All Chapters of 『ふたつの鼓動が気づくまで』 双子の妊娠がわかった日に離婚届を突きつけられました: Chapter 41 - Chapter 50

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第四十一話 宗司の目覚め

宗司さんは周囲に目を配らせると、眉間に皺を寄せる。 恐らく、ここがどこかわからず、驚いたのだろう。「宗司先輩、大丈夫ですか?」 彩寧は宗司さんにくっつくかと思えるほど、顔を近づけ、宗司さんの目を覗き込む。 宗司さんは急に彩寧に迫られ、圧された様子だったが「……あ、ああ。大丈夫そうだ。ここは……病院か? そうか、俺は病院に運ばれたのか」と状況を徐々に理解し始めたようだ。「宗司先輩、何があったか覚えていますか? 大変な事故だったんです。車が爆発したんです。そして宗司先輩はその爆風で吹き飛ばされたんです。 なんですぐに逃げなかったんですか……。もしものことがあったらどうするつもりだったんですか……。宗司先輩がいなくなったら私……」 彩寧は喉を詰まらせ、それ以上、言葉を続けられなかった。 私は彩寧のその姿は計算でも演技でもなく、本心だと気付いた。 彩寧は本当に宗司さんのことを想っている───。 そのことを私は改めて認識した。「事故のことは……薄っすらだが覚えている。そうだ。俺が助けた運転手の男性は無事か? 意識がなく、ぐったりしていたのでまさかとは思うが……。あと、秘書だ。秘書も無事なのか? あいつは優秀な男だ。あいつを失いたくはない」 宗司さんは起き上がろうと上体を持ち上げたが、身体のどこかに痛みがあったようで「う……」と顔をしかめると、またベッドに身を戻した。「大丈夫ですか!?」 私も咄嗟に宗司さんに駆け寄る。 そして宗司さんの近くにいる事に悦びを感じる。 今、宗司さんは目を覚まし、私を見ることもできる。 寝ている宗司さんと違って、私は本当の意味で宗司さんと久しぶりに再会できたことを実感した。 言わなければならないこと、聞かなければならないこと、謝らなければならないこと、相談しなければならないこと───。 本当にたくさんのことが、その瞬間に押し寄せたが、私はぐっと涙を堪え、宗司さんを見つめ、そして言葉を待った。 宗司さんも私を見つめ返す。 その綺麗な瞳は少し大きく見開かれ、じっと私を見てくれた。 こんなにも宗司さんが私を見つめてくれたのはいつぶりだろう……。 私は嬉しさに包まれる。 それは宗司さんが無事で、目覚めてくれたことに対する安堵と相まって至福のように感じられた。
last updateLast Updated : 2025-09-09
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第四十二話 失われた記憶

その後、看護師の方が駆けつけ、意識が戻った宗司さんに様々な問診が始まった。 私と彩寧は一旦、病室から出され、宗司さんはその後、医師に連れられ、様々な検査をする為、検査室に入っていった。「また来るから、しっかり宗司先輩を看護しなさいよ。他の患者なんかどうでもいいわ。宗司先輩が最優先だからね!」 彩寧はそう言い捨てて病院を後にした。 私はそんな彩寧をぼんやりと眺める。 私の心は今、ここにはなかった。「───君は、誰だ?」 宗司さんに言われた、この一言。 私はまだ現実を受け入れられないでいた。 宗司さんは一部の記憶を喪失していた。 事故の事や、会社、仕事、そして彩寧のことは覚えているようだったが、大学の学生時代以前の記憶が全くなく、そして何より───そして何より私のことも記憶を失っていた。「彩寧のことは覚えているのに、私のことは忘れてしまうなんて……」 とても悲しく、また自分が惨めに思えた。「どうして……宗司さん。私が離婚届にサインをしたから?」 私は涙を流すことなく泣き続けた。「事故で記憶を失うことはよくある。稀に妊婦さんも出産の痛みで記憶を失う」 そう言葉をかけてくれたのは崚佑さんだった。「そうよ。恐らくショックによる一時的な健忘症ね。心配しなくても大丈夫よ、充希。すぐに記憶は元に戻るわ」 母も同様に私を慰めてくれる。 私も宗司さんの記憶喪失は一時的なもので、少しすれば元に戻るということはわかっていた。 ただ、何より、宗司さんが私のことを忘れてしまったという事実が悲しくて、そのショックから立ち直れないでいるだけだった。「それは典型的な選択的健忘の症状。一番大切な事だから忘れる」「ストレスで記憶を消し去りたい場合、自分自身が誰かを忘れることが多いの。それはストレスから自分自身を逃避させるためよ。逃避というけど逃げるという悪い意味じゃないの。誰だって大きな火が迫ってきたら逃げるでしょ? ストレスからの逃避はそれと同じ。人が持つごく当たり前の防衛本能よ。 そしてショック性の記憶喪失は、その人の大切な記憶だけを逃避させるの。それは衝撃でその記憶が傷ついたり壊れたりすることを防ぐため。だから宗司さんが充希を忘れているのは、充希との記憶を失いたくない、守
last updateLast Updated : 2025-09-10
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第四十三話 彩寧のお見舞いとタコパ

