All Chapters of 隣の彼 じれったい近距離両片思いは最愛になる、はず。: Chapter 21 - Chapter 30

92 Chapters

職員食堂での遭遇②

 皿を洗う音、楽しげなお喋り。小鳥は一人、窓際の温かな春の日差しの中で半ばウトウトしながらランチA定食のほかほか湯気の立つ白いご飯を頬張っていた。(301号室とか、もう如何でも良い様な気がする。) そして白地に緑の模様の小鉢に手を添え、黒いひじき煮のふっくらとした大豆を口に運ぶ。甘い、美味しい。「ね、ちょっと見て」 「イケメン」 「議会事務局の人、だよね」 そんな背後から小声が漏れ聞こえる。振り向くと長四角のテーブルには数名の女性職員が座り、こちらを見ている。その一人とばちっと目が合い、彼女は急に顔を赤らめて目を逸らした。「かっこいい」 丸聞こえである。もう慣れたが、出来れば静かに見守って欲しい。 すると食券販売機の行列も疎な職員食堂の入り口が急にざわめき始めた。 小鳥が何だろうと鯵の開きから視線を移すと、異空間が広がっていた。 赤い議員バッジ。そこには肘までの栗毛の巻き髪を掻き上げた久我今日子議員が仁王立ちしていた。背景に真紅の薔薇が乱れ飛ぶ、そんな錯覚に陥る。(うわぁ、うちの狸とは違いすぎる) と、また背後から小声が漏れ聞こえる。「久我さんが食堂に来るのって珍しいね」 「うん、超違和感」 「別世界だよね」 (・・・確かに) そして久我議員はカツカツと小鳥の脇を通り過ぎ、少し離れた机に赤いネイルの爪先でパイプ椅子を引き出すと背もたれに寄り掛かり、細く美しいラインの脚を組んだ。(あの人が、久我今日子議員。初めて見た。大人の女性の色気) 「あ、じゃぁ居るんじゃない?」 「きっと居る、居る」 「あ、並んでる」 と、また背後から小声が漏れ聞こえる。何が居るんだと思いつつ、小骨を避けながら鯵の身をむしり口に運ぶ。「来た、来た」 長身の黒いスーツ、グレーのYシャツに黒に臙脂のストライプのネクタイを締めた男性が、そのゴージャスな職員食堂の一角へと湯気の上がる銀の皿と丼を乗せたトレーを持って歩いて行く。背中を向けた男性の顔は見えない。 背後からまた女性職員の声が漏れ聞こえる。「近江隆之介、こっち向かないかなぁ」 「イケメンだよねぇ、うちの課に来て欲しいわ」 「抱かれてみたい」 (あれが近江隆之介) 議員秘書の長野さん情報によれば、初出勤の朝、6階エレベーターホールで小鳥と目が合ったイケメンの名前は近江隆之介、国主党市
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

