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All Chapters of ゆりかごの中の愛憎: Chapter 41 - Chapter 50

52 Chapters

二人だけの夜

 デジタルカメラを手に二人はベッドに横になった。先ほどまでの緊張感は解け、自然と笑みが溢れた。「これで賢治さんの不倫の証拠は揃ったよ」「あぁ、疲れた」「菜月、お疲れ」 菜月がベッドのシーツに包まりながら柔らかく微笑むと、湊がその隣に肘を突いて寝転んだ。無邪気な笑顔で振り返る菜月の隣には、穏やかな面差しの湊が横たわっていた。二人の間に静かな時間が流れる。湊の息遣いが近く、菜月の心に温かな波を立てた。彼女の短く刈り上げた髪を、湊はそっと撫で、かつての「天使の羽根」を懐かしむように目を細めた。事故の傷跡、右腕の包帯、頬の絆創膏はまだ痛々しいが、彼の微笑みは変わらない。この瞬間だけは倫子や賢治の影を忘れたかった。二人の視線が絡み合い、シーツの柔らかさと湊の温もりが心を解す。湊の手が髪を滑る感触に、菜月は新たな自分と過去の自分を重ね合わせる。「菜月、男の子みたいになっちゃったね」「思い切っちゃった、ちょっとだけ後悔してる」「そのうち伸びるよ」「うん」 菜月の目頭に熱いものが溢れた。「菜月は、賢治さんと暮らした時間を切り落としたんだよ」「うん」 菜月が長く伸ばした髪をバッサリと切ってしまうには、よほどの覚悟と深い思いがあったに違いない。「菜月」「なに?」「これからは僕の為に髪を伸ばして欲しいな」「うん」 菜月の頬に温かな涙が静かに伝った。湊は彼女をそっと抱き寄せ、涙の跡に優しく口付けた。菜月の両手はゆっくりと湊の背中に回り、ワイシャツの布地を強く握った。二人の体温が少しずつ上昇し、まるで互いの心を溶かすように絡み合った。湊の右腕の包帯が擦れる感触も、頬の絆創膏の硬さも、菜月には愛おしく感じられた。彼女の短髪を撫でる湊の手は、かつての「天使の羽根」を惜しむように、だが今を受け入れるように優しかった。ニューグランドホテルでの倫子との対峙、賢治の依頼、事故の影。それらは今、遠い世界の出来事だった。菜月の涙は、過去への惜別と新たな決意の混ざり合い。湊の温もりに身を委ね、彼女はワイシャツ越しに彼の鼓動を感じた。シェードランプの光が二人の輪郭を柔らかく照らし、シーツの皺が刻む静寂の中で、時間はただ二人だけのものだった。「そういえば、母さんがさ」「お母さんがどうしたの?」 菜月は不思議そうな顔で湊を見上げた。「僕たちが、奥の和室でキスしているのを見
last updateLast Updated : 2025-07-09
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露見

 賢治がアルファードをグラン御影503号室の駐車スペースに後方発進しようとギアを入れ替えた瞬間、激しい衝突音と何かを引き摺る振動が車体後部から響いた。耳をつんざく金属音に心臓が跳ね、賢治は慌てて運転席から飛び降りた。駐車場の薄暗い照明の下、アルファードの後部バンパーが隣のコンクリート柱に食い込み、擦り傷が痛々しく走っていた。引き摺られたゴミ箱が転がり、中身が散乱している。賢治は額に汗を滲ませ、周囲を見回した。如月倫子の入れ知恵が頭をよぎる。 「備えあれば憂いなし」。この事故は単なる不注意か、それとも何か仕組まれたものか?湊の事故の記憶が重なり、賢治の胸に不穏な影が差す。「な、なんだよ!これ!」 自宅の駐車場に置かれたコンクリートの三角錐に、賢治は呆然と立ち竦んだ。「ち、畜生!」 賢治は三角錐を移動させようと屈んでみたが、コンクリートの塊は微動だにしなかった。賢治は怒りに任せてそれを蹴った。革靴を跳ね上げるコンクリート。「い、痛ぇ!くそ!」 賢治は自慢の車を路上に放置し、マンションのエントランスへと向かった。先ほどの無駄な行為で傷ついた右足の親指が痛い。賢治は思わず顔を顰めた。「な、なんだ、なんだこれ」 見上げると、大理石の階段や辰巳石のフロアには、青いビニールシートが養生テープで固定されていた。「はい、こっち」「オーライオーライ」 エレベーターからはカバーに包まれた家電製品が運び出され、路肩に駐車した引越し業者のトラックに積み込まれている。(引越予定者は居ない!申請義務違反だ!違約金を徴収してやる!) 次々と運び出される大型家具。到着するエレベーターには段ボールが満載で、賢治は肩で息をしながら非常階段を使い5階まで上らなければならなかった。「オーライオーライ、ストップはい、ストップ」「そっち持ち上げて、はい、OK!」(505号室か506号室のババァだな) 賢治は、家賃の支払いが滞りがちだった、高齢入居者の顔を思い浮かべながら廊下の角を曲がり愕然とした。「な、なんだよ、これ、何だよ!」 複数の引越し作業員が、503号室とエレベーターの間を忙しなく出入りしていた。「おい!待てよ!何を勝手に!戻せよ!」 賢治が慌ててその袖に縋り付くと、引越し作業員は訝しそうな顔をした。「はーい、これが最後」「オーライ、オーライ」 次々と
last updateLast Updated : 2025-07-09
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発覚

