All Chapters of 『ふたつの鼓動が気づくまで』 双子の妊娠がわかった日に離婚届を突きつけられました: Chapter 11 - Chapter 20

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第十一話 因縁の対決②(side:幸恵)

「宗司先輩もお辛いでしょうね。家同士が決めた政略結婚で、好きでもない女と無理やり結婚させられるなんて」 宗司を哀れむ風を装い、その実、殊更に充希を蔑むような発言に私の怒りはますます大きくなる。「でも、あと一年の辛抱です。宗司先輩はあと一年で充希と離婚できます。そうすれば宗司先輩は自由です。誰でも好きな相手と結婚することができます」「だからってあなたが選ばれるとは限らないわよ」 さも自分が宗司の好きな相手であるかのような言い方に、私は虫唾が走った。「いいえ。この一年で私は必ず宗司先輩の心を奪ってみせます。───いえ、取り戻してみせます。そう、本来あるべき状態に戻すだけです。宗司先輩は私と結婚するはずだったんです。そしてそうなるべきだったんです」「あなたが大和田家を去ることになった理由は詳しくは知らないわ。でも宗司も本当にあなたのことが好きなら、それだけのことで交際が終わったりしなかったはずよ」「そんなことはありません。あの出来事はとても大きなスキャンダルになり得る事案だったので、宗司先輩は泣く泣く身を引いただけです。宗司先輩も私のことが好きなんです。それは中高一貫校時代の先輩の態度を見ていればわかります。 それに先日だって、宗司先輩は私とランチに行ってくれたんです。宗司先輩はとてもお忙しいのに、わざわざ私の為に時間を割いてくださったんですよ」 私は一瞬、彩寧に対して空恐ろしさを感じた。 恍惚とした表情で宗司との関係を語る彩寧の顔は、妄信的にアイドルを崇拝する熱狂的なファンにも似た一途感があったのだ。「中高一貫校時代に宗司があなたのことを好きだったですって? どこがよっ! 宗司はあなたに纏わりつかれてとても迷惑していたじゃない!」 私は少し言い過ぎかもしれないと思いつつ、はっきりと彩寧に言ってやった。 少しは彩寧にダメージを与えられるかと思ったけど、狂信者の彩寧に私の言葉は何一つ響かないようだった。「中高一貫校時代、一度も彼氏ができず、お寒い青春時代を過ごした幸恵部長に何がわかるんですか? 恋愛経験底辺の人が笑わせないでください」 そう馬鹿にされたが、私はカッとはならなかった。 そのことは幸いだったが、しかしそれとは別に私は彩寧に傷つけられていた。 中高一貫校時代、周囲の同級生でカップルが成立するのを横目に、そうした恋愛に縁がなかったこ
last updateLast Updated : 2025-07-23
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第十二話 私の思惑(side:彩寧)

 本当に驚いた。 まさか幸恵部長と出くわすなんて思いもしなかったわ。 幸恵部長は本当に相変わらずね。 直情的というか、猪突猛進というか───。 幸恵部長と充希は今も仲が良いようだけど、でも幸恵部長なんかに私の邪魔はさせないわ。 私がどれだけ苦労して宗司先輩の会社に入社したか……。 母の浮気が原因で離婚騒動になり、私も母に連れられて大和田家を去ることになったけど、それからの数年は、ただただ宗司先輩の近くに戻る為だけに費やしてきたんだから。 ようやく念願が叶い、そしてついにまた宗司先輩と一緒にランチに行けたんですもの。 こんなに幸せなことはないわ。 この幸せを絶対に───絶対に手放したりするもんですか。 そういえば───。 その先日のランチの帰り道、会社に戻ったら受付に充希がいたわね。 私と宗司先輩が一緒にいる姿を見た時の充希のあの顔───。 まるで自分が立っている地面が崩れ、足元が抜け落ちたかと思うくらいのショックを受けていたようね。 それを見た私は、さらにショックを受けさせてやろうと、これ見よがしに宗司先輩の腕に抱き着いて見せつけてやったけど、効果てきめんだったようね。 真っ青な顔で口をポカーンと開けて、今にも泣き出しそうなくらい震え出していたもの。 いい気味だわ。 それくらいショックを受けて当然よ。 充希のことを姉だと思ったことなんて一度もない。 充希なんて、結局のところ、お父さんが浮気相手との間に作った子供じゃない。 私こそが大和田家の正式な娘なのに、私より年上だからって長女面して……。 本当にムカつくわ。 私が大和田家を去る時も、充希は何もしてくれなかった。助けてくれなかった。手を差し伸べてもくれなかった。 それどころか私がいなくなった後、よりにもよって宗司先輩と結婚するなんて……。 絶対に許せない。 私がどれくらいはらわたが煮えくり返り、気が狂いそうなほど怒りが全身を駆け巡ったか知りもしないでしょうね。 充希はいつもそう。 何もしていないのに───ただそこにいるだけなのに、努力している私を差し置いて全てを奪っていってしまう。 こんな不公平が許されていいはずがないわ。 絶対に充希は不幸になるべきよ。 でも、まずは充希に奪われたものを取り返さなくちゃ。 宗司先輩を充希から引き剥がし、私のもとに取り返さ
last updateLast Updated : 2025-07-28
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第十三話 私が社長夫人(side:彩寧)

