寝室の空気は、居間よりもさらに静かだった。壁際の間接照明が、ごく薄く布団の上に柔らかな影を落としている。窓の外からかすかに雨の音が届く。規則的なリズムは、どこか遠い世界の出来事のようだった。高田は、布団の端に座っていた。大和の気配が、すぐ隣にあった。
身体がふわふわと浮いているような感覚。現実味が薄れていく。なのに、指先の感覚だけが妙に鮮明だった。何を言えばいいのかわからない。呼吸は浅く、胸が波打っている。視線をさまよわせているうちに、自分の手がシャツの裾に触れていることに気づいた。ためらいがちに、でも確かな意志で、指先が布地をつまむ。
大和がすぐ横で動きを止める。気配が張り詰めたようになった。高田は、その一瞬の空気を確かに感じた。奏多が自分を止めようとしたのだと、察する。だが、今は止まれなかった。止まったら、何もかもがまた元に戻ってしまう。もとに戻る世界には、もう帰りたくなかった。
言葉が、唇の内側で震えた。絞り出すように、小さく、けれど明確に言う。
「……君の体温で、もう一度、定義しなおしたい」
その言葉を吐いた瞬間、胸の奥に熱が灯った。迷いは消えてはいなかった。けれど、それを上回るほどの渇望があった。触れたい、触れてほしい、いまここに確かな「自分」という存在を感じていたかった。
大和はしばらく何も言わず、ただ高田を見つめていた。視線がぶつかる。そこには疑念も困惑もなかった。ただ、優しさと、ほんのわずかな苦しさのようなものが混じっていた。
大和の手が、ゆっくりと高田の背に伸びた。指先が、ごく軽くシャツの裾に触れる。そのまま、布地の上から背中を撫でる。布越しの感触が、じんわりと肌に伝わる。まるで輪郭を確かめるように、指が静かに動いていく。高田は肩を震わせ、自然と目を閉じた。自分がいま何を感じているのか、まだ正確には分からなかった。ただ、心臓がひどく早く脈打ち、呼吸が浅くなっていく。
そっと、シャツの裾が持ち上げられる。背中に直に指が触れる。高田の肌は白くて冷たい。そこへ、奏多の手のひらがやさしく滑る。指先が、肩甲骨のあたりからゆっくりと下りてくる。かつて傷つけられた場所に、そっと触れる。痛みの記憶が、微かに身体をよぎる。だが、その痛みを溶かすように
布団のなかは、どこまでも静かだった。外の雨音も、空調の微かな低い唸りも、遠い世界の出来事のように感じられる。重なり合う布地と肌のあいだに、静かな熱がじわじわと広がっていく。高田は、ほとんど夢の中のような感覚で大和の胸元に顔を埋めていた。ふたりの身体は、無理なく寄り添っている。緊張や戸惑いよりも、ただ不思議な落ち着きがそこにあった。唇が触れ合うたび、心臓が何度も跳ねた。けれど怖くはなかった。むしろ、少しずつ身体の内側がやわらかく解かれていく感覚があった。大和の指先は乱暴に動くことなく、高田の髪や額を優しくなぞっていく。二人の呼吸が重なり合うたび、空気が少しだけ揺れる。熱がゆっくりと増していく。高田は、そのたび自分の身体が何か新しい形に作り変えられていくような気がした。大和のシャツが高田の手の中で滑り落ちていく。自分から脱がせているつもりはなかったが、いつのまにか指先が布を辿っていた。大和の肩越しにシーツが波打ち、静かな音だけが部屋に溶けていく。高田は、自分のシャツも知らぬ間に脱げていたことに気づく。大和の指が、そっと肩を撫でている。脱がされているのではない。自然と、余計なものがはがれていく。守ろうとしていた殻も、気づけばひとつずつ外されていた。唇が、もう一度触れ合う。今度は先ほどより深く、熱い。大和の腕が高田の背を抱き寄せる。肌が直接重なり、鼓動と呼吸が混ざり合う。触れ合うたび、言葉にならない感情が身体を駆け抜ける。高田はその感覚に、ただ溺れるしかなかった。身体の奥から、何かがゆっくりと湧き上がってくる。ふたりの体温が、布団のなかに満ちていく。