All Chapters of 君を関数にはできなかった~在宅SEと営業マンの、静かで確かな恋: Chapter 11 - Chapter 20

43 Chapters

濡れた夜、思わず向かった先

駅を出た瞬間、まだ地面には雨の余韻が残っていた。夜の気配に混じるような湿った風が、頬をかすめていく。空は濃い藍色に沈み、ところどころ街灯の光だけがぼんやりと滲んでいた。大和は傘もささずに歩いていた。右手にはコンビニのビニール袋、左手はポケットの中。袋のなかでは、冷えた弁当とカスタードプリンが揺れていた。本当は、まっすぐ帰るつもりだった。出張続きで疲れが溜まっていたし、上司からのメールも溜まっていた。けれど、電車を降りた足は、なぜかそのまま高田のマンションへと向かっていた。理由を考えるまでもなかった。どこか心の奥で“今夜は行かなあかん”と決めていた。連絡はしていない。来ると伝えてもいない。それが失礼なことは分かっていた。けれど、連絡を入れてしまったら、彼はたぶん断るだろうとも思っていた。あいつ、たぶん…今日、部屋で誰にも会わんまま、一日終えたんやろな。そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。なぜそんなことが分かるのか、自分でもよく分からない。ただ、そうであることに、抗えない確信があった。マンションの前に着く。エントランスの自動ドアが静かに開き、湿気を含んだ空気が一気に背中へと入り込む。エレベーターのなかでは誰にも会わなかった。人の気配がなく、音すら消えた箱のなかで、大和はコンビニ袋を持ち替える。プリンが中でころんと音を立てた。部屋の前に立ち、インターホンに指を伸ばす。押す直前、少しだけ躊躇った。何度目かの呼吸のあと、指先が静かにボタンを押す。チャイムの電子音が、どこかよそよそしく響いた。返答はない。少しの間、沈黙が続いた。やっぱり、あかんかったか…と思った瞬間、「カチャッ」と、小さな音がした。ゆっくりとドアが開いた。そこに立っていた高田は、濡れた髪をタオルで拭いたままの姿だった。パーカーのフードも被っておらず、いつもの無表情も、どこか緩んで見えた。目の下にかすかに影があり、頬にはまだ水滴が残っている。光に濡れた睫毛が、部屋の明かりに照らされて一瞬だけきらめいた。「……来るなら、言ってください
last updateLast Updated : 2025-06-26
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偶発の発見、触れた傷

大和はコンビニの袋をテーブルに置き、靴を脱いで部屋の奥へと足を進めた。高田は先にソファへ腰を下ろしていて、足元のルームライトの明かりだけが空間を照らしていた。室内は相変わらず整然としていて、しかしどこか無機質な冷たさが漂っていた。生活の形跡がほとんどない。モニタはすでにスリープに入っており、唯一動いているのは空気清浄機の微かなライトだけだった。「キッチン、借りるな」そう言って大和は奥へ向かう。言葉に返事はなかったが、高田の目線が一瞬だけこちらを向いたのが分かった。いつもは視線をそらすのに、今夜はほんの数秒、見ていた。表情は変わらず、けれど、そのまなざしはどこか…揺れていた。大和がキッチンの手前を通ろうとしたとき、不意に高田の背中が目に入った。照明の柔らかな光が、Tシャツ越しに浮かび上がる肩甲骨のラインを照らしている。その下、左肩のあたり。薄く、しかし確かに、傷が見えた。爪で引っ掻いたような形。すでに少し古く、赤黒く痕になっていた。瞬間、大和の足が止まった。「なあ、それ……誰にやられたん?」声が出るまでに、わずかに時間がかかった。自分でも予想していなかった問いかけだった。けれど、口に出さずにはいられなかった。言葉が先に出た。高田の体がぴくりと揺れる。背を向けたままの彼は、肩越しに少しだけ振り返った。その表情は薄暗くてよく見えなかったが、顔を伏せるようにして、低く呟いた。「……前の恋人が、怒ると……よく、こうなってました」言葉はまるで報告書の一節のようだった。抑揚がなく、感情も読み取れない。ただ、手元に置かれたタオルを指先で握るその手が、わずかに震えていた。大和は息を呑んだまま、その場から動けなかった。胸の奥で何かがざわついていた。頭よりも、感情が先に反応していた。「なんやそれ……俺、ムカついてきた」絞り出すように声にしたその言葉には、自分でも驚くほど熱がこもっていた。怒りというより、憤りだった。高田がそんな目に遭っていたという事実。しかも
last updateLast Updated : 2025-06-26
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コードが書けない夜