 ───ねえ。総務部に中途採用で入社した人って、篠原 彩寧(しのはら あやね)って人よね? ───そうよ。この時期に中途採用って珍しいわね。 ───それに総務部は人手が足りてるの。人員を補充する必要なんてなかったのに。 ───そのことなんだけど、私、人事部の同期にすごい秘密を教えてもらっちゃった。 ───すごい秘密? ───そうなの。その篠原 彩寧って人は社長と同じ中高一貫校の出身なんですって。 ───そうなんだ。ひょっとして幼馴染とか? ───とにかく社長の知り合いというか旧知であることは間違いないわね。 ───ひょっとして篠原 彩寧の正体は社長夫人とか? ───えー? なんでそうなるのよ? ───だって社長って幼馴染と結婚したそうじゃない。 ───じゃあ、その篠原 彩寧は社長夫人という正体を隠して入社して……。 ───密かに私たちや会社の様子を社員目線で偵察してるとか? ───やだっ。こわいっ。 ───でもそういうの憧れるかもっ! ───(一同、大笑い) ───あ、でもその篠原 彩寧が社長と二人でランチに行ってるのみちゃったかも。 ───私も見た見た。社長の腕に抱きついて楽しそうに二人で帰って来てたわね。 ───これはあり得るわね。篠原 彩寧が実は社長婦人であるという説。 ───篠原 彩寧は要注意ね。 ───そうね。仲良くしておいて損はなさそうね。 ───(一同、示し合わせたように顔を見合わせて頷く)「皆さん、お疲れ様です。こんなところで集まって何のお話ですか?」「「「し、篠原 彩寧さんっ!!!」」」「あ、すみません。なんだかとても驚かせちゃったみたいですね」「え、ええ。い、いいのよ。それよりもうお仕事には慣れました?」「わからないことがあったら何でも聞いてくださいね」「私は会社に同期がたくさんいるので他部署のことも良く知ってますよ。知りたいことがあったらどんどん質問してくださいね」「わあ、ありがとうございます。皆さんのように優しくて親切な先輩がいてくださって嬉しいです」「ね、ねえ、彩寧さん。先日、社長とランチに行ってませんでした?」「(ちょ、ちょっと、あなた! 急に何を聞いてるのよ!)」「(いいじゃない、これくらい聞いたって!)」「ああ、あのことですね。すみません。多くの社員の方に見られちゃったみ
last updateLast Updated : 2025-07-31
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第十四話 居候①