彩寧は、それから毎日病院を訪れ、つきっきりで宗司さんの看病を行った。 その甲斐甲斐しい様子はわざとらしく、周囲へのアピールと、私への当てつけが込められていた。 そうした意地悪をされることを、私は覚悟していたので何とか我慢することができたが、それでも仕事中、溜息が尽きない毎日だった。「宗司さんの記憶は今も戻らないの。私のことを思い出してくれないわ……」 私は細身の柳箸で、たこ焼き機のプレートに並べられたたこ焼きをクルクルと回しながら溜息交じりに愚痴を漏らした。「こればっかりは待つしかないわね……。記憶喪失は本人が思い出すまで、どうすることもできないから」 幸恵も同じく細身の柳箸でたこ焼き機を突き、たこ焼きをクルクルと回した。「あ、充希、その列のたこ焼きはもう焼き上がったんじゃない?」 幸恵はそういうと焼き上がったたこ焼きをお皿に取り分け、ソースと青のり、そして削り節をまぶしてから頬張った。 私と幸恵は、今日はタコパ───つまりたこ焼きパーティーをしていた。 今日は、母は病院の勤務日だが、幸恵は勤務が休みで、その休みを利用して幸恵も宗司のお見舞いに来たのだが、その帰りに、私が身を寄せている母・碧の自宅でタコパをすることにしたのだ。「彩寧の逃げ足の速さったら、なかったわね」 幸恵は「フッ」と鼻でせせら笑った。 確かに幸恵が宗司さんの病室に近づくと、幸恵の姿を見た彩寧が慌てて病室から出て行ったのだ。 正直に言うと、私はそんな彩寧の姿を見て、少し胸のすく思いがあった。「しかし、宗司のヤツ……。私の事も忘れているなんて……けしからん」 幸恵は宗司さんのお見舞いに病室を訪れた際、「私のことはわかる?」と尋ねたが、宗司さんの答えは「いえ……わかりません」という返答だった。「でも、事故で記憶を失うのは、壊したくない大切な記憶を守るためなんですって。だから宗司さんは幸恵の記憶も守っているんだと思う」 そう説明されると幸恵は少しくすぐったそうだった。「ま、まあ、私は宗司と中高一貫校時代に関わりが深かったからね」 幸恵はまんざらでもない様子だった。 私は幸恵と今後のことを相談しつつ、宵のうち頃までタコパを楽しんだ。
last updateLast Updated : 2025-09-11
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第四十四話 秘書さんの退院