職員食堂での遭遇③

 小鳥は思わず味噌汁茶碗と箸をトレーに置き、その言葉を脳内で反芻した。ついでに口の中のわかめとネギも反芻した。(議員と秘書が、不倫。あぁ、あれね。ドラマとかであるあるパターン。) 何となく喉がジワリと熱くなり、込み上げて来るものを感じた。前頭葉が頭蓋骨の中でグルングルン回っている様な気さえする。(え、何これ。何でこんなにショックなの) 震える手で箸を持ちご飯茶碗に手を添えるが重くて持ち上がらない。ふぅ、と思わずため息が出て、この場から一分一秒でも早く立ち去りたかった。トレーを眺め、両手を合わせる。(ごめんなさい、残します) 初めて食べたランチA定食は少し味気の無い物になってしまった。椅子を引いて立ち上がろうとした時、久我議員が彼に水を取って来てとでも頼んだのだろう。近江隆之介が両手にプラスティックのコップを持ってくるりと此方に振り向いた。既視感 小鳥はそんな事が有る筈も無いのに、近江隆之介がコップを持つ仕草を以前にも見たような気がした。 一歩、二歩と近江隆之介が近づいて来る。 丁度、小鳥と近江隆之介が斜向かいになった時、二人の目と目が合った。 小鳥は思わず身構えたが、近江隆之介は口元を緩め、冷たそうな目尻を少し下げて見下ろした。微笑んだのだ。 何が何だか良く分からなかったが、取り敢えず引き攣った笑顔でそれに応え軽い会釈、近江隆之介もぺこりと頭を下げた。背後の福祉課の女子職員が囁く。「何、あれ。半端ない破壊力」 「笑った顔とか初めて見た」 「ドキドキしたぁ」「誰を見たの?」 「後ろのイケメンにじゃない?」 「あ、秘書仲間、とか」 ムカムカと気分が悪い小鳥はガッと立ち上がった。椅子の背もたれに顕になったのは、膝丈のタイトスカート。「じょ、女子?」 そんな良く有る勘違いも、意味深な笑顔も、不倫も全部、残飯専用のゴミ箱に捨てて皿が乗ったトレーを配膳棚に戻した。「ご、ごちそうさまでした!」 高鳴る心臓、意味不明の微笑み。(破壊力、半端ない笑顔とか!) そしてゴージャスな久我今日子議員の微笑み。(そ、それに不倫関係とか!) この訳が分からない状況に戸惑う小鳥は、その黒いショートヘアをボリボリと掻きながら足早に、旧館のエレベーターのボタンを押した。               ***  片や給水機でタポタポと水滴の付い
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

マカロン大作戦

 てんとう虫のロゴが可愛いパティスリー オフク。マカロンをランチのデザートとして選ぶ職員も多い。 その日、その場所に似合わない黒いスーツの男が腕を組んで順番を待っていた。間口の狭いガラス張りの店内は外から丸見えだ。「あれ、近江隆之介よね」「議員さんのお菓子でも買いに来たのかな」(何とでも噂してくれ) 近江隆之介はあいつの携帯電話を返却する為の小賢しいアイテムを選択中だ。万が一、日にちが開いても傷まないスイーツといえば焼き菓子だろう。「この花の付いた、桜とブルーベリーと、塩、あ、それも」 ついでにと言いつつも、色合いやフレーバー等かなり吟味して選んでいる。「袋、お付けしますか?」「あ、紙袋、手提げ袋でお願いします」 オフクのマカロンはせめてもの好感度アップを狙っている。万が一、金曜日の夜の男が自分なのだと身元が明らかになった時は、平謝りをして全容を一から順に説明して行こう。全裸でも添い寝しただけ。しかも脱ぎ出したのはおまえから。と。(それは説明になってねぇだろ。言い訳どころかあいつに責任転嫁してるだけじゃねぇか)「ありがとうございます。3,080円になります」「あ、はい」 二十円のお釣りが来た。近江隆之介の好感度アップ作戦は3,080円だったキッ その晩も久我議員の送迎で遅くなった近江隆之介は自転車を走らせ、寺町のマンションへと帰った。ふと見上げる3階角の自分の部屋の隣、302号室のベージュのカーテンからは灯りが漏れ、高梨小鳥が在宅である事が見て取れた。(あぁ、あの夜が無ければなぁ) 金曜日の晩、欲を出して自分の部屋に彼女を入れていなければ今頃は相思相愛の甘い日々を送っていたかもしれない。そう思うと自分が情けなく、自転車を担いで郵便ポストからダイレクトメールを取り出すと力無くエレベーターのボタンを押した。ポーン 近江隆之介は音を立てない様に忍足で外廊下を歩いた。力の入れ具合で黒い革靴がコツンと響いたので慌てふためき、また、自転車を床に下ろす時は警察の爆弾処理班の様に静かに行った。そして302号室の玄関ドアが開いた時に素早く隠れるように301号室の鍵をそっと開け、肩に担いでいた黒のビジネスリュックとダイレクトメールは玄関の中に置いた。 耳を傾ける。そこに高梨小鳥の気配は無い。(くっ。) 腕を最大限
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