「お母さんの家にいると安心する。ここに居れば大丈夫だと思えるけど……」 私は母の家で夕食の支度をしていたが、ふとした拍子に沸き上がる不安感に苛まれる。 それは胸の中いっぱいに広がり、私の全身からやる気を奪い去り、胃を外側から圧迫するように抑え込んで私を苦しめた。 ついに手が止まった私は懸命にその不安感に抗ったが、手にした食材と包丁を置いて調理台に手をつき、ギュッと目と口を閉じて耐えるしかできない。  一日に何度もこうした不安感に私は襲われ、その度にうずくまるように身を縮めて、耐え忍ぶ。「私は離婚した。離婚してしまった。  この後、どうしよう……。どうしたらいいんだろう。  私だけじゃない。お腹に赤ちゃんがいるの。それも二人も……。  この子たちはどうなってしまうの? このままでは私が一人で育てられたとしても、父親を知らない子供になってしまう。  父親の強さ、威厳、怖さ、そして自分達を守ってくれる頼りがい。そうした愛情を知らずにこの子たちは育ってしまう。その事がこの子たちにどんな影響を及ぼしてしまうか……」 その時、鍋が俄かにカタカタと震え、煮汁が飛び出すように吹きこぼれる。  ハッと現実に引き戻された私は慌ててガスコンロのつまみを捻り、火を消したが、コンロの上は吹きこぼれた煮汁だらけとなり、私は深いため息をついた。  同時に、インターホンが鳴るとドアの鍵が外側から開けられ、母が帰ってくる。「充希、ただいま。  ───ん? なんの匂い? ちょっと充希、大丈夫?」 母が心配してすぐにキッチンにやってくる。  私はとにかく吹きこぼれた煮汁を拭き取り続けていた。「また、一人で悩んでぼーっとしてたのね」 母は、そんな私を責めず、私の手から布巾を取ると、私の手を引いてキッチンから連れだし、テーブル椅子に座らせる。「夕飯のメニューは、鶏肉のスープとゴーヤチャンプルーね。付け合わせに小松菜のおひたしが冷蔵庫に用意されているわね。野菜室にブロッコリーがあるけど、これは今、湯がいて食べるの? それと充希、ごはんは炊いた?」 母は仕事から帰ったばかりだというのにテキパキと家事をこなす。「あ、ごはんはお米を洗って炊飯器にセットしたから、もうすぐ炊けるはず」 私はそう答えたが、母が炊飯器を開けると、そこには水に浸った状態の生米があ
last updateLast Updated : 2025-08-04
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第十五話 居候②

 結局、ごはんの炊飯が間に合わず、夕食には冷凍してあったごはんを電子レンジで温めて食べた。 家に一人でいると気分も塞ぎがちだが、誰かがいてくれると安心感がある。 それが自分の母であるならなおのことだ。 でも、それでも私は常に不安を背負った状態にあり、夕食を口に運ぶ箸も止まりがちになる。「お母さん、私、この後、どうしよう……」 私はポツリと漏らす。 母は私の弱音に狼狽えず、変わらず一定のペースで夕食をせっせと口に運び続けた。 総合病院で救命救急士を務める母は、緊急時や繁忙時に備え、いついかなる時も自らのペースを堅持する姿勢が染みついている。「宗司くんとはお話しはできないのね?」 母にそう問われた私は宗司の名前を聞いて身を強張らせる。 宗司の名前を聞いただけで、様々な感情が沸き起こり、反射的に私の身体が防御状態になってしまうようだ。「毅(つよし)さん───つまりあなたのお父さんに相談してみるのはどう?」 父の名前を出されると、私は宗司以上に身体を強張らせ「それは無理! とてもできない! お父さんにはまだ私が妊娠したことも伝えていないの!」と半ば叫び声のように母の提案を拒絶した。 私が取り乱しても、母は食事の手を止めることなく、淡々と夕飯を口に運び続ける。「わかったわ。安心して、充希。誰もあなたを急かしたりしない。どうすればいいのかゆっくり時間をかけて考えましょう。それまではずっとここに居ていいから、気兼ねなくのんびり過ごしなさい」 最後に母はお椀に残った鶏肉のスープを飲み干すと、お箸を置き、両手を合わせてご馳走様をする。 そして母はテキパキと自らの食器を重ねるとキッチンに運び、手慣れた手つきでサッと洗うと水切り台に並べた。 さらに私が夕食の支度で使用した調理機器や調理台を片付け、キッチンを清潔な状態に戻す。 その様子を横目に、私はボソボソと食事を口に運ぶ。「でも、一人で家にいると気分が塞いでしまうわね」 母がキッチンから私に呼びかける。 私は返事の代わりに溜息をついた。 確かに母が家にいるときは少しは気分が紛れるし、不安で圧し潰されそうになった時はすぐに話を聞いてもらえる。 でも確かに一人になった時は───。 私はまた一人になった時の事を想像して、身震いをすると共に、恐怖を感じる。「充希は医療事務の資格を持っているわよね
last updateLast Updated : 2025-08-07
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第十六話 親友に相談