 幸恵とタコパを楽しんだ翌日も私は病院に出勤し、業務にあたっていた。 そして面会時間になると彩寧がやってきて、ツカツカと早歩きで私の前を通り過ぎると、宗司さんの病室に向かっていった。 今日も大きな袋を二つも抱え、宗司さんに尽くす気満々のようだ。 私は、彩寧がわざと見せつけていることはわかっていつつも───何故なら、宗司さんの病室に行くのには、病院の入り口から私のいる事務部署の前を通らなくても、より短い距離でいけるルートがあるからだが───やはり溜息がでないわけではなかった。 肩を落としつつ、私は業務に取り組もうとパソコンに向き直ったが、そんな私の前に誰かが立ったようで、不意に私の手元に人影が落とされた。  私は、誰だろうと思って顔を上げる。 崚佑さんか、母・碧かと思ったが、私の目の前にいる相手は、その二人とは違う人物だった。「あ、あの、何か御用ですか?」 私は咄嗟に席を立ち、対応をした。 その時、瞬間的に「この人は誰だろう?」と思ったが、私はこの相手に見覚えがあり、ご用件を尋ねると同時に、誰であるかを思い出した。「あ、あなたは宗司さんの秘書さんですよね?」 私がそう言い当てると、秘書さんは覚えていてくれたことが嬉しかったのか、笑顔になってくれた。「はい。そうです。私は宗司社長の秘書です。そして充希夫人とは会社の受付でお会いしましたよね」 私は完全に思い出した。  そうだ。彼は私が宗司さんの会社を訪れた際、私が宗司さんの妻だと信じてもらえず、困っていた時に助けてくれた秘書さんだった。 私はその事は思い出したが、次に、その秘書さんがどうして私を訪ねてきたのだろうと疑問に思った。「実は、まず、充希夫人に謝りたくて来ました」 そう言うと秘書さんは腰を九十度曲げて私に頭を下げた。  急に謝罪をされて私は面食らう。「あ、あの、私に謝るっていったい何を───?」「私が車を運転していたんです。宗司社長を安全に目的地にお連れするのが私の責務なのに事故を起こし、宗司社長に怪我を負わせてしまいました。誠に申し訳ありませんでした」 そう言って秘書さんは尚も腰を曲げて頭を下げた。  私は慌てて秘書さんの肩を持って、頭を上げてくれるよう懇願した。「秘書さんだって大怪我をしたのに、無理を
last updateLast Updated : 2025-09-12
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第四十五話 宗司の事務手続き 1

それからさらに数日が経過したが、宗司さんの記憶はまだ戻らなかった。 因みに、宗司さんの会社は、宗司さんのお父様の杵島 巧三が代わりに経営を行っているようで、問題はないとのことだった。 今日は珍しく彩寧が宗司さんのお見舞いに来ていなかった。  その事を見越してなのか、母・碧が私に書類を渡してきた。「これは宗司くんの入院に関する事務手続きの書類よ。実はまだ正式に宗司くんに記入をしてもらっていないの。  充希が宗司くんの病室に行って、記入してきてちょうだい」 私は母にお礼を言って宗司さんの病室にやってきた。 宗司さんは記憶こそ戻っていなかったが、身体はすっかり回復していてベッドで上体を起こした状態で、ノートパソコンに向かっていた。「やあ、あなたですね。こんにちは」 私が病室に入ると宗司さんは気さくに挨拶をしてくれた。 私は嬉しく思う反面、こうした挨拶は宗司さんが記憶を失っているからしてくれるのであって、もし記憶が戻ったらどんな挨拶になっていたのだろうと考えてしまい、なんとも微妙な反応を宗司さんにしてしまった。「あの、今日は入院に関する事務手続きで、お伺いしないといけないことがあって来ました。今から必要事項をお聞きしますので、宜しくお願いします」 そう言って私は宗司さんのお名前や生年月日、マイナンバーカードの番号や加入している保健について質問をする。 それは他人行儀な事務手続きだったが、私はこうして宗司さんと受け答えをすることが本当に嬉しかった。  私が尋ねると、宗司さんはなんでも答えてくれた。  夫婦生活を行っている際、私たちはこんな風に自然な会話をすることもなかった。  そのことが今になってとても残念に思い、私は胸が締め付けられた。 徐々に言葉を詰まらせていく私の異変に気付き、宗司さんは「大丈夫ですか?」と優しく声をかけてくれた。  そのことが嬉しくて私はますます言葉を詰まらせたが、なんとか質問を続け、ついに宗司さんの家族構成の項目に質問が及んだ。「あ、あなたは……ご、ご結婚をされていますか……?」 既婚者かどうかを確認する簡単な確認項目だったが、今の私にとって、この項目は核心的で、宗司さんに尋ねるのに勇気がいる項目だった。 ここまで質問にスラスラ
last updateLast Updated : 2025-09-13
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第四十六話 宗司の事務手続き 2

