かな体温が残っていた。大和は寝息を立てている。ゆったりとした呼吸が、時折、高田の首筋にあたたかく触れた。シーツの上で、二人の足が絡まっている。肌のぬくもりが、夜のあいだ中、消えずにそこにあった。高田は、そっと大和の腕の重さを感じてみた。重いはずなのに、嫌ではなかった。むしろ、この重さが自分を現実につなぎとめているように感じられた。腕のなかにいるというだけで、安心できた。これまでの人生で、こんな感覚を知ったことはなかった。眠れなかった。身体はほどよい疲労を覚えているはずなのに、神経だけが冴えていた。目を閉じると、さっきまでの感覚が鮮やかに蘇る。唇に残る熱、背中をなぞる指、絡まる脚、額を預けたあの一瞬。コードも数式も、何も思い浮かばない。頭が空っぽになるというのは、こんな感じなのかと初めて知った。枕元に手帳が置いてあるのに気づく。眠れぬまま手を伸ばし、そっと表紙を撫でた。新しいログを書くつもりで、ペンを取る。表紙をめくると、真っ白なページが目に入った。いつもなら、ここに感情値や行動ログを書き込む。どんなに眠くても、どんなに忙しくても、記録することだけは日課だった。だが、今夜は違った。ページを開いたまま、ペンを持つ手が止まる。思い浮かぶ言葉がない。何を記録すればいいのか分からない。今夜感じたことは、式にも、単語にもできなかった。身体の奥に残るあたたかさや、胸を満たす静かな幸福感は、記号では残せないものだった。手帳の上で、ペン先がかすかに震えた。何かを書こうとするたび、言葉がすべて霧散していく。自分の思考が、どれほど日々“記述すること”に支配されてきたのか、あらためて知る。今夜だけは、その記述がすべて役に立たなかった。感情を解析しようとしても、どこにも正しい形が見つからない。窓辺のカーテンの隙間から、朝の気配が差し込む。青白い光が部屋を満たし始める。高田はゆっくりと深呼吸をした。寝癖のついた髪が、頬に落ちている。素肌にはまだ、昨夜の名残が残っていた。シーツの感触も、指先のあたたかさも、全部“体験
last updateLast Updated : 2025-07-17
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朝の沈黙と、“正しい返答”の迷い

朝の空気は、まだ冷たさを残していた。カーテンの隙間から差し込む光が、ぼんやりと薄い影を作っている。壁際の時計の針が七時を指しているのを、高田は無意識に確認した。大和の寝息はまだ静かに続いていて、そのリズムが心地よく部屋に満ちている。布団の中には、昨夜の余韻が微かに残っていた。熱というにはあまりに穏やかで、それでいて確かな感触。高田は身を起こした。シーツがするりと肩を離れて、素肌が空気に触れる。少し寒い、と感じたが、それ以上にこのまま隣にい続けることの方が息苦しかった。大和の顔をちらりと見てから、そっと布団を抜け出した。足元の床が冷たく、体がわずかにすくむ。キッチンへ向かう途中、棚の上に置かれた手帳が視界に入ったが、今はそれを開く気にはなれなかった。ココアの缶を取り出し、マグカップに粉を入れる。お湯を注ぎながら、白い湯気が立ちのぼるのをじっと見つめる。その中に、自分の感情の輪郭が混ざっているように思えた。「……何をすれば、正しいんだろう」小さく漏れた独り言に、誰も答えない。カップを手に取ると、両手で包み込むように持った。その熱だけが、いま自分がここにいることを知らせてくれる。寝室から足音が聞こえたのは、それから少し経った頃だった。大和が寝癖のついた髪を片手で押さえながら、ゆっくりとリビングに現れる。「おはよう」その声は、掠れ気味で柔らかかった。寝起きの人間にしか出せない音色。けれどそこに、どこまでも自然なぬくもりがあった。高田は一瞬、返事の言葉を探した。だが、うまく口が動かない。ただ、手にしていたカップを差し出した。何も言わず、大和がそれを受け取る。「ありがとう」その一言が、静かに場を満たした。ソファの端に腰を下ろした大和が、ひと口ココアを飲んでから、ふっと息を漏らす。「うまいな。甘すぎへん」その何気ない言葉に、高田の指先がわずかに揺れた。笑うべきか、返事をするべきか、それすら判断がつかなかった。けれど、その迷いを隠す術ももう持っていなかった。「……昨日の、あとって」言いながら、声がかすれた。咽喉が乾いていたわけではない。息が引っかかっている