 私は母に病院で働くことを提案されたが、そのことをすぐに幸恵に相談した。「いいじゃない。お母さんが仰る通り気も紛れるし、仕事をすれば身体も動かすから家に居てじっとしているよりずっといいわよ」 幸恵は私の背中を後押ししてくれる。「充希のお母さんの総合病院なら産婦人科もあるから、もし何かあっても安心だし一石二鳥ね」 幸恵は益々そうするべきだと私の背中を後押ししたが───。「あ、でも待って。充希のお母さんの勤める総合病院の産婦人科って、確か種村 崚佑(たねむら ゆうすけ)がいたわね……」「種村 崚佑さん?」 私はそれは誰だろうと思う。「充希は知らない人よ。私の医大生時代の同級生なの。 そっか、崚佑か……。崚佑ねぇ……。うーん……」 そう言って幸恵はじっと私の顔を見つめる。「な、なに? 幸恵、どうしたの? その崚佑さんって何か問題があるの?」 私は少し心配になる。「いえ、崚佑はいい人よ。でもね。いい人過ぎるの。 捨て猫や捨て犬を放っておけないタイプね。実際に崚佑は犬を二匹、猫を四匹飼ってるけど、いずれも保護犬や保護猫ばかりよ」 私は崚佑という人の人柄が少しわかって安心をする。 しかし、同時に、それならばどうして幸恵が心配をするのだろうかと疑問を感じる。「充希は庇護欲をくすぐるから崚佑に目を付けられないか心配なの。特に今の充希は問題を抱えているから、いつにも増して庇護欲をくすぐるのよね……」 私が他人の庇護欲をくすぐる? 私は自分が少し頼りなく思われていると言われているようでやや悲しく思った。「あ、違うの。充希が頼りないとかそういう意味じゃないの。充希は可愛いから男の人がそうしたくなるってことよ」 幸恵は私の表情を察し、慌てて取り繕ったが、一度相手に伝えた言葉はすぐには取り消せない。それは残り続ける。 でももし相手が失言を撤回や謝罪するなら、それは受け入れなければならない。何故なら人は間違いを犯す性分だから。 理性でそのことを理解していた私は幸恵を責めたりせず、可愛いと言われたことを素直に喜ぶことにした。「崚佑はヤバイわよ。あいつは見た目がすごいイケメンなの。それに女性の気持ちに敏感で気遣いもできて、弱っているときに優しく声を掛けてくれるから、一見すると完璧なの」 幸恵にそこまで言われて、私は種村 崚佑という人に会うのが楽しみ
last updateLast Updated : 2025-08-11
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第十七話 私は独身