部屋のなかには、ほんの少し前まで存在していた誰かの気配が、まだ色濃く残っていた。ドアが閉まったあとの空白は、いつにも増して重く、静かだった。大和が残していったコンビニのプリンのカップが、テーブルの端に置かれたままになっている。手を伸ばせば届く距離にあるのに、なぜか高田は動かなかった。部屋の照明は落としてあった。パソコンの電源も切れている。液晶画面が暗闇のなかでわずかに外の灯りを映している。その光景さえも、どこか非現実的に感じられた。高田はソファの端に腰を下ろし、手元の手帳を開いた。毎晩のように繰り返している行為。今日一日をログとして残すための、静かなルーチン。指はいつもの位置をなぞるようにしてペンを持ち、習慣のままにページを開いた。けれど、そこに書くべき数式は浮かんでこなかった。思考が止まっていた。定量的に物事を整理する力が、今夜だけは働かなかった。頭のなかにある情報は不鮮明で、論理の並びも崩れている。フローが成立しない。データとして処理できる要素は、あるはずなのに、それが形を取らない。そんななか、高田の手がふと動いた。意識の隙間を縫うようにして、ペン先が紙に触れる。書いたのは、たった一行の記述だった。```// 5/27大和:声=やさしい/触覚=あたたかい処理不能項目:この感情は、なんだ?→ 手が震える```言語化されたそれは、もはやログではなかった。記録というにはあまりに主観的で、分析ではなく、感情の断片だった。書き終えたあと、高田はしばらくペンを持ったまま、動けなかった。手帳のページを見つめる目が、ぼんやりと滲んでいく。何かを処理しきれないとき、彼はいつも一度思考をシャットダウンし、再起動することで立ち戻っていた。けれど今夜、その方法が使えない。思考のリセットではなく、心のざわめきが、再起動を拒んでいた。あのとき、大和が背中に触れたとき。言葉を添えず、ただ撫でるように触れてきた、その指先の温度。拒絶ではない感情に触れたことはあっても、無条件の肯定という感覚を、自分の皮膚の内側で感じたのは、初めてだったかもしれ
last updateLast Updated : 2025-06-27
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君のバグごと、知りたいんや

夜の気配が窓の外に満ちていく頃、高田はソファに座って、静かにスマートフォンの画面を眺めていた。何の通知もなく、音も振動もないのに、画面を開いてしまう癖がついたのは、たぶんここ最近のことだった。小さなバイブレーションが手のひらをくすぐる。短い一文のメッセージが届いた。「今日、行ってええか」それだけだった。大和からの、定型にもならない確認の言葉。高田は、返信の欄を開いたまま、しばらく指を動かせずにいた。文字を打つでもなく、削除するでもなく、ただ画面を見つめていた。やがて、静かに親指が画面を押す。既読マークがついたが、返信はしなかった。十分後、インターホンが鳴った。玄関を開けると、大和がいた。いつものような軽い笑顔はなかった。手には何も持っていない。弁当も、プリンも。今日はただ、彼自身だけがそこにいた。「悪いな、勝手に来て」そう言って、大和は靴を脱ぎながら、少し気まずそうに笑った。けれど、その目は真っ直ぐで、いつもより真剣だった。高田は、何も言わずに部屋の奥に戻った。大和も無言でついてきて、ソファの横に腰を下ろした。部屋のなかには、エアコンの静かな稼働音だけが流れていた。数秒、あるいは数十秒の沈黙が過ぎたあと、大和が口を開いた。「お前のこと、ちゃんと知りたいと思ってる」その声は、いつもより低く、抑えたような響きを持っていた。冗談でも、おどけた調子でもない。まっすぐな気持ちだけが、言葉のなかにあった。高田は、瞬きもせずにその言葉を聞いていた。「俺な、別に…お前を、他と一緒には見てへん。お前が変わってても、バグってても、それがどうとかじゃなくて……」大和は一度言葉を切って、少し息を吸い込んだ。視線を落としかけたが、すぐに持ち上げ、高田の顔を見つめた。「俺は、お前のこと……ええと思うんや」その声が届いた瞬間、高田の身体のなかで何かが跳ねた。反応は、思考よりも先に感覚として起こった。指先がぴくりと動き、胸の奥に熱が灯る。それがどこから来るのか
last updateLast Updated : 2025-06-27
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未定義、それは感情の入口