last updateLast Updated : 2025-07-18
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バグを感じる瞬間

洗濯機の終了音が、部屋の隅で小さく鳴っていた。静かで温度の安定した午後。窓の外では風が葉を揺らしているのが見えるが、部屋の中は淡々とした時間が流れていた。大和はリビングのローテーブルの前に座り込み、洗いあがった洗濯物を一枚ずつ丁寧に畳んでいた。Tシャツやタオル、靴下。彼の手つきは、慣れたものだった。高田は、そのすぐそばの椅子に腰掛けていた。特に何をしているわけでもなかった。ただ、近くにいて、大和の手の動きをなんとなく目で追っていた。けれど、それもどこか落ち着かない感覚が伴っていた。目の前で繰り返される「日常の動き」が、自分の中でうまく噛み合っていない。何かの軸が少しずれている気がした。「なあ、これ俺の?君のやっけ?」大和がふいにそう言いながら、黒いTシャツを掲げた。柔らかく笑った顔。問いかけに悪意などなく、ただの日常の一コマ。軽い確認のつもりだったのだろう。けれど、その一言に、高田の思考は急に止まった。即答できなかった。思わず、視線がTシャツから床へと落ちた。言葉が喉元まで出かけては戻る。その間、わずかに沈黙があった。ほんの二秒。それはきっと、大和にとってはさほど気になる長さではなかったかもしれない。けれど、高田の中では、その二秒が永遠のように思えた。自分でも、その“間”を認識してしまった。理解するまでの時間、そして「この程度のことで詰まった」という事実に、自分自身がぎこちなくなっていくのを感じた。あまりに些細なことだ。それなのに、反応が遅れた。その瞬間、自分の中にある“恋人”という定義の不完全さが、音もなく浮かび上がった。「たぶん……君の、だと思う」なんとか絞り出した声は、小さく、乾いていた。語尾が曖昧に濁る。大和は、「そっか」とだけ返し、気にする様子もなく別のシャツに手を伸ばした。けれど、高田の指先は、その瞬間すでに自分の足元に落ちていた小さなタオルを、無意識にきつく握っていた。恋人同士なら、こんなとき、自然に笑い合うのかもしれない。冗談を言ったり、ふたりで「どっちやっけな」と笑いながら洗濯物を分けるのだろう。だが、自分にはその自然がインストールされていない。高田のまつ毛が、わずかに揺れた。感情ではなく、思考の揺ら
last updateLast Updated : 2025-07-19
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氷室からのメール

通知音が鳴ったのは、洗濯物をすべて畳み終えた直後だった。テーブルの隅に置かれたスマートフォンが、画面をぼんやりと光らせる。高田はそれを見た。通知欄に表示された名前に、思考が一瞬、空白になる。氷室。何度も見返したはずのその文字列が、今になって妙に濃く感じられる。タップする手の動きが、ゆっくりになった。画面を開くと、そこには短い文章が並んでいた。《突然すまない。話がしたい。会ってくれないか》たったそれだけの言葉だった。にもかかわらず、その一行が胸の奥で重くのしかかる。文字に感情はない。けれど、自分の中で湧き上がる何かが、どうしようもなく複雑で、濁っていて、ひどく温度を帯びていた。高田はそのまま、スマホを握ったまま動けなかった。まるで体の奥にある何かが、一時停止を命じたかのようだった。テーブルの木目が視界の端で歪む。すぐそばにいるはずの大和の存在も、一瞬だけ遠のいたように感じる。けれど、その気配はすぐに戻ってきた。大和が、ソファからそっと身体を乗り出してこちらを見たのが分かった。何も言わず、ただじっと見ている。そこに詮索の色はない。ただ、気配だけがそっと寄り添っていた。