幸恵に言われた一言は私の心に重くのしかかった。 そうだった。私はもう宗司さんの妻じゃない。 独身だ。 これまでは宗司さんという頼れる存在が傍らにいてくれたけど、今の私にそうした拠り所はなかった。 私は急に、見知らぬ土地で迷子になったような不安感を覚える。 それはまるで、これまで籠で飼われていた小鳥が巣から出され、野生の大空に放たれたような心許無さだった。 それは自由ではあったが、いつ何時、どこから外敵に襲われるか分らない不確実性との戦いでもあった。 私は急に外に出るのが怖くなり、家に籠ってじっとしていたくなる。 でもそういうわけにはいかない。そうして隠れ続けることはできない。 私は自分一人で人生という大海原に小舟で漕ぎ出さなくてはならないのだ。 それはとても勇気がいる行動だったが、私は負けるわけにはいかない。 何故ならこれは私一人の問題ではないから。 私の中に宿る二つの生命。 この大切な赤ちゃんたちの為に、私は強くならなければならない。 しかし、勇気を振り絞ることは気が重く、億劫である───。 ───かと思ったが、意外にも私はメラメラと困難に立ち向かう勇気が、自分の中で燃え上がり始める熱を感じた。 子供がいることが枷になるかと思いきや、そうした負の感情はまったくなかった。 私は自分がこの子たちの存在を、重荷というようには全く感じていない事実に驚く。 むしろこの子たちは重荷どころか私の支えになってくれている。 この子たちがいるから頑張れる。この子たちがいるから勇気が出せる。この子たちがいるから私は立ち向かえる。 なんと尊い存在なのだろう。 私は自分のお腹に手をあて、私の中に居てくれる二人の赤ちゃんに心から「ありがとう」と感謝をした。 * * * 私が母の勤める総合病院で働く話はトントン拍子で進んだ。 面接もそこそこに、「碧さんの娘さんなら安心」「とにかく病院は人手不足で大変」という二点の理由だけで「早速、明日からでも」という勢いで話が決まった。 最初の一ヵ月は様子見ということで、週三回の勤務で「慣らし運転」から始まったが、幸い私は「昔取った杵柄」が今も生きているようで、すんなりと業務の流れに加わることができた。 「さすが碧さんの娘さん」「やっぱり碧さんの娘さんは違い
last updateLast Updated : 2025-08-14
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第十八話 私の本音

「充希、どう? 仕事にはもう慣れた?」 私が事務手続きを行っていると、業務が一段落した母・碧が私の様子を見にやって来た。「うん。大丈夫。周りの皆さんも親切で、丁寧に仕事を教えてくれるから、ちゃんと業務をこなせているよ」「そう。よかった。お腹の調子も問題なさそうだし、少し表情も和らいでいるわよ。やっぱり仕事に就いて良かったわね」 私もその点については完全に同意だった。  母の家に籠っているよりも、こうして外で働いている方が気も紛れる。  そして業務に集中している間は、無駄に悩む事もしなくて済んでいた。「家に居た充希は表情もやつれて辛そうだったから、安心したわ」 母がそう言って安心してくれたので、私も安心する。  母に心配をかけるわけにはいかない。  今回の件は、私の自業自得だ。  自分で同意して宗司さんとの偽装結婚に応じ、三年間という期間限定の白い結婚であるはずなのに、その誓いを破って子供を妊娠し、そして離婚届を突きつけられる───。 場合によっては「あなたは何をしているの!」と怒られたり、非難されても仕方ない状況。  そんな私に何も言わず、全てを受け入れ、部屋に匿い、仕事まで与えてくれた母。 そんな母には、感謝しかない。  その為、母には、これ以上の心配や迷惑はかけられない。 そういう状況を鑑み、私は母に、今の自分の率直な悩みを打ち明けるわけにはいかなかった。 母は私が少し元気になったと安心してくれるけど───。  母は私の表情が少し和らいだと言ってくれるけど───。 本当の私は、ふとした拍子に宗司さんのこと、離婚のこと、お腹にいる二人の赤ちゃんのことを考え、ギュッと胃が縮まり、両肩にズシリと重い布団を被せられたように身体が重くなり、部屋の電気が消えたように暗闇に包まれ、周囲の音がなくなって「キーン」という甲高い耳鳴りがするような、孤独とも不安とも恐怖ともつかない、とても心細い状態に陥ることがあるのだ。 母の家に来た当初は、頻繁にその状況に陥り、何もすることができずにただただ耐えていた。  その時の状態から比べれば、今は確かに回数が減り、苛まれる時間も短くなったが、それでも業務中だろうが休憩中だろうがお構いなしに、不意に私はそうした状況に、しばしば陥っていたのだ。 だが
last updateLast Updated : 2025-08-18
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第十九話 気になる患者

