駅を出た瞬間、まだ地面には雨の余韻が残っていた。夜の気配に混じるような湿った風が、頬をかすめていく。空は濃い藍色に沈み、ところどころ街灯の光だけがぼんやりと滲んでいた。大和は傘もささずに歩いていた。右手にはコンビニのビニール袋、左手はポケットの中。袋のなかでは、冷えた弁当とカスタードプリンが揺れていた。本当は、まっすぐ帰るつもりだった。出張続きで疲れが溜まっていたし、上司からのメールも溜まっていた。けれど、電車を降りた足は、なぜかそのまま高田のマンションへと向かっていた。理由を考えるまでもなかった。どこか心の奥で“今夜は行かなあかん”と決めていた。連絡はしていない。来ると伝えてもいない。それが失礼なことは分かっていた。けれど、連絡を入れてしまったら、彼はたぶん断るだろうとも思っていた。あいつ、たぶん…今日、部屋で誰にも会わんまま、一日終えたんやろな。そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。なぜそんなことが分かるのか、自分でもよく分からない。ただ、そうであることに、抗えない確信があった。マンションの前に着く。エントランスの自動ドアが静かに開き、湿気を含んだ空気が一気に背中へと入り込む。エレベーターのなかでは誰にも会わなかった。人の気配がなく、音すら消えた箱のなかで、大和はコンビニ袋を持ち替える。プリンが中でころんと音を立てた。部屋の前に立ち、インターホンに指を伸ばす。押す直前、少しだけ躊躇った。何度目かの呼吸のあと、指先が静かにボタンを押す。チャイムの電子音が、どこかよそよそしく響いた。返答はない。少しの間、沈黙が続いた。やっぱり、あかんかったか…と思った瞬間、「カチャッ」と、小さな音がした。ゆっくりとドアが開いた。そこに立っていた高田は、濡れた髪をタオルで拭いたままの姿だった。パーカーのフードも被っておらず、いつもの無表情も、どこか緩んで見えた。目の下にかすかに影があり、頬にはまだ水滴が残っている。光に濡れた睫毛が、部屋の明かりに照らされて一瞬だけきらめいた。「……来るなら、言ってください
Last Updated : 2025-06-26 Read more