午前九時半。どんよりとした雲が本町のオフィス街を覆っていた。梅雨の残り香のような湿気が、肌にまとわりつく。ビルの十階、営業部フロアでは、いつものように書類の音と電話のベルが錯綜していた。大和奏多(やまとかなた)は、デスクに腰を落とす間もなく、PCのモニタに表示された赤い通知に眉をひそめた。業務支援システムの稼働がまた一部停止していた。クライアントへのアクセス制限、進捗管理の読み込みエラー、軽微ではあるが、営業部としては即時対応を求められるトラブルだ。「…またかよ」椅子に座りながら、声にならないため息をこぼす。昨日も一昨日も似たような障害が起きていた。ログを確認するより早く、担当SEの名前が頭に浮かぶ。高田 彗(たかだけい)。名前だけが共有される人物。社内メールには最小限の返信。チャットも一言二言。Zoomは常に音声オフ、カメラは黒画面。存在はしているのに、まるで社内の誰とも接点を持とうとしない。営業側からすれば、もはや都市伝説のような男だった。「大和くん、ちょっと」奥から低くかかった声に顔を向けると、部長の黒川が額にしわを寄せて手招きしていた。大和は飲みかけのコーヒーを片手に立ち上がり、応接用のソファへ向かう。「今朝のログ見たか」黒川が言う。「見ました。高田さんのとこですね、また」「やっぱりなあ。あいつ、技術は間違いないんやけど、対応が毎回これやからな。営業側からもクレーム来とるわ」「チャットも返事、来るには来るんですけど、必要最低限で…。あとでまたバージョン書き換えて終わりですわ」「ほんなら、今日一回、直接会ってみてくれへんか」大和は一瞬、聞き間違いかと目を見開いた。黒川は真顔だった。「…え、家っすか」「せや。場所はこれや」そう言って差し出されたメモには、大阪市内の某所にあるマンション名と部屋番号。「いやいや、そんな在宅の人間、わざわざ訪問せんでも…」「ずっとこのままじゃあかんやろ。大和、お前、そういうの得意やん」つまり、対人コミュ力のことだった。大和は苦笑しながら、メモを受け取った。「マジすか。…まあ、行きますけど」「頼んだぞ」「はいはい」立ち上がるとき、コーヒーの紙カップをひと口すすった。室温より冷たくなっていたが、そのぬるさがどこか今日の空気に似ていた。デスクに戻り、バッグに必要最低限の資料を詰めながら、PC画面
Terakhir Diperbarui : 2025-06-22 Baca selengkapnya