 私は少しそわそわする。 先ほど搬送された患者さんが気になったのだ。 ───二十代の女性。  ───双子を妊娠。  ───切迫流産。 私と共通点が多く、他人事に思えない。 母が戻ったら、その患者さんが無事かどうか聞きたいと強く私は思った。 ギュッと目をつぶって、その患者さんの無事を祈る私の前に一人の産婦人科医が立った。 私は驚いて相手を見返す。  すると私の眼前にクリップボードにまとめられた書類一式が出された。「この事務処理を最優先でやって。緊急案件だから」 言葉短くそう告げたのは、種村 崚佑産婦人科医だった。  私は初対面だったが、胸のネームプレートで、この人が幸恵の言っていた崚佑さんだと認識する。  初めて崚佑さんをみた印象は「若手アイドルみたいに素敵な人」だった。  幸恵も確かに崚佑さんは「すごくイケメン」だと言っていたが、その言葉に誤りはなかった。「キミ、名前は?」「え───?」 急に名前を聞かれて私は思わず「え?」っと声を上げる。  そして咄嗟に「杵島 充希です」と答えようとして、はっとする。 ───……違う!  ───私はもう「杵島」じゃない……! それは私に自分自身が離婚したのだということを強く思い知らせるのに十分だったが、今はその事で闇に沈んでしまうわけにはいかなかった。 私は気を取り直し「大和田 充希です」と旧姓を名乗った。「充希さん。これはね、さっき搬送された妊娠している女性の入院に関わる事務処理だから、すごく急いでる。すぐにお願い」 崚佑さんはそう言って改めてクリップボードを私に差し出す。 私は「わかりました」とクリップボードを手に取り、受け取ろうと引いたが───。「───?」 私がクリップボードを受け取ろうとしたが、崚佑さんが手を離してくれず、私はクリップボードを受け取れなかった。「あ、あの? どうかしましたか?」 私は尋ねるが崚佑さんはじっと私の顔を見つめるだけだった。  そのように見られて私はドキリとする。  こんなにも真正面から男性に顔を見られるのは久しぶりだった。「そうか、キミが充希さん。碧さんの娘さんの。なるほどだね。確かに碧さんに似て
last updateLast Updated : 2025-08-19
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第二十話 種村 崚佑

 崚佑さんは、それから一日一回、日によっては午前と午後の二回も私のもとにやってくるようになった。  私たちは、私のお腹の経過についてや、何気ない話を短時間だがやり取りするようになった。「昨日、納豆は食べた?」「はい。崚佑さんに言われた通り、ちゃんと夕飯にいただきました」「納豆は葉酸も多く含まれているから妊婦さんにおすすめ。血液サラサラ効果もあって美容にもいい。朝食メニューのイメージがあるけど、納豆の効果は長く続くから夜に食べた方が寝ている間も効果が持続して効果的」 そう解説しつつ、崚佑さんはメモ帳を取り出すと、そこに何かを書き込んだ。  崚佑さんは几帳面で、こまめにメモを取るが、私はそのメモの表紙に「大和田 充希」と私の名前が書かれていることが気になった。 わざわざ、私専用のメモを用意するなんて……。 少し嬉しい反面、過分に気にかけてもらっていることに対する「過保護感」もあって、若干だが居心地が悪かった。「碧さんも納豆を食べた?」「あ、はい。母が家に居るときは、夕食を一緒に食べると約束しているので、同じメニューをいただいています」「碧さんは忙しそうだから血液はサラサラの方がいい。夕飯に納豆を食べたなら安心」 崚佑さんは、またメモ帳にペンを走らせる。  そうしながら「……碧さんって家にいるときは何してるの?」とさり気なく私に尋ねた。  私は家にいる時の母の様子を思い返す。「タブレットで動画を観たり、小説を読んでいる事が多いです」「そうなんだ」「でも、すぐに寝ちゃいますけど」 しっかり者のイメージの母のだらしない部分を暴露して、私と崚佑さんは笑い合った。 私は崚佑さんと出会った当初、崚佑さんが頻繁に私のもとに来る事に戸惑いがあった。  まだ慣れていないというか、詳しく知らない相手なので、少なからず警戒心があったのだ。  幸恵が崚佑さんのことを「愛が重いタイプ」と言っていたので、気に入られると付きまとわられるのではないかという心配もあった。  だが今はこうして笑顔になれることもあり、崚佑さんの訪問は業務のちょっとした息抜きにもなって重宝していた。  何より崚佑さんは本当に気遣いができる人で、私のお腹の様子、日々の生活、精神状態の微妙な変化に敏感で、色々
last updateLast Updated : 2025-08-20
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