 四島忠信は息子である綾野賢治に手を挙げ、怒りをぶつけたが、心の奥では自身も綾野住宅株式会社に対して後ろ暗い秘密を抱えていた。賢治が引き起こした内容証明郵便の騒動以来、忠信は眠れない夜が続いた。綾野住宅との企業提携と養子縁組の裏で、彼自身の過去の行いが明るみに出る恐れがあった。 その日は程なくして訪れた。綾野住宅からの使いが会社に現れ、忠信を呼び出したのだ。重い足取りで応接室に向かう彼の脳裏には、賢治の軽率な行動と自身の隠し事が交錯した。四島工業の信頼が崩れる危機の中、忠信は使者の冷たい視線を感じながら、過去と向き合う覚悟を迫られた。「きょ、今日はなんの用だね」 自身の愚かさを誤魔化すように、四島忠信は応接セットの椅子にふんぞり返った。けれどソファの手摺りに置いた手のひらには汗をかいていた。その隣には、四島工業株式会社の顧問弁護士が気不味い表情で立っていた。「わたくし、綾野住宅株式会社の顧問弁護士、さ」「佐々木だろう。知っとるわ」「お世話になっております」「今日はなんの用だ、俺は忙しいんだ、手短に頼む」「はい」 真向かいに座る佐々木は冷静な表情で、アタッシュケースから書類を取り出すと、それらをマホガニーのテーブルに並べた。四島忠信の顔色が変わった。*銀行通帳の出入金のコピー*過去一年間分の取引詳細*発注書のコピー*請求書と領収書*資材の相場価格一覧「これが、なんだ」「弊社が御社とお取引させて頂いた際の発注書になります」「そうだな」「こちらが請求書と領収書のコピーになります」「そうだな」 佐々木は一昨年前の請求書とここ一年間の請求書を比較して見せた。「これまでパソコンで印字されていた請求金額を手書きに変更された理由をお聞かせ願えませんでしょうか」 顧問弁護士が忠信の耳元で何やら囁いている。「あぁ、事務員が年配の社員に変わってな」「はい」「パソコンが苦手だそうだ」「パソコンの操作が不得手で手書きに変更されたという事でお間違いないでしょうか」「そう言っていた」「ありがとうございます」 佐々木は一枚の請求書を取り出した。「こちらは数日前、弊社に届いた請求書になります」 顧問弁護士の顔色が変わった。手渡された請求書は、湊が手にした請求金額が未記入の”空の請求書”だった。「事務員が間違えたんだ」「記入し忘れたと
last updateLast Updated : 2025-07-09
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不倫の代償