大和が帰ったあと、部屋のなかには再び、ひとり分の静けさが戻っていた。エアコンの送風音が壁際をかすめるように響き、その背後で、夜の大阪の街が、どこか遠くで小さく唸っているように聞こえた。高田はソファの背にもたれたまま、視線を天井に向けていた。照明は落としていた。薄い明かりだけが、天井の角に陰影をつくって揺れていた。あの言葉が、まだ頭のなかに残っていた。「お前がバグってても、俺はお前のこと……ええと思うんや」繰り返すたびに、どこか呼吸がうまくできなくなるような感覚があった。言葉としては、単純だった。意味も明快だ。だが、受け取った側の自分が、それをどのように扱えばいいのかがわからなかった。記録も、変数も、条件も…どれも、この気持ちに名前をつけることができない。ソファの横に置いてあった手帳を、そっと手に取る。毎日、無意識のうちに手を伸ばすものだった。習慣であり、逃避であり、自己修復の手段でもあった。だが今夜は、ページを開いたとたんに、指が止まった。何も書けない。コードが浮かばなかった。いつものように、感情を変数に変換して、状況をif文で整形し、心の乱れをアルゴリズムで整理する。そのプロセスが、まるごと動作しなかった。処理系そのものが、内部から異常を起こしている感覚があった。高田は、手帳の余白をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。ペンは手にあるのに、動かすことができなかった。表現したいものがあった。けれど、それにふさわしい記号を、自分はまだ持っていない。その事実に、初めて感情が動いた。悔しい。それは、驚くほど真新しい感情だった。悔しさ。これまで自分の辞書に存在しなかった言葉。エラーやミスを嫌う気質ではあったが、それはあくまで効率や機能性の観点であり、感情としての“悔しさ”を自覚したことはなかった。今、それを感じている。うまく言葉にできない自分が、情けなくて、もどかしかった。理解したいのに、定義できない。触れられたことで、自分のなかの何かが確かに動いた。その変化を誰かに伝えたいのに、語彙が足りない。説明の論理が構
last updateLast Updated : 2025-06-28
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弁当不在、心も不在

部屋の空気が、いつもより重たく感じられた。気温も湿度も、アプリで設定した数値のまま。光量は350ルクス、湿度は48パーセント。完全に管理され、快適なはずの空間に、しかしどこか違和感が漂っていた。高田はそのことを「異常」とは呼ばなかった。数値にズレがなければ、不具合ではない。だが、その違和感の正体がわからないまま、時間だけが過ぎていった。出張中の大和が来なくなってから、48時間が経とうとしていた。最初の24時間は、いつも通りだった。朝は六時に起床し、定時にサーバーログを確認。APIのエラーチェック、UIの動作確認、午後にはアルゴリズムの最適化に取り組み、夜には自動化スクリプトの更新。身体の動きは滑らかで、脳も明確に回転していた。食事代わりにプロテインを2本。喉を通る限り、それで十分だった。しかし、次の日。昼を過ぎたあたりから、作業の集中力が散漫になった。コードの途中でカーソルが止まり、意味もなくターミナルを見つめる時間が増える。身体に異常はなかった。熱も、咳も、痛みもない。ただ、胃のあたりに漠然とした重みがあり、空腹感はあっても食欲には結びつかなかった。プロテインを口に含んだが、飲み込めなかった。リビングの隅、湯沸かしポットの前に立ち尽くしていることに気づいたのは、それから数十分後のことだった。ポットの水は、すでに沸ききっていた。カップに注ごうとしたが、手が動かなかった。自分は、いま何をしようとしていたのか。思考がかすんでいた。意識は浮遊し、モニタの明かりさえまぶしく感じる。椅子に戻る途中で、ふと足元の床に視線が落ちた。そこには、先週まで大和が持ってきてくれていた弁当箱が整然と並んでいる。洗われ、乾燥機で乾かされていたそれらは、まるで生活の痕跡のように静かに佇んでいた。そのとき初めて、高田は小さく息を吐いた。空虚、という単語が浮かんだ。だが、それも正確ではない。もっと違う。もっと、原始的な。ざわざわと胸の内側から湧き上がる感覚。名付けられていない何か。それは、かすかに…痛みに似ていた。──違和感の正体がわからないのではなかった。自分は、気づかな
last updateLast Updated : 2025-06-28
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切れたのは紙じゃなく、僕の指先