 やはり宗司さんは結婚していたという記憶を失っていた。 私の事を忘れているので、それは当然といえば当然だが、私は結婚を忘れられていることに胸が痛まないわけではなかった。 だが、事故のショックで記憶を失う場合、大切な記憶を忘れることで壊れることを防ぐという。  それならば宗司さんが結婚のことを忘れているということは、宗司さんにとって大切な記憶であると考えられなくもなかった。  私は繰り返しそのことを自分に言い聞かせ、この辛い状況に耐えた。「……お、奥さんのことを愛していましたか?」 私は思わず、そう尋ねてしまった。  無意識に近い状態で言葉が口を衝いて出てしまったのだ。  私はとんでもないことをしてしまったとハッとしたが、出してしまった言葉を飲み込むことはできなかった。「その質問は……。その質問は、項目にそう書かれているんですか?」 宗司さんも少し驚いたようだ。「あ、す、すみませんっ! い、今の質問は、わ、忘れてくださいっ!」 私はあたふたとするが、宗司さんは柔和な笑顔で私に「大丈夫ですよ」と声をかけてくれた。「どうも入院していると退屈で、話し相手が欲しいと思っていたところです。  結婚生活も、妻の記憶もありませんが、妻のことをどう想っていたかの気持ちの記憶があります」 ───宗司さんが私をどう想っていたかの記憶がある? ───聞きたい。宗司さんが私のことをどう想っていたのかを。 瞬間的に私はそうした欲望が沸き上がり、緊張した面持ちで、宗司さんがどういった言葉を述べるのかを待ち構えた。 宗司さんは顎に手をあてて「そうですね……」と唸りつつ───。「妻のことは好きだったと思います」 その一言は、香しい花の芳香でいっぱいの温かい風のように私を包んだ。  私は合格を告げられた受験生のように歓喜で全身が沸き上がった。「───しかし」 私は嬉しさが胸一杯に広がっていたが、宗司さんの「しかし」という「逆接の接続詞」で、一瞬でまた緊張する。「……なんでしょう……。とても気持ちが複雑なんです。妻のことは好きだったようではあるのですが、愛していたとは少し感情が異なるというか……。  好きだという気持ちは間違いないので、愛していたとも言えると思うのですが、そう言い切れない何か引っ掛かりがあるん
last updateLast Updated : 2025-09-14
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第四十七話 宗司の事務手続き 3

丁度、その時、正午を告げるチャイムが病院内に流れた。 私は自分が長い間、宗司さんの病室にいたことにハッとした。 書類の記入の為の聞き取りは、すぐに終わるはずだったのだが、ついつい宗司さんと話し込んでしまっていたのだ。「おや? どうやらもう正午のようですね」「す、すみません。書類の作成だけなのに長居をしてしまいました。続きはまた後程にでも───」 私は席を立ち上がって病室を去ろうとするが、宗司さんに呼び止められる。「いえ、まってください。せっかくなので書類の作成を終わらせてしまいましょう。 もし宜しければ病院のカフェテリアにいきませんか? これから病院食の時間ですが、病室で食べると味気ないので、いつもそこでいただいているんです」 宗司さんにそう提案されて、私もお昼休憩でお弁当を食べる時間だったので、申し出を受けることにした。 日当たりの良い院内にあるカフェテリアで私たちは向かい合って座り、昼食を共にした。 こうして宗司さんとランチを共にすることに、私の胸は高まらずにはいられなかった。「病院食は美味しくないというイメージがありましたが、全くそんなことはありませんでしたね。 メニューも豊富で、こんなに美味しいとは思いませんでした」「最近では病院食が一般にも販売され、栄養バランスや健康、ダイエットに最適だと注目されています。関係者の不断の努力には頭が下がる思いです」 私たちがそう話しながら食事をしていると幸恵がやってきた。「へえ、二人で食事をしているんだ。ひょっとして宗司の記憶が戻ったの?」 幸恵はそう期待したが、頭の片隅では「でも、それなら逆に一緒にランチをしたりしないか……」と思っている様子だった。 幸恵の姿を見ると、宗司さんはわずかに眉間に皺を寄せた。「あなたにお会いすると緊張します。腕のうぶ毛がピリピリするんですよ」 幸恵は不敵な笑みを浮かべると「それが何故なのか、記憶が戻った時が楽しみね」と宗司さんに挑発的な言葉を投げつけた。「午前中に宗司さんの事務書類の作成をしていたんだけど、時間が長引いてしまって───。 私が余計な質問をしたりするからなんだけど……」 私が説明すると幸恵は「余計な質問?」と小首を傾げた。「妻を愛しているかどうか、などですね」 宗司さんが冗談交じりで言葉を
last updateLast Updated : 2025-09-15
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第四十八話 妻への感謝