 金沢市の1等地、香林坊。百万石大通りに面した堂々たるビルに、きさらぎ広告代理店の事務所と如月倫子の自宅があった。天井にはクリスタルのシャンデリアが光を弾き、寒色から暖色へと織りなすグラデーションが美しいペルシャ絨毯が床を彩る。そこに置かれたマホガニーの応接セットは、豪奢な空間に重厚な気品を添えていた。このビルを一棟所有する資産家、如月進次郎が倫子の夫だった。「佐々木冬馬さん」「はい」「弁護士さんですか」「はい、綾野住宅株式会社、顧問弁護士の佐々木と申します」 佐々木の前に、美濃焼のティーカップが置かれた。如月倫子の顔は青ざめ、指先が小刻みに震えていた。「どういったご用件でしょうか?」 佐々木の厳しい目が如月倫子の姿を捉えた。「奥さまにお話がございまして、お伺い致しました」「家内に、ですか?」「はい」「なら、私は席を外しましょうか?」「いえ、如月さまにも同席して頂きたい案件でございます」「案件?」 佐々木は無言でアタッシュケースを開き、複数枚の写真をテーブルに並べた。「如月さまにはこちらをご覧頂けたらと思いお持ち致しました」「これ、は」「奥さまがホテルの客室に入室された際に撮影された物です」 進次郎は写真を手に取り、目を凝らした。然し乍ら、写真に写るその横顔は、本人とは断定出来なかった。「これは、この女性は」「奥さまです」「顔が見えない、間違いじゃないのか?」 佐々木は、菜月が撮ったニューグランドホテルロビーでの如月倫子の写真を取り出した。黒いワンピースに真珠のネックレス、如月倫子が身に着けたネックレスは、進次郎が結婚5周年の記念に妻に贈った物と酷似していた。「これは・・倫子だ」「はい」 次いで、佐々木は湊がBluetoothで撮影した写真を机に置いた。仲睦まじく腕を組む男女の姿、それは明らかに如月倫子だった。「佐々木さん、この男は誰ですか?」「お恥ずかしながら、当家、綾野住宅株式会社、社長の綾野賢治です」「倫子が、綾野住宅の社長と」「そのようです」 進次郎の隣に座る如月倫子の顔から血の気が引き、能面のように白く色を変えた。「これは、1度の事ですか?」 佐々木は菜月が録音した2人の会話を進次郎に聞かせた。それは、3ヶ月前の高等学校の同窓会から不倫関係が始まっていた事、毎週金曜日に逢瀬を重ねていた事を指
last updateLast Updated : 2025-07-09
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離婚届

 佐々木は座敷テーブルを前に正座し、眉間に深く皺を寄せていた。畳の香りが漂う部屋は、静寂に包まれ、僅かな床の軋みが響くだけだった。佐々木の手はテーブルの縁を固く握り、視線は一点に注がれ、まるでそこに全ての答えが隠れているかのようだった。菜月はボールペンを握り直した。 その隣では、郷士が背筋を伸ばし、ゆきが膝に置いた手を微かに震わせ、湊が唇を噛みしめて固唾を呑んでいた。三人とも、佐々木の次の動きを見逃すまいと息を潜めていた。一方、多摩さんは畳の上で身を乗り出し、「そ、そこです」と囁き声で言い、握り拳を縦に振って熱を帯びた視線を送っていた。「う、うん・・・頑張る」 菜月の声は小さくとも、部屋の緊張を切り裂くような鋭さがあった。窓の外では、風に揺れる竹林がさらさらと音を立て、室内の重苦しい空気と対照をなしていた。佐々木の額に一筋の汗が伝い、畳にぽたりと落ちる。その瞬間、ゆきが小さく息を呑み、湊の目が鋭く光った。誰もが次の展開を予感し、時が止まったかのような静寂が部屋を支配していた。「あーーーーーーー」 佐々木は額に手を当てて天井を見上げ、その他の面々は肩を落とした。「多摩さん、証人欄は後で書こう」「そうですね」 緑枠の離婚届出用紙がくしゃくしゃに丸められた状態で畳の上の彼方此方に転がっていた。菜月は右手の中指にペンだこを作りバタンと背中から倒れ込み、多摩さんがそれらを拾い集めるとゴミ箱に捨てた。「もう、駄目」 まさに今、綾野菜月は人生で初めての離婚届を書いている。薄暗い居間のテーブルに広げられた離婚届用紙は、彼女の震える手の下で悲鳴を上げていた。菜月と賢治の離婚届の証人欄には、多摩さんと孫の佐々木の名前が丁寧に記されていたが、問題は菜月自身の筆跡だった。 緊張のあまり、ボールペンの先が紙を突き破り、小さな穴がぽっかりと開いた。本籍と現住所を逆に書き、二重線と訂正印が乱雑に並び、振り仮名は欄をはみ出して隣の枠まで侵食していた。テーブルの上には、インクの滲んだティッシュと何度も握り潰されたボールペンが転がり、菜月の額には汗が光る。多摩さんは隣で「落ち着いて、ゆっくりでいいんですよ」と穏やかに言うが、声の端に心配が滲む。 佐々木は黙って見守り、時折眉をひそめる。菜月は「こんな大事な書類なのに・・・」と呟き、笑いとも泣きともつかぬ表情でペンを握り直す。外
last updateLast Updated : 2025-07-10
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断罪