高田は静かに顔を上げた。そして、迷いながらもスマホの画面をそっと大和の方へ差し出す。言葉を選ぶ時間は、思ったよりも長かった。「……返事を、しない方がいい、かな」問いかけた声は小さかった。はっきりと言ったつもりなのに、自分の耳にすら届ききらないような微かな響きだった。大和は、画面をちらと見ただけで、あとは高田の顔を見ていた。その目は、揺れていなかった。「行ってこい」それはあまりにもあっさりとした言葉だった。高田は、一瞬だけ目を瞬かせた。もっと、躊躇いや疑念や、何かしらの不安のような反応を想像していた。だが、そこにあったのはただ、静かな了承だった。大和はカップを手に取り、一口飲んでから、それをそっとテーブルに戻した。その仕草すらも、いつもと変わらない。変わらないことが、逆に重く感じられる。「でも、一個だけ言うとく」その声は低く、落ち着いていて、少しだけ喉の奥で震えた。怒っているわけでは
last updateLast Updated : 2025-07-20
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夜の手帳と、自分の選択

部屋の照明はすでに落とされていた。カーテンの隙間から入り込む街灯の光が、天井に淡い影を投げかけている。時計の秒針が静かに進む音だけが、耳に残った。高田は布団の中に身を横たえながら、枕元に置いていた手帳を取り上げた。薄く冷えたカバーの感触が指先に伝わる。それだけで、少しだけ気持ちが引き締まる気がした。明日は、氷室に会う。そう思っただけで、呼吸の奥がわずかに詰まった。喉の奥で、言葉にならない感情がゆっくりと膨らんでいく。過去の記憶が、薄いフィルムのように眼前に滲む。それでも、もう逃げないと決めたのは、自分だった。誰かに決められたのではなく、自分で選んだことだった。手帳を開き、いつものページをめくる。無地のスペースに、細いペン先が触れた。まず、いつものように感情ログを書こうとした。怖さ、不安、安堵。どの感情にも数値を割り当てる癖は、もう何年も染みついている。けれど、今日はなぜか、数字がすぐに浮かばなかった。いや、正確には、書こうとした瞬間に、手が止まったのだった。今のこの状態を、本当に「怖さ七十」だと定義してしまっていいのか。それとも「不安九十」なのか。それらは、本当に自分の感情の正しい総量なのか。答えが、出なかった。高田は、ゆっくりと視線を落とした。そして、もう一度だけ深呼吸をして、手帳の上に慎重にペンを走らせる。// 6月28日 感情ログ 感情:怖さ=20、不安=70、安心感=100(大和あり) 定義:僕が選ぶ。僕の意志で。僕が僕を守るために。書き終えた文字を見つめたまま、しばらく動かなかった。視線が定まらないまま、ページの上をなぞるように目が滑っていく。数字はあくまで便宜上のもので、感情の実体ではない。それでも、自分の中にある秩序を保つためには、こうして数式のように言葉を並べることが、必要だった。しかし今日のそれは、かつてのどのログよりも、心の中にしっくりと落ちていた。「僕が、選ぶ」それは、誰のためでもなかった。大和のためでも、氷室への対抗でもなく、自分自身の意思だった。過去に傷つけられたことを理由に、これからの選択まですべて委ねてしまってはいけない。
last updateLast Updated : 2025-07-21
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灰色の街と、手の震え