時折、大和の唇が首筋をなぞる。高田は、唇が触れるたびに小さく震える。けれどその震えは、不安や恐れではなかった。むしろ心地よい緊張と、満たされることへの渇望が入り混じっていた。大和の手が、ゆっくりと腰にまわる。高田は、その手の動きに身を委ねる。自分から何かを求めることは、まだ難しかった。けれど、受け入れることはできた。大和の手が背中をなぞり、腰を撫で、脚へと流れていく。ひとつずつ、丁寧に触れていくたび、高田の中の壁が静かに崩れていく。呼吸が浅くなる。大和が、そっと高田の耳元に顔を寄せた。息がかかる。その熱が、鼓膜を震わせ、全身に伝
寝室の空気は、居間よりもさらに静かだった。壁際の間接照明が、ごく薄く布団の上に柔らかな影を落としている。窓の外からかすかに雨の音が届く。規則的なリズムは、どこか遠い世界の出来事のようだった。高田は、布団の端に座っていた。大和の気配が、すぐ隣にあった。身体がふわふわと浮いているような感覚。現実味が薄れていく。なのに、指先の感覚だけが妙に鮮明だった。何を言えばいいのかわからない。呼吸は浅く、胸が波打っている。視線をさまよわせているうちに、自分の手がシャツの裾に触れていることに気づいた。ためらいがちに、でも確かな意志で、指先が布地をつまむ。大和がすぐ横で動きを止める。気配が張り詰めたようになった。高田は、その一瞬の空気を確かに感じた。奏多が自分を止めようとしたのだと、察する。だが、今は止まれなかった。止まったら、何もかもがまた元に戻ってしまう。もとに戻る世界には、もう帰りたくなかった。言葉が、唇の内側で震えた。絞り出すように、小さく、けれど明確に言う。「……君の体温で、もう一度、定義しなおしたい」その言葉を吐いた瞬間、胸の奥に熱が灯った。迷いは消えてはいなかった。けれど、それを上回るほどの渇望があった。触れたい、触れてほしい、いまここに確かな「自分」という存在を感じていたかった。大和はしばらく何も言わず、ただ高田を見つめていた。視線がぶつかる。そこには疑念も困惑もなかった。ただ、優しさと、ほんのわずかな苦しさのようなものが混じっていた。大和の手が、ゆっくりと高田の背に伸びた。指先が、ごく軽くシャツの裾に触れる。そのまま、布地の上から背中を撫でる。布越しの感触が、じんわりと肌に伝わる。まるで輪郭を確かめるように、指が静かに動いていく。高田は肩を震わせ、自然と目を閉じた。自分がいま何を感じているのか、まだ正確には分からなかった。ただ、心臓がひどく早く脈打ち、呼吸が浅くなっていく。そっと、シャツの裾が持ち上げられる。背中に直に指が触れる。高田の肌は白くて冷たい。そこへ、奏多の手のひらがやさしく滑る。指先が、肩甲骨のあたりからゆっくりと下りてくる。かつて傷つけられた場所に、そっと触れる。痛みの記憶が、微かに身体をよぎる。だが、その痛みを溶かすように
静寂が部屋を支配していた。高田は、ただ座ったまま動けなくなっていた。自分の身体が、どこか遠い場所に置き去りにされたような感覚だった。唇に残るわずかな湿り気が、時間の経過を拒んでいるように思えた。世界は静止し、けれど内側だけが絶え間なく動いている。さっきまで普通だった呼吸が、今はどうしても深く吸い込めなくなっていた。目の前には大和がいる。その存在だけが、この世界で唯一の現実だった。大和の顔がほんの少しだけ近づいて見える。照明のせいか、あるいは自分の視線がどこにも焦点を合わせられないせいか、大和の瞳にはいつもの反射がなかった。その代わり、そこには強い渇望が宿っていた。光が映らない暗い瞳なのに、なぜか惹きつけられて離せなかった。キスの余韻が、唇から頬、そして首筋へと伝播していく。皮膚が過敏に反応する。呼吸をするたび、身体の奥のどこかが熱を帯びていくのを感じた。こんな感覚は知らなかった。誰かに触れられることが、こんなにも自分を揺らすものだとは思いもしなかった。