 その時、玄関先で事務の久保が郷士を呼んだ。「あの、四島さまと賢治さんが会社にいらしていますが!」「多摩さん、母屋に来るように久保に伝えてくれ。」「はい、はい、はい」 座敷に緊張が走る。  座敷テーブルの周りに、郷士と佐々木が背筋を伸ばして正座していた。畳の香りが漂う部屋は、静けさに満ち、窓の外の小雨がさらさらと響く。佐々木の脇には、書類がぎっしり詰まったファイルと、開かれたノートパソコンの画面が青白く光り、緊張感を漂わせていた。 その隣では、菜月、湊、ゆきが正座し、それぞれの表情に複雑な思いが滲む。菜月の手元には、ボイスレコーダーが置かれ、赤い録音ランプが点滅し、まるでこの瞬間の重みを刻むようだった。菜月の指は膝の上で小さく震え、離婚届の記憶がまだ生々しく残っている。 湊は唇を固く結び、視線をテーブルに落とし、ゆきは時折、佐々木のファイルに目をやっては不安げに息を吐く。郷士は静かに皆を見守り、穏やかな眼差しで場を落ち着かせていた。テーブルの上には、離婚届の余韻を残す訂正印の朱肉と、散らばったペンが転がり、雑然とした空気を物語る。雨音が一瞬強まり、部屋の空気がさらに重くなった。この集まりが何を意味するのか、誰も口には出さないが、ボイスレコーダーの小さなランプだけが、静かに真実を記録し続けていた。カコーン「この度は、重ねがさね、申し訳ございませんでした!」 座敷に小走りで駆け込んだ四島忠信は、足を縺れさせながら身を正すと、これでもかと額を畳に擦り付けて詫びの言葉を並べた。「申し訳ございません!申し訳ございません!」 賢治は目の周りに醜い青あざを作っていた。余程の折檻を受けたのだろう、整った面立ちは見るも無惨に変わり果てていた。「申し訳、ありませんでした」 蚊の鳴くような声で不満げに謝罪の言葉を吐いた愚息の姿に慌てた忠信は、その後頭部を思い切り叩くと勢いよく畳へと押さえつけた。「こ、この馬鹿もんが!」 ゴンと鈍い音が響いた。カコーン 鹿おどしが空虚な庭に鳴り響いた。「それでは皆さまお集まりのようですので、始めさせて頂きます」 佐々木は身を乗り出すと、座敷テーブルに賢治の不倫行為の証拠を丁寧に並べ始めた。「これ、は」 それは、郷士、ゆき 、四島忠信と賢治が初めて目にする物ばかりだった。「こちらは先日、四島忠信さま宛にお送り
last updateLast Updated : 2025-07-10
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断罪②

 金曜の晩、賢治と倫子がニューグランドホテルの薄暗い廊下で密会していた。親密な雰囲気を漂わせ、囁き合いながらホテルの一室へと向かう。二人は腕を組み、部屋の扉を開ける瞬間、そのシルエットが仄かな光に浮かんだ。菜月と湊は息を潜め、部屋の扉の隙間からカメラを構えた。フラッシュの光もなく、シャッター音だけが静かに響く。不倫の証拠を捉えたその写真は、冷たくも鮮明に二人の秘密を切り取った。菜月は唇を噛み、湊は無言でデータを確認した。「これは、いつの間に」「賢治さまでお間違いようですね」「誰が撮った!」 自分の愚行が白日の下に晒され、賢治は憤慨の表情を浮かべ、湊を鋭く睨み付けた。握り潰した拳が震え、半ば立ち上がる勢いでテーブルに手をつく。部屋に漂う重苦しい空気の中、菜月は沈黙を保った。湊は冷ややかな視線を返すのみで、動じず証拠の写真を机に置いた。その場にいる者たちが皆、賢治の次の行動を見守る中、部屋の時計の針だけが無情に時を刻んだ。「賢治!よさんか!」「湊か、お前か!お前が撮ったんだろう!」 写真の中の、賢治と如月倫子は腕を組み、愉しげな笑顔で廊下を歩いている。「あら?」 ゆきは震える手で写真を手に取り、食い入るように目を凝らした。撮影日時は先週の金曜日、賢治と倫子の密会を捉えた瞬間だった。ゆきの瞳に疑念が宿り、閃いたとばかりに菜月と湊の顔を交互に見つめた。その晩、菜月と湊は朝帰りをしていたのだ。薄暗い部屋に沈黙が流れ、ゆきの呼吸だけがわずかに聞こえた。菜月は視線を逸らし、湊は硬い表情で床を見つめた。二人の頬はどこか赤らんで見える。写真の裏に記された時刻が、それを証明した。「あぁ、あなたたち、この夜にホテルに泊まったのね!」「あっ!」「母さん!」 郷士は三人の顔を見て首を傾げた。「なんだ、ホテルに泊まった?誰がだ?」「あらあらあら、ほほほほ」「母さん!」「あらあら、ほほほほ」 ゆき は明後日の方向を見て誤魔化した。一瞬場が和んだ。「それではこちらをご覧下さい」けれど佐々木は淡々とパソコンを立ち上げ、画面に映る動画ファイルをクリックした。そこには、賢治が若い女に覆い被さり、情事に耽る姿が映し出されていた。アルファードの車載カメラが捉えた映像は、13:50の時刻を刻む。スーツ姿の賢治が後部座席でスラックスのベルトを外し、女の髪に手を絡める瞬間
last updateLast Updated : 2025-07-11
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断罪③

