モニタの前に座る高田の指は、Ctrlキーの上で止まったままだった。数秒前までタイピングを続けていたはずの手が、今は動かない。社内チャットの右端に小さく表示されたオンラインインジケーター。その色が緑から赤に変わったとき、彼の心拍は確実に一拍、跳ねた。氷室 弘紀。その名前が表示されたとき、最初に走ったのは思考ではなかった。反射的に脳の奥に焼きついている“笑顔”が、網膜の裏に浮かび上がった。仕事の顔ではない。かつて、唇のすぐそばに頬を寄せられたときの、あの表情だった。音声付きのミーティング招集が届いたのは、その直後だった。クリックして開かれたウィンドウに、穏やかな口元を浮かべた男が映る。柔らかい声、口調、微笑み。画面越しであるにもかかわらず、皮膚がざわめいた。背中を冷たい汗が這い、椅子に深く座っているはずの身体が、なぜか浮き上がるような感覚に襲われる。「……ッ……」声にならない息が喉奥から漏れた。胸が締めつけられたように苦しく、瞬時に映像と音声をミュートにする。指が勝手に動いた。映ってはいけない。聞かれてはいけない。反応してはいけない。そう強く言い聞かせるように、ディスプレイの輝度を落とし、モニタを閉じかける。その動作の途中で、チャットが一件、ポップアップで表示された。《今日の昼、カレー。辛いのあかんかったら言うてな》高田は、一瞬それを見つめた。意味のない内容に見えるはずの短い一文。しかし、その無意味さこそが、今の彼には必要だった。脈絡もない、ただの昼食報告。それがこんなにも、温度を持って胸に届くとは思わなかった。握っていたマウスから指を外し、背もたれに身を預ける。肩が重い。吐息が長く漏れ、視界の端で木漏れ日がカーテンの隙間から差し込んでいた。大和のチャットを、もう一度開く。今度はスクロールし、前日のやり取りまで戻った。弁当の中身の写真。夕飯の報告。見慣れた絵文字や変換ミス。それら一つひとつが、胸のざわめきを少しずつ解いていく。記憶は、突然に戻る。氷室の笑顔の裏にあった、拒絶の声。繰り返された“お前は感情がない”“可愛げがない
Last Updated : 2025-07-06 Read more