ずっと、感情は処理するものだと信じてきた。けれど今は、処理などできない波が心の底から湧き上がってくるのを、ただ感じるしかなかった。……肌が、感情に直接、触れてくる……自分の中で言葉が形を成さず、断片だけが意識の奥を浮遊していく。手帳も、ペンも、いまは思い出せなかった。触れられたままの頬から、じんわりと熱が流れ込む。心臓の鼓動が、胸の奥で暴れる。どうにか息を吸おうとするが、肺の奥にまで、その熱が染み込んでいく。大和は、ゆっくりと自分の額を高田の額へと重ねた。ごく自然な動作で、まるでそれが日常の挨拶のように、違和感なく二人の距離がゼロになった。互いの呼吸が、ほんの少しだけ交差する。吐息が混じり合い、そこだけ空気が柔らかくなったようだった。「これで、十分やろ」大和の声が、ごく低く、ほとんど囁きのように響いた。その声には、いつもの余裕や冗談っぽさはなかった。真剣で、どこか不器用な響き。触れている額から、熱が伝わってくる。言葉よりも、その体温の方が強く、高田の心に刻み込まれていく。けれど高田は、思わず小さく首を振った。ほんのわずかに。拒絶ではなく、否定でもなく、もっと他の何かを求めている自分がそこ
冷蔵庫のモーターが回る音が、一定のリズムで空気を震わせていた。照明は落としてあり、間接照明だけが居間をぼんやりと照らしている。食卓の上には、使っていないマグカップが一つ置かれたままになっていた。飲みかけのココアはもう冷えていて、表面には薄い膜が張っている。高田彗は、その前に静かに座っていた。手帳は開かれていない。ペンも、消しゴムも、すぐ手の届くところにあるのに、それに触れる気になれなかった。何かを書き残すには、今の自分はあまりに不安定すぎる。もどかしさとも違う、ただ、心が止まっている感覚。そういう静止が、今の高田を支配していた。やがて、ドアの向こうから音がした。控えめなノックの音。鍵が開いていることに気づいた大和が、少し戸惑うように声をかけながら入ってくる。「おーい、タカちゃん。…あれ、玄関鍵開いとったで?」その声を聞いて、鼓動が跳ねた。体が、一瞬だけ緊張する。反射的に反応する自分の心拍数が、嫌でも耳に届いてくる。高田はゆっくりと顔を上げた。大和の姿が、夕方よりも少しだけラフな格好で、柔らかく視界に入ってくる。「来るの…もう少し、遅いかと…」「打ち合わせ早う終わってん。急いで来たんや」そう言って、大和はいつものようにキッチンへ向かうかと思えば、今日はそのまま高田の正面に腰を下ろした。目線の高さが揃う。高田は、どこを見ればいいのかわからなくなり、目を伏せた。俯いたまま、言葉を探す。だけど、考えれば考えるほど、余計に言葉は遠のいていく。大和は、何も言わなかった。急かすような雰囲気も、問いかける素振りも見せず、ただ黙って待っていた。その沈黙が、息苦しいようで、どこか心地よくもあった。ようやく、高田は小さく口を開いた。「……好きって、どうやって……表すの?」その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけひりついた。自分が何を言ったのか、言ってしまったのかを、理解するまでに数秒かかった。言ってしまった、と思った。けれど、後悔はなかった。不思議と、誰かに聞いてほしかった。誰か、ではなく——奏多に。一瞬だけ、大和の目元から笑みが消えた。表情が、きゅっと引き締まる。そのまま彼は高田をまっすぐに見つめた。声を出