 ボイスレコーダーが、菜月が耐えてきたドメスティックバイオレンスの数々を冷酷に暴き出した。過去の傷が鮮明に蘇り、菜月の肩は小さく震え、スカートの上で固く握られた拳がわずかに揺れた。恐怖と痛みが心を締め付ける中、ふと湊がそっとその手に温かな手を重ね、優しく微笑んだ。湊の穏やかな眼差しに触れ、菜月の心は少しずつ解け、握り拳がゆっくりと開いた。二人は静かに手を握り合い、互いの温もりで過去の影をそっと包み込んだ。「この、あほんだらが!」「ヒッ!」 娘・菜月が受けた数々の暴力をボイスレコーダーが暴き、郷士の心は激しく揺さぶられた。普段の温厚な気性は影を潜め、鬼の形相で立ち上がった彼は、怒りに燃える目で娘婿を睨みつけた。次の瞬間、抑えきれぬ憤りが爆発し、力強く足を振り上げ、愚かな娘婿の身体を容赦なく蹴り飛ばした。娘婿は床に崩れ落ち、郷士の怒りはなお収まらず、娘を守る決意がその瞳に宿った。菜月の震える肩を見つめ、郷士は静かに拳を握りしめた。「うぐっ!」賢 治はヒキガエルが潰れたような情けない声を上げ、縁側まで転がり落ちた。腹を抱え、苦しげに蹲るその姿に、郷士の怒りは一層燃え上がった。妻の制止の手を荒々しく払いのけ、郷士は倒れ込んだ賢治の襟元を力強く掴んだ。娘・菜月の受けた暴力の記憶が脳裏をよぎり、抑えきれぬ憤りが拳に宿る。握り拳を振り下ろすと、鈍い音が響き、賢治は顔を歪めてその場にしゃがみ込んだ。痛みに喘ぐ賢治を前に、郷士の目はなお冷たく光り、「申し訳ございません!申し訳ございません!」 賢治の父・四島忠信は、両手を突いて額を畳に擦り付けた。「も、もうし訳ございません!」 四島忠信は郷士の怒りに満ちた気迫に圧され、這いつくばりながら必死にその脚にしがみついた。「許してくください!許してやって下さい!」と震える声で赦しを乞うが、郷士の目は冷たく、娘・菜月の受けた暴力への憤りが収まることはなかった。賢治は這ったまま、悲痛な叫びで父親に訴えた。「お、親父。暴力だ、暴力だ!」 賢治は、涙と恐怖で顔を歪め、必死に言葉を紡ぐ。「お、親父、暴力だ!暴力!」「なにがだ!」「傷害罪で訴えてくれよ!」 賢治は郷士を睨みつけるとその姿を指さした。「なにを言ってるんだ!」「いてぇ、痛ぇんだよ」 情けない愚息を見下ろした忠信は一喝した。「虫でも止まってたんだ!」「
last updateLast Updated : 2025-07-12
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断罪④