天然記念物包囲網

 近江隆之介のマカロン好感度アップ作戦は功を奏したが、それが高梨小鳥の興味関心を引く起因となってしまった。近江隆之介は危機感を感じていた。高梨小鳥が301号室が誰であるのかを”知りたそう”にしている。(あ、またいる。) 野党の事務職員が与党の6階フロアを行き来する事は稀だ。それにも関わらず昼休憩の時間になると小鳥は6階フロアをフラフラと歩き回り、議会事務局のカウンターの辺りをウロウロし、地下の職員食堂でも落ち着きなくキョロキョロしている。 そのお陰で近江隆之介は彼女が通り過ぎるのを待って廊下を横切り、議会事務局での手続きを後回しにし、地下食堂の食券売り場に小鳥が並んでいる時は外のコンビニエンスストアに弁当を買いに走らなければならなかった。 この時点で近江隆之介があの男だと知られて居ないのだから堂々としていれば良いのだが何と無く後ろめたい。「坊や、あなた何だか挙動不審よ?」「そ、そうですか?」 そう久我議員に指摘されてしまった。 小鳥は朝が苦手らしく反応は鈍かったが、時々妙に早起きで玄関に気配を感じる時がある。そんな時はこっそり自転車を部屋の玄関先に取り込み、出勤した振りをする。そして彼女が玄関ドアを閉め、そのパンプスの靴音が聞こえなくなってから出勤した。荒天時や飲み会で通勤にバスを使う時は数分後、次に到着するバスに乗り、小鳥と顔を合わせない様に努めた。「坊や、あなた最近、出勤時間が遅くない?」「そ、そうですか?」 そう久我議員に注意されてしまった。 小鳥の夜は早く、21:00にはカーテンから漏れる灯りが消える。近江隆之介は元来、議員秘書という事で会合の送迎等で帰宅は遅かった。但し、高梨小鳥も稀に夜更かしして玄関に気配を感じる時があり、そんな時は自転車を外の自転車置き場に停めて革靴を脱いで忍足、顔をビジネスリュックで隠しながら部屋に戻った。「坊や、あなた何だか疲れてない?」「そ、そうですか?」 そう久我議員に心配されてしまった。 それでもこの攻防戦に負ける訳にはゆかない。あの一夜が詳らかになればこの片思いは失恋まっしぐらだ。近江隆之介は高梨小鳥からとことん逃げ続けた。                   *** あれから2週間。携帯電話は無事手
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

キツネの楠木 大吾

 そして今日も小鳥は国主党議員控室がずらりと並ぶ6階フロアをウロウロと歩いていた。給湯室から出て来た男性事務職員、コピー室から山積みの冊子を抱えて出て来た男性議員秘書の顔を覗き込みその目を見たが、誰一人反応する者は居なかった。(うう〜ん、あやつめ。尻尾を出さぬ) 一番広くて一番立派な議員控室を何気無しに覗き込んだ時、扉の陰からヌッと手が伸び、小鳥の二の腕をむんずと掴むとその部屋に引き込んだ。「え、え、え」 あっという間に小鳥はフローリングの床をズルズルと引き摺られ、議員控え室の奥に連れ込まれた。「え。」ドンっ! 小鳥はその手を振り払う間も無く顎を掴まれると背中を壁に押し付けられた。目の前には、笹で切った様な切れ長の目に細い銀縁スクエアの眼鏡、白髪のオールバック、頬の痩せこけた陰湿な雰囲気の顔。全体的に骨張り、グレーのスーツに白に紺の細いストライプのYシャツ、真っ赤なネクタイ、胸元には濃赤の議員バッジがあった。(議員さん、だ)「お前、何をしている」「え」「狸んとこの新しい事務職員だな」「は、はい」「此処のフロアに何の用だ」「え。何、とは」 ドスの効いた低い声。「狸に頼まれたのか」「い、いいえ」「正直に言え」「違い、ます」「ふん。まぁ良い」 そしてその議員は小鳥の顔を凝視した。「あぁ、お前が噂の男女か」「い、痛」 ギリギリと小鳥の顎を掴む力が強くなる。「確かに男みたいだが、こうして近くで見ると女、だな」 ジリジリと顔が近付いて来た。煙草のヤニ臭さに顔を背けた。「眼鏡を外すとどんな顔だ、ん?」「あ、あの」 ニヤリと醜く歪んだ口。骨ばった指先がスルスルと伸び、小鳥の眼鏡のツルに手を掛けた。ヤニ臭い息が頬に吹き掛かる。小鳥は思わず目を瞑った。(いやだ!) コンコンコン 背後の扉が三回鳴った。議員の指が止まる。「楠木議員、何をされて居るんですか」 ドアの方から、低く奥深い声が響いた。その楠木議員と呼ばれた男の動きがピタリと止まり、ゆっくりと背後を振り向く。逆光の中浮かび上がる長身、緩いパーマがかった髪。(楠木、この人が議会で一番偉い人) そして恐る恐る瞼を開いた小鳥の目に映ったのは、議員控え室前の廊下に立って居る黒いスーツにグレーのYシャツ、臙脂のネクタイを締めた近江隆之介だった。「
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