ノートのページをめくる音が、やけに大きく響いた。部屋は静かだった。一定に保たれた気温と湿度。光量も、視線の負荷も、すべて最小限に制御された、完璧に孤立した空間。高田彗は、そのなかでひとり、デスクの前に座っていた。眼鏡の奥の瞳は、手元の手帳に焦点を合わせている。だが、その視線は、どこか上滑りしていた。額にかかる髪が、動かない空気にわずかに揺れる。左手でペンを持ち、右手には消しゴム。小さな手のひらに握られたその文房具が、無意識のうちに強く握られていた。いつものように、感情をコードで処理しようとしていた。ルーチンの一部。心が揺れたら、それを数式に変換する。そうすれば、理解できると思っていた。理解できれば、恐れずにすむ。そうやって、これまでやってきた。けれど——input:奏多 output:未定義何度書いても、納得できる式にならなかった。関数が破綻する。変数の定義に失敗する。返されるのはnullか、エラーコード。エラー処理さえ、正しく組めない。 ペンの先が震える。意識して止めようとしても、指先は言うことをきかなかった。「if文が間違ってるのか…」 自分でもわかっていた。間違っているのは、文じゃない。自分の側だ。机の上には、過去のログが積み重ねられている。どのページも、行動と感情と結果が明確に書かれている。出力された感情は、すべて定義済みだった。不安、怒り、安心、警戒。それらはすべて、制御可能な範囲内に収まっていた。 だが、いま目の前にあるのは、それらと異なる。枠に収まらない。論理が通らない。 彼の存在は、式にできない。あの声、視線、手のひらのぬくもり——それらが自分の内側に届くたびに、論理が崩れる。ページをめくり、まためくり、書きかけの式を何度も試しては消した。ペン先のインクが擦れてにじむ。消しゴムで消す。だが、消えない。紙は削れて、ざらつき、色が黒く濁っていく。何度も、何度も、定義し直そうとした。if文、関数、戻り値、すべてを組み替えようとした。だが、書けば書くほど、分からなくなる。額の前髪が汗で肌に張りついていることに、ようやく気づいた。呼吸が浅く、喉の奥が熱い。ペンを置く。手
夜の静寂が部屋を包んでいた。外の風はすでに湿度を含んでいて、夏の近さを予感させたが、窓を閉め切った室内は一定の冷たさを保っていた。蛍光灯の淡い光に照らされた机の上、ノートパソコンの隣に開かれた手帳が、まるでそこだけ時を止めたように、何の文字も持たぬまま、静かにそこにあった。高田は椅子に腰をかけたまま、しばらくその手帳を見つめていた。指先にはペンが握られている。けれど、それが動く気配はなかった。コードを書くという行為は、彼にとって自己整理だった。思考を図式化し、感情を分解し、現実に名前を与えてゆく。そのための関数であり、条件式であり、ログだった。だが今、そのどれもが不要に思えた。いま感じているこの状態は、分類の必要がなかった。ただ在る、ということがすでに、何かの証明だった。氷室が来た午後。言葉にはしなかったが、あの時間が彼にとってどれだけの過去を呼び起こしたか、自分自身が一番よくわかっていた。身体の奥底に残っていた傷が、まるで昨日のもののように開いた。そして、再びそこに流れ込む痛みが、手を震わせ、声を奪い、思考を乱した。けれど。それでも、彼は今日、生きていた。立ち上がれた。大和と目を合わせた。そして、その言葉を受け止めた。お前がエラーやったとしても、俺はそのまま受け入れる。バグも含めて、お前が好きや。あの言葉の余韻は、今でも胸のどこかでくすぶっていた。燃え広がる火ではなく、深く静かに灯る、炭火のような温度だった。高田はペンをそっと、机の端に置いた。ページはまだ白いままだ。どこにも文字を走らせてはいない。それでも、そこには確かに“何か”が記されていた。それは、彼が演算を一時停止したという事実だった。諦めたのではない。逃げたのでもない。ただ、いまは定義しないことを選んだだけ。手帳を閉じる動作は、かつての彼にはできなかった行為だった。空白は、かつて彼にとって“欠損”であり“異常”であり、“未処理エラー”だった。だが今、その白紙に恐れを抱かずにいられた。それは、回復ではなかった。完全に立ち直ったわけでもなかった。まだ、氷室の声を思い出すと、肩の奥がこ