アスファルトの歩道に、薄く濡れた光が反射していた。曇り空からは太陽の輪郭さえ見えなかったが、梅雨の湿気が空気に厚みをもたらし、服の内側にじわじわと熱がこもる。街は静かだった。土曜日の昼過ぎ、人の流れは緩やかで、信号の点滅音や自転車のチェーンの軋む音が、ひとつひとつくっきりと耳に届いた。高田は、まっすぐ前を見据えて歩いていた。普段よりわずかに歩幅が狭く、呼吸のリズムを意識的に整えながら進む。片手にはスマートフォン、もう片方の手はシャツの裾をそっと摘んでいた。細く握った指先に、じんわりと汗が滲んでいる。脳内で、思考のアルゴリズムが静かに動いている。歩行速度、標準より-6パーセント 心拍数、平均値より+10程度 手掌発汗、軽度反応あり 外部刺激:記憶誘発レベル=中程度そう記録をつけるように、無意識に自分の状態をスキャンしている。癖だった。感情というものがノイズとして扱われていた頃からの、防衛手段。その分析に意味があるわけではない。それでも、こうして言語化し、数値に置き換えることで、自分の足元を確かめようとしていた。けれど、今日はそれがどこか宙に浮いていた。記録しても、意味を見失う。そんな違和感があった。視線を落とすと、薄いグレーのスニーカーが、地面と等間隔で接地していくのが見えた。重力とバランスを正確に保ちながら、ただ一歩ずつ。カフェまで、あと三ブロック。右手の角を曲がると、あの店の看板が見えてくる。そのことを思い出した瞬間、心臓がひとつ、大きく打った。氷室からのメールを開いたのは、昨夜だった。短い文面だった。謝罪と再会の申し出。たった三行の言葉が、こんなにも自分の中に重く残るとは思わなかった。読み終えたあと、しばらくスマホを握ったまま固まっていた。指先がじっとりと湿っていた。「これは逃げではない、確認だ」口に出さず、心の内で呟いた。誰かに聞かせるためではなく、自分自身への応答として。これは過去から逃げるための再会ではなく、あのとき感じたものが、今の自分の中でどう変質しているかを確かめにいくもの。そうでなければ、わざわざ会いには行かない。信号が赤になり、足を止める
last updateLast Updated : 2025-07-22
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再会:声だけが記憶に似ていた

氷室は、窓際の席に座っていた。背の高い観葉植物の影が、その肩口にかかっている。カップを片手に、細い指が持ち手をなぞるようにしていた。仕草は変わっていなかった。手首の角度、カップを持つときの間合い、呼吸の深さまで、記憶と同じだった。だが、そのことに高田は、ほんの一瞬だけ違和感を覚えた。変わっていない、と思ったのではない。変わっていないと“感じている”自分の感覚に、どこか冷めた視線が向いていることに気づいたのだ。まるで他人の記憶をなぞっているような感覚だった。現実の風景の中に、かつての断片だけが切り貼りされている。そんな、ずれた視界。氷室がこちらを見上げた。少しだけ口元を緩める。優しい、けれど演出が過ぎる表情だった。高田はその笑みに、すでに意味を読み取ってしまえる自分がいることに驚いていた。「久しぶりだね」声は、変わっていなかった。滑らかで、抑揚が少なく、聞く者に考える余地を与えないトーン。けれど今の高田には、その音色の背後にある“意図”までが透けて感じられるようだった。返事は、必要最低限でいいと思った。自分から言葉を与えることが、今はまだ正しいと判断できなかったからだ。「……うん」それだけを告げて、向かいの席に腰を下ろす。椅子のクッションが、薄く沈んだ。テーブルの表面に視線を落とす。木目の模様は以前と同じだったが、そこに“落ちる影”が違って見えた。自分の視界が、もうあの頃とは変わってしまっている証拠だった。氷室のカップが、わずかにソーサーに当たる音を立てた。何気ない仕草だったが、高田の耳には必要以上に鮮明に響いた。あの頃、何度その音を聞いただろう。怒りの前触れとして、沈黙の合図として、あるいは、支配の余韻として。今もそれを怖がる自分がいるかもしれないと、想像していた。けれど、現実の自分は、何も感じていなかった。ただ音として、それを聞き流しただけだった。氷室は、あいかわらず感情を表に出さないまま、ゆっくりと目を細めた。「元気そうだな」その言葉に、返事をしようとして、高田は一瞬だけ言葉を選びかけた。けれど、うまく出てこなかった。それは“言葉が詰まった”のではなく
last updateLast Updated : 2025-07-23
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