狐の楠木大吾②

それは突然の出来事に訳が分からないと言った表情で助けを求めていた。「お前に関係ない、秘書が口出しするな」「そうですか。失礼しました」(え、行っちゃうの?行っちゃうの!?) 近江隆之介が扉の向こうに姿を消すと、楠木大吾は邪魔者が居なくなったとばかりに小鳥の両脚の間にその太腿を割り込ませた。タイトスカートが捲り上がる。気持ち悪い。(え、何で。やだ)「じっとしていろ」「や、でも」「動くな」 すると再び、議員控え室の扉が三回コンコンコンと音を立て、蜂蜜の様な甘い声が背後から響いた。「あらぁ、楠木さん。何なさってるのぉ」 グレースーツの肩の向こうには、白いカッターシャツに黒いタイトな膝上のスカートを履いた久我今日子が、肘までの栗色の巻き毛を右手で大きく掻き上げて立っていた。相変わらずゴージャスで、真紅の薔薇の花弁が舞い散って居る様だ。瞬間、小鳥の太腿の楠木大吾が飛び上がった。「お、おぉ。久我くん」「楠木さんたら、いつからこんな男の子がお好みになっちゃったのぉ?」 久我今日子はつけまつ毛をバサバサさせ不敵な笑みを浮かべた。豊かな胸を揺さ振り、腰付きも妖しくコツコツと艶消しの黒いパンプスの音を鳴らしてフローリングの床を進む。そして壁に張り付く小鳥と、戸惑いが隠せない楠木大吾の隣に並んだ。「ヤダァ。この頃、楠木さんからお誘いが無いのはこういう事?」 久我今日子はベージュのネイルの指先に栗色の巻き毛をクルクルと絡めながら豪奢なマホガニーの机に寄り掛かった。机がぎしっと軋む。さり気無い滑らかな動きで右脚を上げると左脚で足を組んだ。長く細い足、程よい肉付きの太腿、膝上のタイトスカートの皺、その隙間から色香が漂って来る。「酷いんじゃなぁい?」「い、いや」「寂しいなぁ、やっぱり若い子が良いんだぁ」 真っ赤で厚い下唇を尖らせ、拗ねた仕草で楠木大吾を見上げる。「そういう事じゃあ無いんだよ」「ふぅ〜ん」 久我今日子はベージュのネイルを真っ赤な艶っぽい唇に当て、色気有る仕草をしながら小鳥に目配せをし、出入り口ドアを指差した。「す、すみません。失礼します!」 小鳥は深く頭を下げると小走りで廊下に飛び出した。丁度通りかかった事務職員にぶつかりそうになり慌てて身を捩った。「ご、ごめんなさい!」 後ろを振り返って見ると、久我議員の腰あたりに楠木大吾の骨
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