時計の針は午前二時を回っていた。室内はすでに冷え込んでおり、足元のラグの上に置かれたサーキュレーターが、空気をゆるやかに攪拌していた。高田はディスプレイの明かりだけを頼りに、薄暗いリビングを歩いた。作業の区切りがついたわけではなかった。ただ、ターミナルに流れるログの連なりがいつもより視認しづらく感じたのだ。モニタの明るさ設定は普段と同じだった。だが、なぜか目が乾いているように思えた。キッチンの棚の横、いつもは見ないカゴのなかに、郵便物が溜まっていることに気がついた。数日前に届いたであろう封筒が何通か、まだ開封されていなかった。書類、請求書、印刷物。どれもさほど重要ではないことは予想がついたが、視界に入った瞬間、なぜか気になって仕方がなかった。高田は無言のまま封筒を取り出し、テーブルの端に重ねた。カッターナイフを探す。文具類はあまり使わないため、ペン立ての底から引き上げるようにして取り出す。青い持ち手は少しベタついていた。しばらく使っていなかった証拠だった。封筒の角に刃を当て、慎重に滑らせようとした。手元を見るというより、感覚に任せて動かした。そのとき、思っていたよりも深く、刃が逸れた。一瞬、紙が破れる感触とは異なる、柔らかい抵抗を感じた。続いて、じんわりとした熱が人差し指に広がる。高田は無意識のままカッターを置き、右手を持ち上げた。白い指先から、赤い線がにじんでいた。傷は浅い。しかし血は、止まる気配がなかった。ティッシュを探して手に取ったが、指先から垂れた血が一枚目を染め、すぐに透けた。数枚重ねても、なぜか落ち着かなかった。圧迫すれば止まると分かっているのに、どこかでその処置すら面倒に思えていた。やるべきことがわかっているのに、身体が動かない。そんなことは、ここ数年なかったはずだった。高田はそのまま、テーブルの前に座り込んだ。視線はぼんやりと宙を彷徨い、耳に入るのはエアコンの送風音と、外の街路灯が照らす道路に時折通る車の遠い音だけだった。ふと、胸の奥に穴が開いたような感覚が生まれた。正確には、穴など元からあったのかもしれない。ただ、それが“空洞”として自覚されたのは、この瞬間が初めてだった。この傷が痛いのか。そ
last updateLast Updated : 2025-06-29
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ログが書けない夜

深夜三時を少し過ぎた頃、部屋の中には人工的な音だけが残っていた。冷蔵庫のコンプレッサーが断続的に唸り、モニタのスリープ画面が暗闇に淡い青を灯していた。高田はソファにもたれたまま、左手に開いた手帳のページをじっと見つめていた。右手には鉛筆が握られていたが、先端は紙の上を滑らず、ただ静止していた。体の奥にあった熱はもう引いていた。切り傷に巻いたバンドエイドが、皮膚のぬるい感覚と共に異物として存在していた。けれど、痛みはない。ただ、その無痛さが、逆に胸の中の鈍い重さを強調していた。ペン先がようやく動き出した。彼が書きつけたのは、感情や出来事ではなく、あくまでもログだった。自分を機械のように外部から観察し、機能と稼働の数値で表すことに、高田は長く慣れてきた。思考を数値化すれば混乱は収まり、感情を演算すれば意味が明瞭になる。それが、彼にとっての世界の読み方だった。しかし、今夜のページはどこかおかしかった。```c// 大和訪問なし:連続48時間心的稼働率 = 42%(通常時:76%)摂食行動 = 10%感情因子 = null→ エラー:再起動不能```書いた文字の意味は分かっている。自分の状態を正確に反映している。しかし、それ以上に、このログには“何かが欠けている”と、書いた本人自身が感じていた。冷静すぎる。正確すぎる。なのに、記録として成立していないような空白があった。高田はわずかに眉を寄せ、鉛筆の先でページの余白に新たな一行を書き足した。```log大和奏多が不在である。```書き終えた瞬間、手が微かに震えた。鉛筆を握る指に力が入りすぎていたのかもしれない。だが、それ以上に、自分が“大和奏多”という名前を手帳に記したことに、内心でわずかなざわめきが生じていた。これまで、彼の名前はここには存在しなかった。必要な情報であっても、人格を特定する“固有名”は避けていた。にもかかわらず、今夜、それを記した。名前は記号であり、同時に個の証明である。誰かを名前で呼
last updateLast Updated : 2025-06-29
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発信という初期化処理