「ところで、三人でなんの話をしていたの?」 母が私に尋ねた。  この三人でカフェテリアにいることがよほどめずらしかったのだろう。「充希が、宗司に奥さんを愛していたかどうかを訊いているんです」 幸恵がストレートに母・碧に言ってしまったので私は飛び上がった。「ちょ、ちょっと幸恵。もうちょっと言い方を───」 私はあたふたし始めたが、幸恵にそう聞かされた母は真顔になって「それは……興味深いわね。私も聞かせてもらいましょう」と空いている席に座った。  私は「とんでもないことになってきた……」と生きた心地がしなくなった。「妻を愛していたかどうか───。その質問に対する答えですが、今思うと「感謝」という気持ちが一番合っている様に思います」 宗司さんの答えに「「「感謝?」」」と、私たち三人の声が重なる。「感謝とはどういうことでしょう……?」 三人を代表して私が宗司さんに尋ねる。「それが……。どうもそこがモヤがかかったようにはっきりしなくて……。無理をさせてしまっているというか、自由を制限しているというか……。  さらにこれは「申し訳ない」という気持ちもあるようです。どうやら自分がしっかりしていなかったことで苦労をかけていたようです。この件を思い出そうとすると贖罪の念が強まります。  妻に謝りたい。そうした気持ちが高まるんです」 私と幸恵、そして母の三人は真剣に宗司さんの話を聞いた。 自然と私はポロポロと涙がこぼれ始める。 まずは嬉しさ───。  宗司さんがそんな風に自分のことを想ってくれているという喜び。 そして次に申し訳なさ───。  宗司さんが責任を感じていたのに、わかってあげていなかった事、そして助けてあげられなかったことに対する心苦しさ。 他にもこうして話をしているのに、自分があなたの妻だったことを打ち明けていない後ろめたさなども相まって、私は涙が溢れたのだ。 私は全てを洗いざらい、今、白状してしまおうかと思う。 偽装でも結婚できて嬉しかったこと。  だから離婚届を突き付けられて悲しかったこと。  離婚届にサインをしてしまったこと。  妊娠したこと。  そして、やはり宗司さんが今でもとても大好きだということ。 宗司さんは私がポロポロと涙を流すので、驚いたようだ。「だ
last updateLast Updated : 2025-09-16
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第四十九話 きっかけ