  離婚届に印が捺され、菜月の手にそっと渡された。そこには確かに賢治の名前と印鑑が刻まれていた。自由を噛み締める菜月の頬を、未来への期待を込めた涙が静かに伝った。多摩さんが差し出したハンカチで、菜月はそっと涙を拭い、穏やかな笑みを浮かべた。佐々木がアタッシュケースに書類を丁寧に仕舞うと、郷士は重い視線を四島忠信と賢治に向けた。「四島さん、これでもシラをきるおつもりですか?」 賢治は、菜月との結婚以来、綾野住宅の副社長という地位を悪用し、密かに横領に手を染めていた。会社の帳簿を巧みに操作し、被害額は1,300万円を超えていた。湊の部下の鋭い機転により、ついにその不正が明るみに。だが、四島忠信と賢治は、証拠を突きつけられても頑なに認めず、うつむいたまま震えていた。郷士の鋭い視線が賢治を射抜き、菜月の解放された姿がその背後に浮かぶ。座敷の重い空気の中、賢治たちの罪はさらに重くのしかかった。 「そ、それは」「親父!なんでそれがここにあるんだよ!」 机の上には、金額欄が空白の請求書が無造作に置かれていた。その横には、賢治の筆跡が一目で分かる改竄された書類が、ずっしりと重いバインダーに綴られ、綾野住宅への裏切りを物語っていた。1,300万円を超える横領の証拠が、冷たく並ぶ。湊の部下が暴いた真実を前に、賢治は言葉を失い、ただ青ざめた。郷士の鋭い視線が賢治を貫いた。 「賢治様、これは賢治様の筆跡で間違いありませんね?」  顧問弁護士の佐々木が、賢治の横領を暴く数字をトレースした書類を、座敷のテーブルに静かに並べていった。一枚一枚が綾野住宅の裏切りを物語り、1,300万円を超える不正の証拠が冷たく積み上がる。賢治の顔色は青ざめ、膝の上で握った拳がガタガタと震えた。四島忠信は、肩を落とし、視線を逃がすようにうつむいた。「間違い・・・ありません」「親父!」「証拠はそろっとる、認めるし
last updateLast Updated : 2025-07-13
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任意同行

 郷士の顔色が変わり、腕を組んで一考すると、意を決したように立ち上がった。衣擦れの音が静かな屋敷に響き、白足袋が畳を滑るように玄関へと向かった。土間には、黒いスーツに身を包んだ厳つい顔の男たちが大勢、まるで影のように立ち並んでいた。雨上がりの外の空気は冷たく、遠くで犬の遠吠えが聞こえた。郷士の背筋に、かすかな緊張が走る。「なんの騒ぎだね?」 郷士が怪訝そうな顔で問いかけた。声には威厳があったが、わずかに震えていた。列の先頭に立つ若い男が一歩前に出た。黒縁眼鏡の奥の目は鋭く、胸ポケットから焦茶色の革の手帳を取り出した。手帳を開くと、水色の背景に紺色の制服を着た写真が現れた。神経質そうな面立ち、への字に結ばれた薄い唇。名は竹村誠一、階級は警部補。警察官の制服のエンブレムを模した記章が、手帳に重々しく輝いていた。「刑事さんが・・・どのような用件で?」 郷士の声には、警戒と好奇心が混じっていた。そこへ、奥から湊が姿を現した。湊の顔を見た瞬間、竹村誠一の硬い表情がふっと緩んだ。「湊、来たぞ。約束の一週間だ」 「ありがとう、入って」  竹村誠一は湊の大学時代からの友人だった。二人は学生時代、夜通し語り合った酒の席や、試験前の徹夜勉強の記憶を共有していた。しかし、今、竹村は友ではなく、刑事としての顔でここにいた。先日、湊は賢治の傷害事件に関する任意同行を一週間待ってほしいと竹村に懇願した。賢治は湊の義兄であり、菜月の夫でもあった。事件は複雑で、賢治の不倫が発端だった。賢治は不倫相手に唆されて湊の車に細工をし、交通事故を起こした。湊は、賢治が逃亡する恐れはないと説得し、竹村は一週間の猶予を与えることに同意したのだ。  その一週間、湊と菜月は綿密な計画を立てていた。賢治の不倫の証拠を掴むため、逢い引きを繰り返したホテルのロビーでカメラを構えた。金曜日のあの夜、ホテルの部屋から出てくる賢治と如月倫子の姿を、シャッター音とともに収めた。写真は鮮明で、言い逃れのできない証拠だった。菜月の手は震えていたが、目は決意に満ちていた。彼女は賢治の裏切りを水(みず)に流したかったわけではなかった。すべては計画通りだった。  竹村は土間に上がると、湊に小さく頷いた。「不倫とやらの証拠は揃ったか?」 「ああ、ありがとう無事手に入れたよ」 「そうか、よかったな。待った甲斐が
last updateLast Updated : 2025-07-14
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