夜はとっくに更け、空気の温度も音も、感覚が曖昧になるほどに静まり返っていた。マンションの最上階。外の街路灯が室内にうっすらと影を落とすなか、高田はソファの背にもたれ、身じろぎもせずに目を開いていた。画面のスリープモードが切り替わり、ノートPCの黒い画面に自分の映像が映る。それを見ていたのか、それとも見ていなかったのか、自分でもわからないまま、ただ何かを待つように座り続けていた。作業は中断していた。体も思考も、もう数時間まともに動いていない。タスク管理アプリは未処理の通知をいくつか掲げたまま、画面の隅で点滅していたが、反応する気になれなかった。書類も、コードも、ログも、何ひとつ処理できなかった。頭の中にはずっと同じ言葉がぐるぐると巡っていた。大和がいない、という現実だった。ふと、手がスマートフォンを探していた。意図的な操作ではなかった。あまりにも自然すぎて、指先がホーム画面を開き、通話アプリを立ち上げていたことに、しばらく気がつかなかった。ディスプレイの中央に浮かぶ、たった一つの名前。大和奏多。それを目にした瞬間、喉がつかえるような感覚が走った。呼吸が乱れたわけではない。けれど、どこか深いところで、何かが確実に反応していた。通話アイコンに指を乗せる。その動作が、これまでにないほど重く感じられた。発信ボタンを押すという行為は、いわば自分から相手に手を伸ばすこと。それは高田にとって、いまだかつて一度も行ったことのない処理だった。誰かに何かを求める。それは、彼の中でずっと定義されていなかった命令文だった。それでも、指は止まらなかった。ボタンを押す。その瞬間、心のどこかで何かが確かに初期化される音がしたような気がした。呼び出し音が鳴る。ひとつ、ふたつ…そして、三つ目の音が鳴り終わる前に、相手は出た。「…高田?」受話器の向こうで聞こえる声は、少し眠そうで、それでも柔らかく、間違いなく自分の名前を呼んでいた。しばらく言葉が出なかった。何を言えばいいのか分からなかった。伝えたいことも、理由も、理屈も整理されていなかった。だが、感覚だけが、口を開かせた。「&he
last updateLast Updated : 2025-06-30
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痛みの上書き

玄関のドアが開いた瞬間、ひんやりとした夜気が室内に流れ込んだ。その風の向こうから、足音が重なる。小走りの気配。駆け込むように姿を現したのは、Tシャツ一枚のまま、濡れた髪と裾を引きずった大和だった。高田は、ただそこに立ち尽くしていた。無言のまま、大和の姿を目で追いかける。体は動かなかった。思考よりも先に、感覚だけが彼を受け入れていた。「高田」短く名前を呼ばれたその声に、胸の奥がきゅっと締めつけられたように反応する。呼吸の仕方を忘れそうになる。次の瞬間、大和の手が伸び、ためらいもなく高田の手を取った。人差し指。包帯の隙間から滲んだ赤を見つけた大和は、眉をひそめた。視線がその指に注がれたまま動かない。触れていた掌の温度が、じんわりと肌に伝わる。「なんやこれ…切れてるやんか。お前、何してたん…」呆れと怒りが滲む声だった。けれど、その奥にある感情は、それとは違う。安堵だった。確かに今、目の前で生きていて、自分の声に反応してくれて、ちゃんと呼吸している。それを確認した人間の、緊張のほどけた声だった。高田は答えられなかった。喉が詰まり、声にならない。答えようにも、適切な言葉が見つからなかった。「封筒、開けようとして…うまく…できなくて」ようやく出てきたのは、音としても頼りない、断片的な言葉だった。けれど大和は、それを聞いてふっと口元を緩めた。「アホやなあ、お前」そう言って、大和は微笑んだ。その笑みは、怒っているようで怒っていない、叱っているようで、ただ包み込むような、そんなやさしさを孕んでいた。高田の心臓が、ほんの一瞬だけ跳ねる。視線は絡まなかった。けれど、繋がっていた。大和の手が包帯の上からそっと指を握ったまま、何も言わずに自分を見ているのが分かった。言葉以上に、確かなものがそこにはあった。それから大和は手を放し、台所に向かって歩いた。手馴れた様子で戸棚を開け、薬箱を取り出してくる。戻ってきたときには、消毒液と新しい絆創膏を手に持っていた。「ちゃんと消毒せな、化膿するで」低く静かな声。まるで、いつ
last updateLast Updated : 2025-06-30
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