狐の楠木大吾③

 小鳥が昼休憩に6階フロアを徘徊し、楠木大吾市議会議長にあらぬ疑いを掛けられ一悶着があったと、国主党の久我議員から議会事務局に一言あったのだろう。翌日出勤した小鳥は、狸、いや田辺五郎議員と藤野建議員から厳重注意を受ける事となった。気まずい沈黙が流れるソファで小鳥は身を縮こませていた。「小鳥くん」「はい」「小鳥くんは自主党の会派事務職員だね?」「はい」「なら、6階の国主党のフロアに行く必要はあるかな?」 田辺議員の穏やかな中にもいつもよりもピリリとしたものを感じた。「ありません」「そうだね」 横から藤野議員が和かな声で、けれど念を押す様に言葉を続けた。「小鳥ちゃん」「はい」「今は大事な時期だからね」「何、か。あるんでしょうか?」「それは君にはまだ言えないけれど、行動には十分気を付けて」「はい」 いつもヘラヘラと軽薄そうな藤野議員の真剣な表情にただならぬものを感じた小鳥は「はい。」と頷いた。厳重注意、それは無闇矢鱈に6階に立ち入らない事。けれど6階に行けないという事は、近江隆之介とすれ違う確率が減ったという事を意味していた。(あぁ、一目でも良いから会いたいなぁ)小鳥は白い携帯電話の待受画面を残念そうな顔で眺めた。
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

カウンターチェア

 若者やサラリーマンが賑やかに酔い潰れる片町。その喧騒が届かない街灯も疎な薄暗い一方通行の細い路地。小さな交差点が等間隔で続く竪町の一角にそのバーは有った。真鍮のドアノブに手を掛ける。木枠にすりガラスを嵌め込んだドアをギィと開けると、カランカランと乾いたカウベルの音が響いた。「いらっしゃいませ。」 黒髪をオールバックに撫で付け鼻の下に髭をチョンと生やした落ち着いた雰囲気のバーテンダーがグラスを白い布巾で拭いながら軽く会釈をした。照明は温かなオレンジに染まり仄暗く、ウォールナットの背もたれの付いたカウンターチェアに久我今日子は脚を組んで座っていた。「お待たせしました」「そうでもないわ。私も今、来た所」 肩の雫を払いながら藤野建はその隣に腰掛けた。バーテンダーに目配せし、彼女と同じ物をと注文する。「雨が降って来たの?」「ええ。」「いやぁね。」「雨降って地固まるですよ。」「それなら良いわね。」黒いビジネスバッグを持ち上げジッパーを引き、クリアファイルに挟まった書類を取り出そうとすると久我今日子はベージュのネイルでその動きを静止した。「お待たせしました。」 二人の会話のタイミングを見計らい、バーテンダーが白いコースターをカウンターに置きそっとグラスを乗せた。琥珀色に球体の氷が沈み、卓上ランプの灯りを弾いている。カチン「お疲れさま。」「お疲れさまです。」 少し水滴のついたグラスを手に取った二人は静かにそれを重ねた。「あなたが誘って来るなんて。」「僕だって、久我先生がこの話に乗るとは思いませんでした。」「私にとってあなたたちは魅力的な物を持っているわ。」「ええ、先生が喉から手が出る程、欲しいものです。」「藤野さんは何が欲しいの?」「人が、人が多ければ多いほど良い。」「欲張りね。」 久我今日子は、頬杖を突きながらガラスの器に転がる黄緑色した大粒のシャインマスカットを摘み、藤野建のふっくらとした魅惑的な唇に含ませた。
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