 宗司さんは、強い頭痛に苛まれ始めた。 母・碧が、宗司さんに駆け寄る。 私と幸恵は見守ることしかできなかった。「俺の会社のデスクに写真が飾られている。その写真と一緒に、その刺繍に関する何かを……何かを置いています。それを見れば……何かを思い出すかもしれません」 そこまで言うと宗司さんは頭を抱えて蹲ってしまった。「充希、あなたは宗司くんの会社に行って。そして、その「何か」を見つけてきて」 母は真っ直ぐに私を見つめ、強い決意で私の背中を押した。「行こう、充希。私も一緒に行く」 幸恵はそう言って荷物をまとめた。「わかった。行ってくる。宗司さんの会社に行って、その「何か」を見つけてくる」 私も決意がみなぎり、席を立ち上がった。  * * * 職場には「急用ができた」と早退を申し出て、私は幸恵と宗司さんの会社に向かった。「宗司さんの言う「何か」ってなんだろう……?」 私はそれがなんであるかを考える。「うーん……。ちょっと想像がつかないんだけど、充希の刺繍に何か関係があるのは間違いなさそうね。心当たりはないの?」 私の刺繍が関係する「何か」とは……。  しかも、宗司さんはそれを会社のデスクに置いてくれている。  考えれば考える程、私はそれが何であるかが気になった。  * * * 程なくして宗司さんの会社に着いた私と幸恵は社屋のビルを見上げる。「何度来てもこのビルの大きさには圧倒されるわね……」 幸恵が独り言のように呟いた。 私は、幸恵と全く同じ気持ちだったので「そうね」と答えつつ───。「あれ? 幸恵も宗司さんの会社に来たことがあったんだっけ?」 私はふとその事を疑問に思った。  私がその点に触れると、幸恵は目に見えて慌て始めた。「し、しまった……! あ、あのね、充希には黙っていたんだけど、充希が救急車で運ばれて入院した時に、宗司に会いに来たの。充希が余りに大変そうだったから、宗司に一言文句をいってやろうと思って……。  ───充希、黙っててごめんね」 幸恵は申し訳なさそうにしたが、私はそうした感情に正直で、行動力のある親友を「幸恵らしい」と可愛く思った。  そして何より、私の為にそうしてくれたことが嬉しく「いいのよ、幸恵。そ
last updateLast Updated : 2025-09-17
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第五十話 宗司さんの会社で

 宗司さんの会社に一歩足を踏み入れた私は緊張した。  勢いでまた会社に来てしまったが、そういえばどういって社長室に入れてもらうか考えていなかった。 以前なら───離婚届にサインをする前なら、まだ「社長夫人」という立場で入れてもらえる可能性があった。  しかし、今の私はそうした立場になかった。  その事実に、私はもう何度目かわからないが、また、胸を痛めた。「正直にありのままを言って、お願いしてみるのが一番よ」 そう言って幸恵が私の手を握ってくれた。「私たちが宗司の為に、ここに来たのは間違いないんだから、堂々と申し出ればいいだけよ」 私は幸恵の存在を心強く思う。  そして幸恵の言う事がもっともだと思い、受付に進んだ。「あ、あの、私は───「ああ、宗司社長の奥様ですよね」」 私が申し出ようとすると、受付にいた女性が被せ気味に私のことを宗司の妻であると言ってきてくれた。「先日は、宗司社長の奥様と気付かず、大変失礼をしました」 女性は席を立つとお腹の前で手を重ね、腰を四十五度折り曲げて私に謝意を示した。 私は慌てて手を振って、受付の女性に頭を上げてくださいと懇願する。  彼女にはなんら非はない。突然、会社を訪問した私が悪いのだ。  約五秒ほど、受付の女性は頭を下げたままだったが、ようやく元の姿勢に戻ってくれた。  私はその五秒は一分以上もの長い時間に感じられた。「それで奥様。本日はどういったご用件でしょうか?」 受付の女性は、あくまで私を「社長夫人」として扱ってくれた。 そうか……。  彼女は私が離婚届にサインをし、もう宗司さんの妻でないことを知らないのか……。 その事には隣にいた幸恵も気付いたようだ。  幸恵はこの状況を利用しない手はないと瞬時に判断したようだった。「じ、実は宗司社長が入院していて、私たちは今、お見舞いに行っていたところだったんですが、宗司社長から、どうしても会社のデスクにある物を持って来て欲しいと頼まれたんです」 幸恵が咄嗟に「方便」を繰り出すのを私は黙って聞いた。  そして、幸恵の「方便」に同調する為に「そうそう、そうなんです」と何度も頷いて見せた。「まあ、そうだったんですね。宗司社長のお加減はどうですか? 社員一同、本当に宗司社長を心配しているんです。  
last updateLast Updated : 2025-09-18
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