街頭演説とデモ行進

 雨が降っている。シトシトと湿っぽい金沢らしい雨だ。身に纏わり付く湿気。ポン!庁舎裏出入り口に真っ赤な傘の花が開いた。(五月雨や上野の山もなんとか、だなぁ) ノーフレームの眼鏡に霧雨の様な雨粒がポツポツと付く。首から下がるネームタグには高梨小鳥。透明なクリアファイルに何枚かの書類を挟み、今は田辺議員の依頼で金沢中警察署に”道路使用許可”の申請をする為に石畳のカーブを歩いている。(近道していこ〜う) 今日は初めてのおつかいで、警察署に行くのも生まれて初めてだ。悪い事など一つもしていないのに、意味もなく心臓がドキドキする。ベージュ色の煉瓦貼りの”金沢中警察署”、真正面にはピカピカ金色の旭日章、赤色灯を回転させたパトカーが出入りしている。(いやぁ、なんか、嫌な雰囲気) 小鳥が意を決して警察署の階段を踏む頃、黒い男物の大きな傘が歩いて来た。近江隆之介である。手には黒いビジネスバッグを抱えている。彼もまた、街頭宣伝に使用する”道路占領許可”の申請の為に金沢中警察署を訪れていた。ふ、と視線が赤い傘を畳む姿に釘付けになる。(お、高梨小鳥) 意図せずその姿を目の当たりにしたが、申請手続きの時間をずらそうにも警察署も閉庁間際、まごつく時間は無かった。(冷静に。平常心、落ち着け、大丈夫。高梨は気付いていない) 近江隆之介も小鳥の後を追う様に階段を上がり、出入り口に立つ守衛に軽く会釈をして黒い傘の雨粒をバサバサと払い、手際よく折り畳んだ。カタン 傘立てには高梨小鳥の赤い傘。近江隆之介は赤い傘のすぐ隣に黒い傘を立て掛けた。寄り添う二本の傘を見て内心ニマニマとほくそ笑む。(あぁ、高梨と俺もこんな風に) 近江隆之介は今日も絶賛片思い中で、自動ドアの向こうの高梨小鳥の背中を見つめた。
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more

街頭演説とデモ行進②

 二重の自動ドアが開く。その真正面が”交通課”、ここで”道路使用許可”、”道路占用許可”の申請をする、申請書と使用占拠する場所の図面、2,300円程度の使用料をカウンターに提出して終了だ。(今日はフレアスカートか、これはこれで良いな) 近江隆之介はひと区間離れて順番を待った。そんな簡単な手続きにも関わらず、高梨小鳥はカウンターの女性署員に説明を受けて狼狽している。「はい、この申請には図面が必要になります」「ず、図面ですか?」「有りませんか?」「え、えと」 高梨小鳥はクリアファイルの中身をカウンターに広げてグレーのA4版の藁半紙を探すがどうやら忘れた様だ。「この申請書、今日までに出さないとダメですか?」「拝見します」 後ろ姿が困惑しているのが手に取るように分かった。イライラというよりも彼女がちゃんと手続き出来るのかハラハラと心配になり、近江隆之介は気が付けば高梨小鳥の脇に立ち、その申請書に目を落としていた。「ちょっと見せてみろ」 それは前屈みになり小鳥の顔のすぐ横、頬と頬が近付いた。(あ!あ!?近江隆之介!) 突然、隣に現れた片思いの相手のイケメンを間近に、高梨小鳥は度肝を抜かれた。心臓が跳ね上がり、耳の先端の毛細血管が耐えられない!と叫び出した。そしてふわりと鼻をくすぐる甘いグリーンウッドの匂い。(整髪料かな?良い匂い。)「あぁ、おまえこれ今日出さないと間に合わねぇじゃん。申請は5日前まで、聞いてねぇのか?もちっと早く来いよ」(お、おまえ!?) いつの間にそんな呼び方というか、仲になったのかとぽっかり口を開けて見ていると近江隆之介が小鳥に向き直った。至近距離 それはもうこれからキスするのではないかというくらい、パーソナルスペースを超えた距離。小鳥の顔は茹蛸の様で、それに気が付いた近江隆之介の顔も真っ赤に色付いた。(あ、やべ。いつも通りにおまえってか、近ぇ)(ちょ、近い、近い!近江隆之介、近い!)「あ」「は、はい」「高梨さん」(な、名前も知ってるの!?)「は、はい」「デモ行進の順路、覚えてますか?」「あ、はい。覚え・・てます」「じゃあ、これあげるから。蛍光マーカーで線引いて提出して」 近江隆之介は手に持ったビジネスバックからクリアファイルを取り出すと、無記入
last updateLast Updated : 2025-07-03
Read more
PREV
123456
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status